元ロード・エルメロイII世の事件簿「case.砂中の聖なる杯」 作:赤雑魚っ!
便りのないのがなんとやらと昔から言うようですが、三人の教え子が誰一人として一日目の様子を連絡しないのは凹んでいてそれどころではないのか、それとも「お前に話すことなんかねぇよ」という意思表示なのか……。
まぁ、そのうち結果はわかることですね。
私もそろそろ進級をかけたテストを控えているのでうかうかしていられませんけど、彼らが自主的に私立対策をしっかりやって滑り止めに受かることを祈るばかりです。それでも欲を言えば国立ですよね。旧帝大。
車から降り、麓の結界を通り過ぎた瞬間に
何故こんなモノが結界をすり抜け、その内側に顕現したのか。
何故こんなモノがこの世に存在しているのか。
何故こんなモノの存在を今朝見逃したのか。
それら全てに憤りを感じ、自分は駆け出した。
岩山をある程度登ったところで迂回し、地上を燃やすような業火の具現と消失の一部始終を目に焼き付ける。そして、とうとうカタチを帯びた
がちん、とフックが外れ、アッドが入った檻を出し、アッドの表面がルービックキューブのように回転。そして
(とった────!)
上空から自分が、付いて来たらしいアレクセイが背後から斬撃を加えようと武器を振るっている。敵は師匠の頭を鷲掴みにしたまま、こちらを一瞥さえしていない。
まさしく必中不可避。
刹那、
「「────っ!?」」
アレクセイも驚いたように眼を見開いた。
危うく師匠の首を刈り取る寸前だった黒鍵を急停止させ、漆黒の気体となった
「来た来た来た…」
嗤いめいた声が、黒い布の奥から漏れ出てくる。呟きに等しいそれが、どうしてこうも響いて聞こえるのか。
「件の神父に墓守か。よかろうよかろう。貴様らが如何程のものか、楽しみ尽くして陵辱しよう。精々足掻けよ──────」
一度カタチを帯び、途端に姿が消えた!
「泥人形────!」
言葉とともに、
天を突かんと振り上げられた左腕が振り下ろされる。後退して躱すか?いや、そうすれば背後にいる師匠が危うい。
魔術回路を限界まで起動する。体全身に魔力を回し、『強化』を深化する。そのまま
「っっ!!」
(…一撃が重過ぎる!)
足場の岩にヒビが入った。腕力だけで言えば、過去に対峙したフェイカーのそれを遥かに凌駕している。
さらに追撃が来た。左腕とは非対称で細い右腕が弧を描いた。握られている刃物は月光を跳ね返し、闇に淡い残像を映し出す。
高速の右腕と自分の間にアレクセイが割って入り、黒鍵で刃物の進行を止めた。アレクセイの技量故か、それとも神父らしからぬ魔術故か、黒鍵にはヒビが入った様子はない。
左手を懐へ、そして黒鍵の柄を取り出し魔力で編まれた刃を作り出し、それを横薙ぎする態勢へとアレクセイが移行する。
一秒足らずのモーション。しかし、漆黒の敵は自分を押さえつけていた左腕を握り拳にし、アレクセイへと差し向ける!
「な……」
その声が漏れ出た直後に、アレクセイの姿が消え、渓流の対岸──そこの山の岩肌から砂塵が舞い上がる!
「……馬鹿な」
師匠の声だ。たしかにそう言いたくなる。第八秘蹟会所属の
フードの下の冷や汗がひどく鬱陶しく感じる。
この黒い敵の底知れなさが、ただただ恐ろしい。
「…嗚呼、塵のようだ。協力者はこのような者ども警戒したのか?愉しむ
剛力の左腕に、高速の右腕。師匠とそう変わらない身長で黒い布に覆われた
あまりに異形。あまりに怪異。あまりに超常。
その全身から滲み出た黒くて黒くて黒い魔力の強大さが連想させるのは………。
「サーヴァント…?」
自分の唇が、そう紡いだ。
────その言葉がまずかったのだろう。
「
空気が、否、この身が震え出した。布の奥から殺意が溢れ出し、それら全てを一身に浴びせかけられている!
「アッド!」
不安で不安で仕方なくて、友達の名前を叫んだ。そして、一瞬の葛藤の後、言葉を吐き出す。
「第一段階応用限定解除!」
滲み出る
英霊スキルに換算すればDランクの魔力放出。
“
至近距離かつ高火力の不意打ちを、漆黒の敵に見舞う!
「もう一度だ……」
大槌が、止まった。
「え────?」
(嘘……どうして…)
何度も何度も何度も何度も魔力を放出し続けているのに、
「もう一度言ってみよッ!!そう言ったのが聞こえなかったか小娘ッ!!!!!!」
「馬鹿野郎!オレなんざ離して逃げやがれ愚図グレイ!!」
手元からアッドの声がするが、手遅れだった。
その左腕が破城槌ごと自分を叩き落としたのだ。
轟く音が地面を砕き、軋む音が自分の体を壊す!
「っ〜〜〜〜!!」
かつてないほどの激痛が全身を巡る!
「嗚呼!嗚呼!!嗚呼嗚呼嗚呼!!!嘆かわしい!
毒々しくて、苦々しくて、夥しい不快な怒気が思考を停止させる。
「…グレイ、コイツはヒトの手に余るモンだ。なんとかして逃げろ」
アッドの言葉が鼓膜を打つ。
「でも、師匠を守らないと…」
そう、どれだけ恐ろしくても、思考を捨てても、それだけは自分がしなければ。凛が言っていたように、それが自分の専門なのだから。
(立たなくちゃ……)
ある種の強迫観念が、この体を突き動かした。
だが、さらなる絶望がこの身に迫り来る。
「貴様らは不出来故に我らを恐れなければならない!それをも忘れし小娘は、最早泥人形にも劣る屑である!!」
逃げろ、逃げろ、頭に響くそれはアッドの言葉なのか、それとも自分の本能が叫んでいるのかわからなかった。
「おう、故人を尊ぶ者よ!人より魂に近しいヒトよ!愚かにも我を見下した貴様に最大の恐怖をくれてやろう!墓守の魂よ、凍り付け!灰も残さず燃え尽きろ!!」
左腕の指先から、紅蓮の焔が漆黒の布を燃やしていく。
「────我が悪意を見よ…!」
それを直視した瞬間、自分の魔術回路を流れる
────自分の中の、何もかもが停止した。
少女が停止する。だが、それと同時に表層化する者がいる。それは彼女の故郷が育て上げた怪物。彼女の中に潜む者。
怪物が、少女の唇で口ずさむ。
「
破城槌が
対して
欲にまみれ、殺意にまみれ、穢れにまみれたそれは、生者よりも生者らしく、死者よりも死者らしい。しかし、そのどちらでもないのだろう。
「
続く言葉は、無感情に……。
「
それでいて、力強く……。
少女が持つ
地上に降りた太陽の如く、紅蓮の光を帯び、万物を蒸発せんと灼熱する。
「聖槍、抜錨────」
言葉通り、槍へと姿を変える
しかし、それの蠕動よりも早く、
凝縮されたエーテルが塊となって少女の生命を奪わんと迫り来る。
宝具の開帳よりも早く左腕は届くだろう。そして、少女は死ぬ。間違いなく、その命を潰される。
だが、それを阻止すべくいち早く動いていた者がいた。
その者は
名など言うに及ばず、この場に居合わせたものなど一人だけ。他でもない元ロード・エルメロイII世その人である。
肩に温かいものが触れ、途端に凍り付いた心が蘇生した。
迫り来る巨大な手のひらが横にずれる。いや、自分の体が横にずれたのだ。優しく紳士に自分の体を抱きかかえるようにずらし、己が身を投げ出したのは師匠だ。
「しっ────」
(違う!立場が逆です!)
まただ。地下崩落の時とまるで同じだ。守るべき自分が、守られるべき師匠に助けられようとしている。
本当は死ぬのだって怖いくせに、なんでそんな無茶を……。
途端に師匠の唇が動いた。言葉に魔力を乗せて、何かを呟いたようだ。
おそらく声に指向性を持たせ、本来声が伝わる速度よりも速く敵の耳に届かせたのであろう。すると、直進していたはずの敵の腕が師匠の眼前で動きを止めた。
「────
作り上げられた間隙に、何処かで聞いた響きの詠唱が耳を刺した。
「────“
刹那、自分と師匠の顔と顔の間を、螺旋の突風が通過する。それは敵の手のひらを、腕を、悉く貫通し、その身体に風穴を開けた!
その拍子に敵の体も吹き飛び、山肌に衝突する。
盛大に舞う砂塵。あの左手のエーテル塊と、敵の身体を射抜いていなければ地形を変えていたであろう一撃の余波が瓦礫を生み出し、漆黒の敵を生き埋めにした。
しかし間を置かず、瓦礫が動き出す。砂塵の中から大きな岩が投げつけられ、先ほどの一撃を加えた赤銅色の男の真横の地面へと落下する。
漆黒の敵が砂塵より姿を現した。あの一撃は完全に入ったようで、しっかりとその血液を垂らしている。
「そこな男よ……問おう、貴様は何者だ?」
自分への怒りなど忘れ去り、完全に雰囲気を一変させた敵は赤銅色の彼に問う。よく見れば彼も血だらけだった。
「俺は────────」
一体俺は幾つの命を奪ったのだろう?
覚悟はしていた。覚悟はできていた。だけどこんな覚悟がしたかったわけではない。俺はもっと綺麗で理想的で、非現実的なものの為にこの身を捧げたかった。
この姿を見て万人は思うだろう。愚かだと。
この姿を見て誰もが思うだろう。壊れていると。
あぁ、誰だ?誰がこんなことをしたんだ?
殺され、嬲られ、壊されて、伽藍堂と化した幸せの情景には作為的で、悪意的で、快楽的な意図が感じ取れる。まさしくそいつは俺が倒すべき悪だろう。
そう、悪を倒すべき俺は────────
「俺は、
赤い外套の背中を幻視する。あの日の剣戟で継承された技術があるのに、まるで指が届かない彼の英霊の背中を。
「その背中を追う者──
今日も無意味に無力に指を伸ばし、
「────
偽者の口はそう唱える。顕現する陰と陽の双剣の柄を握りしめた。今日浴びる返り血が、あいつで最後になりますように、と願いを込める。
「ふっ、滑稽よな。返り血まみれの義の者か。嗤えるあまり傷口に触りそうだ」
「…今度はこちらが問おう。集落の
こんな質問になんの意味はないのはわかりきっている。対峙する漆黒は、邪悪であると魔力だけで告げている。
「ふははははっ!愚問ッ!あまりにも愚問ッ!!そんなことはわかりきっていよう!?見ての通り我は誑かす者!それ以外の何に映る!?
聞けば奴らは暗殺教団なる者共らしいではないか。貴様らを殺すついでに興が乗ったに過ぎんよ。嗚呼、今でも耳に残っているぞ。殺される者の怨嗟と嘆きが!殺す者の奇声と嘲笑が!!」
「テメェ…!」
口の中で歯と歯が擦れ合う。嫌に耳障りな音が鳴った。
「来るがいい、
士郎が弾けるように踏み出した。
続いて陰の剣を水平に。
刃物が煌めく。背後を向きながら、士郎は迫る一撃をいなす。
堅実かつ厳格。心に邪なものがないが故に、清流のような太刀捌き。闘いに派手さなど要らない。ただ基礎だけを積み上げた絶技──その発展途上の剣技だ。
対して敵は真正面からやり合う剣技ではないのだろう。しかし、それは気化という能力と合わさり、より危険性を増している。
剣戟の最中、
刹那、紅蓮の焔が渦となって顕現した!
「────
周囲の空間が歪む。現れたのは多種多様な剣の群れ。それら全てに異なる幻想──謂わば過去の持ち主と剣との記録や技量が込められている。降霊技術の応用、憑依経験。
「────
それら全てが闇を走る。紅蓮の渦と衝突し、内包された幻想が暴れる焔の渦を相殺する。
「…ちぃ!」
衝撃に紛れて
焦っているかのように。否、実際に焦っているのだろう。完全な不意打ちでケルトの英雄フェルグス・マック・ロイが所持した
再び二つの影が相見え、甲高い音が空気を震わせる。
(そう、衛宮士郎の体は剣で出来ているのだから)
双剣を振りかぶった瞬間、魔術回路を廻す。両手に握る陰陽の剣に『強化』を施した。
途端、それらの丈が伸び、宛ら鶴の翼のような形状へと変形した。
「────ッ!?」
驚愕する
「…なるほど、異常者め。中々やりおる」
士郎の本質を見抜いたように、そう呟く。
そして、左手から紅蓮の息吹を吹き荒らせ、焔の嵐を具現させようとする。しかし、
「────そうはいきませんよ」
その背後より声がした。
「貴様────!」
刹那、
さらに左右からハサンとサームが詰めている。
「我が拳を
民族衣装に身を包む金髪の男。アレクセイ・フランプトンが
ロシアの魔術師家系に少年は産まれた。
その血統は協会に属さず、一つの魔術にしか適正を持たないなり損ない。
少年が一歳の誕生日を迎えるよりも前に、その家に一人の日本人が招かれた。その男の表情には、常に苦悩が刻まれていたことを少年は
「人は無意味に殺し合う。二百年を超える我が生の中で私は愚かな人間どもの真なる価値を問いただして来た」
まるで一歳足らずの少年がその言葉の意味を理解していることを見抜いているかのように、男は語っていた。少年はただ苦悩に満ちたその顔を眺めている。
「だがこの世界のどこにもその答えはありはしない。故に世界の外側──貴様らと同じ目的の地、『根源の渦』を目指し始めた。
人の死を辿ることで『根源』に至るため『死の蒐集』をし、彼らの死を明確に記録した結果、死は六十四に分けられると結論づけた。貴様らのやり方とは真逆と言えるだろう」
そう真逆だ。だから男は招かれた。互いにアプローチが真逆だからこそ、気づけることもあるだろう。
「新たな道を開くことこそ抑止力の妨害を受ける要因だと考えたが、なるほど、その方法ならば或いはそれにも耐えられよう。……だが、惜しいな」
その厳つい手のひらが少年の顔面を覆った。そして、男はこう言い残す。
「次代に期待するといい。おそらく今代には至らないだろう。
何故なら幼子よ、貴様の起源は───────」
哀れむような口調だった。その少年──当時のアレクセイがその言葉の真の意味を理解するのは十年以上先のこととなる。
────そして、今。
「我が拳を
アレクセイは
左右をハサンとサームが、正面を衛宮士郎が。逃げ場は完全に塞ぎ切った。
「……まぁ、強いて言うならば『出来損ない』、だからでしょうね」
左右の二人の二閃が走る。そして、士郎の陰陽の双剣が
黒と白の剣を同時に振るった。
その悪の血を浴びることが、この戦いの幕引きにつながるだろう。そう思った時だった。
その漆黒の悪者が、光の粒子となって消失したのだ。
聖杯の少女が消えた時と同じ、転移魔術だろう。
────そして、干将・莫耶が空を裂く。
その手応えのなさが、俺の心の虚しさを代弁しているように思えた。
いつしか無意識に座り込み、傍観に回っていた。いや、目の前の光景に圧倒されていた。
桁違いとは、このことを言うのだろう。敵の一撃をモロに受けて立ち上がったアレクセイもそうだが、士郎の『投影』が常軌を逸していることには自分でも気づけるほどだった。
曲がりなりにも『宝具』を扱う自分ならわかる。彼が投影していたのは全て『宝具』だ。それをまるで我が物のように使う姿に英雄の影を見た。
「…圧巻だったな」
隣で尻餅をついている師匠が呟いた。
その何事もなかったかのような態度が、どうにも今の自分の癪に触った。
「何が……『圧巻だったな』ですか……!」
自分にしては珍しく、言葉に怒りが孕んでいたが、そんなことは気にならなかった。
「なんで…あの時あなたは拙を庇ったんですか!守るべきは拙の方なのに!」
「…レ、レディ、待ちたまえ」
「師匠はだらしなくて貧弱なんだから!拙が側にいるなら危ないことは全部…全部、拙丸投げすれば良いのに!
……あなたがいなくなれば悲しむ人や、困る人がたくさんいます!馬鹿なフラットは一生卒業できないし!スヴィンはワンワン鳴くでしょうし!なんやかんやメルヴィンさんだって思うところがあるはずですし!…ライネスさんだって……絶対………絶対傷つきます。あなたは、あなたはもっと多くの人を、導かなきゃならないのに……拙だって…」
こんなこと言ったって八つ当たりにしかならないのに…言い知れない感情が口に出さなきゃ心を圧迫するようだ。
「……拙は師匠に死なれたら、どう生きて良いかわからないです」
気づけば師匠に縋り付くように泣きべそをかいていた。そんな自分の様子に呆れたのだろう。師匠はため息をつき、自分の頭に手を乗せる。
「落ち着きたまえ。……たしかに、戦闘という君の領分を犯してしまったことは謝ろう。…だがどうにも、私は非情になりきれない。聖杯を巡る争いに犠牲がつきものだと覚悟したつもりで、その実まるで覚悟ができていなかった。どう振る舞おうが、強がろうが、その事実は変わらない。
ライネスが傷つけられて憤りを感じているし、一度借りができてしまえばフリューだって失いたくなくなった。……君が目の前で殺されることにも耐えられない」
いつもの講義のような口調ではない。師匠は不器用に思いの丈を綴る。
「ならば自分の命を勘定に入れる他ないだろう?」
「違います!」
「違わんよ。グレイ、先ほどから私にばかり焦点を当てているが、君が死んだことを悲しむ人間はいないのかね?メルヴィンは微妙だが、先ほど名前を挙げた者たちは、君の死になんの感情も湧かないとでも?」
「それは……」
違う。彼らはきっと泣いてくれるし、自分だって彼らのために泣くだろう。
「そう、君が死んだら悲しむ人間がいる。その筆頭に私を置いてやってもいいくらいだ。他の誰かと繋がるとはそういうことだ。
私以外の人間と関係を築けた君が、私がいなくなったぐらいで生き方を見失うなんていうのは自己評価があまりに低い。君には才能がある。それで苦しい想いもたくさんしただろうが、その分だけ人を救えるような希少なモノだ。もしも君がそれを活かすための生き方を見つけ、そちらに進みたいというならば、私は師として全面的にバックアップするし、貯金を崩して豪勢な送迎会だってしてやろう」
言葉に詰まり、少しの間隔を空けてから師匠はまた喋り出した。
「…あぁ、結局何を言いたいのやら、全く要領を得んな。各々お互いを守りたいと思ってしまえば犠牲になるのは自分自身……我々は一体、自分以外の何を失う覚悟をすればいいのだろうな」
「その前提が間違ってるんじゃないか?」
自分たちの会話に入って来たのは士郎だった。自分は泣きじゃくった表情のまま、彼を見やる。
「たしかに、何かを失ってしまうのは簡単で、一番覚悟しなきゃならないのがそれなんだろうけどさ、やっぱり誰だって何も失いたくないんだよ。
……だからきっと、これが一番難しいんだろうけど、何かを失う覚悟より、自分の命も何も失わない覚悟を決めればいい。俺はいつもそうしている」
その過程で、彼はどれほどのものを取りこぼしたのか。まだ彼が時計塔を出て間もないというのに、その旅路の険しさを、それ以前の歩みの厳しさを、想像せずにはいられない。
「……悪い、なんか偉そうなこと言ってしまった。結局のところ、俺自身が半人前なんだから含蓄がないんだろうし、いざとなったら自分の身を投げるんだけどな。それでも今夜みたいなことは絶対に嫌なんだ。世界中の誰にも涙して欲しくないし、笑っていてほしい」
「…なるほど」
師匠はそう呟いて、自分を丁寧に避けてから立ち上がった。自分もそれにつられて立ち上がる。
「衛宮士郎…君は初めて話した時から変わらんのだな。悪いが私は君ほど大きな覚悟はできやしない。自分がどれほど非力かなんてとうの昔に知ってしまったからな。
…だからせめて、私は大切なヒトが悲しまない結末を目指そうと思う」
「これでもこの身に余る偉業だと思うがね」と師匠は続ける。
自分はどんな覚悟も中途半端なままだが、知らない誰かであろうとも、やはり目の前で死なれるというのは少し嫌で、二人ほど胸を張って宣言できるわけではないけれど、
(せめて、目の前にいる誰かを、出来うる限り救おうと思える自分でありたい)
ただ心の内でそう唱えてみた。