大木の枝の上に立ち、スカーフを掴んだまま、遠くの空に浮かぶ『命の大樹』に眼をやった。
空は晴れており、遥か遠くにあるにも関わらず、命の大樹はよく見えた。
「レヴン」
聞こえてきた声に、レヴンは下を見た。幼馴染みである金髪の少女とその愛犬が、こちらを見上げていた。
うん、とひとつ頷き、飛び降りる。それなりの高さではあるが、レヴンにとってはなにほどのこともない。危なげなく着地した。
幼馴染みに近づき、木の枝に引っかかっていた彼女のスカーフを差し出した。
「はい、エマ」
「ありがとう、レヴン」
言って、幼馴染みのエマがスカーフを受け取った。そのまま自分の頭に巻く。
「ドジだね、私。大切な儀式の前に、スカーフを風に飛ばされちゃうなんて」
「そうだね」
「ってそこは、そんなことないよ、とか言うものじゃない?」
「そうは言うけど、実際になにかと飛ばされてる気がするし」
うっ、とエマが押し黙った。
幼いころからエマのスカーフは、ふとした拍子に飛ばされてはレヴンがそれを取りに行く、ということが多かった。それを彼女も思い出したのだろう。
「ま、まあ、それはともかくとして、いよいよこの日が来たのね」
「うん」
二人で、近くにそびえる大きな岩を見上げた。岩というより、山かと思えるほどに巨大な岩だった。
『神の岩』。そう呼ばれている場所だった。
「あんな大きな岩、私に登れるのかな」
「大丈夫だよ。いままで何人もの人が登ってるんだし、ちゃんと道はあるんだから」
「いや、そうじゃなくてそこは、僕がいるから大丈夫だよ、とか言うところじゃないかしら」
「僕がいるから大丈夫だよ」
「うん、ありがとう。なんだか軽く腹が立ったわ」
「どういたしまして」
「皮肉だからね?」
はあ、とエマがため息をつき、レヴンは首を傾げた。
「あっ、ルキ」
わんわん、と数度鳴き、エマの愛犬、ルキが走り出した。
「ふふっ、ルキが私たちを案内してくれるって」
「うん。行こうか」
「ええ」
ルキを追い、二人で歩き出した。
村人たちと挨拶していく。橋の手前に、恰幅のいい女性、レヴンの育ての母であるペルラと、白髭を蓄えた老人、エマの祖父であるダンがいた。
二人の前で足を止め、挨拶した。ダンが口を開く。
「レヴン、エマ。二人が無事にこの日を迎えることができて、村長としてこれほど嬉しいことはない。十六歳になった者は、神の岩の頂上で祈りを捧げ、そこでなにが見えたか、わしらに知らせる。それが、このイシの村に伝わる成人の儀式じゃ。無事に儀式を果たせるよう、頑張るのじゃぞ」
「はい」
「うん。わかったわ、おじいちゃん」
「レヴン」
今度は、ペルラが口を開いた。
「母さん」
「自慢の息子がこんなに大きく育って、お母さん、ほんとうに嬉しいよ。いいかい。エマちゃんのこと、しっかり守ってあげるんだよ?」
「うん。もちろんさ」
「ふふ、余計なお世話だったかもね。さあ、行ってきな。夕飯を作って待ってるからね。頑張ってくるんだよ」
エマと二人で頷き、橋を渡った。
そう遠くないところに洞窟が見えた。あそこに入り、洞窟を抜けた先が、神の岩だ。
左手の方を見ると、ちょっと小高いところに石碑があった。
レヴンは、また神の岩を見上げた。下に来ると、神の岩はますます大きな物に見えた。
「我らイシの民。大地の精霊とともにあり、か」
エマの声が聞こえた。そちらに顔をむける。彼女は、石碑に眼をやっていた。
「おじいちゃんから聞いたことがあるんだけど、あの神の岩には、大地の精霊様が宿ってるんだって」
「大地の精霊、か。ほんとうに宿ってそうな岩だよね」
「うん。それにしても、十六歳になったら、神の岩に登って大地の精霊様に祈りを捧げなさい、ってずっと言われてきたけど、こんなしきたり、誰が考えたのかしらね。一人前になる前に、崖から落ちて怪我でもしたらどうするのかしら」
「確かにね」
答え、再び見上げた。落ちたら、怪我じゃ済まないだろうなあ、と思った。
「でも、レヴンと生まれた日が一緒でよかったわ。ひとりだったら、絶対めげてたもん」
「大丈夫だよ、エマ」
ぽん、とエマの肩に手を置いた。笑いかけると、エマがかすかに頬を赤らめ、微笑んだ。
レヴン、とエマがどこかうっとりした様子で言った。
うん、と力強く頷く。
「エマは強い子だから、きっとひとりでも儀式を終えられたと思うよ」
「違う。そうじゃない」
エマが半眼になり、
エマが頭を抱え、ぼそぼそとなにかを呟いた。え、なにこれ、普段おてんばな女の子が見せる弱気な一面に、気になるあの人もメロメロって話じゃなかったの、などと聞こえた気がした。再び首を傾げた。
「ああ、もうっ。とにかく行きましょ、レヴンッ」
「あ、うん」
エマが、ズンズンとでも音が聞こえそうな様子で歩いていく。
不安そうなので励ましたつもりだったのだが、なにか気に障るようなことを言ってしまったのだろうか、と思いながらも、再び歩き出した。
洞窟に繋がる道は、せいぜい人がひとり通れるぐらいの幅だった。
まず、自分から行くべきだろう。レヴンがそう考えたところで、洞窟からなにかが飛び出してきた。
大きな眼と口が張り付いているようにも見える、人の腰ぐらいの大きさの、四肢のない青色の物体。躰はプルプルと震えており、やわらかそうでいて、弾力がありそうだった。
スライム。そう呼ばれる魔物だった。三匹いる。
「っ、ま、魔物!?」
エマが、驚いたように言った。下がって、と言いながら、レヴンは前に出た。護身用として念のため持ってきていた『イシのつるぎ』を抜き、構えた。
スライムが、飛びかかろうという気配を発した。
「メラ」
飛びかかってくる前に呪文を唱え、火球を放った。一匹のスライムに当たる。派手な音とスライムの断末魔の悲鳴が、あたりに響いた。
機先を制されたことでか、残った二匹のスライムが、動揺した空気になった。隙を逃さず接近し、斬りつける。スライムはまったく反応できず、そのまま切り裂かれた。残る一匹にもメラを放つ。直撃し、ゼリー状の物体が飛び散った。戦闘は、それで終わった。
スライムぐらいなら物の数ではない。見逃そうかと思わなくもなかったが、連中は洞窟の中から出てきた。見逃して、待ち伏せされるかたちになると、レヴンひとりならともかく、エマたちの安全が懸念された。
自分と、身の回りの人が危険に晒される場合は、ためらわずに魔法を使う。魔法だけではない。闘わなければならないのなら、闘うべきだ。そう思い定めている。
「びっくりしたわ。レヴンが強いっていうのは聞いてたけど、あんなにあっさり魔物を倒しちゃうなんて」
「いま闘ったスライムって魔物は、魔物の中でも最下級の強さだからね」
旅に出たら、もっと強大な魔物と出くわすこともあるだろう。言い方は悪いが、スライム程度に手こずってはいられないのだ。あの
ギラという、熱線を放つ呪文で一掃するのも考えたが、様子見も兼ねて一体一体を潰す戦法を
「とにかく、行こう。僕が先に行くけど、エマも充分に気をつけて」
「う、うん。わかったわ」
エマの声は、緊張の色が強かった。緊張をほぐすのも狙って笑いかけると、エマは頬を赤らめながらも笑顔を返してきた。
小雨を腕で防ぎながら、エマと二人で崖を見上げた。立札によると、この崖を登ったところが、神の岩の頂上らしい。
エマが、来た道をふり返った。
「マノロは、無事に村に帰れたかしら」
心配そうにエマが言った。
最初に遭遇したスライムや、二足歩行の小さな怪人、モコッキーなどの魔物を
色のついた霧とでも言うべき姿をした、スモークという魔物だった。物理的な攻撃は、まったく効果がないわけではないが
爆発を巻き起こす呪文、イオによって、スモークたちはなすすべなく消滅した。そのあと、なぜこんなところにいたのかとマノロに訊いたところ、先回りしてエマを驚かせたかったのだという答えが返ってきた。
勝手にここに来たのは問題だが、魔物に襲われることなど、マノロも考えていなかっただろう。ここに魔物が出たことなど、いままで一度もなかったはずなのだから。
ルキをつけ、マノロを先に返した。道中の魔物は一掃しているし、ルキがいれば安心するだろう。
「ルキがいれば大丈夫だよ。魔物も一掃しておいたし」
「そう、ね。うん。私たちは、私たちのやるべきことをしなくちゃね」
「うん」
二人で頷き合い、崖を再び見上げた。
崖は、それなりの高さである。先にレヴンが登って安全を確かめるか、エマを先に登らせるか思案する。エマを先に登らせるのは、エマが崖から落ちた時のことを考えてのものだ。レヴンが下にいれば、彼女を受け止められるだろう。
ちょっとだけ考え、よし、と頷いた。
「とりあえず一度、僕が先に登って、安全かどうか確かめてくるよ。そのあと下に降りるから、エマから先に登って欲しい」
「えっ、なんでわざわざそんなこと?」
「エマが落ちた時のことを考えてだよ。僕が下にいれば、受け止められるから。万が一のことは想定しておかないと」
「あ、なるほど。――――っ!」
エマが、ハッとなにかに気づいたような仕草を見せた。
「エマ?」
「なんでもないわ。さっ、レヴン、無事に儀式を終えるためにも、早く焦らず気をつけて確かめてきて!」
「あ、うん」
いきなり元気になったエマに
崖の上に着いた。油断なく登りきると、頭だけを出して、周囲の様子を
崖の上に躰を引き上げ、もう一度気配を探った。
どうやら、ここには魔物はいないようだった。
速やかに崖を降り、エマのもとに戻った。
「エマ」
「レヴン、おかえり。どうだった?」
「大丈夫そうだね。魔物の気配はなかったよ」
「わかったわ。それじゃ、登ってみるわね」
「うん。崖の作りはしっかりしてるから、崩れることはないはずだけど、雨も降ってるから充分に気をつけて」
「ええ」
エマが、崖を掴んだ。イシの村は田舎であり、女性もそれなりに力仕事をする。また、この儀式があるためなのだろう、大人たちから時々、崖登りの練習などもさせられていたため、エマもこれぐらいの崖なら登れるのだ。
エマが崖をよじ登っていく。動きはしっかりしていて、あれなら大丈夫だろうと思った。
念のため周囲に注意を配りながら、時々、上を見る。
それにしても、なぜエマは、わざわざスカートで来たのだろうか。もっと動きやすい恰好で来た方がよかったと思うのだが。そんなことを思った。
そこでふと、昔、あの娘が言っていたことを思い出した。
女の子っていうのはね、いつだってオシャレってものに気を遣うものなのよ。身の安全に頓着せず、オシャレだけを気にするようじゃ駄目だけど、オシャレにまったく関心を持たなくなったら、そこで女の子としての
時々、チラッ、チラッとエマが下を見ている気がした。あまり下を気にし過ぎると危険だ。一応注意しておくべきだろう。
「エマ、あまり下は見ない方がいいっ。危険だ!」
「う、うんっ!」
エマの声には驚きがあったが、同時になにやら喜色のようなものがあったように感じた。
少しして、エマが崖を登りきった。途中、何度か動きを止めた時もあったようだが、無事に登りきれたようだった。
「レヴーン、いいわよー!」
「わかったっ。すぐに行く!」
上から聞こえてきたエマの声に答え、レヴンも再び登った。大した時間をかけずに、レヴンも登りきった。
「怪我とかはないかい、エマ?」
「うん。平気よ。その、それでね、レヴン」
「ん?」
エマが、もじもじとしはじめた。なんだろうか、と首を傾げた。
「その、スカートの中、見た、よね」
「いや?」
「えっ?」
「えっ?」
呆けたように、エマがレヴンの顔を見た。首を傾げたあと、もう一度言う。
「いや、見てないけど」
「え、だって、私が下を見てることに気づいたよね。下からずっと私のこと見てたからじゃないの?」
「スカートの中ははっきり見ないように、視界の端で見るようにしてたから。それでもエマの動きはなんとなくわかったし、視線も感じたから」
「なん、です、って」
レヴンの顔を見て、愕然とエマが言った。嘘をついてるんじゃないかと疑われているのかもしれない。
「信じて貰えなくてもしょうがないけど、女の子のスカートの中を覗くような真似はしないよ」
そんなことをしたら、あの娘に怒られてしまうだろうし。口には出さなかったが、そんなふうに思う。
「そ、そう。ざ、残念ね」
「残念って」
「あ、い、いまのは間違いよっ。レヴンが言うなら信じるわ!」
「うん。ありがとう」
「ど、どういたしまして」
エマが頭を抱え、なにか呟いた。チラ見せ誘惑大作戦が、と聞こえた気がしたが、どういう意味なのだろうか。
気にはなったが、儀式を終わらせなければならない。道の先を見据える。
「行こう、エマ」
「う、うん、そうね」
はあ、とエマがため息をついた。
いつか、旅に出る。
十年近く前、テオとともに旅から帰ってきたレヴンが言った言葉だ。その言葉だけは、エマははっきりと憶えている。
なにを言っているんだ、と当時は思った気がする。その言葉が、冗談やその場の思いつきではないとわかったのは、いつのことだったか。いや、すぐだったかもしれない。
旅から帰ってきたレヴンは、どこか違って見えた。期間で言えば、一年以上離れていたのだから、それも当然と言えば当然ではあるが、見た目だけではなく、なにかが違った気がした。別人のようにすら見えたかもしれない。
一番違って見えたのは、眼の輝きだった気がした。見ただけでハッとするような強い光が、
変わったと感じたのは間違いではないとでもいうように、エマたちと遊ぶことが減った。誘えば快く応じるが、時間なり、みんなの体力なり、なにかしらの理由で解散となると、空いた時間で鍛練を行うようになっていた。遊びに誘わなければ、その時間も鍛練だ。魔法や剣など、エマにはよくわからなかったが、静かに、しかし熱心に行なっていた。
時折、遠くを見据えるような瞳になることもあった。どこか遠くを見ては、二本のリボンを手に取り、穏やかな表情を浮かべる時もあった。
そのリボンはどうしたのかと訊いたことがあった。旅先で仲良くなったベロニカという女の子に貰った、という答えが返ってきた。そのリボンだけは、誰にも触らせてくれなかった。エマが頼んでもだ。それだけ大事な物だというのはわかったが、寂しい気持ちにはなった。
ベロニカ、セーニャという名前を、たまに口にすることがあった。とてもやさしく呟くのだ。
彼女たちの話を聞くと、レヴンは楽しそうに話してきた。多く話してくるのはベロニカのことで、とても愛おしそうに語っていた。レヴンの心の奥深くにいる、と嫌でも感じざるを得なかった。
いつのころからか、会ったこともないベロニカという娘に、嫉妬を抱くようになった。
近くにいないくせに、なんでそんなに彼に想ってもらえるんだ。胸の底に、そんな暗い思いが、
そんなある日、近くにいるのはエマの方なのだということに、いまさらのように気づいた。ベロニカという女を忘れるくらい、自分に気持ちをむけさせればいいのだ、と思った。
魅了すればいい。エマの魅力で骨抜きにしてやればいいのだ。そのために、さまざま手段を採った。
しかし、ダメだった。彼は、非常に真面目で、有能で、紳士だった。
完璧な女は近寄りがたい、という話を聞き、スカーフをよく飛ばされるドジっ子というのを狙ってみた。
特に効果はなかった。嫌な顔ひとつせず取ってきてくれる彼のやさしさに、嬉しく思いながらも申し訳ない気持ちの方が強くなった。ドジっ子はやめようと思った。思ったが、気をつけてもスカーフは結構飛ばされていた。ドジっ子を狙うまでもなく、自分はドジっ子であったということに気づいた。
男を落とすには、胃袋を掴むのがいいという話を聞いた。料理を教わろうとペルラのところに行ってみた。
レヴンが料理を習っていた。食べさせて貰った。ペルラには及ばないが、かなりおいしかった。作れる料理はそう多くないようだが、味はどんどんよくなっている。なんというか、やさしい味なのだ。たまに食べさせて貰っている。逆にこっちが胃袋を掴まれていた。
そして今日も、さっき崖を登る時、スカートの中を見て意識させようという強攻策を行なった。結果は惨敗だった。性欲とかあるんだろうか、などと思ってしまったりもした。
わざと崖から落ちて、レヴンに抱き留めて貰おうかなどと考えたりもしたが、さすがにそれはやっていけないことだろうと思った。やっていいことと悪いことがある。やってみようか、と迷い、動きが何度か止まってしまったのは秘密である。
それにしても、ここまで脈なしだなんて。
魔物による襲撃を警戒しているのか、エマの二歩ほど前に立って先を進むレヴンを見ながら、エマはこっそりとため息をついた。
しかし、ほんとうに恰好よくなったと思う。真ん中分けの、顎くらいの長さの髪は、羨ましいくらいにサラサラで、顔立ちも整っている。躰も、ゴツくはないが引き締まっており、無駄のない躰つきに見えた。
昔は年相応にやんちゃな部分があったが、いまはだいぶ落ち着いた性格になった。だが戦闘しているところを見ると、
レヴンは途方もなく強い、とほかの村人たちにも聞いたことがある。
鍛錬を積み続けた彼の強さは、村では並ぶ者がいないほどで、獣や魔物の被害が懸念されると、彼に退治の依頼がいく。かといってその強さを鼻にかけるわけでもなく、依頼は快く引き受けるし、他者を立てることも自然と行う。それもあって、レヴンは大人からも信頼されていた。村や家の仕事も丁寧で、非の打ちどころがない好青年だ。
このままイシの村にいれば、将来は安泰と言っていいはずだ。
だが、きっと彼は、それを望んでいない。そう思うしかなかった。
「出口、かな?」
レヴンが言った。
また、拓けた場所に出た。あたりを見渡すが、登ったりするところや、洞窟の入り口のようなところはない。ここが頂上のようだった。
「着いたわ!」
「うん」
雨はまだ降り続いている。注意しながら、崖の方に近づいた。
なにが見えるか、と眼を凝らしてみるが、雨の勢いはさっきよりもいくらか強くなっていて、遠くまでははっきりと見ることができなかった。
「惜しいなあ。天気がよかったら、きっと絶景が見れたはずなのに」
「こればっかりは仕方ないよ。むしろ、これぐらいの天気で済んでよかったと思わなくちゃ」
「そうかもしれないけど、っ」
あたりが、一瞬明るくなった。雷だ。
「早くお祈りを済ませましょう、レヴン」
「そうだね、っ?」
「えっ?」
なにかの鳴き声が、どこからか聞こえた気がした。鳥の声、だろうか。
「エマ、下がって。背中を見せずに、洞窟の方に避難して」
レヴンが言った。声には、緊張があった気がした。
「え?」
「早くっ」
「避難って」
どういう意味、と訊こうとしたところで、空からなにかが飛んで来た。
大きな鳥だった。鳥としてどころか、レヴンよりも大きかった。
「こ、こんなところにも魔物が!?」
「ヘルコンドル。なんでこんなところに」
混乱するエマとは対照的に、レヴンは落ち着いていた。彼の様子を見て、エマの混乱もちょっとだけ収まった。
「レ、レヴンッ」
「落ち着いて、エマ。さっき言った通り、っ」
「っ!?」
ヘルコンドルが、突然上昇した。空からこちらを見据え、いまにも飛びかかってきそうな空気を感じた。
「イオ!」
レヴンが、スモークとの闘いの時にも使った呪文を唱えた。爆発が起こる。それから逃れるように、ヘルコンドルがさらに上昇するのが見えた。
「エマ!」
「へ?」
呪文を躱されたことを気にした様子もなく、レヴンがエマの方に走って来る。思わず間の抜けた声を洩らしたところで、エマは彼に抱き上げられていた。横抱き。お姫様抱っこだ。夢見ていたシチュエーションに、エマの頭が沸騰した。
そのままレヴンは、さっき自分たちが出てきた洞窟の方にむかって駆ける。彼の方は、エマと密着しているような状況だというのに、まったく気にしている様子がなかった。そこで、こんなことを気にしている場合ではない、と自分たちの置かれた状況を思い出した。
「っと」
「魔物がっ」
ヘルコンドルが、行く手を塞ぐように洞窟の前に降下してきた。レヴンが足を止める。ヘルコンドルはその場で羽ばたいて停滞し、エマたちを見据えてきた。
「イオ、はまずいか」
「え?」
「洞窟が近い。イオだと、爆発の余波で洞窟が崩れてしまうかもしれない」
「あっ。じゃ、じゃあ、メラとかギラは?」
「雨が降ってるし、視界も悪い。飛ばれると当てにくいな。流れ弾が壁面に当たったら、やっぱり崩れる可能性もある」
「そんなっ」
紛れもなく、危機と言えた。
魔物に襲われたところを、
きっとレヴンひとりなら、どうとでもなったに違いない。ヘルコンドルが近づいてきたところを斬り捨てるといった、それこそおとぎ話の英雄のような芸当も、彼ならできたはずだ。だが現実は、エマを抱えているために、剣を構えることもできない状況だった。
レヴンの足手まといになってしまっている。それを、痛感するしかなかった。
「ごめん、レヴン」
「ん、なにが?」
「足手まといになっちゃって」
「気にすることないよ。男が女の子を守るのは当然だしね」
顔をヘルコンドルにむけたまま、レヴンがやさしくそう言った。
「レヴン」
「それに、旅に出るなら、こんな状況ぐらい打破できないとね」
「っ」
ボソッと呟いた言葉に、息を呑んだ。
旅に出る。はっきりと、そう言った。
「ん?」
レヴンが、なにかに気づいたように声を洩らし、エマの足、いやエマを抱き上げている自分の左手を、視線だけで見た。
「よし、やってみるか。っと」
ヘルコンドルが、こちらに突っこんできた。レヴンはエマを抱えたまま横に飛んでヘルコンドルを避けると、怪鳥から眼を逸らさないように躰のむきを変えつつ、着地した。そのままレヴンは、流れるようにエマを下ろして右手で抱くようにすると、天を指差すように、人差し指だけを伸ばした左手を頭上に掲げた。
なにをする気なのか、とエマが思ったところで、彼の左手の甲にある痣が、淡い光を灯した。それに呼応するように、空に紋章のようなものが浮かびあがった。レヴンの左手の痣にそっくりなかたちだった。
ヘルコンドルが、崖のむこう側の空から滑空してくる。
レヴンの左手の痣と、空の紋章が、ひと際強く輝いた。
「デイン!」
呪文とともに、レヴンがヘルコンドルを指差すように左手を振り下ろすと、空の紋章から光が走った。瞬間、バチバチと激しい音を立て、ヘルコンドルが眼に痛いほどの光を放った。
雷。そう頭に浮かんだ時には、雷に撃たれたヘルコンドルは真っ黒に焦げつき、墜落していった。
レヴンがエマから離れ、崖の方に寄った。注意深く崖から下の方を覗きこむ。
少しして、ふうっとレヴンが息をついた。
「斃したみたいだね。もう大丈夫だよ、エマ」
レヴンがそう言い、近づいて来たところで、エマはようやく緊張が解けた。
「なんていうか、もう、すごいって言葉しか出てこないわ。いまの雷って、レヴンが呼んだの?」
「うん。デイン、っていう魔法みたいだ」
「みたい?」
「頭に名前が浮かんできたんだよ」
「いや、そうじゃなくて、なんかはじめて使ったみたいなこと言ってない?」
「みたいじゃなくて、はじめて使ったんだよ」
さらっと言われた言葉にエマは、ポカンと口を半開きにした。
いま、なんて言った。はじめて使ったと言った。
「え、ぶっつけ本番?」
「うん」
「うまくいかなかったら、どうしたの?」
「その時はその時で、ほかの手を使ったよ。といっても、うまくいくっていう確信はあったけどね」
レヴンが、どこか清々しく感じる笑顔を浮かべた。
「そ、そうなんだ。あ、あはははははは」
エマも笑おうと思ったが、乾いた笑いしか出なかった。
さて、とレヴンが言った。
「お祈りしようか、エマ」
「ははは、あ、あー、うん。そうね」
いろいろとついていけそうにない、レヴンの行動力に乾いた笑いを洩らしていたところで言われた言葉にエマは、自分たちがここに来た目的を思い出した。
大きく深呼吸し、気持ちを落ち着けると、崖の方に近づいた。二人で並び、胸の前で両手を組むと、眼を閉じて大地の精霊に祈りを捧げる。
『我らイシの民。大地の精霊とともに在り。ロトゼタシアの大地に恵みをもたらす精霊たちよ。日ごとの糧を与えてくださり、感謝します。どうかその大いなる御心で、悠久の大地に生きる我らを、これからも見守りください』
二人で声を揃え、言い終わったところで、エマは眼を開いた。レヴンはまだ眼を閉じている。
「あ」
雨が、止んだ。同時に、遠くの景色が見えてきた。
「うわあ、すごい――」
思わずそう言うと、レヴンが眼を開いてこちらを見た。すぐに顔を正面にむけ、感嘆の吐息をついた。
景色を見ながら、エマは言葉を続けた。
「世界って、こんなに広かったんだね」
「うん」
「このしきたりを考えた人。きっとこの景色を見せたかったのね」
「そうだね」
「――――?」
レヴンの声は、どこか上の空のようにも聞こえた。心ここにあらずというか、なにかを考えているように感じた。
「レヴン、どうしたの?」
「ん、いや。世界は、やっぱり広いんだな、って思ってさ」
そう言ってレヴンが、この景色ではない、もっと遠くを見るような眼をした。口もとには、笑みがあった。
「レヴン」
「行こうか、エマ。母さんや村長に、ここで見たことを伝えなくちゃ」
「う、うん。そうね。みんな、私たちの帰りを待ってるはずだしね」
そんなに旅に出たいの。
そう訊くことができないまま、エマはレヴンとともにその場をあとにした。
再会した時の「私よっ! 幼馴染みのエマよ!」で、『このわざとらしい台詞、もしや魔物が化けているのでは!?』と疑ったのは私だけではないと思う。
嫌いなわけじゃないんですがね、この子。最初はかわいい幼馴染ヒロインかと思ってたし。けどパーティーメンバーほどの思い入れがない相手を結婚相手にされても困るというか、せめてパーティーメンバーからも選ばせてくれんか、ってなる。なった。