異世界に行って魔法使いや勇者になる……なんて妄想がふと、アホらしくなってしまったのはいつからだっただろうか?
年末のスーパースター、サンタクロースがいないと知ってしまったときか。あるいは、妹によって発掘された『黒歴史ノート』を堂々と突き付けられたときだったか。それとも、高校の進路相談のときだっただろうか。
どれが原因なのか真偽はもう分からない。今となってはすっかり思い出せないのだから。
まあ、俺も仮面ライダーになりたいだとか、ウルトラマンに変身したいなんて思っていた。だがそんな幼少期の記憶なんてのは、年月が過ぎるにつれて、使い込んだ消しゴムの様にすり減って行ったし、その代りに親から延々と聞かされる勉強の話や、友人から垂れ流されるエロい話が黒い染みとして頭には磨り込まれてしまった。
そんな薄汚れた消しゴムの様な日々によって現実を知った俺は、妥協すれば現実も結構面白い事を学んだ。妄想していたような事が実際に起きずとも、それらを模したフィクション群が提供される平和な現代社会では、雰囲気を味わう事で妥協し満足する事ができるのだ。
それらによる、妥協によって自分なりに楽しい日々を過ごしていた俺は、惰性の果てに大学に進学し、一年が経ったある日のこと。
雨の降る帰り道。
俺は道路にズタボロの姿で横たわる黒猫を発見した。
最初は車に引かれて死んでいる、いや、僅かながらに腹部が上下していて生きていることは確認できるが、今にも息絶えそうだったのは素人目にもはっきりとしていた。
だが猫の視線はここから離れることを許さんばかりに、じっと見つめて離さない。
自分で言うのもなんだが、頼まれると断れない性格(都合のいい時だけ利用されることもある)の俺は力強いその目に根負けして、猫を持っていたタオルでくるみ、大家さんに許可を貰って、アパートにて世話をし始めた。
警戒心が高く、近寄らなかったそいつも、時間が経つにつれて、
そんな猫に愛着を持ち始めた頃。怪我がほぼ回復し、もうこいつの為にもそろそろ野生に返した方が良いだろうと考えながら帰宅すると、奴が真の姿を現していたのだった。
「お帰りなさい、貴方。お風呂する? ごはんにする? それとも……ワ・タ・シ?」
そんなフィクションに使い潰されたような台詞をぶち込んできた彼女は突っ込み所満載の格好だった。腰まで伸びた黒髪。裸エプロン。猫耳。そしてカラーコンタクトで変えているのか日本人らしからぬ金色の瞳で俺を上目で見つめている。
文句なしの美人が突然現れた事に虚を突かれ、しばらく反応できずにいた俺はそこでハッとして猫耳女の首根っこを掴んで外に放り出した。
「えっと、ですね。どこのデリヘルなのかは知りませんけど、悪戯だと思うので帰って大丈夫です。それじゃ」
そう言ってドアを閉めようとしたが、隙間から腕を突っ込まれて阻まれる。
「待って! 待って下さい!」
「待たない。不法侵入者に俺は容赦しない」
「不法じゃないです! ワタシ、貴方に拾われてここに来ました!」
「いや、そんな猫や犬みたいな感覚でそんな格好してる女拾わないから」
早口でまくしたて、ドアノブを引く力を強くする。それも両手で思いっきりだ。だが猫耳女は腕一本でそれに抵抗して見せた。あの白い細腕のどこにこんな力が隠されているというのか不思議でならない。
「往生際が悪いなアンタ。悪戯だから帰れって言ってるだろう!」
「だから勘違いだって言ってるじゃないですか! ワタシはあなたに拾われて――いや、これじゃあ信じてくれないんだった。……なら仕方がない」
そう言うと彼女はブツブツと何か
呟きが止むとドアの向こうから激しく発光する。そのあまりの眩しさにドアノブから両手を放して目を覆う。そして間を空けず、ガシャンと金属の音がした。
一年間のアパートで暮らして耳に染みついているのドアの音。つまりあの猫耳女は諦めて帰ったのだろうか? 慌てて鍵を閉めて、確認のためにのぞき穴で外の様子を確認する。そこには誰もいる様子は無かった。
息を大きく吐き出す。何も知らない人が家の中にいたと言うだけで気が気では無かったのだ。ドアに背中を預け、玄関だという事を気にせずに尻餅をついて座り込む。
未だにバクバクと激しい鼓動が収まらない身体を労いつつ、目線を下に移すとテシテシと肉球で俺の足を叩く黒猫が目に入った。
この数ヵ月で俺の平穏の象徴にまで上り詰めたこいつの姿にホッとして、両手で抱き上げると、そのまま話しかけてしまう。
「お前は無事だったか。急に知らない奴が入って来てびっくりしたよな」
『きゅ、急に抱き上げないでください……くすぐったいです』
「え?」
『だから、くすぐったいですってば』
「う、うわあぁ!!」
突然流調な日本語話し始めた黒猫に驚きを隠せず。俺は放り投げてしまった。すると黒猫は空中で煙を立てて変化、先程の女へと姿を変える。着地しそのまま俺を見下ろす様に立ち塞がった。
腰に両手を当てて、上体を地面と平行になるまで下げている。エプロンの隙間から真っ白な二つの山がチラリと見えた。それを直視することができず視線を逸らす。
「いきなり投げ出すなんて酷いじゃないですか。いつもならゆっくり下してくれるのに」
「な、何が……? あんたはさっきの!? でも直前まではうちの猫だったはず……」
猫を持っていた手と彼女を何度も見比べる。サイズ的にはかなり異なると言うのに、どうやってその姿を変化させたのか。全くもって見当も付かない。
もし今のが手品だとして、道具も無しにできるとは考えにくい。入れ替わるには速度はともかくとして、一度布などで隠すのが一般的。無くてもできるのなら、そこらの手品師がショーで見せているはずだ。
だったらあれは……何だ?
「驚きましたか? そうでしょう、そうでしょう! 何せこちらでは『魔法』は広まっていないようですからね」
俺の疑問に対して猫耳女はそう明かした。すかさず俺は聞き返す。
「魔法だと?」
「ええ、何せワタシは魔女ですから。人型、猫、その他諸々、変化自在なのですよー」
得意げに胸を張った。揺れてる、揺れてる。
「そんなバカな。魔女って……嘘付くの下手過ぎるだろ。魔女なんて物は現実に存在しない。本やゲーム、アニメの中の産物だ」
「嘘じゃないですよ、ホントの事ですから」
「……口だけじゃ信じられないな」
「そうですか、じゃあ何か言ってみて下さい。魔法で実現できる範囲の事なら実現させて見せましょう!」
「そんな事言って良いのか? 自分の首絞めてるぞ」
とか言いながら俺はちょっと、期待していた。いつの日から居る訳が無いと諦めていたフィクションの中の存在。魔女そのものなのかもしれないのだ。心が躍らない訳が無い。
「ええ、構いませんよ。ワタシ、こう見えて優秀なので。それに、それで信じて貰えるのなら安いものです」
「そうか……」
自信たっぷりに言われて少し悩む。フィクションを常日頃から読み漁っている俺だ、実現したい妄想は数多い。神話や民話、ライトノベルにしろ実現できないことは山ほどある。
その中で俺はシンプルかつ、小さなころからひそかに夢見ていたある事象を提案してみることにした。
「なら、俺は――空を自由に飛びたい」
空を飛ぶ。それは遥か昔から俺の夢であった。青いポッケを持つロボット
例えこの猫耳女の今までが全部嘘だったとしても、これが実現できるのであれば、これまで疑っていた事を全て鵜呑みにして信じてしまうまである。
そんな俺の頼みを猫耳女はポカンと口を開けて聞いていた。この非現実的な頼みに
『うっわぁ……こいつアホじゃん』とばかりにほくそ笑んでいるのだろうか? そうだと思うと少しイラッと来たので、急かすことにした。
「なんだよ。そんな顔して無理なのか? それとも、馬鹿にしているのか?」
「あ、ああ……すみません。あまりにも簡単なことだったので」
「なんだと?」
「簡単だと言ったんですよ。空を飛ぶなんて、基礎中の基礎。朝飯前ですっ!」
猫耳女は敬礼のポーズを取りつつ、あっさりと言ってのけた。その真偽は分からないが、もし本当の事だと思うと期待は高まるばかりである。
俺は猫耳女に人差し指を突き付け、
「よし、ならやってみろ。もし実現できたのなら、お前の不法侵入、今の訳分からない供述、全部鵜呑みにして信じよう」
そう口にした。
「本当ですか? その言葉を待ってましたよ! では行きましょう、魔法による空の旅へ!」
彼女は俺の手を無理やり部屋の中に引き込む。靴を脱がせろと言いたかった
が、そんな間もなく、ベランダに到達。そして、飛び降りた。
「うっそだろ――――!!」
俺の部屋は三階。何気に高い。そんな所から何の心の準備も無く飛び降りるのだ。思わず叫ばざるを得ない。
猫耳女はというと、先程と同じような謎の言語を呟いている。そして右人差し指を立て、指揮棒の様に振るった。
するとパラシュートが開かれたかの様な勢いで減速。さらに逆方向へと引っ張られて、みるみる上空へと体が昇って行く。頬を撫でる風の勢いが凄まじく、目をまともに開いていられなかった。
雲をぶち抜き、住んでいるアパートが爪の先ほどにまで小さくなったところで体は停止した。
「どうですか? これで信じてくれましたか?」
「……信じる、信じるよ。すげぇ……大学があんなに小さい」
ここ周辺の地域で一番大きいと言うのに、それでもやっと認識できるぐらいの高さだった。ここまで高い所に来たのは初めてだ。飛行機でもここまで高い所は飛ばないだろう。
「それは良かったです」
猫耳女はほっと息を付くと、握っていた俺の手を離してから言葉を続ける。
「それで、一つお願いがあってですね。良いですか?」
「なんだよ? こんなに貴重な体験をさせてくれたんだ。できる限りの事はする、いや、させてくれ」
本心だった。子供の事からの野望であり、夢を想わぬ形で叶えてくれたのだ。ここで礼を出し渋っては男が廃る。
猫耳女はそれを聞いてからゆっくりと話し出した。
「その、猫じゃ無くなっても……いや、元から猫じゃ無かったんですけど、これからも家に置いて頂けませんか? ワタシ、この『セカイ』に来てから行く当てが無くて……。拾って頂けたのはありがたかったんですが、いつまでも騙し続けるのもどうかと思いまして……」
この理由で彼女が何となく悪い奴では無い事が分かる。利用したいだけならそのまま猫の姿でいればいいだけの話。
それをわざわざ名乗り出す理由がはっきり言ってつかめないのが俺目線での現状だ。
勿論この話は嘘かもしれないし、そうでなかったとしても彼女が何らかの打算をしているのは明確。
だから厄介事に関わらないためにも、この願いを断ることは無難で、困難を避ける選択肢だという事は理解している。
だけれど、この退屈した日々、繰り返される日常に一石を投じる大きなチャンスを逃すわけにはいかない。得体のしれない人物を家に住まわせるというリスクぐらいは背負ってやらないと。俺は決意を新たに彼女の顔を見返す。
「名前は?」
「名前ですか? ハイルです。ハイル・ミーツ・アルハンゲル」
「じゃあ、ハイル」
「は、はい!」
「俺は
そう言って彼女へと手を伸ばすと彼女は顔をかしげつつ、それを見つめていた。
「握手だよ握手」
「えっと、すいません。いまいち意味が分からないんですけど」
「これから一緒に住むんだろ?」
「え? いいんですか!?」
「ハイルがいいならな」
「もちろんです! それで、えっと……どうすればいいんですかその手。ワタシ、その……アクシュ? って知らないんですけど」
「珍しいな。俺は万国共通だと思っていたんだけど」
「すいません……」
「いや、攻めてる訳じゃ無いんだ。それに握手は難しい事じゃない。ただ相手の手を握り返せばいいだけ」
再び手を差し出すと彼女は恐る恐る、俺の手を握った。すべすべでマシュマロのみたく白い肌はいつまでも触っていたいと思わせるほど魅力的。だが、変に執着すると後々禍根を残しそうだ。そう判断して、俺は頃合いを見てハイルの手を話した。
「じゃあ、よろしくお願いします。――ツカサ」
「ああ、よろしくな。ハイル」
俺と彼女、ハイルの共同生活が始まる。ネコでありマジョ、略してネコマジョのカノジョと暮らす日常はどのようなものになるのか、俺は今から楽しみでならなかった。