大きな耳、先が白くふわふわとした尻尾。この間はしっかりと見えなかったけれど、学のない俺でも判別ができた。狐だ。狐の魔女。完璧に人間だと思うほどに、俺は化かされてしまっていた、らしい。そんな事に気が付かなかったから、ピーチ姫さながらに上手くさらわれてしまったのだろう。
というかこんな冷静に考えている場合では無い。危険が無かったことを伝えなければ。古野は俺を助け出したつもりなのだろうが、先のハイルとのやり取りは一種のコミュニケーション。お互いにある程度信頼しているが故のやり取りなのだ(と思いたい)。だからこの逃走劇に終止符を打つためにそれを伝えなければならない。
「……古野。離して貰えないか?」
「何言ってるの。命が惜しくないの?」
「そうだな、高い所から落とすのは勘弁して欲しい」
俺の答えを聞いて古野は言葉を失う。だがそれも一瞬で、すぐに「そうじゃなくて」と仕切り直す。
「司とあのお姉さんがどんな関係かは知らない。でもネコとは関わらない方が良いよ。命が惜しいならね」
「命は惜しい。だけど、俺にはハイルがそんな危険な奴には見えないぞ」
「かもね。だけど、ネコの危険性を知らないからだよ。お父さんが言ってた。“ネコは万能の戦闘民族。個々によって対策が大きく異なる。初見ではまず逃げろ”ってね」
確かにハイルは万能だ。いろいろな事を魔法でこなす。空を飛んだり、物を浮かして動かしたり、さらにはテレパシーとなんでもありだ。普段から「優秀ですから」と口にするのも決して『傲り』では無く、部族特有の『誇り』だったのだろう。
だがまあ、それは置いておく。本題は別だ。
「敵だったらって話だろ。俺とハイルは違う。だから、逃げる必要はないんだよ」
「……私ほどじゃないにしてもネコだって幻惑魔法を使える。司の認識を変えている可能性や記憶を改ざんされているかもしれない」
だとしても、と古野は言葉を区切る。
「司は何もされてないって言える?」
「……」
無理だ。俺は普通の人間。ハイルや古野の様に魔法が使えるわけでも、詩央先輩の様に魔力が見れるわけでは無い。故に、ハイルが何もしていない事を証明できるはずもなかった。
だが、俺の答えは決まっている。詩央先輩のときにも口にしていた。自分に言い聞かせるように口を動かす。
「何もしていないとは言い切れない。だけど、俺は決めた。信じるって決めたんだ。だから、あいつは何もしてない」
「駄目だ……。そんなに盲目的な姿勢を見たら、やっぱり、騙されてるって思っちゃうよ」
古野の黒い眼が細まる。俺の腰に回された腕がより強く締まった。
「でも、今はそれでいいよ。どの道、あのお姉さんが消えればはっきりするから」
「消える……? どういうことだ!」
「そんなに声を荒げないでよ。暴れないでよ。落としちゃうかもしれないでしょ」
「いいから答えろ!」
「知らない訳じゃ無いでしょ? 魔女は魔力が無くなれば消滅する。魔法の効力も消える。司が騙されているかどうかが分かる。単純な話じゃないか」
古野がかつて聞いていた魔女の消滅条件をちらつかせる。そうだ、ハイルは言っていた。魔女は自分で魔力を生み出せる訳じゃ無い。人間の幸せな気持ちよって魔力を補給するのだと。燃料は使うと無くなるのは道理。補給する手段を持たない今、時間が経てば彼女は――
消滅する。
それは駄目だ。それだけは駄目だ。俺はハイルとまだこの生活を続けたい。物語の様な時間を失いたくない。それを避けるために俺は今、何をすべきだ?
決まってる。居場所を知らせる事だ。俺がどこにいるか分かれば、彼女は少ない魔力で俺を見つけられる。だけど、ハイルは携帯を持ってない。スマホのGPSで伝えることはできない。
なら考えろ。他に相手に居場所を瞬時に伝えられるような手段を。しかしそんな都合のいい手段が思い浮かぶはずも無い。時間だけが刻一刻と過ぎていく。焦りからなのか額に汗を左手で拭う。すると違和感のある感触が額に伝わった。思わず左手に目線をやる。
ミサンガ。小学生が作ったみたいな安っぽい見た目のミサンガ。
これだ。今取れる最善の手段はこれしか無い。詩央先輩はこれが防犯ブザーだと言っていた。俺の危機を知らせてくれるのだと。可能性は低いが詩央先輩に伝わればハイルと情報共有する可能性だってある。そのわずかな可能性に賭けて、俺は右手の指を突っ込んで引っ張る。思ったより力を入れずともひもが千切れた。
「へぇ、見慣れているようで見慣れていない不思議な格好をしてるじゃないか、葉子君。君が今回の敵という訳かな?」
即座に背後から女性の声。元居た場所から古野が飛び退く。元々居た場所に振り返る。空中に穴が開いていた。漫画のベタを貼り間違えたかのように不自然に真っ黒な穴。そこから頭が出てくる。重力に従って垂れる黒髪。黒縁の眼鏡。俺が危機を知らせた人物の顔だった。薄いピンク色のパジャマを身に纏って屋根の上に降り立つ。
「本多先輩!? どうしてここに?」
「それは決まってるだろう? 呼ばれたからさ」
ウィンクをして俺を指差した。台詞自体はピンチに駆け付けたヒーローのようだが、格好がパジャマだからか締まって見えない。
「流石は僕の作ったミサンガ。夏目君がどこにいるのかを完璧に知らせてくれた。でもまあ、ここまで来たのは僕の力では無いのだけれど」
詩央先輩はチラリとまだ塞がっていなかった穴を見た。すらりと伸びる脚が穴から出てくる。微妙にサイズの会ってないワイシャツ。腰まで伸びた髪。紛れもなく俺と暮らしている女性の特徴だった。全身が露わになると穴は消える。月明かりがぼんやりと彼女を照らした。
「お待たせしましたね、ツカサ。シオを探していたら遅くなってしまいました」
彼女はにこやかに微笑む。そして人差し指を立ててタクトのように振るうと、宙へ体を浮かした。いつもより数倍鋭い眼光を放つ金の瞳が俺達を見下ろす。
「今、どうやってここに……」
「どうやって? シオに場所を確認。その後空間に穴を開けて、門を開いただけです。魔力消費が激しいのでやりたくは無かったんですけどね……」
「そんな芸当できる訳――」
「できますよ」
ハイルが古野の言葉を遮る。そして、いつもの様に続けた。
「だってワタシ、こう見えて優秀ですから」
「くっ……」
古野はぐっと歯を噛み締めて印を組むと、再び分身を作った。四方八方へとバラバラに逃げていく。
「無駄ですよ。さっきは不意を突かれて逃しましたが、今回は全て捉えている」
指先にある雲だけに稲光が走った。
「軽く、感電死させてあげます」
死んでる時点で軽くでは無いとは思うのだが、そんな突っ込みをする間も無い。ハイルが「行け」と呟く。優に四〇人はいる分身に稲妻が襲い掛かる。逃げ回る分身を蛇の様に動く稲妻が貫く。狐の大群の中で残ったのは一人。俺を抱えている本人だけだ。ハイルがふわふわと宙を舞って、俺たちの前へ着地した。
「嘘……」
「実力差ははっきりしたでしょう。大人しくツカサを差し出すのなら、命だけは保証しましょう」
「それは、駄目。ネコに司は渡せない」
古野の腕の震えが伝わる。横目で見た目付きは鋭く、ぶれてはいない。目の前のハイルの臨戦態勢はとかれていない。詩央先輩は屋根の上に立ったまま。……古野の恐怖に気が付いているのは俺だけだった。
「……そうですか」
ハイルが一歩間合いを詰めた。彼女は人差し指の先を立てている。見慣れてきた魔法を使う時の予備動作。遠い雲に青白い雷光が映る。古野の腕から伝わる振動がより強くなった。手が緩んだ。俺は古野の腕から抜け出してハイルの前に両手を広げて立ちふさがる。
「ストップだ、ハイル。これ以上はやる必要はない」
「なんの真似ですか、ツカサ。そこのキツネに化かされましたか?」
「違う。そんな事された覚えはない」
俺は首を振って否定する。
「ならどうして邪魔をするんですか? そこにいるのはキツネなんですよ」
「キツネ……それだけか?」
「それだけで十分ですよ。キツネと我々は遥か昔から非同盟、敵同士です。何されるか分かったものではありません。だから早めに潰しておくのが吉なんですよ」
何されるか分かったものでは無い。古野がハイルに対して話していた時にも口にしていた。お互いの実態を知らないで、虚像を見て話している。そんな様に俺は感じていた。
「ハイル。俺は魔女の世界がどのようになっているかは知らない。どんな同盟があるのか、ルールがあるのか、全くもってだ」
だけれど、と区切りをつけて続ける。
「ここは人間の世界だ。お前はネコの魔女じゃ無く、家の居候だ。古野だってキツネの魔女じゃなくて、バイト仲間だ。二人とも大事な俺の友人なんだよ。争う姿は見たくない。だから、矛を収めてくれないか」
ハイルはどうも納得していないようだったが、最終的には人差し指を立てるのを止めた。ゆっくりと背中を見せる。
「……分かりました。アナタが不本意なことはワタシもしたくありません。命拾いしましたね、キツネ」
俺はその言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろす。振り返って後ろにいる古野を見る。彼女は気が抜けたのか膝を地面に付けていた。
「ハイルだって悪い奴じゃないんだ。それは今見た通り。古野だってそうだ。勘違いとは言っても今回、俺の為に動いてくれていた。だから二人に騙されてないって言える。信じているって言える。俺は、大丈夫だ」
古野は信じられないと言いたげな顔だった。俺は彼女に向けて笑顔を見せてからハイルの後を追う。すると詩央先輩が目の前に来て、ハイルは彼女に語り掛けていた。
「今回はお世話になりました」
「利害が一致していたからね。君のときにも言ったけど、僕は夏目君を失うのは不本意なのさ。君が牙を剥けば、今度は彼女と組むかもしれないよ」
詩央先輩は後ろの古野を指差した。
「それは、それで構いません。ワタシがアナタ達に負けるはずもありませんし、ツカサに牙を剥くことは万が一にも無いでしょう」
「かもね。そうある事を願うよ。争うのは好きじゃない」
「ワタシもです」
頷くと先輩は俺に向き合う。
「こんばんは夏目君。今回、真っ先に僕を頼ってくれたことを嬉しく思うよ」
「先輩しか呼び方を知らなかっただけですけど、ありがとうございました。あのミサンガ、役に立ちました」
「それは良かった。またお父と作る事にするよ」
「使わない事を願いたいですけどね」
頻繁に危険な目に会うのはゴメンだ。先輩は「違いない」と返事をして、俺の方へ歩いて隣に立つと、肩に手を置いた。
「ここは僕に任せて家に帰ると良い。葉胡君に話もあるし、証拠も消しておかないと厄介だ」
先輩はチラリと地面を見る。ハイルの雷によってアスファルトが黒く焦げていた。確かにこれがそのまま残っていた怪しまれる。魔法の存在は可能な限り隠しておいた方が良い。
「すいません」
「いいよ。僕に利益があってしている事だからね。気にしなくてもいい」
先輩は歩いて行く。俺は言葉に甘えて反対方向に歩みを進めた。先に歩いていたハイルの背中に追いつくため、やや足早にだ。目の前の彼女が十字路を右に曲がって、視界から姿を消す。俺はそれを追った。
再び視界に映った彼女の足取りはなんだか危うかった。フラフラと左右に揺れておぼつかない。その姿はまるで木から落ちる木の葉の様だ。俺は慌てて彼女に駆け寄る。その結果、地面に崩れ落ちる直前、彼女を抱きかかえる事に成功した。
だけれど、即座に違和感に気が付く。彼女の雪の様に白い肌が水の様に透き通っている。比喩では無い。