ハイルの異変に気が付いた俺は彼女を担いで家へ帰った。距離的には電車やタクシー等の交通機関を使うのが無難ではあったが、彼女の異変を周囲に見られるリスクを考えると見送らざるを得なかったのだ。
ある程度近くにいた
ちゃぶ台をどかして布団を敷く。彼女を寝かして、掛布団をかけた。
枕に乗っている頭はいつもの彼女のまま。だけれど、掛布団に隠してしまった彼女の指先や足元は窓ガラスの様に透けていた。
この異変がなぜ起こっているのか、俺には分からない。ハイルが意識を取り戻すのを待つしかないのだ。焦ったって仕方がない。そう自分に言い聞かせた。
取りあえず俺はキッチンに向かう。夕飯を済ませておくためだ。『腹が減っては軍は出来ぬ』と言うし、この異変に立ち向かうに当たって最大限に備えておきたい。まあ、大げさに言ったけれど、冷蔵庫にある適当なもので一品作って、残っていたご飯を温め直せば十分だろう。
流し台の前に立つと既にいくつか皿が置かれていた。ラップ越しに料理が盛られているのが見える。きっとハイルが作ってくれたのだろう。皿には肉野菜炒め。鍋には味噌汁が入っていた。鍋を火にかけ、皿を電子レンジで温める。その間に茶碗にご飯をよそった。
それらを終えて、立ったまま流し台で食事を摂り始める。ハイルが作った野菜炒めも味噌汁も有り体に言って美味しかった。俺が作るよりもおいしくできている。それは最近、彼女に食事を任せることが多くなっていたからなのだろう。
俺は思っている以上に彼女に頼っている。こういった日常的な意味でも、非日常的な意味でも。依存していると言っても過言では無いかもしれない。何もかもされっぱなしだ。
俺は彼女に何かしてあげているだろうか。……なかなか思いつかない。住む場所だって俺だけの力では無い(むしろ親の仕送りの力が大きい)。服だって、むしろ俺が同じ服を着られるのが嫌だからって理由で買った。食費は……バイト代で賄ってはいるけれど、それで買って来た食材は結局彼女が調理しているのだ。してあげれている、なんて言うのはおこがましい。たった今だって、俺は待つことしかできていないのだから。
こうしてみると……自分がいかにちっぽけで、無力であるかを自覚させられる。ハイルが、俺にとって大きな存在であるかを証明してしまう。もし、彼女がいなくなったら、俺は以前のような毎日を楽しいと思えるのだろうか? 甚だ疑問であるが、答えを出すことはまだできそうになかった。
食事を終えて、皿を洗う。スポンジを湿らせて、洗剤を少し付けた。その途中、水音に混じる足音を耳が捉えた。俺は振り返ってドア越しに彼女の影を見る。最後の一皿を水切り棚に立ててから手を拭いて、ドアを開けた。
「起きたか、調子はどうだ?」
「……良い、とは言えませんね」
ハイルは額に手を添えながら答える。先程の異変は鳴りを潜めていた。彼女の指先はいつもの通りの肌色だ。異変はどうやら収まったらしい。
しかし、情報共有はしておいた方が良いだろう。知らなかったでは済まさせないときもある。そう思った俺はハイルに先の異変について伝えると、彼女は「やっぱりですか」とため息をついた。
「魔力を使い過ぎたみたいですね。完璧に『魔力欠乏症』です」
「読んで字の如く、か。前にも言ってたな。魔力が無くなると消えてしまうって。その一歩手前って認識であってるか」
「そうですね。ツカサが見たのは消滅するワタシの末端でしょう」
「……思ったより落ち着いてるんだな。死ぬ一歩手前だったってのに」
「我々マジョにとっては日常茶飯事でしたからね」
ハイルは自嘲気味に笑う。命にここまでドライな面を見せるのは現代ではなかなか無い。いや、あり得ないと言ってもいい。価値観が決定的に違う。ハイルが話していないのだから、話していないなりの理由があるのだろう。土足でそこに踏み入るような真似はどうしてもできなかった。
「そうか。じゃあ、何かして欲しいことはあるか?」
そう聞くとハイルは照れくさそうに頬をかいて、小さな声で要望を切り出す。
「今日は、抱きしめて寝てくれませんか。こう、ギュッと」
ハイルは目の前の
「一応、聞くけどさ。なんで?」
「魔力が足りないんですよ。絶対的に。いつもみたいに布団に潜り込むだけだと、きっと足らないです」
「だから、もっとくっつけって事か?」
ハイルは首を縦に振る。布団に入り込まれるのにようやく慣れて来たのに、息を付く間もなく次の段階へ上がらされるのか。もっと精神的な余裕を持たせて欲しいものだ。
しかしながら、彼女も病人と言っても差し支えの無い状態。その治療を拒否するには気が引ける。俺は彼女の提案を受けることにした。
「わかった。今日だけな」
「今日だけじゃなくて、ある程度回復するまで、です」
「……分かったよ。風呂に入って来るから、それまで布団で待ってろ」
ハイルをおぶって来たこともあって、俺は汗をかいていた。流石に年頃の女の子に汗ばんだ体を押し付けるのは気が引ける。
「あ、ツカサ。ついでにワタシも洗ってくれると……」
「それは流石に自分でやれ。先入ってていいから」
本当に体調不良なんだろうか。そう疑問に思うほど、明るい声のトーンだった。
▼ ▼ ▼
俺はハイルの後に風呂に入った。寝る前に着替え、歯を磨き、髪を乾かす。それらを終えて、彼女の待つリビングへと足を運ぶ。ドアを開けると、ハイルは枕を抱えながら俺を見返す。
「待ちかねましたよ」
「そんなに待たした覚えはないんだけどな。俺が入っていた時間なんて十分ちょっとだろ」
「十分は長いですよ。『ヤッカーボール』なら一つクォーターが終わります」
「何だよ。その競技」
少なくとも俺は聞いたことも無い。
「え? 知らないんですか! ヤッカーボール!」
「知らないよ。どんなルールなんだ? 聞けば思い出すかも」
「三種類のボールを投手が投げ、ボールを木の棒か脚で打ち返し、フェンスに備え付けてある籠に入れて、その得点を競うスポーツなんですよ」
駄目だ。さっぱりわからん。
「……分かんねぇや。というかそんなごちゃごちゃしたスポーツ本当にあるのかよ。今適当に作ったんじゃねぇの?」
「聞き捨てなりませんね。馬鹿にしないでください。ワタシの国の国技ですよ!」
「国技なの!?」
やっつけで適当に作ったみたいな名前だなとか思ってたのに。案外馬鹿にできない。
ハイルは咳払いをして「ともかく」と話題を切り換える。
「早く寝ましょう。時間も遅いですし」
「そうだな……そう、しよう」
改めてハイルの体を見る。俺はこれから彼女を抱く。勿論、性的な意味では無い。いや、抱き合って寝るのは十分に性的なのか? 考えるのはやめておこう。確実な解答など得られないのは分かっているから。
まあともかく、俺は彼女を抱きしめて眠るのだ。心臓の鼓動が耳に付く。これだけ綺麗な、人形の様なという例えが似合う彼女を抱いて眠るのだから、この緊張感は付いて回って当然だと思えた。
「暗くしますね」
ハイルは天井からぶら下がっているひもを引っ張って、光の色をオレンジに変える。そして布団の上に座って両手を広げて俺を見た。
「来て……頂けますか?」
やばいな。エロい。さっきの『抱く』って絶対性的な意味だよ。確定しちゃっていいよ。だって台詞が色っぽいし、吐息混ざりだもの!
そんな事が頭によぎって、なかなか布団へ足を踏み出すことができなかった。
「どうかしましたか?」
「いや、その……なんだ」
今のハイルはエロいなって、考えてました。何て言えるはずも無く。俺は適当に言葉を濁す。その間にどうにか良い言い訳を考え、そのまま口を動かした。
「正面から抱き着くのは流石に、ハードルが高いというかだな……」
あ、駄目だこれ。直球では無いにしろ、そういう目で見てましたと宣言しているようなものだ。不安になって恐る恐るハイルの顔を窺う。彼女は不思議そうに首をかしげていた。
「ワタシは構いませんよ。正面からで」
良かったー。軽蔑の眼差しでは無い。安心して話を進められる。
「いや、俺が構うんだよ。視られているとどうも落ち着かない。せめて、後ろからにしてくれないか」
「そういう事なら大丈夫です。効果は変わらないでしょうし、ツカサがリラックスできないのではむしろ効果半減ですから」
そう言ってハイルは俺に背中を向けてから横になった。
「これでいいですか?」
俺は「ああ」と返事をして、布団に足を踏み入れ横になる。距離が近くなったからか緊張感が更に増した。手汗とかかいてないか心配だ。不安と手汗を誤魔化す為にズボンの太ももで手の平を擦った。
「ハイル。腕、回してもいいか」
「……はい」
ハイルは消え入るような声で返事をした。俺は腰に左腕だけ回して密着する。一回り小さい彼女の体を包むような姿勢だ。背中や回した腕からじんわりと伝わる体温。それが彼女の存在が確かにここに在るのだと、証明してくれた気がした。
「こうしていると、ここに来たばかりの時を思い出しますね」
「来た時?」
「ワタシがネコの姿だった時ですよ。よく布団にお邪魔してました」
思い返して見れば、そんな気がする。当時は三月中盤で夜はまだ肌寒かったからだと思っていたけれど、今の様に魔力を補填しに来ていたのかもしれない。何だか充電器みたいだな、俺。
「アナタの手がとても大きく感じたのを覚えてます」
「そりゃあ、人と猫じゃえらい違いだろう」
「それはそうなんですけど、もっと比喩的な意味でですよ。あの時、私を助けてくれた手はとても大きく感じました。今でも変わりはないみたいですけどね」
彼女は回していた手を取って、そっと撫でる。急に触られたものだからびっくりして鳥肌がたった。
「ワタシはツカサの手が好きです。アナタの優しさがよく伝わってくる気がするから」
「……俺は言われるほど優しくは無いぞ」
俺は自分本位な人間だ。ハイルを拾ったのは、見捨てたとき自分が嫌な気分になりたくないから。この場に置き続けているのは、自分が不思議な体験をしたいから。だからそんな過大評価をされると申し訳なくなる。
「良いんです。優しさなんて結局、他人が決める事ですから。他人に伝わるか、どうかですから。ワタシが優しいと思えば優しいんです」
「フフッ、なんだよそれ」
思わす吹き出さずには居られなかった。自分勝手にも程がある。でもそのおかげでブルーな気持ちを一掃できた気がした。
「じゃあお前は優しいな。俺が勝手に決めとく」
回していなかった右手で彼女の頭部をそっと撫でた。人間には無い頭頂部の猫耳の弾力。サラサラな髪をかき分ける心地いい感触を手の平で味わう。時折混じる吐息がまた愛おしくて、なかなか手を離すのが躊躇われたが、寝れなくなる前に折り合いをつけて離した。
「……止めちゃうんですか?」
「ずっとやってると寝れないからな」
「そうですか」
あからさまに彼女は声色を濁らせる。そんなに嬉しかったのだろうか。俺にはよく分からないけれど、彼女にはなるべく笑っていてほしい。そう願って口を動かす。
「またやってやるから。今日は寝とけよ。仮にも病人なんだから」
「絶対、ですよ」
「ああ」
しばらくの沈黙。お互いの息遣いだけが室内を支配する。会話で紛れていた心拍音が再び聞こえ出す。耳元にメトロノームを置かれているような気分だった。勘弁してほしい。
「じゃあ、おやすみなさい。ツカサ」
「ああ、おやすみ。ハイル」
お互いに挨拶を交わして目を閉じた。瞼が光を遮断して、視界を黒く塗りつぶす。このまま俺の意識がゆっくりと落ちていく……。と思っていたのだが、残念ながら現実はそんなに上手くいかない。
視覚を封じた分なのか、感触や聴覚、更には嗅覚が彼女の情報を絶え間なく伝えてくるのだ。身体が柔らかいとか、寝息が規則正しいとか、息を吸うたびにいい匂いが鼻腔に広がるとか……。何も考えないようにすればするほど、感覚が詳細になって行く。
そんな状態で俺が眠れるはずも無く、意識を手放せたのはカーテンの隙間から日光が差し込んで来た後だった。
予測できると思うので細かくは言わないが、次の日の講義はかなりの割合で船を漕いでいたとだけ伝えておこう。