翌日。俺はいつも通り……という訳では無く、ダラダラとした朝を迎えていた。
なぜかと言うと今日は講義担当の教授が出張だかで、休講になったのだ。
カーテンの隙間から差し込む日差しを受けた
だが、動かない。
右腕にどんなに力を入れても、持ち上がることは無かった。まるで、金縛りにあったかのように。
俺の体に何が起きているのかを把握するため、俺は瞼を無理やり持ち上げて、焦点の合っていない瞳で右腕のあたりへ視線を飛ばした。
腕は布団の中にある。いつも通り、ごく普通に。
しかし、そこには余計なものがくっついていた。黒髪猫耳の頭が、その持ち主の肢体が、絡みつくようにしてそこにあった。
ハイル・ミーツ・アルハンゲル。
猫であり魔女。日常にいた非日常、その象徴たる彼女は当たり前の様にそこにいた。
首を曲げて隣を見ると昨日敷いてやった布団は手付かずのままだ。
どうやら俺の気遣いは無駄に終わったらしい。
彼女を見たことで感覚が鋭くなる。腕のビリビリとした痺れの中に柔らかい二つの果実の感触や、じんわりと広がる自分よりも高い体温が伝わってくる。
その感触たちは心地よく、甘美なものだった。可能ならばずっと味わっていたいほどに。
だが、それと同時に大きな羞恥心が浮き上がる。顔が熱を帯びたのを感じた。
妹以外の女子とまともに話してこなかった俺がそれに耐えられるメンタルを持ち合わせている訳も無く、即座にその拘束からいち早く抜け出したい気持ちでもういっぱいだった。
拘束されていない逆の手で彼女を引き離しにかかる。思いっきり力を込めて。だが――
「んぐっ! んぁ――――! はぁ、はぁ……うっそだろお前、どんな怪力だよ」
微動だにしなかった。彼女を離したければ自分の腕を切り離せと言わんばかりの締め付け。逆に俺の肩がメシメシと悲鳴を上げた。
そういえば、ハイルは俺に比べて力がかなり強いのだ。昨日も追い返そうとしてドアを両手で無理矢理閉めようとしてたが、彼女は細い腕一本で対抗して見せていた。
その理由も彼女が魔女だからなのだろう。筋力量と力の大きさが比例するとは限らない。魔法で底上げできてしまうのだろうし。
勝手にそう結論づけたところで俺は諦めてハイルが起きるのを待つことにした。無理な物は無理。相手が現代で証明されている物理法則が通用しない魔女ならば尚更だった。
暇つぶしに天井のシミを数えつつ彼女の感触を味わっていると、いつもより早い心拍音が聞こえて来て、俺の恥ずかしさを煽った。
▼ ▼ ▼
「おはようございますツカサ。良い朝ですね」
待つこと一時間。彼女は目を
その姿は昨日とは異なっていて、俺のタンスからはぎとったワイシャツを身に纏っている。それに日光が差し込んでうっすらと素肌が透けて見えた。
下着は、……付けていない。困ったことに。
俺には刺激が強すぎるから、自分で隠すなり、深夜アニメみたく、謎の光で補正して欲しいものだが。現実はそんなに優しくない。ノーカットで放映中だ。
そんな現実と規制直前の彼女から目を逸らしつつ、俺は口を開いた。
「何が良い朝ですね、だ。こっちは気が気がじゃなったぞ。布団敷いてやったのにどうしてそっちで寝なかった」
「ご迷惑でしたか?」
首をかしげてそう聞くハイル。俺は首を縦に振った。
「ああ、いい迷惑だ。おかげ落ち着いて寝れやしない」
「……その割にはツカサからは質の良い魔力が出てましたけどね」
少し詰らせてからハイルはそう口にした。
魔力。よくゲームとかでは魔法を使う時に必要になるものだ。MPなんて呼ばれることもある。これも現実では存在しないものだ。それが俺から出ていた? ちょっと詳しく聞きたい。
「どういう事だ? 俺から魔力なんて物が出るのか?」
「出ますね」
即答するハイル。
「魔力は人間が幸せな気分なると発生するのですよ。故にツカサ、あなたから魔力が出ていたという事はワタシに抱き着かれて幸せな気分になっていた、と言う事の証明でもあるのです」
ハイルはビシッと人差し指を立ててそう断言する。
それはあながち否定できない。確かに恥ずかしさはあったものの、美人な女性に抱き着かれているというシチュエーションは素晴らしいものだった。
そう思っている事がその魔力とやらの存在で、ダダ漏れになっていると思うと彼女とはしばらくまともに顔を合わせられそうにない。
重い腰を上げ、布団から立ち上がる。
「そう思いたければ勝手にしてくれ。俺は信じないからな」
「頑固ですねツカサは。そういう所も嫌いじゃないですけど」
彼女の言葉に耳を傾けつつ、俺はさっきまで寝ころんでいた布団を畳んでいく。
魔力が発生している、ねぇ。もしそれが本当ならば、ひょっとすると俺にも使えたりするのだろうか? 彼女が昨夜使っていたような魔法が。
そう思った俺は、彼女に問いかける事にした。
「なあハイル」
「何でしょうツカサ」
「もし俺から魔力が出ているというのが本当だとすると、俺にも使えたりするのか? お前が使っていた様な魔法を」
「無理ですね」
またしても即答。キッパリと切り捨てる。
「どうしてだ? 魔力と言う燃料があるなら使えてもおかしくないんじゃないのか?」
「うーん、何ででしょうね? 私自身には細かい原理は分かりませんが、私の知っている限りではそんな人いた事はありません。人間は魔力を生み出すけど、魔法が使えない。経験上、これは揺るがない事実です」
「そっか、残念だ」
肩を落とす。現実はそんなに甘くないという事か。まあ、元から諦めていたことだし、そこまでショックは大きくないのが救いだった。
「そう気を落とさないでください。魔法が使えるようになったって、そこまで良いものではないですよ」
「何を言う、嬉しいだろう。そんな自ら奇跡をポンポンと起こせるってのは。毎日楽しく過ごせそうじゃないか」
「いいえ、そんな事はないですよ」
「……? どうしてだ」
楽しくない訳が無いし、人間に憧れる理由もサッパリ分からない。人間になってしまったら特別では無くなってしまうじゃないか。それではただの人だ。
まあ、ハイルは美人だから、ただの人には収まらないかもしれないが。
「マジョは人間の逆に魔力を生み出せないのですよ。それに魔力を使い切ったらこの世から消えてしまう。だから、人間から見捨てられたマジョは生きてはいけない」
顔を伏せて暗いトーンでハイルはそう言った。
どうやらこれは触れてはいけなかった話題だったらしい。魔女はただ楽しいだけでなく、恐怖を抱えながら生きている。その事を知らなかったとはいえ、彼女には酷い事をしてしまった。この話題にはこれからは触れない方がいい。
これからの事は置いておいて、まずは今。謝っておくとしよう。
「その、なんだ……悪かったよ。楽しそうなんか言って。……軽率だった」
そう言うとハイルはクスクスと笑った。指をさして小馬鹿にしたように。
「何で笑うんだよ」
「いえ、そこまで重く受け止められるとは思っていなかったもので。いいんですよ、別に。生まれて来た時からそうなんですから。慣れてます。だから、そんなに気に病まなくても結構です」
「そうは言ってもだな……」
暗い雰囲気を振り払うように明るく振る舞う。
その姿が俺には無理しているようにしか見えなくて、言葉を濁した。
「気を使ってくれるのは嬉しいですが、言っても、言わなくても結構です。どうしてもっていうのなら、ツカサ、アナタがして貰ったら嬉しい事を教えてください」
「俺がしてもらったら嬉しい事? これまたどうして? むしろさっきのお詫びに俺がお前に何かしてあげたいぐらいだってのに」
「さっきも言ったようにツカサ、アナタが幸せな気分になれば、私も魔力を補給できるのですよ。だから、ワタシの存在をより確かな物にするために協力して貰えませんか?」
そう言ってハイルは魔法を使うために右人差し指を立てた。
▼ ▼ ▼
アナタを幸せにさせて下さい。なんて、プロポーズみたいな台詞の後彼女がしだしたことと言えば、掃除だった。
俺は家事が好きじゃない。できない訳じゃ無いのだが、面倒なのだ。掃除とか洗濯とか必要最低限のでしかやりたくない。そんな事に(とか言っちゃいけないかもしれんが)時間を割くぐらいなら本を読んでいたいのだ。
そんな俺を猫のときに見ていた彼女は、現在進行形で掃除を始めたのだが――
「いや、家具を宙に浮かせながら掃除するのは怖いから止めてくれませんかね!」
そう、タンスやら冷蔵庫。更には電子レンジと言った重量級の家具たちがこのワンルームにふわふわと浮いていた。何かのアクシデントで魔法が解けてしまったらと思うと気が気では無かった。
家具で押しつぶされるのは嫌なのだ。下手したら死んじゃうからな。
「え? どうしてですか? こっちの方がちゃんと、綺麗になりますよ」
「いや確かに、手がいろいろな所に届いて便利そうだけど、そう言う問題じゃなくてだな。まあ、取りあえず元に戻してくれ」
「はぁ、はい」
彼女が右の人差し指を指揮棒の様に振るうと、宙に浮いていた家具がゆっくりと元の場所へと戻った。
俺はホッと胸を撫で下ろす。
「魔法を使って掃除するのは止めて貰えないか?」
「どうしてです? 便利じゃないですか」
「いや、そういう訳じゃ無くてな」
「あ、さっきの魔力の話まだ気にしてますか? こんな程度じゃ対して減りませんから気にしなくていいですよ」
「そういう訳でも無くてな。えっと、なんて言えばいいんだろう……こう、お前の掃除に違和感があり過ぎて恐怖を感じた、というか」
「恐怖、ですか? ワタシ別に家具落としたりしないので安心して大丈夫ですよ。ワタシ、こう見えて優秀なので」
「ああ、いや、お前の問題じゃ無いんだ。俺の心の持ちようと言うかだな……」
そう彼女の問題では無い。ただ単に、怖いと感じたから怖いのだ。
「……家の主にそう言われたら仕方ないですね。魔法を使うのは控えます。ここで無理矢理押し通してあなたの気分を損ねるのは、元々の目的から外れますからね」
あざとく、ハイルはウィンクを決めてそう言った。黒い耳がピョコピョコ動く。……可愛いなおい。
「そうしてくれると助かる」
「でも、困りました」
「何がだ?」
「魔法を使わないでどのようにゴミを集めるのでしょうか?」
首をかしげる彼女を横目に見つつ、俺は掃除機を手に取った。