五月になった。五月と言えば思い浮かべるのは大型連休、ゴールデンウィークであろう。一部の例外を除き、国民が堂々と休みを享受できる日々である。
俺もその例外では無く休日。学校には行かず、バイトに明け暮れていた。
勤め先は本屋だ。品出しをしたり、レジを打ったりしている。
今日は休日と言う事もあり、客足が伸びていた。おかげで手が休まることがなく、バーコードを読み取り金銭を受け渡し。そして隣の店員が商品を梱包し、渡すのを眺める。
そんな事を数時間繰り返し続けて、客足がまばらになった頃。俺は店長に言われて控室に引き下がる。
すると、一足先に休みに入っていた人物が目に入った。
一足先に休憩を取っていたらしい彼女は、長机に頬杖をついて反対の手で本をめくっている。「お疲れ様です」と声をかけると、本に栞を挟み、俺へと視線を合わせた。
「ん? 夏目君も休憩かい?」
「ええ、本多先輩もですか?」
「まあ、そうだね。それと、僕の事は苗字じゃ無く、気軽に名前で、『
指を組んで首を傾げた。首程までの髪が揺れる。眼鏡ごしに細めた目で俺を舐めるように見た。
一つ上の先輩。黒縁の眼鏡にスレンダーな体系、その冷淡な見た目の印象とは裏腹に飄々とした言い回しが特徴のバイトで一番の麗人だ。
ついでに言うと俺はこの人が苦手だ。距離感が測れないというか、なんというか……そう、常に手玉に取られているような感じがする、とでも言えばいいのだろうか?
一言で言えばヘビとカエル並みに相性が悪い。
そんな事を考えていると彼女は「どうかしたのかい?」と俺に言葉を急かした。
「……詩央先輩」
「別に先輩って付けなくてもいい。僕と君の仲じゃないか」
「いや、ただの先輩後輩でしょう」
「釣れないね、君は。まあ
「じゃあ、失礼します」
そんな所に合格を出されても困るが、言われた通りに彼女の対面のパイプ椅子に腰を下ろした。それを見て彼女は組んでいた指を解いて、再び頬杖を付く。
「こうして君と話すのは久しいね。前に話したのは三月だったか。僕を避けていたのかい?」
「いえそんな事は。今年度に入ってから忙しくなるのは見えていたので、シフト減らしたんですよ」
「へぇ、そうか。ちょっと安心したよ」
「安心って、何にですか」
「まあ、いろいろとね。君はまだ知らなくていい事さ」
「そう言われると余計に気になります」
そう言うと、詩央先輩はわざとらしく『さて』と会話を区切った。
「そういえば夏目君、前に猫を拾ったと言っていたね。その後どうだい?」
「どうって……」
そう言われて俺は猫、もとい、今は家で留守番をしているであろうハイルを思い浮かべる。
彼女の事はまだ誰にも伝えていない。猫で魔女の女性と一緒に住んでいる、と言っても、とてもじゃないが信じて貰える気がしないからだ。
なので詩央先輩には適当な事を伝える事にした。
「まあ、普通でしたよ。ついこの間まで」
「ついこの間まで、ってまるで今はそうじゃないみたいな言い方だね。何かあったのかい?」
「まあ、そうですね」
何かがあり過ぎていっぱいいっぱいである。
「言いづらいが、亡くなったとかか?」
「いえ、そういう訳では無いんですよ」
「じゃあ、引き取り先が見つかって、もう家にはいないのか?」
そう言われて考える。猫は居なくなったわけでは無い。だが、その姿はもう立派な人型である。なのでその様な言い方が一番近い気がした。
なので先輩の言葉に相槌を打つ。
「そうか……。まあ、しっかりとした受け入れ先が見つかって良かったじゃないか」
「そうなんですけどね。どうも切り替えができなくて」
実際の所、急に女性と暮らしだしたので、そこら辺がかなり
彼女は日々、無防備にな姿で布団に入って来たり、風呂から出て来たり、着替えたりと、やりたい放題。性的な
発散しようにも彼女を同伴も無しに追い出すのはリスクが高すぎる。
俺がそんな事を考えている間に目の前の先輩は何やら考えをまとめていたようで、顎に指を添えていた。そしてブツブツと何か呟くと、何か思いついたようで『良し』と拳を握った。
「今日は君の家に遊びに行く」
「いや、そんな急に意気揚々と宣言してどうしたんですか」
「夏目君は猫がいなくなって寂しい。ならこの僕が気晴らしに遊びに行くと言ってるんだ」
「どうしてそうなったのか理解ができない……」
「まあ、気にするな。私と君の仲じゃないか」
「そんなに肩をバシバシ叩かれても、このバイトで知り合って、一年しか経っていないという事実は変わりませんから、止めて貰えますか」
俺の言葉を聞いて詩央先輩は手を止める。
真面目に痛かった。詩央先輩も意外と力が強い様だ。俺の周りの女性陣はどうしてこうもたくましいのだろうか。
そんな事を考えていると詩央先輩は再び口を動かし始めた。
「ともかく、だ。行くったら行く。異論は認めないからな」
「いや、そんな事言ったって――」
「おっと、休憩もここまでらしい。僕は先に出てるぞ夏目君」
「え? ちょっと詩央先輩! まだ話終わってないんですけど!」
▼ ▼ ▼
「よし、じゃあ行こうか」
夕方。バイトも終わり家へと脚を動かしていると、同じ時間で上がった詩央先輩はすぐさま声をかけてきた。両手を腰に当てて、何やら得意げな様子だ。
彼女の大人っぽいビジュアルと子供っぽい仕草のギャップに俺は思わず悶えたくなる。
だけれど、それはさて置き、困った事があった。
このままだとハイルとかち合わせてしまう可能性が高い、と言う事だ。
それの何がまずいのかと言えば、ハイルの存在が他者に知られてしまうという事である。それは避けなければならない。
何故なら彼女は人では無い。それ故に、噂が広まればどのような厄介事が俺や彼女に降り注ぐのか想像も付かない。
見世物にしたいと企む連中が出てくるかもしれないし、彼女を傷つけた何者かに居場所を知らせてしまうかもしれない。
人の口に戸は立てられないと言うし、知っている人は少ない方が良いのだ。
なので、なんとか詩央先輩を引き離すために言葉で揺さぶる事にした。
「本気で付いてくる気なんですね」
「何を言うのさ。僕はいつだって本気だよ」
「……俺の部屋汚いですよ」
「構わないよ。何だったら掃除を僕が手伝ってやらない事も無い」
汚部屋アピールは効果無しか。なら次だ。
「一人暮らしの男性の家に連れ込まれるって、どんな気分ですか?」
「ふむ、そうだな……。実は少し期待している」
「……何を?」
「ナニをって? それはだな――」
「いや、もういいです」
これも駄目か。女性の防衛意識に付け込む作戦だったが、詩央先輩にとって俺は襲い掛かる敵では無いらしい。せいぜい捕食対象。そういう認識の様だ。
さらに次。
「実は俺、詩央先輩の事苦手なんですよね」
「僕は好きだぞ。だから気にしないでいい」
「いや、少しは気にして貰えませんかね……」
唐突に苦手発言をする事でお茶を濁そうとしたのだが、またしても効果は無い。冗談と思っているようで高らかに笑い飛ばされた。
あと、背中をバシバシ叩くなって、痛いから。
そうこうしている間に俺が住んでいるアパートはもう目前へと迫っている。だがしかし、ハイルの存在を隠す術はまだ無い。
家に固定電話でもあれば、連絡して猫にでも姿を変えて貰ったのだが、生憎、俺はスマホしか持ち合わせておらず、その策は取れそうにない。
さて、どうするか。
「確か、あそこだったよな。夏目君の家は」
「ええ、三階の角部屋です」
指を刺す詩央先輩に頷きつつ答える。
マズイな本当に策が無い。万事休すか……。
いや、諦めるな。ここで諦めれば更なる困難に巻き込まれる可能性があるんだ。最後まで思考を続けろ!
敷地に足を踏み入れ、階段を上がりながら頭を回転させ続ける。そして、三階までたどり着いたとき、ギリギリのタイミングで自然な誤魔化し方を思いついた。
早速それを実行に移す。
「詩央先輩」
「何だい、夏目君」
「少し外で待ってて貰って良いですか? さっきも言った通り俺の部屋汚いんで、最低限掃除したいんですよ」
「別に気を使わなくてもいいのに」
「俺が気にするんです」
「まあ、君が気のすむようにしたらいいよ」
「そう言ってくれると助かります」
そう言って先輩を部屋の前に待たせることに成功した。心の中で万歳三唱である。
これは嘘だ。俺の部屋は最近ハイルが手の空いている時に掃除してくれているため言うほど汚い訳では無い。
だが、この得られた時間にハイルには事情を説明し、何かに
自分のひらめきが恐ろしくなる程の確信をもって、鍵を差し込み、開錠。ドアノブに手を置いた瞬間だった。予想外の出来事が起こった。
ドアノブが勝手に回り、扉が開かれたのだ。
そして彼女が姿を現す。
「おっかえりなさーい、ツカサ! 待ちくたびれましたよ~」
屈託のない笑顔での出迎え。頭上には隠すべき二つの異物。猫耳がぴくぴくと動いていた。
生憎と今の俺はこの間みたく、手元に帽子などは持ち合わせておらず、即座に隠せなかった。つまり後ろの詩央先輩にガッツリと見られてしまった事になる。
恐る恐る後ろを振り返る。油の刺さっていないブリキの様にカクカクとゆっくり。そこには眉をぴくぴくと動かして、腕を組んでいる詩央先輩がいた。目付きも心なしか鋭くなっている。
「おっと、お客さんですか? ツカサ」
「ああ。この人は――」
「本多、本多詩央だ。夏目君のバイトで良くしてもらっている」
俺の言葉を遮り詩央先輩はそう返す。そして間に入っていた俺を押しのけて、ハイルの正面に経った。
「君は?」
「ワタシはハイル。ハイル・ミーツ・アルハンゲル。ツカサの……えっと、何でしょう?」
そう目線で訴えられても困るぞハイル。と言うか、先輩はあの動く耳が見えないのか? 作り物じゃない事は一目で看破できるはずだが、眼中に無いみたいだ。
そんな疑問と格闘している俺を見てからハイルは言葉を続ける。
「まあ、『
「へぇ、こんな男子学生の所に居候とは珍しい」
「はい。自分でもそう思います」
無言で見つめ合う二人。ぶつかり合う視線は火花を散らしているんではないかと思うほどに力強い。そのプレッシャーからか、一秒が数倍に引き伸ばされているかのように感じた。
やがて二人とも視線を逸らし、振り返って俺を見る。
「ツカサ、話があります」
「夏目君、話がある」
二人の言葉が重なる。また睨み合う。止めて……板挟みされるこっちの身にもなって! 胃がキリキリと痛みだしちゃうから!
手を視線の間に入れて遮り、俺は仲裁する。
「取りあえず二人とも上がって、ここで話すのは近所迷惑になっちゃうから」
「……そうですね」
「……ああ、分かった」
そう言うと二人は無言で部屋へと歩を進め、俺はその後を追って玄関で靴を脱いだ。リビングまで大した距離も無いのに、その足取りはかつて無い程重く感じた。