あの女、ツカサからシオと呼ばれていた彼女が去り去った後。私達は入浴を済ませ、床に就いた。口を聞かずにいたワタシにツカサは『おやすみ』と言って電気を消す。
普段ならここからツカサが寝静まったのを見計らって布団に潜り込むのだが、今日はどうにも実行する気にはなれなかった。
何故なら、ワタシが口つぐんでいた原因。頭の中でぐるぐると回っていた問いがどうしても離れなかったからだ。
『何にワタシが負けたくないと思ったか』
ツカサの口から放たれたこの問い。あの時は言葉を濁したが、答えは分かり切っている。
では更に踏み込んで考える。
『何故、ワタシは負けたくないと思ったのか』
それは直感。ワタシはあの女からは嫌な予感がしたから……で、片付けてしまってはこのモヤモヤとした気持ちに区切りはつかないだろう。
もう少し具体的に、
それも時間をかけずに答えは出た。ワタシが負けたくないのは『ツカサとの仲を縮める事』だと断言できる。
ワタシも、あの女もツカサとは微妙な距離間だ。
ワタシは、知り合って二週間の居候と家主。
あの女は、一年前からバイト先の先輩後輩。
その距離間を何とかして縮めようとしているのはお互いの行動から分かる。ワタシは居候による共同生活。彼女は自宅まで料理を振る舞いに来ている。
効果に関してはさておき、競合する相手であることは揺るぎない事実。目的に至るまでの障害はなぎ倒さなければならない。その手段は惜しまないつもりだ。
だけれど――
『ワタシの目的とは何なのだろう?』
新たに出て来た疑問。それに対してワタシは先程の様にスムーズに答えを出すことができなかった。
頭に手を当て、耳を塞く。音が遠くなって集中しやすくなると思ったのだ。だがそれを十五分続けてもサッパリ、答えは出ない。
『ではワタシは目的も無くこんな事をしているのか?』
頭によぎった自分への問い。それを布団の中で首を振り否定した。そんな事はないはずだ。意識的でないにせよ自分は何かしら目的を持っている。でなければ怪我が治ったら即座にここから姿を消しているはずなのだ。
だからワタシは考えて考えて考えて……そしてようやく、仮の答えを出すことができた。
『恩返しするため』
そう、これに尽きる。
ワタシは彼に助けられた。この何が何だかよくわからないこの『セカイ』に放り出されたとき助けられた。
ワタシの世話を全くの善意でしてくれたのだ。
この借りは、返さなければならない。
この感謝は、全身全霊で示さなければならない。
だから彼との仲を縮め、より親密な関係になって、彼の満足の行くような事をしてあげたい。そう思うのだ。
何だかこの結論にはまだ詰める所があるように思えるけれど、これ以上は泥沼にはまりそうだった。だからこれで納得しておく事にしよう。現実で出せる答えなんて、数式の様に常に一定ではないのだから。
チラリと壁にかけてある時計を見た。時刻は三時ピッタリ。そろそろ寝なければ明日の行動に支障をきたしてしまう。
布団を顔に被って、目を閉じると意識はゆっくりと落ちて行った。
そうして迎えた朝。ワタシはゆっくりと体を起こしぼんやりとした視界が『セカイ』にピントを合わせるまで瞬きを繰り返す。
その後隣を見ると、既にツカサの布団は
いつも通り挨拶をしに行こう。挨拶は
彼に習って布団を畳み、脚をキッチンに向けて踏みだした。……がすぐに戻った。机の上で彼の『スマホ』と呼ばれている通信道具が音を立てて振動していたからだ。
ワタシはそれを手に取って、ツカサがしていた様に光っている面をなぞってから耳に当てた。
『やあ、夏目君。調子はどうだい?』
「いえ、違います。私はハイルです。数時間ぶりですね」
『……どうして君が彼の電話に出るんだ』
「今ツカサは少し席をはずしてまして。変わりましょうか?」
ワタシがそう言うと、少し間を空けてからシオさんは話し出す。
『何だか意外だ。てっきり僕は切られると思っていたよ』
「そんな事しませんよ。そんな事する理由はありませんから」
『あるだろう? 君と僕は恋敵なのだから』
恋、敵……? 彼女が発した言葉にワタシは考えてしまう。意味が分からない。恋敵とは、同じ人に恋をしていて、その競争相手。と言う意味であるはずだ。
ワタシはツカサに恋をしている訳では無い。だから、この言葉は相応しくないはずである。
そう結論付けて言葉を返す。
「違いますよ。ワタシはあくまで居候です」
『本人の前じゃなくてもそれを貫き通すか、釣れないね』
「魚じゃないですからね」
『そう言う意味じゃないんだけどさ』
まあいいよ。とシオさんは言葉を続ける。
『夏目君に変わってくれると助かるよ。少し話したい事があってね』
「話したい事は昨日のうちに終わったのではないのですか?」
『それはそれ。これはこれだよ。別のことを聞きたくてね』
「そうですか。じゃあ少し待っていて下さい」
耳からスマホを話してキッチンに向かって歩く。扉を開けると流し台にいたツカサは、音に気が付いて振り返る。トーストを口にくわえて、片手にマグカップを持っていたが、ワタシを見てそれらを皿や流し台の上に置いた。
ワタシは予定通り挨拶をする。
「おはようツカサ」
「おはようハイル。どうした? スマホなんか持って来て」
「電話です。ツカサを大好きなシオさんから」
「俺を大好きなって、んな事あるかよ……。まあ、持って来てくれてありがとう」
もう少し戸惑うと思っていたのだけれど、ツカサは意外とあっさり手を差し出した。光ったままのスマホを引き渡す。
そのままツカサは耳にスマホを当てると、『お電話変わりました。貴方が大好きな
☆ ☆ ☆
『な、ななにゃ、何を――キャッ』
電話に出ると詩央先輩はかつてない程に取り乱していた。「ガンッ」という音と先輩の悲鳴から、スマホを落とした事を察する。
足音がして再び先輩の声が聞こえ出す。
『すまない。取り乱した。いきなり何を言い出すんだ君は、からかうのはよしてくれ』
「普段は詩央先輩に手玉に取られっぱなしですからね。たまには仕返しをしたいと思ったんですよいかがでしたか?」
『正直な所狐につままれたような気分だよ。君にこういう茶目っ気があるとは思わなかった』
それはさて置きと言葉を置いて先輩は話題を切り換えた。
『君に頼みたい事があってね』
「俺にですか? 詩央先輩みたいな人が珍しい。詩央先輩からしたら俺の助けなんて、猫の手以下でしょうに」
思った通りに言葉を返す。詩央先輩は優秀だ。バイト先の同期に彼女と同じ高校の奴がいるのだが、聞けば、成績優秀、スポーツ万能の生徒会長で校内で知らない人はいなかったとか。
そんな彼女に俺の助けがいるとは思えなかったのだ。
『そんな事無い。むしろ君じゃないとこんな事、頼めない。頼みたくないんだ』
念を押す様に詩央先輩はそう言った。そこまで言われて悪い気はしない。年上の美人に頼られるってのは男としては嬉しい限りだ。
それに、困っている人を放って置くのは性分ではない。
そんな義務感を感じつつ、俺は彼女の頼みを聞くことにした。
「そこまで言うのでしたら俺は別にいいですけど」
『本当かい? 君がそう言ってくれて僕は嬉しいよ』
俺の了承を受けて発した先輩の言葉は静かだったが、心なしか弾むようであった。
そのトーンのまま先輩は言葉を続ける。
『では、急で申し訳ないけれど今日の予定は空いてるかな?』
「ええ、まあ。せいぜい本を読むぐらいだったので」
『そうか、なら大丈夫だね。良かった……本当は昨日の内に言うつもりだったんだけれど、いろいろあって言えなかったからね』
確かに昨日はいろいろあったなぁ。ハイルが見つかるわ。そのまま先輩といがみ合うわで、てんやわんやだった。あの状況で何かを頼むとなると、ハイルが何かしてくるのは確実。そう思って先輩は今日に仕切り直したのだろう。
そんな事を考えつつ先輩の言葉を続きを待った。
『実は先日、お客さんの一人に、その……交際を申し込まれてね。断ったんだ』
「はぁ、成程。で、理由が『既に恋人がいるから』ですか?」
『いや、察しが良すぎないか君!? 僕の頭を覗き見しているんじゃないかって思うよ!?』
「俺はその仮の彼氏役をして、その諦めきれていない男を納得させればいいんですね?」
『待って、ちょっと待ってくれ夏目君。話が進むのが早すぎるから。僕に落ち着く時間をくれ』
先輩はそう言って間を空けた。スピーカー越しに深呼吸する音が聞こえた。何だかこう……あれだな。添い寝ボイスを聞いているような気分だった。
……考えていることが最低だな。先輩は真剣に話をしているのだから気持ちを切り替え無くては。
『そうだ。そう言う事なんだけれど、場所は駅前のショッピングモールでお願いしたいんだ。あそこは映画館もあって、いかにもって感じのデートスポットと言えるだろう?』
「まあ、演じるのであれば最適な場所ですね」
『時間は十二時。駅前のベンチで待ち合わせで頼めるかな?』
「ええ、分かりました。では、また」
『ああ、また』
耳からスマホを離して電話を切った。スマホをポケットに入れて流しに置いていたコーヒーを飲む。すっかりと冷めてしまった為か酸味が際立っていた。
それを見て横に立っていたハイルが話しかけてくる。
「それで、ツカサ。彼女は何の用事だったんですか?」
「ん? ああ、実は――」
俺は詩央先輩に助けを求められて映画を見に行くことを簡潔に伝えた。するとハイルは納得のいかない様子で、眉をピクリと動かす。
「どうかしたか?」
「いえ。話は理解できました。でも本当に行くのですか?」
「ああ。だって断る理由がない。先輩が困っているのなら、力になってあげたいって思うのは当たり前だろ?」
「そう、ですよね……」
ハイルはそう言って顔を逸らした。普段はなだらかに揺れている尻尾がだらりと下に垂れ下がっているのが見える。何か言いたい事を飲み込んでいるのだろうか。
何だかモヤモヤする。思い切って聞いてしまった方がスッキリするのだろう。だが、彼女が言うべきでないと判断したのなら、それは掘り返すべきでは無い。俺はそう判断した。
スマホを取り出して時計を見る。時刻は十時。待ち合わせの場所への移動時間も考慮して一時間後には出なくてはならない。俺は食べかけだったトーストを口に突っ込むと、身支度をするためにキッチンを出た。
その後をハイルは追ってこなかった。
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適当な服に着替えを終え、玄関にてスニーカーのひもを結び直す。
先日ハイルがある程度調理することができる事が判明したので、冷蔵庫の食材を自由に使って良いと許可を出した。これでハイルのご飯の心配をする事無く、先輩の手助けができる。
立ち上がってドアノブに手をかけた。
「ちょっと、待って下さいツカサ!」
足を止めて振り返るとハイルがリビングのドアを開けて飛び出して来た。忘れ物でもしたか……。何て考えつつ彼女の言葉を待つ。
「ワタシも、やっぱり私もついて行きます」
「えっと……どうして?」
「それは、良く分かりませんがあの女は信用できません。ツカサに何かあったら大変です」
「いや、それは無いだろう」
「ツカサに何かあってからでは遅いのです。ワタシにボディーガードをやらせて下さい!」
「そんなこと言ったってなぁ……」
頬を爪でひっかきながら間を空けた。
そしてハイルに言われた事を考える。まず先輩にそんな危険性があるとは思えない。一年近くバイトで一緒であり、これまでそんなに危ない雰囲気を出したことは無かった。せいぜいからかわれるぐらいでハイルの心配は全くの杞憂だと言ってもいい。
しかしながらハイルをここまで言ったのにも係らず、このまま『大丈夫だから』と、この家に置いて行った場合、禍根を残す事になるのは確実だろう。いつまでかは分からないが、この生活を続けるうえで彼女との関係は良好な物を保って行きたい。
何故なら魔女である彼女にはもっと俺を不思議な目に会わせて貰わなければならないからだ。
そんな打算もあって俺は彼女の提案を呑む事にした。
「分かった。お前がそこまで言うのなら、詩央先輩には何かあるのかもしれないからな」
「ツカサ……ありがとうございます」
「ただし、条件がある。まず――」
こうして開幕する詩央先輩との偽造デート。美人な先輩。ネコミミマジョ。そして俺によるこのイベントは予想以上にややこしい事になるのだが、この時の俺に知る術はまだ無かった。