2018/05/24 正式に日記世界共通設定にしました。山風の日記もこの世界観に沿って進めていきます。
読まなくても問題ない筈の設定集です。読まれる方も、こんなものかという軽いお気持ちで読み流してください。文章量が多いですが。
世界観についてですが、歴史や経済状況など、
本編第1話(12月1日から15日)前書きにおいてありましたが、前書きにあると読み難いらしいので2018/01/02に別話として移動しました。ついでに鎮守府や艦娘について各話後書きに記述していたものをここに纏めました。
2018/02/24 初めてメッセージ頂いてドーム何個分の面積を追記。卵やコメの物価について返信(文章に纏められなかったので後書きに内容を追記)
2018/03/02 村雨の鎮守府の間取り等を追記。
2018/05/18 歴史や都市計画や経済関係を大幅追記。
2018/05/24 更に電力事情や交通関係を追記。
2018/07/05 指摘を受けて村雨の鎮守府該当部分と世界の説明を分割しました
2020/02/02 3万文字を超える世界観は長かったので艦娘と鎮守府の項目を分割しました(山風の日記を再開し始めましたが、自分で世界観読むの疲れたので)
世界観について
1.終戦前後の日本情勢
連合国との和平交渉の術を探っていた小野寺信を長とする日本の諜報組織『東』部門やシェレンベルクを長とするドイツ国家保安本部第VI局の活躍とポーランド亡命政府やフィンランド政府等の支援により2月8日から始まったヤルタ会談の内容が2月25日に暗号の解読により発覚。日独政府が中立国を通じポーランド問題やドイツ問題、外モンゴルや極東の日本領の扱い、ドイツ降伏後2~3ヶ月以内のソビエト連邦の参戦といった会談の内容を全世界に暴露した。この暴露直後ルーズベルト大統領が急死。急遽昇格したトルーマン大統領がこの事件を契機に国内の防諜体制の見直しと間諜の再捜査を行った結果、南京虐殺を報道したアグネス・スメドレーがコミンテルンの工作員であった事、ローゼンバーグ夫妻、トーマス・アーサー・ビッソン、クラウス・フックス等のスパイ行為やケンブリッジ5人組の存在が早期に発覚。中でもハリー・ホプキンス前大統領顧問のスパイ行為が発覚したことでソビエト連邦に対し不信感を抱いた米英とソビエト連邦の対立が早まった為、ヤルタ会談の協定は白紙に戻された。
新たな協定の必要に駆られた連合国が調整を行う最中にスウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスと日独の和平工作の折衝が成功している。
英独間で水面下の和平工作折衝が行われた事で西部戦線が一時的に停戦状態となり、この間にドイツは西部戦線から東部戦線への戦力の移動と集中を行い包囲されていたケーニヒスベルクを開放。再度戦線を構築し直しソビエト連邦が行ったヴィスワ・オーデル攻勢を大幅に遅滞させ5月の英仏米連合軍との休戦協定調印(*1)とその後のベルリン進駐(*2)に繋げた。
日本でもバチカンのバニョッツィ司教と米国戦略情報局を通じ和平交渉の折衝が行われた。米国戦略情報局ドノバン長官とアレン・ダレスを中心とした本格的な交渉は6月上旬からスイスで進められた。国体護持の確認、朝鮮・台湾や南洋諸島・南樺太の扱い等について、また自衛戦闘を除く停戦から休戦協定文書調印までの日程を交渉し、交渉が進展し始めた6月下旬以降は夜間空襲の回数が急激に減少した。日本軍も勅命により南方戦線から徐々に撤兵を開始した。撤退した部隊は順次、対中国の前線や満州・朝鮮や樺太・千島の国境部隊として再編成・配属されている。
米英からの援助打ち切りや対独講和に至る経緯、南樺太の返還は有るものの千島の領有は認められず日本への無条件降伏勧告も方針転換された事等に不満を表明したソビエト連邦は、戦争の早期終結を目的としたルーズベルト前大統領の対日戦参戦要求を利用し、参戦を9月以降に遅らせることを表明し英米へ圧力をかけようとしたが、7月下旬に交渉の進捗状況を掴み急遽参戦準備を早め8月中旬に対日宣戦布告を行った。
ヤルタ会談の内容暴露事件後、危機感を抱きソビエト連邦の9月以降の参戦表明後も速やかに引き揚げ準備を行っていた満州や朝鮮半島にいた民間人や開拓団は関東軍の増員もあり大多数は無事に引揚を終えているが、ソビエト連邦の参戦は表明通り9月と考え撤退準備を行っていた開拓団や民間人は8月中旬の対日宣戦布告により撤退が間に合わず葛根廟事件などに代表される悲惨な事件が生じている。
南樺太においても樺太庁が9月以降の参戦を見越して撤退計画を立てていたが、撤退準備中の8月中旬にソビエト連邦軍が宣戦布告。布告の10分後には侵攻が開始された為、国境付近の民間人に犠牲者が出ている。ソビエト連邦侵攻の連絡を受け、偶々千島に向けて宗谷海峡を航行中だった第五十三駆逐隊が樺太に向かい、ソビエト連邦海軍との海戦を行い一定の打撃を与え侵攻を遅らせるとともに、陸上では転用直前で待機命令を受けて樺太に留まっていた第77師団と第88師団が奮戦し、両師団壊滅と引き換えに大多数の民間人は大泊港に停泊していた小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸や能登呂丸、東春丸等に分乗し北海道への撤退に成功している。その際大泊からの船団が国籍不明の潜水艦から雷撃を受けたが護衛していた柳、橘のうち橘が船団と潜水艦の間に割り込み被雷し大破するも柳が爆雷により潜水艦を撃沈している。
8月下旬に千島列島の占守島に侵攻したソビエト連邦上陸部隊は、ソビエト連邦の参戦が遅れてた為アリューシャン列島から千島列島に侵攻していた米英軍を視界3m未満の濃霧で日本の守備隊と誤認し武力衝突を起こした。米英軍と判明した後も停戦命令がない事を理由に米英軍主力を避ける形で占守島以南の千島各島で侵攻を続行し占守島の他、占守郡に属している各島と新知郡に属している雷公計島を占領している。占領していた占守島から自軍が退去させられた事でソビエト連邦の目的が講和締結前に千島列島を実効支配し自国領への組込にある事を察した米英はソビエト連邦に抗議するもソビエト連邦軍が停戦に応じない為に止むを得ず、降伏して武装解除中であった第一飛行師団を極秘に米英軍指揮下で再武装させ応戦させた。その結果ソビエト連邦上陸部隊は上陸用舟艇を悉く失い松輪島以南の占領を行うことなく退却に追い込まれている。
8月31日正午に玉音放送により、大陸戦線・北方戦線を含めた全戦線で連合軍との休戦協定締結を発表。放送から翌々日の9月2日には東京湾で調印が行われた。玉音放送は協定締結の発表であったこともあり、日本でも世界でも、第二次大戦の終結は9月2日と認識されている。
調印式から2日後には朝鮮半島全土に米英軍が展開し日本の降伏後に独立を叫び暴動を起こしていた暴徒を鎮圧。現地の混乱は最小限に収まった。
1950年(昭和25年)9月2日に締結されたサンフランシスコ条約を持って正式に南洋諸島・南樺太は日本領ではなくなった。
サンフランシスコ条約の主な項目は次の通り。
①日本と連合国との戦争状態の終了
②朝鮮の独立を承認し、半島と日本の合邦を如何なる形でも永久に行わない。済洲島・巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄。なおすべての条約承認国は1905年に編入した竹島が日本の施政権が及ぶ地であることを承認する。
③澎湖諸島・南樺太・南洋諸島・スプラトリー諸島・パラセル諸島・南極(大和雪原など)の権利、権原及び請求権の放棄
④戦前の国際協定に基づく権利等の放棄
⑤連合国は全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉とする。
⑥日本国が個別的自衛権または集団的自衛権を有し、集団的安全保障取り決めを自発的に締結できることの承認
⑦休戦協定後に締結されている国際協定の受諾
2.日本領
カイロ宣言後に日本陸軍が大陸打通作戦を成功させ、また1945年6月以降大損害を被りながらも四川作戦の一部成功や延安を陥落寸前にさせるなど一時期は重慶政権が危うくなる事態も生じた為中華民国は連合国としての影響力を極端に低下させた。その為にヤルタ会談破局後に改めて調整を行なった第二次マルタ会談で、カイロ会談の合意事項を改め、日露戦争前の国土に戻る事を基本条件としてポーツマス条約以前に国境が確定された領土は基本的に日本領とする事が決定された。
カイロ会談合意事項と緩和後の違いは次の通りである。
①【日本は暴力と貪欲で奪取した全ての領土から排除され、朝鮮は適当な時に自由と独立を得る】とされた合意事項は、【嘗て独立国であったが国乱内変に因て大日本帝国と合邦し大日本帝国の一邦を形成する朝鮮は、全ての連合国の名の下に適当な時に再び自由と独立を得る事を認める。大日本帝国が朝鮮に保有する全ての国有資産はこれを朝鮮に譲渡しこれを以て総ての清算とし、以後官民を問わず如何なる責も負わない】とされた。また「韓国併合ニ関スル条約」の有効性についても検討されたが、【締結当時の国際法に従えば合法であった】と連合国最高司令部が連合国の総意として発表している。
②【日本が中国人から盗んだ、満州、台湾、澎湖を含む全ての領土は中華民国に返還される】とされた合意事項は【台湾・澎湖については日本が清との戦争で得た結果であり、その根拠となった馬関条約は英米露の調停下で締結された条約である】とされ、英米両国のみならずソビエト連邦も【台湾・澎湖については一方的に日本が中国人から盗んだとは認められない】と表明した。
なお【日本は1914年の第一次世界大戦開戦以来太平洋で奪取、占領した全ての島嶼を没収される】とされていた合意事項はそのまま承認されている。その結果南洋諸島は国際連合の太平洋諸島信託統治領とされた。
3.明治以降の海外領土・保護国について
3.1 樺太・千島
南樺太は第二次マルタ会談の取り決め通りソビエト連邦に邦人資産も含め引渡された。千島列島の扱いはソビエト連邦が最後までヤルタ協定での履行を求めていたが完全な占領を行えなかった事もあり千島樺太交換条約の有効性を渋々ながら承認し千島列島は日本領と認めた。占領下にあった占守島以下占守郡に属する島と新知郡に属する雷公計島の扱いについてはサンフランシスコ条約締結後に日本が買収する事で決着した。
3.2 台湾・澎湖
カイロ会談合意事項は中華民国が影響力を極端に落とした事で大幅に変更された。
この事項の発端となった馬関条約は英米露が調停に携わった日清戦争の講和条約であった事から英米とロシア帝国の継承国家であるソビエト連邦により条約の効力を再度検討するとされ、その結果講和条約としての有効性と継続を認められ、台湾は日本領となっている。
日本が馬関条約で獲得した領土のうち澎湖諸島は日本の大陸打通作戦成功で影響力を落とした中華民国が戦勝国としての面子を保つ為、米英に対ソビエト連邦・中国共産党封込の拠点として海南島を引き渡す事と交換に澎湖諸島の返還を求めた秘密交渉を経た結果、対日戦時賠償の全面放棄と引き換えに中華民国に引渡された。
なお日本の大陸打通作戦により既に戦力の大半を失っていた国民党政権が終戦直後に再発した国共内戦で崩壊し米英の本格的な駐留前の1946年8月に大陸本土から海南島と澎湖諸島近辺に撤退した結果、海南島引渡の協定は反故にされ、米英の反発を招き新たな砦として日本の再建が急がれ日本に対し大規模な援助が行われた。1946年12月に台南州沿岸に連合軍駐屯地が中華民国との不要な軋轢を避ける為に中華民国澎湖島駐留艦隊と台南州内陸部を遮る形で設置され、サンフランシスコ条約と同時に締結された日米英相互防衛協定を経て1988年に澎湖諸島が日米華協定で日本の官民企業連合に払い下げられるまで米英台南基地として続いた。日米華協定締結により、米英台南基地は役割を終えたとされ、日本軍に引き渡されているが、引き続き日米英相互防衛協定により米英軍が規模を縮小しながら1998年まで駐留していた。澎湖諸島買収により台湾において五州三庁が復活したが、1995年に廃庁置州により台東庁・花蓮港庁・澎湖庁が庁から州になり八州に改編されている。
3.3 朝鮮半島
日本と連合国の講和条約締結後、朝鮮では英米軍が全土に展開したが暴動が相次ぎ無政府状態であった為1945年12月に一旦国際連合の信託統治に置かれた。その後国連監視下で時期を見て朝鮮全土を対象とする総選挙を実施する事となり、1949年10月に総選挙を実施し1949年12月に独立政府が樹立した。
3.4 南洋諸島
日本の委任統治領であった旧委任統治領・南洋諸島は国際連合によりアメリカ合衆国を施政権者とする信託統治に付される事になった。当初は太平洋諸島信託統治領全域をひとつの連邦国家として独立させる計画であった。だが米国がビキニ環礁においてマンハッタン計画で製造された原爆を用いた史上初の投下実験を行い、その後、初めての水素爆弾実験場にも選ばれるなど、ビキニ周辺は幾度となく核兵器の実験場となった。実験に際して多くの住民がほかの島々へ強制移住させられ、元からいた住民と新たに移住させられて来た住民の軋轢も増えた。自分達の島を実験場にする住民の間に米国に対する不満も高まっていたが、被害を受けていない地域と被害を受けた地域の地域間対立も見え始めた為一つの連邦国家としての独立は難しいものとされた。1970年代後半より紆余曲折を経ながらも一つの連邦国家としての独立に向けた準備が進められていたが、1993年の深海棲艦出現により太平洋諸島信託統治領全域は深海棲艦の勢力下におかれ独立の目途は立っていない。
3.5 満州
参戦時期の読み違いにより日本から領土をほとんど得られなかったソビエト連邦は、中華民国の戦争貢献の少なさを理由として占領した満州についての返還を拒否し、抗議した中華民国に当てつけるように崩壊した満州国の存在をさかのぼって正式に承認し、満州国の占領は国土を失わない為に満州国皇帝溥儀の依頼で保障占領しているだけであると表明した。
この直前にソビエト連邦は溥儀の身柄を確保しハバロフスクに連行している。中華民国はこれに抗議し英米に提訴したが当時ソビエト連邦との関係が開戦直前まで悪化していた米英が関係の改善を模索していた為、ソビエト連邦が馬関条約の有効性を承認する事と引き換えにソビエト連邦の保障占領を追認し旧満州国はソビエト連邦の保障占領下にあるとされた。後に満州国は1951年に満州族主体の満州共和国として再独立し、直後にソビエト連邦に加盟している。
4.周辺諸国(極東)について
4.1 中華民国
国共内戦に敗れた中華民国は海南島への南遷を契機に海軍を再編し西沙諸島、東沙諸島、太平島、澎湖諸島、馬祖列島、金門群島を勢力圏にしたが、東沙諸島と並ぶ海軍の軍事拠点であった澎湖諸島は1988年に日米華間の協議で12桁後半から13桁前半の間の金額(円)で日本の官民企業連合に、日本への帰化を望まない現地の住民と資産・設備を海南島に移動させた上で正式に全島売却し、日本政府が翌年に官民企業連合から買取時の価格で買い取り国有地として日本領に編入した。同時に1979年の米中国交樹立による砲撃停止以来、停戦はしているものの砲撃が再開されると自力での守備が困難になった馬祖列島と金門群島を米国に企業進出拠点として全島貸与し、中華人民共和国も媽祖・金門に軍事拠点を設けない、軍艦を寄港させない、島外から生活物資を購入する際は中華人民共和国から優先的に購入する等条件付きながらこれを認めた。
澎湖諸島の売却で日本から得た資金をもとに中華民国は軍備増強と産業投資を行い深海棲艦出現後の混乱期には湛江市(旧広州湾租借地)まで勢力を拡大している。
深海棲艦の侵攻により太平島を失陥し、米国が租借地であった馬祖列島や金門群島を放棄しているが、2005年頃には海南島を拠点とし右江から鬱江を経て西江、珠江に至る河川南岸、西沙諸島、東沙諸島を勢力圏にしている。
中華民国の立法上の首都は未だ南京であるが、暫定首都が瓊海市に置かれていた。雷州半島と旧広西省、広東省の大部分を勢力下に収めたことで暫定首都を湛江市に移す計画が上がっている。
4.2 中華人民共和国
内蒙古は中華民国の影響力が極めて衰えていた為、満州国崩壊時にモンゴル人民共和国とソビエト連邦が侵攻し占領した際に汎モンゴル主義もありそのまま併合された。統一後はモンゴル人優先政策により内蒙古に居住していた漢族の多くが内蒙古より退去し、周辺の省で難民化している。中華民国時代に比べ領土が減少した為、中ソのイデオロギーを始め満州国・東トルキスタン共和国の扱いや技術無断模倣等に依る相互非難(*3)・一部地域での武力衝突が生じた。また毛沢東の権威を高める為の文化大革命が発生し長期化した為、宗教的な施設・文化財が数多く破壊されたり郭沫若・周光召・華羅庚・彭桓武・趙九章・老舎・呉晗を始めとする知識人階級、彭徳懐・華国鋒・賀竜・劉少奇・姚依林・鄧小平・胡耀邦・趙紫陽・習仲勲・李鵬と言った党重鎮や次世代の党幹部と目された若手が次々と『病死』するなど人的な被害も大きくなり国内の大混乱と経済の深刻な停滞が齎された。
また、海南島に親米の国民党政権が存在する為、海南島を後方兵站拠点とした米国とホーチミン政権との間でベトナム戦争が長期化し、最終的には米国が撤退したものの中華人民共和国の北ベトナムへの援助負担が大きかった為、文化大革命の影響もあり経済への影響は深刻な物があった。その後の中越戦争や中越国境紛争において中華人民共和国側が大敗を喫し国威発揚に失敗する一方、ベトナムでは厭戦機運が醸成されたものの対中強硬姿勢は変わらず、1990年代も中越国境は緊張状態が続いている。
清代より北の首都を意味する北京と名づけられていた都市は、南京を首都と定めた中華民国政府により北平とされたが、中華人民共和国成立により新中国の首都とされ再び北京と改称された。中ソが対立した為、ソビエト連邦による首都占領を恐れた当時の政権が1965年に首都を国境から遠い開封に移転し、この都市は政治の中心地から外れることになった。この都市が再び脚光を浴びたのは1989年6月4日に故宮天安門前に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し多数の死傷者を出した弾圧事件である。
なお、深海棲艦出現後は開封から許昌への再遷都が計画されている。中華民国には艦娘が顕現しているが、中華人民共和国には顕現していない。
4.3 チベット
チベットには1947年1月1日に「チベットの平和的な解放」を名目に人民解放軍が侵攻を開始したがチベットの中央政府であるガンデンポタンの要請を受けた国際連合が国連軍を組織し介入した為、7月にはカムのダルツェドからも撤退することになり、戦線は中華民国時代の西康省から青海省と四川省から甘粛省の境付近で膠着状態となった。
1951年5月23日にチベット・国連軍と中華人民共和国の間で十七か条に渡る協定が締結され、チベットは独立国家(*4)として国際連合に加盟している。
4.4 朝鮮
朝鮮の初代大統領は当初、呂運亨が就任する予定であったが就任式前夜に急死した為、次点の李承晩が繰り上げ就任した。李承晩政権は国号を朝鮮共和国と定めると共に政権発足直後に竹島を賠償として不法占拠し、周辺国との間の水域区分と資源と主権の保護のための海洋境界線(通称:李承晩ライン)を一方的に設定した。李承晩は1957年に革命により殺害され、革命を主導した金日成による体制が成立した。金日成体制下の朝鮮共和国は国号を朝鮮民主主義人民共和国と改め、各国と国交樹立交渉を行ったが西側諸国とは最短で国交を樹立した国であっても1985年まで国交断絶状態にあった。日本とは1989年に日朝国交正常化交渉を開始し、【日本国と朝鮮民主主義人民共和国との間の基本関係に関する条約】が1993年に締結寸前になったが深海棲艦の出現等で締結には至らなかった。
朝鮮民主主義人民共和国では戦前からある大日本帝国の遺産を使い、深海棲艦が出現するまでは鉱工業の北部と農業の南部とそれなりに発展を遂げていた。1988年の五輪招致を目指していたが社会的基盤の不足により実現していない。
なお、朝鮮半島に艦娘は顕現しない。これは第二次大戦後に日本から独立している為である。
4.5 東トルキスタンと満州
中華民国新疆省と満州国は中華人民共和国に引き渡されずソビエト連邦を構成する共和国(*5)として存在している。
ソビエト連邦が満州国承認とその保障占領を行った後、中華民国との間に満州国の保障占領とモンゴルの独立を認める代わりにソ連は物資を国民党のみに援助する事と新疆省の分離運動や中国共産党を積極的には支持しないとした協定が締結された。但し後の国共内戦時に国民投票による独立運動までは抑圧できないとして1946年1月に生じた新疆での投票運動を黙認し、投票の結果独立賛成派が多数となると民意が明らかになったとして1946年2月、新疆省の中華民国からの独立と東トルキスタン共和国成立を承認。同年5月の東トルキスタン共和国のソビエト連邦加入も中華民国・中華人民共和国の侵攻を回避する為として承認している。
4.6 台湾近辺と大陸租借地
馬祖列島と金門群島は1988年以降多くの米国籍企業による中国進出の拠点となった。その為、深海棲艦が出現し航路が遮断され始めた1994年1月には中華人民共和国承認の下で米国太平洋艦隊が分派され駐留している。しかし1995年から始まった深海棲艦の大攻勢により1998年に全島放棄が決定され、進出していた企業や駐留艦隊は日米安保条約に基づき日本の護衛で設備資産ごと千島・アリューシャン・アラスカ経由で帰国している。
広州湾租借地は中華民国が連合国としての影響力を極端に落とした為、国共内戦を経ても長らく返還されなかった。香港や澳門も同様であったが、1990年の中英連合声明により1999年の香港返還が発表された為、時を同じくしてフランスとポルトガルによる広州湾租借地と澳門行政権の1999年返還が公表された。
1993年の深海棲艦出現により治安の悪化と本国との連絡が取り難くなったことで1994年2月に早期返還交渉が行われたが、返還は大量の貴金属と引換であった為中華人民共和国との交渉が難航し、1995年から始まった深海棲艦による大攻勢の混乱期にフランス・英国・ポルトガルが1995年12月に広州湾租借地・香港・澳門の放棄を決定し住民保護の為に三国の依頼を受けた日本が一時的に占領した。この時中華人民共和国が強い非難を行ったが住民と資産の保護、設備を確保した後に速やかに日本は撤退し、保護された住民で帰国を希望する者は資産(*6)と共にロシア経由で本国に帰還した。その後香港・澳門・広州湾は中華人民共和国に併合され、広州湾租借地は湛江市と改名された。湛江市は中華民国が大陸本土に侵攻した際に占領し勢力下においている。馬祖列島と金門群島も中華人民共和国が占領したが、程なく深海棲艦の襲撃により撤退に追い込まれ現在は無人となっている。
4.7 ソビエト社会主義共和国連邦
1991年12月26日にソビエト連邦が崩壊し独立国家共同体(CIS)が成立したが、1993年から深海棲艦や艦娘の顕現などで社会的に大きな変動が生じた結果、紆余曲折を経て1998年に共産党が政権を獲得しソビエト連邦が再設立されている。
5.政治
休戦協定締結後、連合国との講和条約を締結するにあたり南樺太・船山群島・澎湖諸島・新南群島・西沙群島・南洋諸島・朝鮮半島の放棄、軍の解体と再軍備の恒久的禁止、指導的財閥の解体、大日本帝国憲法と関係諸法の改定の必要が生じた。
憲法改定に当たり、当初は天皇の地位を神聖なものから至尊なものにする等大日本帝国憲法の軽微な修正で良いと考えられていたが、各国との調整で大幅な改定を行う必要があり、もはや改定とは言えず、新たな憲法を制定すると考えた方が良いことが判明した。実質的に新憲法を制定するに当たり、当初は援助と引き換えに進駐を認めた連合国軍総司令部参謀第2部が草案骨子の作成を行い、それを基に日本政府が憲法を作成する予定であったが、大規模な人事異動や外国人犯罪に対応するため、民政局共々余裕がなく、半年以内に限り、国体を外見的立憲君主制から議会制立憲君主制に改める事と政治的主権が国民にある事、戦争の恒久的放棄を明記する事を条件に憲法草案の作成を日本人の自主性に委ね、不十分な草案の場合は改めて参謀第2部の指導下で作成するという事となった。
政府は、憲法を新たに制定するに当たり、範とするべき国家を選択する必要があった。赤色革命を招くような人民政府の形成や個人主義が強すぎる民主主義を押さえると同時に、その制定直後から既に「無為徒食の輩」との批判があった華族制度を倫理の師表としての華族制度へ転換し、明治維新の際、勅令により還俗した奈良華族のうち爵位を有していた20家と神職・僧職から華族に奉じられ爵位を有していた19家、地下官人之棟梁と称された押小路家・壬生家の堂上格と堂上家に華族を限定する方針や戦中に銃後を支えた女性への配慮もあり、諸外国、取分け停戦に際し恩恵を受けた北欧諸国や敵対したとはいえ元は同盟国であり現在も帝国、王国である英国やオランダにその範を求めた。
また、かつて大日本帝国憲法を巡り、民間から発表されていた憲法草案にも再び脚光が当てられ、新たな憲法の条文に反映されたものもあった。
天皇のすべての国務上の行為は全て大臣が責任を負うとされ、権限も限定的なものとなった。
皇位は皇室典範の定めに従って、皇統の男系の男性子孫が継承することとなった。また、天皇を含む皇族の結婚相手は、同族又は勅旨により特に認許された華族に限ると条文も加筆され、男女同権の条項と矛盾するのではという意見があり皇配の地位など国会で激しい議論が生じた為、英国など王室を戴く国家に意見を求めた。各国から皇配の権限などについての回答と同時に女系継承は王朝の交代を意味する事を承知かと問い合わせもあり、その結果、満場一致で皇統に属する男系の子孫がこれを継承すると明記することが決定された。
また、皇族の結婚についても同族又は勅旨により特に認許された華族に限るのは法の前の平等に反するのではないかという意見が一部に生じたが、皇族、華族以外が入内し、様々な伝統や格式のなかで、祭祀や国事行為にすべて対応できるのかという議論と皇室の伝統と格式の維持の為にはやむを得ないとされた。
日本国憲法は昭和22年の5月3日に施行された。
5.2 政治
国政選挙への参政権は一定の年齢に達した日本国民にあること並びに地方選挙への参政権は日本国籍を有する当該地域の住民にある事がそれぞれ明記された。
投票には義務投票制を採用しており罰則適用は厳格であるが秘密投票制の為、世情によっては主として白票による無効票もかなり存在する。無効投票率による選挙無効の規定が選挙各法で規定されている為、国政選挙においても複数の選挙区で度々複数回やり直し選挙が行われた。
大日本帝国憲法の改定により貴族院は参議院に名称が変更された。参議院議員の被選挙権は制限があるが、選挙権は参政権を有する国民にもある。投票は参議院が制限連記投票、衆議院が優先順位付連記投票で行われている。
喫煙や飲酒については従来あった未成年者喫煙禁止法と未成年者飲酒禁止法が二十歳未満ノ者ノ喫煙並ビニ飲酒ノ禁止ニ関スル法律に改定され従来通り20歳未満は禁止されている。
5.3 教育
教育制度も改められたが戦前からの師範学校や各種学校等の分岐型学校体系や初等教育六年・中等教育五年の教育期間は変更されていない。
小野寺大佐を長とする『東』部門やドイツ国家保安本部第VI局の活躍とポーランド亡命政府やフィンランド政府から齎された情報が講和の足掛かりとなった事で改めて情報の大切さに気付いた政府により、中野学校・特高警察出身者の一部を講師として各地で情報戦への教育(*7)の実施、外国人による土地取得制限や政府が指定する企業の株取得制限を定めた法令の制定、機密保持法の制定等が昭和20年代後半には行われている。
5.4 農地改革
農地改革もGHQの支持の下、農林官僚が主体となり実施された。
農業構造の民主化を図り農業生産力の増大と並んで農業の経済力拡大、資本蓄積によって海外市場を失った工業に対する国内市場の拡大、経済の再建を目標とし、水田・畑作地・林野を含めた不在地主の全小作地・賃地の他、在村地主であっても北海道では5町歩・都府県では1町歩を超える全小作地、また小作地以外に所有する土地の合計が北海道で30町歩(所有地に林野を含む場合は林野1000町分は含まれない)・都府県で20町歩(所有地に林野を含む場合は林野500町分は含まれない)を超える場合(*8)に超えた分の所有している全ての小作地等(貸地含む)が政府に強制的に安値で買い上げられ実際に耕作していた小作人に売り渡され、買い手がなかった小作地等は国有地となった。国有地となった小作地は元の地主による買戻しも可能となった。
小作料は金納制が原則とされ小作料の物納制(*9)は禁止された。なお農地・林野の所有権の移動には公選で定められた市区町村農業委員会の承認(同一都道府県内で複数の自治体に農地が跨る場合は都道府県農業委員会、都道府県を跨ぐ場合は農林水産省農村振興局の承認)が必要とされる。
また、小作地の引き渡しに依る新たな地主層の出現を防止し、農業生産力の増大と並んで農業の経済力拡大を確実なものとするために農地の宅地等への転用売却制限なども定められた。
5.5 外国人の地位
戦前・戦中に本土にいた在日外国人、特に旧外地出身者は戦後人数が大幅に減っている。これは日本の休戦協定調印を無条件降伏と勘違いした輩の起こした暴動による混乱で治安悪化が生じ進駐してきた連合軍将兵、特に非番時に外出した東洋系WACに多数の被害があり(*10)、激怒したホイットニー民政局長を始めとするGHQ民政局が極めて珍しい事に参謀第2部と協調しながら指揮を執り、正規の手続きを経ずに日本に渡航した者は出身地への即時送還処分とし、正規の手続きを経ても外国人居留者名簿に記載がなく日本への帰化を希望しない者は夫々の祖国に一定の財産を持たせた上で強制的に帰還させた為である。旧枢軸国出身者や旧連合国出身者で、戦前に外事警察が作成していた外国人居留者名簿に記載がある者はGHQ民政局の認可により引き続き居留が承認されている。
更に戸籍法の改定がGHQ主導で行われる過程で旧戸籍簿から新戸籍簿への移行時に皇族・華族以外の身分事項記載の取締や二重戸籍などの防止の為徹底した調査が行われたが、その過程で空襲などにより戸籍簿が消失したことを利用し戸籍の偽造や背乗り行為等を行って帰還しなかった在日外国人の存在が明らかとなり、これらを徹底的に取り締まった上で国外退去処分又は法に基づいた正規の手続きで日本国籍を取得・帰化させた上での法的処罰等が行われている。住民基本台帳法の外国人住民に係る事項の区分では中長期在留者・一時庇護許可者又は仮滞在許可者・出生による経過滞在者又は国籍喪失による経過滞在者となる。学校教育法において国際学校は教育施設の種類およびその教育施設に該当するが民族学校は該当しない。
尚、指紋押捺制度は国籍を問わず全ての住民が対象であり、正当な理由なく登録を拒む者に対しては罰則規定がある。
5.6 休日と祝祭日
国民の休日は日曜日の他に休日ニ関スル件(昭和2年勅令第25号)を改訂した、国民の祝日ならびに祭日に関する法律(昭和23年法律第178号 通称:祝日法)に基づく祝祭日がある。祝祭日は時代を経るごとに追加され、2010年の祝祭日は25日(*11)とされている。また1990年に国民の祝日ならびに祭日に関する法律が改正され土曜日も休日とされたことで完全週休二日制が実施された。改正された国民の祝日ならびに祭日に関する法律では休日は祝祭日の他に土曜日・日曜日・振替休日・法律で定められた日とされている。
この1990年の改正時に大晦日と正月三ヶ日が完全休業日となった。元々官公庁は12月29日から1月3日までを休日として定めていたが、警察・消防・救急・医療・国防・国営放送等最低限の公共機関と法で指定された公共性を担う法人以外の法人組織についても
地域によっては慣習で事実上の祝日(該当する地域の法人組織においても多くの場合、社内規定等で休業日とされている)とされている日もある。この他に労基法で有給休暇制度が定められているが、企業が取得させる義務のある有給休暇が個人に付与された有給休暇の半数と有り、違反企業に対する罰則は極めて厳しいものがある。
なお、深海棲艦が出現した1993年以降CVSやGSの24時間営業は行われていない。
5.7 婚姻関係
休戦協定を締結した日本が道徳的に劣っていたから休戦条約を締結した訳ではないと国内外に宣伝する為に憲法に定め、当時では革命的とされたり政府が自棄を起こしたと評された男女同権(
婚姻制度は深海棲艦との最初期の戦いと艦娘の顕現により17~35才の成人男女比率が1:6とあまりにも大きくなりすぎ、一夫一妻制の厳守は却って男女間の不平等を助長するとされた為に比率が1:5に近付くまでの間に限り成人男性1人に対し成人女性(現役艦娘には成人規定はない)5人までの婚姻を可とし、1:1に近付くにつれて次第に妻の数を減らしていく変動一夫多妻制度が適用された。但し姦通罪の廃止は男女共に反対意見が圧倒的多数であった為、相互適用が維持されている。
2010年代になり深海棲艦戦役が膠着状態になった為、合計特殊出生率は3.82と戦前の水準になりつつあるが、17~35才の男女比は1:5.98とあまり変化がない。
婚姻制度を支える為一定の収入に満たない人が結婚するときに平均年収の半年分の資金を低利息長期返済で貸し付ける結婚資金貸付法が施行されている。結婚貸付金は、現金ではなく日用品の購入や家屋の建て替え・医療機関受診など、歓楽街や性風俗施設・社交飲食施設以外で使える非換金証券として支払われている。この貸付金は一夫多妻制度下の夫婦が子供を1人産むごとに返済金の4分の1が免除される為、4人以上産んだ夫婦は全額返済免除になるが、不妊に悩む夫婦からの強い反発も生じている。
また、貸付金の返済前に離婚となった場合に自己破産が認められない一括返済義務がある事も一定の反発を招いている。
5.8 軍備
第一次大戦以降日本が引き起こした戦争は軍部の暴走が原因とされたことから、講和条約締結条件の一つとして軍は完全に武装解除され連合国の命令でいかなる種類の再軍備計画も禁止し、軍備も恒久放棄する予定であった。しかし大戦終結前後からソ連と英米の関係が急速に冷却化し大陸で中国共産党による中華人民共和国が早期に成立した為、英米は日本の再軍備を真剣に検討し始め、憲法にも反映する様に圧力をかけ始めた。その結果、新憲法から軍備の放棄事項は削除され文民統制と国際紛争を解決する方法としての戦争放棄を明記することで国防軍としての再軍備が認められた。
軍部大臣はその特性から不名誉除隊者を除く佐官以上の退役武官が望ましいとされているが、国務大臣たる軍部大臣の席が空白の場合はその罷免権を持つ総理大臣が兼任できるように憲法に定められている。
軍備の恒久放棄に纏わる話として連合国総司令部(GHQ)が全国に古火縄銃も含めた銃器類や脇差、鎗、薙刀などを含む刀剣類の提出を命じた事件がある。日本の武装解除の一環として全国に刀剣などの武器類の提出を命じたものであるが、当初の予定ではそれらの大部分が海洋投棄などの廃棄処分となる予定であった。だが処分直前に明治の帯刀禁止令の由来、日本刀を心の鏡とする哲学、抜かざるの剣の道、日本刀の平和的美術価値観等の説明をGHQに毎日訴え続けた関係者の努力により接収品は全て学術調査を行った後に廃棄すると改められた。
その後も関係者が粘り強く交渉を行い、1945年12月に銃器刀剣類の接収終了と持ち出しの禁止、許可を受けた狩猟用火器及び狩猟用ナイフの所有と歴史的・美術的価値ある銃器刀剣類の博物館での保管が許可されている。その間、連合軍兵士により許可なく日本国外へ持ち去られた日本刀の数は数万に及び、その中には本庄政宗や国俊の様に国宝や重要美術品も相当数含まれていた。
国防軍としての再軍備が認められると、軍備の恒久放棄の一環として接収された銃器刀剣類の返還活動が始まり、海外に流出した本庄正宗や豊後正宗、備前国宗や長船兼光、相州秋広といった国宝や重要美術品であった銃器刀剣類が返還された。その後国内で保管されていた銃器・刀剣類が学術調査を終えたものから元の所有者への返還されたが、返還に当たっての条件は厳しく所有者から地元自治体へ寄託の申し出が相次いだ。美術品と認められ所有者不明のまま国の博物館で保管されていた銃器刀剣類も多数あり、寄託の申し出を受け内務・文部の両省は国宝や重要美術品であった銃器刀剣類は国立博物館に寄託、「刀匠の出身地や所縁の地でなら、十分展示に値する」と評価されたが所有者不明の銃器刀剣類は所有者不明のまま出身地或いは所縁のある地の博物館・美術館に寄託している。
各地の博物館・美術館での公開中に所有者が判明した銃器刀剣類は所有者に返還して自己で保管するか寄託を継続するかを選択させたが、ほとんどの場合は継続して寄託されている。また、講和後20年を経過し尚所有者不明の銃器刀剣類は、国へ所有権を移し、広く公開・活用を図るため、転売せず一般公開することを条件に全国の公立博物館に無償譲与された。
深海棲艦出現以前、満17歳以上の男子には兵役義務があった。国防軍発足当初は志願兵制の導入を予定していたが、第二次大戦の後遺症で国民の反軍反戦感情は根強く志願制に頼っていては人員を確保できない情勢であった為、憲法に兵役義務を記載した。徴兵制の施行にあたっては、各国の流れを踏まえて書類審査対象時に良心的兵役拒否を申請することが認められ、良心的兵役拒否の代替義務として病院や社会福祉施設で兵役義務と同じ期間だけ社会貢献することになっていた。徴兵対象者のうち書類審査等を経て実際に兵役に就くのは6分の1程度であり、最も気力と能力のある者が兵役に就く事となっていた。
1990年代前半に廃止予定だった徴兵制度は深海棲艦出現により廃止が無期延期となり満17歳以上の女性も徴兵の対象とされた。男女同権と艦娘との協同を考慮し訓練中は訓練内容だけでなく部屋も男女混合であるが特に大きな問題は生じていない。女性が徴兵対象になった当初は【危険な戦闘地域へ女性を派遣することは云々】という意見もあったが、男女同権の考えから2000年代になると一顧だにされていない。
深海棲艦戦役下での徴兵制は前線に立つ提督資質保持者の発見・密入国者や犯罪者を取り締まる沿岸警備・艦娘がいない近隣諸国からの物資強奪を防ぐ為の護衛や領域侵犯行為などに対処する為にされている。
対深海棲艦戦を目的とした提督には軍学校で艦娘指揮幕僚課程を修了した者が就任する。徴兵制で発見された提督資質保持者も原則軍学校で艦娘指揮幕僚課程を修了してからの就任となる。徴兵・志願(軍学校卒業者)で兵役に就いている間、下士官までは衣食住・尉官以上は食住が国家負担(尉官以上の軍服は最初の支給以外は自費購入)となり食事内容や日用雑貨の品質・酒保での購入価格等は民間水準より多少良好なものとなっている。深海棲艦戦役下での徴兵制においても良心的兵役拒否が認められているが代替義務は生じない。なお家族・四親等以内の親族に良心的兵役拒否者がいる軍人家庭では嗜好品の酒保購入や保養施設の利用に一部制限がある場合がある。但し酒保や保養施設の利用以外に身内に良心的兵役拒否者がいる事を理由とした不当な差別は禁じられている。これは昇進速度等で差別を行っている余裕がない情勢も影響している。
6.日本の都市
太平洋戦争末期の大空襲や艦砲射撃により大都市が廃墟となったため、休戦協定調印後に連合国軍の進駐受入と引き換えに物資と復興資金を獲得した政府は戦災復興院を設け、戦災復興都市計画を政府主導で実行した。この計画は降伏・講和論争(*12)や資金難での計画見直し(*13)、計画見直し直後に生じた国民党の海南島・澎湖諸島への撤退により対ソビエト連邦・中国共産党封込の為に国民党に代わる新たな砦として日本再建を図る参謀第2部の各政策で大陸特需と呼ばれる好景気が生じた為に計画が再実施される等の紆余曲折を経て完遂され、名勝地や古墳や城下町を含む城郭跡等の名所旧跡を除いた地域の区画整理の実施や防災計画の一環として環状・放射線や100m道路の設置・電線の地中化、艦砲射撃や空襲で破壊された線路の復旧工事に伴い都市と地方を結ぶ長距離路線を中心に狭軌の三線軌条を用いた標準軌への改軌、都市の職住分離を目的とした帯状緑地の設置や都市の無秩序な拡大と都市中心部の空洞化を防止する為の都市郊外の農地・森林等の保全等が実施された。
温暖化の警告が相次いで発表され、建物の緑地化に対し補助金が支払われた1980年代には屋上にミニ森林園を造園する企業などもあり、首長の政策によっては緑地面積の市街地面積に占める割合が60%を越える都市も現れている。1993年に深海棲艦が現れてから、都市では地域の気候に合わせた果樹を緑地帯に植える事が一戸建ての家庭菜園設置や共同住宅・オフィスビル・工場の屋上への菜園設置と併せて流行している。この緑地帯の果樹については住民であれば誰でも規則に従えば自由に収穫を行えることになっている。
庶民の娯楽施設として居酒屋や喫茶店と言った飲食店や料亭、碁会所・将棋道場、孔雀茶屋と言った昔からの施設以外にも昭和40年代になると財閥系企業により遊園地や美術館・博物館、プラネタリウムや天文台、動植物園(水族館を含む)、映画館や本格的な歌劇も行える歌劇場や演奏等を行う音楽堂、多目的ホール等が相次いで建てられ娯楽の拡大に繋がった。
また都市計画に基づき歓楽街に指定された地区にはカラオケやゲームセンター、屋内競技場等のレジャー施設や健康ランドのような娯楽を目的とした入浴施設があるが、講和直後に繁栄しかけたパチンコ屋は殆ど見られず、昔ながらの雀荘や楊弓場が繁盛している。
また、スポーツは野球、蹴球、排球、羽球、撞球、洋弓など舶来のスポーツの他に相撲や空手、拳法、或いは武芸十八般のような伝統武道も男女を問わず行われている。
なお性風俗施設は姦通罪の存在もあり接待料亭(クラブ)・接待飲食店(キャバレー)等の社交飲食店も含めて一都市における店舗数は極少数となっている。
二十四節気や雑節などの行事は時を経るごとに廃れていたが、深海棲艦出現と艦娘顕現後は社会情勢などにより復活しつつある。
2010年代、都市の雰囲気は都会の華やかさと不安感が混在した社会思潮および退廃的で和洋折衷の雰囲気をまとった文化が盛んであった昭和初期に似ている。
7.経済
7.1 日本経済
当初は連合国との講和条約を締結するにあたり指導的財閥の解体を求められ、鮎川・浅野・古河・中島・野村・大倉等24の財閥の全資産並びにその家族の保有する株式及び財産を、20年間譲渡禁止の国債に改変する事と、「私的独占、取引制限、好ましからざる経営者の重複及び好ましからざる証券保有関係を排除、防止し、また銀行の勢力を商工農業から分離することを確保し、また商工農金融の全ての業者に競争の平等の機会を与えるような法律」の制定の他に、四大財閥本社の他、鮎川・浅野・古河・中島・野村・大倉等24の中小財閥本社を解散、その他の現業部門を有する持株会社は、株式・社債を処分し、再建計画を提出する。また、必要を上回る重化学工業設備及び在外資産を賠償に振り向け、賠償指定に際しては財閥系企業を優先的に選定され、指定持株会社以外の企業の持株処分、企業間の役員兼任禁止が命令され、財閥家族56名が好ましからざる経営者としての認定と追放があり、所有有価証券の持株会社整理委員会への譲渡が行われた。
また、財閥の持株会社から子会社あるいは孫会社を切り離し、その所有株式を処分、人的兼職を禁止し、取引の自由競争を系列間で制限する行為や契約などを禁止され、財閥解体後の日本経済の民主化を恒久的なものとするために、独占禁止法が成立することとなる。
だが、1946年8月に大陸本土から国民党政府が海南島と澎湖諸島近辺に撤退した結果、海南島引渡の協定が反故にされると、米英の反発を招き新たな砦として日本の再建が急がれ日本に対し大規模な援助が行われ、その一環として財閥の解体条件が緩和された。
24の財閥の全資産並びにその家族の保有する株式及び財産を、20年間譲渡禁止の国債に改変することは、すでに国債に改変された分を除き、三井・三菱・住友・安田・鮎川・浅野・古河・中島・野村・大倉の10財閥の全資産並びにその家族の保有する株式及び財産を10年間譲渡禁止の国債に改変する事に緩和され、「私的独占、取引制限、好ましからざる経営者の重複及び好ましからざる証券保有関係を排除、防止し、また銀行の勢力を商工農業から分離することを確保し、また商工農金融の全ての業者に競争の平等の機会を与えるような法律」の制定を行う事を条件に1935年の国民生活水準を考慮し自給自足に足る経済を残す方針に改められ、賠償とされた「必要を上回る」とされた重化学工業設備及び在外資産の移転が中止された。但し、休戦直後の混乱期を乗り越え生き残った財閥各社はサンフランシスコ講和条約締結後、自主的に重化学工業設備をフィリピン・インドネシア・ビルマ・マレーシア・シンガポール・ブルネイ向けに設備更新に伴い廉価で、或いは在外資産の一部を援助という形で譲渡している。
貨幣の単位は円と銭と法律で定められているが戦後すぐに行われた新円切り替え等により銭を使用する機会はほぼ存在しない。
尺貫法は計量法の施行により1962年に公式の取引や証明に用いることは禁止されたが、計量単位の規制が日本の伝統や文化の中で著しく不便を生じさせている場合は柔軟な運用がされ、取引や証明に当たらない計量で使用されている。例として尺相当目盛り付き長さ計は検定品として販売が認められている。
戦後のハイパーインフレーションを切り抜けた後、1950年代に締結した米英との安全保障条約により締結初年度の国防費はGDPの15%を占めた。この国防費が国家財政の再建の足かせとなったが、中華民国南遷による米英の援助や財閥主導による技術革新・技術革新により1970年代後半に高度成長期を迎えた。この間、尖閣や長崎沖の天然資源の早期採掘が可能となり海外からエネルギー資源の輸入が減少し石油危機の影響等が最小限に抑えられた。公害問題も重工業に力を注いだ朝鮮で先に問題になったため重金属による水質汚染や
物価は、1993年の深海棲艦出現以降、海外からの原料の輸入がほぼ途絶えた為に様々な製品の価格が高騰している。特に食料品は、1980年代後半から深海棲艦出現により経済の高度成長期が崩壊するまでの不動産価格の高騰と地価上昇の影響で、戦災復興都市計画により保全されていた農地や緑地の転用の転用が相次ぎ食料自給率が急速に下落している中で海外からの輸入がほぼ途絶えた為、深海棲艦出現直後は太平洋戦争同様の配給制が敷かれていた。その為、効率の良い水耕栽培技術の開発、省エネ技術の導入や電気動力自動車や水素動力自動車、燃料電池搭載自動車の実用化などが研究機関等で進められ、現在では食料の配給制は一部の嗜好品を除き解除されている。
しかし、農業委員会の書類では農地として登録されていた土地が実際は無許可で住宅地や工業用地に転用されていた事例などが発覚し強制的な農地への再転換を行うなどの事件が市区町村単位で複数件あり、結果として農業生産量が政府の立てた予測の60%に達しない等の影響があった。その為、国産うるち米1kgが6,000円・Lサイズパック詰め(10個入り)の鶏卵1パックが950円・ビール大瓶1本が1,500円と、国民生活安定緊急措置法(*15)や暴利行為等取締法(*16)の改定後も価格高騰は収まっていない。その為、政府が半年間都会の有志を農業支援に赴かせ、農家は宿泊場所と食事だけを提供し有志には政府から若干の給料が支払われる援農や自宅の庭で養鶏等を行う家庭も見受けられる。
また原油等少なくない量の資源が対深海棲艦戦役へ廻されている為、更に少ない資源を効率的に利用するべく廃棄物等の発生抑制と再使用・再生利用、焼却施設・廃棄物発電施設等からの廃熱の回収・再利用等を推進する低炭素循環型の社会システムが成立している。
発電所は火力発電所・原子力発電所が共に深海棲艦により操業停止に追い込まれたままで、発電量は深海棲艦が出現する直前の1980年代後半から1990年代前半と比べ大幅に低下している。工場やオフィス、各家庭では節電に努めているが昼夜を問わず計画停電が行われている為、共同住宅やオフィスビル・工場では自家使用を目的として配管内を循環する水流を利用したマイクロ水力発電や屋上への太陽光発電設備や風力発電設備の設置が盛んになり、農村地域でも用水路や水車小屋等、至る所にマイクロ水力発電用の発電設備が見られる。(*17)
また、原油の輸入がほぼ途絶えた為、自家用車の保有率は激減し貨物輸送も鉄道や船舶が中心となっている。水素動力車や燃料電池搭載車もあるが一般大衆では気軽に手を出し難い価格であるため、速度は遅いもののソーラーパネルと鉛電池の代わりにリチウムイオン電池を搭載した電気自動車が再び脚光を浴びている。尖閣沖の原油は対深海棲艦戦役を担う艦娘や鎮守府へ廻され、天然ガスは軍事用施設向の発電施設に優先的に廻されている為、艦娘に対し否定的な態度をとる団体も存在するが極少数で大多数の国民から一顧だにされていない。構成員は危険思想の持ち主としてあからさまな不利益こそ被らないものの市民が自主的に監視する対象者となっている。
なお、1993年の深海棲艦出現後、東海道や太平洋航路など太平洋岸の主要幹線が深海棲艦により崩壊した事で中山道や北陸道も利用した西回り航路が復活した。その為、経済の中心は太平洋側から日本海側に移りつつある。
7.2 地球規模の情報通信網
1982年、インターネット・プロトコル・スイートが標準化され、TCP/IPを採用したネットワーク群を世界規模で相互接続するインターネットという概念が提唱された。営利目的のインターネットサービスプロバイダが1980年代末から1990年代に出現しはじめ、次にインターネットの完全な商業化が期待された。営利目的の利用についての制限がなくなれば多くの情報がインターネット経由でやり取りされ、やがて様々なモノがインターネットに接続されるようになると考えられ、特に期待されたのが学習データが豊富に集まることで、そうなれば高度な情報社会の実現も夢ではないと思われた。それは1993年の深海棲艦出現後も変わらず、むしろ1994年7月のタイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された。今話題の近代兵器が通用しない人類に敵対的な新生物からの攻撃・占領下でのコミュニケーションの生き残りについても役に立つであろうことが予測される事から全面的に一般への開放を望む」という記事が掲載されたようにその普及に大きな期待が寄せられた。
だが、深海棲艦の攻勢が著しくなり国家間交流も途絶えがちになるとインターネットは対深海棲艦用の学術研究目的と政府の外交目的での国家間通信の使用に限定され、大規模な普及には至らなかった。インターネットが一般に開放されていない為、国家間通信網をインターネットが国内通信網をパソコン通信が担っている。また遠距離の画像送信などではテレックスが使用されている。
学術研究やコミュニケーション支援、学習・業務支援ツールとしてパーソナルコンピュータが製造されている。高価ではあるが政府からの助成金により各世帯に平均1.53台の割合で普及している。
2010年代に民生用CPUの性能は駆動クロック周波数が1GHzを突破している。但し、軍事用CPUは払い下げられているCPUであっても民生用と比較にならず、詳細は軍機のベールに包まれているが現在使用されているCPUは駆動クロック周波数は2.1 GHz から 5.0 GHz、コア数は10以上あるとされている。
基幹システムは世界規模の物は無く、米国ではMacintoshやWindows3.x系・OS/2が、日本ではTRONが主流となっている。
PCのCPUに代表される軍民に格差があることで艦娘に対し不平等であると否定的な態度をとる団体が存在する。
7.3 主要各国のGDP
2018年現在、主要各国のGDPに国防費(艦娘関連費用も含める)が占める割合は次の通りである。
①アメリカ合衆国 :15%
②ソビエト連邦 :25%
③大英帝国(*18) :35%
④欧州連合(*19) :35%
⑤日本国(*20) :30%
⑥アラブ連合(*21) :45%
⑦中華民国 :55%
8.日本の気象
原因不明の気候変動により黒潮の流れが大幅に蛇行している為、北緯30度付近でも希に50cm前後の降雪が記録されることがあるが沖縄や小笠原諸島では今のところ降雪記録はない。一時期叫ばれた温暖化現象は鳴りを潜め、真夏の時期でも東京の日中平均外気温は25(真夏の日中快晴時の日蔭)~30度位(真夏の日中快晴時の日向)で多治見や熊谷、甲府の様な内陸盆地でも真夏の日中快晴時の日向の気温が35℃を超すことはない。冬季の積雪量は年々増え続け、富士山の万年雪も夏季でも溶けず次第に面積が増えている為に小氷河期到来ではないかと疑われている。
殆ど設定倒れ。
2018/02/24 東京ドームと甲子園球場何個分も出してという方がいらっしゃいましたので追加。多分あっている筈。
国産うるち米1kgが6,000円は高いのではとの事ですが、これは総務省統計局の小売物価統計調査から鶏卵価格を参考にしてその他を決めたからです。飼料関連の穀物輸入自由化前の価格ってこんな物でした。そんなところに輸入が止まる事態があったらどうなるかなって……。多分一気に輸入自由化ではなかった昭和30年代の価格になるのではと考えて昭和30年代の水準に。
卵の1959年の価格が887円、1958年が1,013円でしたのでその中間辺りで950円。
米をその前後で1959年が5,000円、1958年が5,371円で5200円前後にしようかと思ったんですが、バブル期直後ってまだ田圃とかって埋め立てが多かったんですよね。で、こちらはもう少し被害がありそうという事で30年代も初期の頃の価格にしました。
1956年が5,339円、1955年が6,719円なので中間辺りを取って6,000円。
序でにビール大瓶の価格も1956年が1,493円で1955年が1,541円。中間辺りの1,500円に。
給料は1956年の大卒公務員と高卒公務員の給与を現在の価値に直してみただけです。艦娘も人間も変わらないよってことでこの金額に。……経済ボロボロですな。
追記:
えっと、メッセージは歓迎ですが、できれば次からは感想欄で指摘していただけるとありがたいです。
20200401追記:鄧小平・胡耀邦・趙紫陽・習仲勲が文革で『病死』している為、改革開放政策は完全に否定され、広東省の経済特区構想は生じていません。