◆◆◆◆◆
この絶望の世界では、誰もがその日その日を生きる事に必死であった。
何もかもが崩れ、壊れ果てたこの世界では、多くのものが切り捨てられ喪われてしまった。
『花』も、喪われてしまったものの一つだ。
かつては人々の生活に彩りを添え、そして見る人の心に豊かさを与えていた花達は、世界が絶望に沈んでから真っ先に消えてしまった。
陽の光すら十分に行き届かず、そして大地はかつての肥沃さの面影など何処にも無い程に枯れ果て荒地となって。
野に咲く名も知れぬ様な小さな花々は瞬く間に枯れ落ちてしまっていった。
僅かに残った木々も、次第に痩せ衰え最早花を咲かせる程の活力はなく、若木でさえも枯死寸前の老木と大差無い様な有り様であった。
人々がかつては肥料を与え手塩を掛けながら丹念に育てていた花達も、こんな人々が日々を凌ぐ為の食料にすら困窮するこの絶望の世界であっては食料にもならないただの鑑賞用の花を育てる様な余裕など誰にもなくて。
かつては花畑が広がっていたそこには、痩せた麦の穂が風に揺れている。
かつては鑑賞用としてあれ程持て囃され贈り物として重宝されていた薔薇などは、最早この世界には一株たりとも残ってはいないだろう。
祝い事や祭りなどこんな終末の世界では既に絶えて久しく、新たな命の誕生でさえ言祝がれる事なく、寧ろただ苦しむだけの生を与えられた事を嘆く声が響くのみ。
その生を祝福されない程度ならまだマシで、この困窮した世界では赤子を養う余裕は無いとばかりに打ち捨てられ、屍兵に貪り喰われる命すらあった。
それならば子供など作らなければ良いと言う話になるのだけれど、こんな『希望』も喜びも絶えた世界では、唯一この現実から逃避する為の手段がそれしか残されていない者は剰りにも多い。
それを止める手立てなど、無いに等しかった。
そして失われたのは祝い事だけでなく、葬儀と言う習慣も、世界が絶望に沈んでから数年経った今ではもう既に喪われていた。
死体が出たら屍兵に変貌する事を防ぐ為に速やかに荼毘に付さねばならないので、故人との別れを惜しむ様な儀式をやっている余裕など無く、故に葬儀など余程の事がなければ行われない。
そして、死者に花を手向けるなどと言う風習も肝心の花がもう存在しない為廃れ、当然の事ではあるのだが、墓前に花を供えると言う事も無い。
イーリス王都の一画に存在する歴代の聖王家の者達の墓にすら、最後に花が手向けられたのは何時の事だったか……。
父母の墓前には、今や申し訳程度の造花が供えられているだけであった。
……何時か二人の墓前に……そしてこの絶望の世界で喪われた全ての者の墓前に、両手一杯の花を手向ける事が、ルキナにとって密かな目標であった。
……その為にも、先ずはこの絶望の世界を生み出した邪竜を討たねばならないのだけれども。
かつてはイーリス国内でも有数の花畑が広がり四季に応じて色とりどりの花達が人々の目を楽しませてきた筈の……しかし今となっては痩せた地の所々に芋の苗が植えられているだけとなった場所を、ルキナは静かな感傷と共に見詰める。
幼きあの日にたった一度だけ、父母に連れられて訪れた思い出の花畑は、今や見る影もなく変わり果てていた。
それを、その変化を、仕形の無い事なのだと、人々が生きる為、その糧を得る為なのだからと。
そう理解はしているのだけれども。
それでも心の何処かは膿んだ様な痛みを訴える。
人々から不要として切り捨てられてしまったその花達が、まるで幼いあの日の思い出その物である様な気がして。
緩やかな風に微かに葉を揺らす芋の苗の影に混じって、踏み潰された花達の幻影が過る様な……そんな錯覚すら感じてしまう。
余計な感傷だとは分かっているけれども、ルキナはそれを切り捨てられない。
「ルキナさん、どうかしましたか?」
ふと声を掛けられて振り返ったそこには、ロビンが気遣わしそうな目でルキナと、ルキナが視線を向けていた畑を見詰めていた。
「いえ……大した事ではないのですが……。
かつてここには花畑が一面に広がっていたんです。
今では、芋の畑になってしまっていますが……」
「花畑、ですか……」
ロビンは微かに首を傾げる。
ロビンは元々はイーリスの民ではなかった為、幾らイーリス国内では有名であったとしても、ここに花畑があった事を知らなかったのだろう。
そんなロビンに、ルキナはかつての思い出を掘り起こす様にして思い出しながら、説明していく。
「ええ。イーリスでも有数の花畑として有名だったんです。
季節ごとに違う花々が色鮮やかに咲き誇る……そんな花畑でした。
王都に卸される花の多くがここで育てられているものであったと、聞いた事があります」
「ルキナさんは、その花畑を見た事があったんですか?」
「一度だけですが……。
父と母と、そして父の臣下達と……。
両親と共に城の外に出られる機会はあまりありませんでしたから、とても嬉しかったのを今でもよく覚えています」
ルキナにとっては『幸せ』な時間ではあったけれど、当時も戦争の動乱の中の日々で。
父母共に城に居ない時間も多かったし、親子で何処かに出掛けられる機会など殆ど無かった。
それ故に、その貴重な時間はルキナにとっては何よりもの『宝物』であったのだ。
大好きな父が居て、母が居て。
そしてそこには大好きだった『ルフレおじさま』が居た。
彼等と過ごす時間はあまりにも楽しくて幸せで、だから帰り際にはまだここに居たいなどと、子供らしい我が儘まで言ってしまった。
その我が儘に、父も母も、そして『彼』も笑って。
『また皆で来よう』と、そう約束してくれた。
幸せな……もう二度と戻れない幸せな時間、もう二度と叶わない……幸せな約束だった。
あの日見た花の名前はもう思い出せないけれど、そこにあった『幸せ』は今でも忘れずに覚えている。
「……そう、だったんですね……」
ロビンは僅かに痛みを湛えた目でかつての花畑を見回した。
そこに思い出のあの景色は何処にも残ってはいない。
豊かな花畑は、痩せ衰えた芋の畑になってしまっている。
肥料を与える余裕も無い土地は痩せ衰えるばかりで、そんな土地で育てられるのは痩せた地でも育つ芋位しか無いが芋は土地を更に痩せさせてしまう。
それを補う為には土地を休ませたり肥料を与えなければならないのだが、人々が少しでも飢えを凌ぐ為には痩せ衰えた地で芋を育て続けるしかないのだ。
その結果土地は更に荒れ果て、肝心の作物も痩せ細って収穫数も減っていく。
自らの首を真綿で絞める様なその行為を、人はそうと知りながらも止める事が出来ない。
確実な破滅を誰もが予期しながらもそれを回避する術もなく、ただその日を生きる為だけにその緩やかな自滅への道を歩んでいく。
それを愚かと嗤う事は容易いが、その行為を一体誰が責められると言うのだろう。
明日の死を回避する為に今日死ぬだなんて、本末転倒にも程がある。
結局の所、ギムレーを討ちこの絶望の世界を終わらせるしか……。
再び陽の光を取り戻し、大地に実りを取り戻させるしか、人間の滅びを逃れる術はない。
今のままでは数年もしない内に完全に食糧が尽きて、屍兵やギムレーの手によらずとも人間は飢餓の中で滅び去る。
痩せた芋の畑は、その事実をまざまざとルキナに見せ付けた。
食糧事情の困窮は日々ルキナ達の生活に大きく影響を与えているからその深刻さは分かっていたつもりであったが、やはりルキナ達が身を置くのは戦場やその拠点である王都であり、それは食糧を供給される側の立場の人間である。
実際の生産の場の悲惨さを、こうして突き付けられる様に認識する機会などそうは無い。
ここで育てられた痩せた芋も、そのかなりの部分はこの地の人々の腹にではなく、ルキナ達の腹へと消えてしまうものであろう。
餓えた人々は、僅かな食糧が自分達ではない見も知らぬ誰かの腹に消えるのを、どんな目で見送っているのだろう。
必ずやギムレーを討ち、この世に『希望』をもたらしてくれと……そう『期待』する眼差しなのだろうか。
それとも或いは、諦めと絶望に支配された虚ろな眼差しなのか。
それをルキナが知る事はない、出来ない。
ルキナに出来るのは、一刻も早く『炎の紋章』を完成させ、そしてギムレーを討つ……ただそれだけだ。
「……あの」
変わり果てた地を悲しみと共に見詰め、託されたものの重さを再確認していると。
ロビンが、ふと何かを言い淀みながらルキナに声を掛ける。
「どうかしましたか?」
「……ルキナさんにとって、ここでかつて見た花は……その景色は。
大切なもの、だったんですよね……」
何故か、その手をギュッと固く握り締め微かに俯きながら、ロビンはそう言う。
その様子を少し不思議に思いつつも、ルキナは頷いた。
「ええ……。
正確には、花畑それ自体と言うよりは……お父様達と一緒に過ごせた時間と、その景色が大切なのだと思いますが……。
……どうであっても、私にとっては、この地は……そしてかつてここにあった花畑は、……とても大切なものでした。
……もう、あの花達は何処にも咲いていないのでしょうけれど……」
「そう、ですよね……。
この世界がこうなって、花はもう殆ど何処にも……」
「城の庭師達が丹念に世話をしていた花壇や大庭園でさえも、とうに枯れてしまっていますからね……。
昔はよく城の庭園で花飾りなどを作って遊んだりしたものなのですが、……もうそれは二度と叶いませんね……」
イーリス城の敷地内にある広大な庭園や中庭等と言った至るところに植えられていた花は、もう手入れをする人もなく、いつの間にか枯れ果ててしまっていた。
幼い頃に父と母と共に多くの時間を過ごした思い出の庭も、母やルキナの為にと植えられていた数々の花達と共に荒れ果て、もうかつての面影は殆ど残ってはいない。
思い出の景色が変わり果ててしまった事は寂しく悲しいが、こんなご時世に腹が膨れる訳でも戦いの役に立つでもない花を手間を掛けてまで維持など出来ないのはよく分かっている。
故にそこにあるのは諦めと寂しさだった。
「…………」
ロビンのその静かな眼差しに翳りが揺らめいている事に、ルキナは気付かなかった。
◇◇◇◇◇
あの変わり果てた思い出の花畑を訪れてから、数日が経ったある日。
付近に巣食う屍兵を掃討する為にここ数日はあの花畑の村の近くへと逗留していたルキナ達であったが、もう目ぼしい屍兵の群れは一掃し終わった為明日にでもこの地を離れてまた別の地域へと出立する予定であった。
今回の作戦でこの一帯の屍兵を概ね片付ける事が出来たとは言え、屍兵達はそう時を置かずして何処からともなく現れては人々を襲い始めるだろう。
何れ程ルキナ達が手を尽くしても、屍兵達を本当の意味で討滅する事は不可能であった。
屍兵達の被害を完全に無くす為には、奴等を産み出し続ける呪いを世界にバラ撒いたギムレーそれそのものを討たねばならない。
しかし、焼け石に水程度の効果にしかならないのだとしても、今この瞬間に屍兵の被害に苦しむ人々にとっては確かな救いではある。
現に今回の屍兵討伐でも、ルキナ達は村人達から多くの感謝の念を向けられていた。
そして、ルキナ達が出立の為の準備を始めている時の事。
「あの、ルキナさん。
少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」
手早く自分の荷物を纏め終え、軍の備品などの梱包作業を手伝っていたルキナをそう呼び止めたのはロビンであった。
「ええ、構いませんよ。何か問題でもありましたか?」
手にしていた荷物を手近な所に置いて、ルキナはロビンへと向き直る。
確か今日明日は出撃する予定もなく、明日の行軍路はもう話し合われていたが……何かあったのだろうか?
ロビンはゆるりと首を横に振った。
「いえ、特には問題は起きていません。
予定通り、明日にはここを発てるでしょう。
少し、ルキナさんにお見せしたいものを見付けたんです」
見せたいものと言われ、一体何なのだろうと考えるが、特には思い当たるものは無い。
こちらです、と歩き出したロビンに付いていく様にしてルキナはその後を追う。
畑の奥に広がっていた立ち枯れた木々が目立つ林を越え、山へと入っていく。
日がそろそろ傾き始めつつある事を考えると、あまり遠出は出来ないのだが……。
思いの外遠くまで来てしまったルキナは、一体ロビンが何を見せようとしているのか気になった。
「結構歩きましたが、見せたいものって一体何なのですか?」
「それは……。いえ、もう直ぐそこなので」
答えようとして僅かに言い淀んだロビンは、そのまま枯れ藪を掻き分けるようにして奥へと進む。
その様子が気にかかりつつもロビンの後を追って藪を進んだそこには。
なだらかな谷間一面に真っ白な花が一面に咲き誇った光景が、ルキナの視界一杯に広がっていた。
「これは──」
「……偶然、見付けたんです。
ルキナさんの思い出の中にある花畑には遠く及ばないかも知れませんが……。
どうしても、貴女にこれを見せたくて……」
思いもよらぬその光景に言葉も忘れて見入っていると、ロビンは何故か少し目を伏せながらそう言う。
しかしそんなロビンの様子も意識の外に置いてしまう程に、ルキナはその光景に目を奪われていた。
この絶望の世界で、こんな光景を目に出来るとは欠片も思っていなくて。
花なんて、もう目に出来ないものとすら思っていたのだ。
それがこんな、視界の全てを埋める程の花畑を成しているなんて。
西日に照らされた真白の花園は、何処か夢の中世界の光景である様にすら思える程に幻想的であった。
視界一杯に広がる花は何れも同じものである様で、しかしルキナが見た事も無い花だ。
何にも汚れていない、まさに降り積もった白雪の如しその花には、この世のものとは思えない程の美しさがあった。
しかしどうして、ここに花が咲いているのだろう。
もうこの世界には、花なんて咲ける場所も無いだろうに。
「この花は……」
「……正式な名前は、分かりません。
ですが、ペレジアの荒れ地の様な……他の草花が育たない様な過酷な環境でも咲く事が出来る花だと。
どんな場所にでも、どんな環境であっても咲く事が出来る事から、『不屈の花』だと……そう呼ばれ、祝い事や神事などに捧げられる事が多い花でした」
「『不屈の花』……」
過酷な環境でも咲く花だからこそ、こんな滅びが蔓延した様な世界でも絶える事無く咲いていたのだろうか。
元はペレジアの様な地域に咲く花がどうしてこんな所で群生しているのかは分からないが、そんな細かい事はどうでも良くなる程に、この花畑は美しかった。
『不屈の花』……。
まさに、この絶望の世界に足掻き生きる全ての人々に贈るに相応しい花だ。
どんなに荒れ果て死に絶えた様な大地でも、こうして芽吹き花咲く命があると言う事は、確かな希望になる。
これからの世界を、絶望の源を絶ったとしても尚闇の中を進まねばならないであろうこの世界を、そしてそこに生きる全ての命を、祝福してくれているかの様であった。
咲き誇る花々を見詰めている内に、胸が詰まる程の様々な想いに、知らぬ内に涙が溢れてくる。
それを見たロビンは途端に狼狽えた。
「えっ、あの……何か、辛い事でも、思い出させてしまいましたか……?」
「いえ、そうではないんです。
ただ嬉しくて……、言葉に出来ない位に、色んな感情が押し寄せてきて……。
この気持ちを、どう言えば良いのか……」
嬉し涙、とは少し違う……もっと尊い気持ちから溢れ落ちた結晶である気がする。
ただ、それをどう言えばロビンに伝わるのかは分からない。
偶然見付けたのだとロビンは言っていたが、こんな所に偶然ロビンが足を運ぶ訳もない。
恐らくは、ルキナの想像が外れていないのであれば、ロビンはきっと花を探してここまで来たのだろう。
それはきっと、ルキナが『花』へと強い感傷を懐いている事に、気付いていたから……。
それはルキナの為であったのだと、もし自惚れなのだとしても……そう思っても良いのだろうか?
ロビンの気持ちが、そしてそれを自分唯一人の為だけにしてくれた事なのだと言う思いが、そしてこの奇跡の様な光景が、そしてこの奇跡の光景をロビンと二人で見る事が出来た事が。
そのどれもが強い感情のうねりを生み出して、ルキナから言葉を奪っていた。
ただ、この気持ちを十全に伝えられる言葉なんて無いのだとしても。
どうしても伝えたい、伝えなくてはならない言葉はある。
「有り難うございます、ロビンさん」
この先何があっても、どんなに時が過ぎても。
この気持ちは、この思い出は、絶対に忘れたりしない。
涙に視界を滲ませながら微笑んだルキナは、ロビンがこの時どんな顔をしていたのか……、それを知る事はなかった。
◆◆◆◆◆
この世界を絶望に堕としたのは、他ならぬ『僕』……『ギムレー』だ。
それは、分かっている。誰よりも分かっている。
……それなのに。
ルキナが苦しんでいる姿を見る事が、何よりも辛い。
もう取り戻せぬ過去に想いを馳せる度に残酷な現実がその心を傷付けていく様を見てしまう度に、どうしようもなく苦しくなる。
……ルキナのその苦しみも絶望も、全ては『僕』の所為であると言うのに。
それでも……。
ギムレーとしては狂ってしまっている『僕』は。
……最早『ギムレー』ですらない『僕』は。
ルキナのその苦しみを、絶望を、どうにか取り除いてやりたいと、心から思うのだ。
だが、その苦しみを生む要因となる、ルキナにとっての『幸せだった日々』の記憶を奪う様な短絡的な手段は取れない。
それは当然だ。
『僕』は既にもうこれ以上に無い程にルキナから多くを奪い尽くしてしまっているのに、その上更にルキナにとって唯一残された……誰にも汚されていない『宝物』を奪う事が出来ようか。
最早、『僕』が何をしても、ルキナのその苦しみを晴らしてやる事は出来ないのだ。
『僕』は剰りにも無力であった。
『僕』の命を、『僕』が捧げられる全てを捧げたとしても、ルキナが喪ってしまったものを返してやる事は何一つとして出来ないのだ。
それ処か、贖罪にすらならないのだとしてもせめてもの償いとしてこの命を捧げる事すら、『ギムレー』の欠片でしかない『僕』には出来ない。
『ギムレー』が死ねば、そしてその魂ごと完全なる消滅を果たす事が出来るのならば。
この世界がこれ以上滅びの道を進む事はない。
死ぬ間際に持てる限りの『竜の力』を捧げれば、この滅び果てた大地にも少しは命を養う力を与えてやれるだろう。
そうすればルキナの苦しみも少しは癒してやれるだろうに。
…………それすら、『僕』には叶わない。
『僕』が何れ程『死』を、『消滅』を渇望していても。
『僕』は所詮はギムレーの中の一欠片、ただの人格の仮面の一つ、紛い物の心だ。
ギムレーと言う全てを、『僕』が願う程度で殺せる筈も無かった。
それどころか、ギムレーとしての本質から乖離してしまったばかりに、『僕』と言う人格……紛い物の『心』は、ギムレーの本性からの浸食を受けて消滅しつつある。
ギムレーとしての本性……破壊を望み世界を滅ぼそうとする衝動に抗って、この世界の空を覆い光を閉ざしてしまっている雲を払ってやる事すら、もう叶わない程に。
今の『僕』には、新たに屍兵を生み出す事を抑えるだけで精一杯であった。
だからこそ、神竜の力を得たルキナに殺される日を待ち望みながら……そしてその瞬間まで『僕』が『僕』としてギムレーの本性を抑え込みルキナを守れる事を願いながら、『僕』はルキナの傍にいる。
かつては『花畑』だったと言うその痩せた畑を見ても、それ自体には『僕』は何も感じなかった。
もしかつての『花畑』が目の前に広がっていたとしても、やはり『僕』には何も感じられなかっただろう。
綺麗だとか美しいだとか、ヒトがそう感じるらしいものが『僕』には分からない。
……それはやはり『僕』がギムレーだからなのだろう。
だが、ルキナがその『花畑』に心を動かしているのを見ると、『僕』の心にもやはり漣の様に波紋が広がっていく。
ルキナにとっては、かつてここにあった『花畑』は大切なものであったのだ。
花自体がその主体ではなく、そこにあった『思い出』こそがルキナにとっての『宝物』であったのだろうけれど。
いや、だからこそ。
その『思い出』の場所が……かつての『幸せ』の縁であったそれが、こうも変わり果ててしまっていた事に、ルキナは深く傷付いていた。
その『思い出の場所』を奪ってしまったのは、やはりギムレーで。
そしてこの場所どころか、『花』にまつわるルキナの『宝物』の尽くも、ギムレーは奪ってしまっていたのだ。
それはもう苦しい程に理解していたけど、それを……そしてその事に苦しむルキナの姿を目にすると、償う事も叶わないその罪深さが一層重く圧し掛かる。
…………だからこそ、それは何の償いにもならないと分かっていながらも、『僕』は……。
眼前に一面広がる白い花の光景に『僕』は、果たして本当にこれで良かったのかと、幾度目とも知れぬ自問自答を繰り返した。
ルキナが喪ってしまったかつての思い出の『花畑』とは、きっと似ても似つかぬその光景。
ルキナの記憶の中では彩りに溢れていたと言うそれとは違い、白だけしか無い『花畑』の紛い物。
寧ろ、下手に『花畑』と言う形を準えてしまっては、余計にルキナを傷付けてしまうのではないかとも、思う。
だが、もうこの地域一帯に残っていた花は、『不屈の花』だけしかなかったのだ。
『不屈の花』と呼ばれていたその花は、神事の際などによくギムレーに捧げられてきた花だった。
いや、神事だけではない。
祝い事の時にも、そして葬儀の時にも『不屈の花』はペレジアの人々の傍らにあった。
死後はギムレーの御許へと魂が還る、と言う宗教的死生観を持っていたペレジアの人々は、死者を『不屈の花』と共に送り出すのだ。
ギムレーに捧げる花としての側面があった花など、ルキナにとっては忌々しいだけのものであるのかもしれない。
幾ら絶大なるギムレーの力とは言えども、無から有を生み出す事は叶わず、何かを元手として増やす事は可能だが、無から作り出す事は出来なくて。
結局、何れ程探し回っても枯れかけた一輪の『不屈の花』だけしか見付からず、それを何とか増やして、ここまでの『花畑』にしたのだけれども。
『不屈の花』の花畑が、ルキナの心を慰められる様なものなのかは『僕』には分からなかった。
それに、そもそもルキナが望んでいるのは、思い出の中にしかもう存在しない花畑であって、こんなまやかしで出来た紛い物ではない。
……そして、例えこの『花畑』が一時でもルキナの心を慰める事が出来たとしても、それで『僕』の行いが赦される訳では何一つとしてないのだ。
それでも、こうして『花畑』を作ってしまったのは、本当の意味ではルキナの望みを何一叶えてやれない事実からの逃避なのか、或いは無意味と知りつつも贖罪を求める衝動が故なのか。
それはもう、『僕』自身にも分からない事であった。
後ろめたさと罪悪感と後悔と……そんな感情に苛まれつつも、結局『僕』はルキナを『花畑』へと連れてきてしまった。
『花畑』を見たルキナが、ボロボロと涙を溢してしまった事には驚き焦ったけれど、それは負の感情からの涙ではなかった様であった。
しかし、ルキナが喜べば喜ぶ程、苦い痛みがこの胸に走る。
有り難うなどと、ルキナから感謝される資格など『僕』にある筈は無いのに……。
だがそれをルキナに言う事は出来なかった。
思い出の縁にと、ルキナは『花畑』の中から一輪だけ花を選んで摘んだ。
一輪とは言わずここにある花は全てルキナの為のものであるのだけれど、こうして芽吹き懸命に花咲く命を無闇に摘み取りたくないのだと、ルキナは言う。
……それはギムレーには持ち得ぬ感覚であったが、今の『僕』なら少しだけ分かる様な気がした。
たった一輪の花を愛し気に胸に抱くルキナの姿が、『僕』にとってはこの世で何よりも尊いものに思えるから。
……しかし、『僕』がこのままギムレーに浸食され消えてしまえば、今この瞬間に感じているこの想いも、やはり消えてしまうのだろう。
ギムレーは、『僕』にとっての大切なものを、愛しい存在を、踏み躙る事に何の躊躇いも持たないだろうから。
……そうなってしまう前に、どうか──
そっと願った祈りが叶うその時を、この花が『僕』にとっての葬送の花となるその日を……『僕』はずっと待っている。
◆◆◆◆◆
邪竜ギムレーは消滅し、世界は救われた。
死した人々が還る事は無いが、それでも今この瞬間にこの世界に生きる人々は間違いなく救われた。
命無き荒野と化した大地には緑と実りが甦り、この世の全ての命を再び育み始めた。
枯れ果てた大地には、地中に残されていたのだろう種から多くの草木が芽生え生い茂り、最早既に絶えていたと思われていた花々も甦った。
彩りに溢れた花畑を……かつての思い出の花畑と同じ場所に再び作られたそれを眺めて、ルキナはそっと目を伏せる。
視察として各地を巡っている最中に偶然立ち寄ったその村は、かつての絶望の世界でのあの荒廃しきった芋畑の面影すら無く、美しい色とりどりの花が四季を彩る花畑の姿となっていて。
それは、間違いなくこの世界が救われた証であると同時に、『彼』との思い出の縁がまた一つ喪われた事と同義であった。
……それに、何れ程美しい花畑なのだとしても、これはかつてのあの思い出の花畑でも無い。
人々の都合で捨てられた花は、再び人々の都合でそこに植え直された。
それを人の傲慢と言うのは乱暴に過ぎるが、やはり少し心に引っ掻き傷の様な小さな痛みの様な何かを感じてしまう。
だが、そんな感情を感傷を、表に出せる訳もない。
ルキナは、『世界を救った英雄』なのだから。
息苦しさと遣る瀬無さを感じるその称号を、捨てる事はルキナには赦されていない。
この世で何よりも大切だった存在と……『彼』と引き換えにして得たこの世界に対して、ルキナには負わねばならぬ責任があるのだから。
背負うものの重たさに押し潰されてしまいそうになった時に支えてくれたあの温かな手は、もうこの世の何処にも無い。
……それでも。
どんなに苦しくても、辛くても、ルキナは生きなければならない。
それだけが、あの日夕暮れの中に消えてしまった最愛の人へ、ルキナが唯一してやれる事なのだから。
かつて『彼』と共に見たあの真白の花園は、もう何処にも無い。
世界が救われて、そしてルキナが心の整理を付けた後に再びあの谷間を訪れた時には、もう『彼』が『不屈の花』と呼んだその花は何処にも残ってはいなくて。
あの白の思い出を上塗りするかの様に、様々な色とりどりの花々が風に揺れているだけであった。
その後、博識なロランから聞いた話によると。
『不屈の花』は確かにどんな過酷な環境であっても花を咲かせる事が出来る花ではあるが、逆に他の花々が繁茂する様な環境では次第に数を減らしてしまうのだと言う。
『不屈の花』は、過酷な環境であっても花を咲かせるのではない。
……過酷な環境の中でしか花咲く事の出来ぬ、……ある意味ではとても儚い花なのだ。
世界に恵みが満ちかつての世界に比べても過酷な環境が減ってしまった今、ペレジア国内でも『不屈の花』は数を減らし、もうペレジアとフェリアの一部地域にしか『不屈の花』は咲いていないらしい。
そして、『不屈の花』がギムレーへの捧げ物として好まれていた花であった事もあって、ギムレーを忌み嫌うイーリスではおろか、崇めていた筈のギムレーによって生き地獄を味わう事になったペレジアの民にとっても、『不屈の花』は忌まれる対象になってしまっていた。
花をギムレーに捧げていたのは人の勝手な行いであり花に罪は無いと言うのに、それでも人々は花に悪意を向ける。
それは人の業と言うものなのだろうか?
……それはどうしようもなく哀しい事だと、ルキナは思うのだ。
あの日一輪だけ手折った花は、今も押し花にしてルキナの手に残されている。
たったそれだけしか、あの日の縁となるものはこの世には無い。
今も尚あの日の美しさを残すその白い花弁を眺めていると、不意にどうしようもない程の哀しみと苦みに襲われる。
『不屈の花』が葬送の花でもある事を、『彼』は知っていたのだろうか。
あの真白の花園を見詰めている時、その心にあったのはどんな感情だったのだろうか。
あの花園を、どうしてルキナに見せようなどと思ったのか。
何度胸の中で問い掛けても、答えなど返ってはこない。
記憶の中にしかもう居ない『彼』が、答えを返せる訳もない。
それでも、何時か。
『彼』の縁となるこの花を手離さなければ。
……例え遠い遠い未来であっても、死者の世界に渡ったルキナの魂が再びこの世に生を受けた先の……そんな遥か遠くの事になるのだとしても。
また何時か、『彼』に巡り逢える様な、そんな気がして。
ただ一つ遺されたその縁を、ルキナはそっと優しく抱き締めた。
◆◆◆◆◆