シュバルツバースでシヴィライゼーション 作:ヘルシェイク三郎
ヒューヒューとかすかに空気の漏れ出る音が、"怪物"の口から聞こえてきた。
醜悪な手足と白髪の人面を持つ巨大な蛇の"悪魔"だ。カンバリ様に聞くところでは、堕天使"ベテルギウス"というらしい。
その堕天使が金色の羽根を持った巨鳥との壮絶な格闘の末に、今や巨鳥の鋭利な鉤爪と嘴で押さえつけられてしまっていた。
喉元に食らいつく巨鳥の嘴が、"ベテルギウス"の呼吸を容赦なく阻害する。
巨鳥の拘束から逃れようと、"ベテルギウス"も手足をばたつかせているが、一矢報いるまでには至らないようだ。
巨鳥の嘴が"ベテルギウス"の喉元から離れた。呼吸をしようと精一杯に口を開ける"ベテルギウス"の顔を、巨鳥が金色の羽根で強かに打ちつける。大地に押さえつけられた"ベテルギウス"の首を、今度は鉤爪が押さえ込んだ。
再び、阻害される呼吸。窮地に引き戻された堕天使に対し、自由になった巨鳥の嘴がさらなる追い討ちをかけた。
まず、両の眼が突き潰される。悲鳴をあげることもできず、"ベテルギウス"の眼孔から青い血飛沫が吹き出した。
次に手足が食いちぎられる。道化を思わせる黄斑が浮かぶ体皮に新たな血色の斑点が飛び散っていった。
「うわあ」
と呻くより他に反応のしようがない、まさに大自然の縮図である。実家の近所ではたまに上空より飛来した猛禽類がカラスや鳩を標的にしてあれと同じことをやっていた。
2体の"悪魔"が暴れ回ったことにより滅茶苦茶になってしまった"箱庭"の惨状や、他のことも含めて、どうしてこうなったと嘆息せざるを得ない。
「何だ、この空間は……。地上――? いや、地上に良く似た空間なのか……? 何故、シュバルツバースの中に?」
後に続いて"箱庭"へと飛び込んできたタダノ君を含む"レッドスプライト"クルーたちが呆然とする中、小生は手早く"箱庭"の現状を確認していった。
運び込んでいた資材が、ぐちゃぐちゃに散乱してしまっている。さらにあちらこちらに"タンガタ・マヌ"さんや"スダマ"であったはずの残骸が転がっていた。その数、10や20ではきかないかも知れない。
彼らもこの場所を守るために戦ってくれたのだろう。
小生は先だって、彼らに畑仕事を手伝ってくれた礼をしたいと約束していたというのに……。何も返せず、彼らは死んでしまった。
虚空を見つめる仲魔たちの亡骸に、申し訳なさばかりが先に立つ。
「トラちゃんさん、彼らは……」
もしやと思いトラちゃんさんに呼びかけるが、彼女は悲しげに頭を振った。
「……蘇生は無理。時間が経ちすぎてるもの。でも、こいつらは後悔してないわよ。それだけは分かるのよ」
そう言って、彼女は自身の細い手を横に振るう。すると無数の亡骸がほのかな光を発し、白い砂へと変わっていった。
「これは」
「死によるケガレを"浄化"してあげただけ。後で、きちんとお墓作ってあげて」
「それは、はい。勿論……」
墓はトウモロコシ畑の傍が良いだろう。何せ、あれは彼らが手ずから耕してくれた土地なのだ。しかし、肝心のトウモロコシ畑の現状は全てが薙ぎ倒され、あるいは踏みつぶされており、もう全滅と言って差し支えないものであった。
「折角みんなで作ったのに……」
トラちゃんさんの声色は、悔しさに沈んでいた。
下手な慰めは逆効果であるかも知れない。だが、小生はそれでも声をかけずにはいられなかった。
「また、作り直しましょう」
「分かってるけど……」
「大丈夫ですよ。"タンガタ・マヌ"さんたちの分も、小生らが頑張ります。幸い、隊員に被害は出ていないようですし、ね?」
と同僚たちの方を見ながら小生は言う。
一見したところ、"エルブス"号の後方人員たちに大きな被害は出ていないようであった。負傷者こそ出ていそうだが、重傷者は見当たらない。
小生は居残り組のもとへと向かい、彼らの無事を喜んだ。
「皆さん、ご無事で何よりです!」
「嘘だろ、ヤマダが生きて帰ってきたぞ……」
「お前、俺もう死んだかと……」
「後ろの彼ら、本隊の救援を連れてきてくれたのですか? 大手柄じゃないですかっ!」
恐らくは決死の判断で出ていったためだろうが、駆けつけた瞬間、瞳に涙をにじませた同僚たちに揉みくちゃにされた。
ゼレーニン中尉に至ってはこちらの手を取り「貴方こそ、良くご無事で……。もう何もかも、私の前から消えてしまうんじゃないかと……」と号泣までしてしまう程だ。
この大歓迎を予想してなかった小生としては、些か反応に困ってしまう。
「おい、ヤマダ。再会を嬉しく思うのもわかるが、今は優先させるべきことがあるだろ」
「へ、タダノ君? ああ。えっと……、そうだ! 一体何があったんです?」
あたふたとしながら小生は問いかけた。
聞きたいことは山ほどあるのだ。
例えば、中尉や他の皆がどうやってこの窮地を乗り切ったのか。
例えば、あの金色の巨鳥は一体何なのか。
そして……、中尉の後ろに静かに控えている赤い甲冑を着込んだ男性は何処のどなたなのか?
そう、小生らの"箱庭"に何やら見慣れぬ存在が居座っているのだ。
あの人、背中からは羽根が生えているし、どう考えても"天使"っぽいんだよなあ……。
小生は内心面食らいながらも考える。
確か、艦長たちがこちらに向けた通信の中で、"天使様"の力を借りることができたと言っていたはずだ。ならば、中尉の後ろに浮かんでいる彼も、その一人である可能性が高い。
ただ、何故このタイミングでやってきたのか? という疑問が残る。いや、もしかすると先だって艦長が無差別に発していた広域通信には、こちら側に"天使"を派遣するための逆探知という意図があったのかも知れない。
そう考えると一応のつじつまは合う。しかし……。
素朴に考えるならば、絶妙のタイミングでやってきた頼もしい味方であったが、その反面、穿った見方をするならばタイミングの"良すぎる"援軍でもあった。
だからこそ、彼らの立ち位置ははっきりさせておかなくてはならないだろう。
中尉も小生の疑問に気がついたのか、
「ああ……。ええ、そうね。本当、色々ありすぎて。一から話を整理していった方がいいかもしれないわ」
と彼女らの奮戦について、ぽつりぽつりと語りだした。
まず、小生が決死の防衛戦に赴いてより半日後――驚いたことに小生は半日もあの鉄火場で戦い続けていたらしい――に、"箱庭"と何処かを繋ぐ異次元の通路が突如として出現したそうだ。
「トラちゃんさんが出入り口を塞いだのに、一体何故穴が空いてしまったのでしょうか……?」
「それについては、理論的に説明ができると思う……。その、観測班の班長とも少し意見を交換したのだけれども、歓楽街の世界とは別の"近い次元"と繋がってしまった可能性が高いわ。このシュバルツバースは"多層構造"になっているのかもしれない」
「"多層構造"……?」
この地がいくつもの小宇宙に分かれている、ということは以前トラちゃんさんが言っていた。
小生のイメージとしては銀河系みたいなものがいくつもランダムに散らばっている様を想像していたのだが、どうにも彼女の言を信じるなら、もっと秩序だって、隣りあっているもののようだ。
彼女の説明を、さらに観測班の男性が補足する。というか班長だったのか。知らなかった……。
「この"箱庭"の脆弱性が露呈したのは、女神様の不手際でなく、我々の短慮が原因である可能性が高いと思います。ヤマダ隊員が外へ向かった後、ごく短時間ですが何人かが貴方に通信で呼びかけていたんです。それを、"悪魔"が感知されたのだと考えると、すべての説明が付くでしょう」
彼の口調には多少険が混じっていた。中尉や何人かがすまなそうに俯くところを見れば、誰が犯人かは明白だ。無論、糾弾する気になど到底なれなかった。
小生の身を案じてくれた相手に辛く当たれるはずがない。むしろ、その中に動力班の青年が混じっていたことが、不謹慎ではあるが嬉しかった。
「とにかく、空いてしまった異次元の通路から、あのおぞましい"悪魔"が侵入してきたの。あれは突然の事態に驚く私たちに襲いかかり、私たちをかばったネモが殺されてしまったわ……」
中尉が"バケツ頭"に涙を滴らせる。
見れば散らばった資材の陰に、八つ裂きにされた"ゴブリン"、小生が言うところの根元が力なく横たわっていた。飛び散った肉片が整えられているところを見るに、多分中尉が身体をかき集めて回復と蘇生を試したのだろう。だが、手遅れだった。
「それで、ネモが死んでしまったことに私も動揺して、結局私も殺されてしまって……」
「ああ、"アケロンの河"に中尉が行ってしまったのは、そのタイミングですか」
「"アケロンの河"というの? あそこは。今ここにいられているのは、貴方のお陰なのでしょうね。気づけば私は"死ぬ前に戻り"、殺されて"いなかった"ことになっていたわ」
「ん、ん、どういうことです?」
首を傾げて追求するに、どうやら"アケロンの河"から送り戻された者は、過去とこれからの因果関係が生存に結びつくよう書き換えられてしまうらしい。
例えば、今回の場合は堕天使の攻撃を受けたものの、運良く致命傷には至らなかった、という風に。
成る程、これは確かに蘇ったというよりは"死ぬ前に戻った"と表現する方が正しい。何故なら、当人以外からしてみれば殺されたように見えないのだから。
「致命傷を避けた私の傷は、"アプサラス"が癒してくれたわ。そして、異常に駆けつけた"タンガタ・マヌ"や"スダマ"とあの侵入者が戦いを始めたのよ」
結果は、この惨状を見るに予想できた。"タンガタ・マヌ"も"スダマ"も、トラちゃんさんやカンバリ様と比べてしまうと戦闘能力が心許ない。
あの堕天使と相対するには力不足にも程があったろう。それでも隊員たちに被害が出なかったのは、彼ら決死の奮闘と"アプサラス"や"リリム"の回復支援能力があってこそであった。また、堕天使のまき散らす厄介な状態異常の異能に関して、観測班の班長が戦時解析を行い、ドクターが医術的な防御をとっさに施せたことも大きかったそうだ。
「え、ドクターたちが?」
「ええ、資材班もインフラ班も、動力班の彼も、自分たちにできることをやったわ。だって、もう他に行くところもなかったもの」
背水の陣に置かれ、鉄火場の空気に適応したということだろうか?
元々、エキスパートの集まりであったシュバルツバース調査隊だ。状況さえ整えば、それほどのパフォーマンスを発揮したとしても不思議ではないのかもしれない。
「――でも、一手足りなかった」
中尉が俯く。
彼ら、彼女らには堕天使の攻撃に持ちこたえる知恵と団結力はあっても、敵を退散させるまでの力はなかったのである。
戦場は持久戦の体を為し、"タンガタ・マヌ"と"スダマ"たちが次々に倒れていく中で、このままでは拙いと悟った"アプサラス"がとある提案をしたそうだ。
「"悪魔合体"を行ったのよ。"アプサラス"と"タンガタ・マヌ"を材料に――。それで生まれたのが、あの霊鳥"スパルナ"」
中尉は苦々しい表情で、自らを咎めるようにそう言った。
「"悪魔合体"ですか」
「ええ……。大事な仲魔を混ぜ合わせるなんて。そんな人体実験みたいな非人道的なこと……。私は絶対に嫌だったのだけれども、彼女がそうするより他に手はないと」
彼女の苦悩はよく理解できた。そもそも"悪魔合体"という概念についてトラちゃんさんから聞き知った時に浮かんだ小生の感想も、嫌悪が勝っていたのだ。仮に合体が行われたとして、元の人格はどうなるのか? 消え去るのか、それとも融合するのか。いずれにせよ、人の感覚でそれは、おぞましいものとしか映らない。
小生は"ベテルギウス"の肉を啄み、高らかに鳴く"スパルナ"へと目をやった。
雄々しいとは感じるが、その何処にも合体元になった2体の面影は感じ取れない。いや――、
「多分、残っていますよ。あなたと彼女の絆は」
「え?」
小生は"ベテルギウス"の組み敷かれている地面へと彼女の注意を促した。
もがき苦しむ堕天使の身体を"スパルナ"は力任せに押さえつけている。まるでその場から一歩たりとも動かさぬように。
小生は言う。
「相手の体力を奪うことが目的ならば、なるべくもがかせた方が良いんじゃないでしょうか。でもあんな風に無理矢理押さえつけているのは……」
恐らく、あれは"箱庭"への被害を最小限に押さえるためにやっているのだと小生は当たりをつけた。トウモロコシ畑を、そして仲魔の亡骸をこれ以上傷つけないために"彼ら"、もしくは"彼女ら"は戦っているのである。
仲魔を思いやる心があって、絆が存在せぬ訳がない。
小生がそう指摘すると、中尉は"アプサラス"の名を小さく呟いて、黙り込んでしまった。
「ちょっといいか?」
と、ここでタダノ君が事情聴取に割って入ってくる。
「貴方は、確か……」
「"レッドスプライト"クルーのタダノ隊員だ。まだ敵の"悪魔"が健在である以上、手早くとどめを刺してしまいたい。話を聞く限り、君があの"スパルナ"のサマナーだろ? 俺たちが援軍にはいるから、俺たちのことを敵ではないと、あれに呼びかけてもらいたい」
「わ、分かったわ」
中尉は至らなかったと焦りながら、"スパルナ"に大声で呼びかける。すると、黄金の怪鳥は了解したとばかりに堕天使の首元を動かぬよう嘴と鉤爪で固定してみせた。まるでここを狙えとでも言わんばかりに。
タダノ君が苦笑する。
「……あれは、間違いなく君の仲魔だな」
その言葉に、中尉も静かに頷いた。
かくして、一転優勢にあった"箱庭"の防衛戦も、外と同様に調査隊の勝利をもって幕を閉じる。
"レッドスプライト"クルーの参戦が駄目押しの一手となった。既に堕天使からは戦闘能力のほとんどを奪っていたが、先の"オーカス"が隠し玉として捕食回復能力を持っていたように、"悪魔"との戦いでは何が起きるか分からない。タダノ君たちの集中攻撃を経て、アンソニーが堕天使の心臓を突き潰したところで、ようやく小生らは敵の絶命を信じることができた。
「タイリョウノニクダ! ニクラシイヤツメ!」
と勝利の雄叫びをあげて早速人面の蛇肉にがつがつと食らいつく"シーサー"のことはさておき、
「それで……、そちらの甲冑のお方はどちらさまで?」
と小生は肝心な部分に切り込んでいく。
トラちゃんさんが"箱庭"の穴を塞ぎ、仲魔たちの生き残りや同僚の皆が戦後処理に追われている中、皆の手伝いをしようとしていた中尉は小生に呼び止められて、何とも説明しがたいという風に言葉を濁した。
「ええと。それは私にも良く分からないのよ。ただ、戦闘の途中から、私たちのことを守ってくれていたみたいだわ。あ、あと守ってくれたと言えば突然宙から現れた小さな女の子も不思議な力で私たちのことを――」
「ち、小さな女の子っ? か、彼女は無事なんですか!?」
「えっ、えっ?」
思わぬ事実に小生は驚愕し、本題も忘れて問い詰めた。この"箱庭"に居着いた小さな女の子といえば、彼女以外にあり得ない。
小生は色を失って、彼女の名前を呼んだ。
「……花子さん! 花子さん! 無事でしたら返事をしてくださいっ。花子さん!」
だが、返事を待てども返ってこない。責任感が小生の心にずんとのしかかってくる。彼女が歓楽街からこちらへと越してきたのは、間違いなく小生の一言が原因だ。それで彼女が巻き添えになって死んでしまっていたら、彼女にどう詫びたらよいか分からない。
「花子さんッ!」
焦りの募る小生の視界、資材の残骸でできたバリケードの陰に、ひょこりとおかっぱ頭が少し覗いた。
「あっ」
彼女は自分の口元に人差し指をあて、「しー」というジェスチャーを取っている。まだ、人前には出たくないということなのだろうか。何にせよ、
「無事で良かった……」
心の底から安堵した。"悪魔"であっても、小生からしたら彼女は子どもだ。子どもが傷つく姿は、ましてや死んでしまうところなど、絶対に見たくない。
「……ヤマダさん?」
「いえ、何でもないんです。ただ、今はまだ言えないんですけど、もしかしたら仲魔が増えるかも、と」
「そうなの……、彼女が」
中尉が目を細めて、気丈に微笑んだ。辛いことばかりの中で、笑顔を作るのはエネルギーが要る。彼女は笑顔を作れる女性のようであった。
と、ここで中尉の後ろから咳払いが聞こえてくる。
"天使"らしき甲冑姿の男性が発したものであった。
「あ、申し訳ありません!」
「いえ……、それは構いません。邪悪なる存在にも礼儀を尽くし、恩を知り、隣人を憂い、愛することに問題などあろうはずがありませんから」
言って彼は槍を下ろし、羽根を閉じて地に足をつける。
そうして小生らと同じ目線に立った後、槍を持たぬ手を胸に当てて自らの名を名乗った。
「私の名は"パワー"。主の御声に従い、汚れた大地に楽園を作らんとされている"マンセマット"様の命により、人の子らを救うべくこの蛮夷の空間へと駆けつけた者です」
「救う、と言いますと。やはり我々に手を貸してくださるということでしょうか……?」
「ええ、常に我々は人の子に寄り添う存在ですよ」
いくつか気になる発言がありはしたが、敵でないことは確かなようだ。小生と中尉が頭を下げて礼を言うと、"パワー"は鷹揚に上品な笑い声をあげた。
「……貴方たちは良い霊をお持ちのようですね。それでこそ私が駆けつけた甲斐があるというものです。いずれは"マンセマット"様もいらっしゃると思いますから、疑問があらば、あの方に直接お聞きなさると良いでしょう。とても寛大なお方です」
そう言って彼は再び羽根を広げると、出口に向かって飛び去っていった。
そこに、穴を塞ぎ終わったトラちゃんさんが合流する。
いや、どうにも彼が立ち去るまで敢えて見ない振りを決め込んでいたようにも見受けられた。いつもの彼女なら、物怖じせずにずけずけと突っ込んでいるはずなのだが、苦手意識でもあるのだろうか?
……これはやぶ蛇にあたる疑問だろう。小生は気づかない振りをして、トラちゃんさんと向き合った。
「"天使"の奴、何て言ってた?」
「ああ、はい。いずれ、"マンセマット"という方がいらっしゃると」
「うげ」
"天使"の発した名前を聞いたトラちゃんさんが、見るからに嫌そうな顔をした。先ほどの振る舞いも含めて、顔見知りが多いのかもしれない。
「確か……、偽典に叙述される古い天使の名ですね。"マンセマット"とは」
「知っておられるのですか、中尉は」
「え、ええ。ただ私の知る限りでは、あまり私たちに力を貸してくださるようには思えないのだけれど……」
中尉が言うには"マンセマット"、またはマスティマとは人間に試練を与えるために、悪魔や災害をけしかける天使なのだそうだ。
「"悪魔"を使役し、試練を与える天使ですか」
名が体を表すこのシュバルツバースにおいて、この伝承は忘れるべきではないだろう。何よりも、先ほど小生が抱いていた疑問に一通りのつじつまが合ってしまうのだ。
「ヤマダさんは……、あの"天使"をどう思ったの?」
「あの"天使"を、ですかあ」
中尉に言われて、小生は考える。気づけば、トラちゃんさんも小生の返答を気にしているような素振りを見せていた。
「悪い御仁ではないと思います」
これは素直な感想だった。この目に映るものがほとんど敵であるシュバルツバースにおいて、ただちに襲いかかってこない時点で小生としては万々歳である。
それに、これは霊性の問題なのだろうが、不思議と波長が合うということもあった。ただ、
「洗練され過ぎているんですよね。トラちゃんさんたちと比べると――」
「ちょっと、それどういうことよ! アタシの何が悪いって言うのっ!!」
「そうよ、ヤマダさん! その言い方は私たちの女神様に失礼だわ……」
どうやら思考しながらの発言であったことで、若干言葉が足りていなかったようだ。
非難轟々にさらされた小生は、慌てて弁明を始める。
「ああ、いえ! 良い意味で言っているのではないんです。むしろ、トラちゃんさんはそのままがいいです」
「は、どういうことよ?」
半眼で睨む彼女に対して、小生は言った。
「"洗練"って礼儀作法の一環ですから、ちょっとした失礼を隠してしまうんです。要するに、本心が読めないんですよね。近い感覚で言うと、同じ領域でボランティア活動を行っている、他国の政治団体や宗教団体と接している感覚が近いです」
説明を続けているうちに、小生の思考も徐々に答えを形作っていく。
そうなのだ。トラちゃんさんやカンバリ様は何というか素朴で、欲望や目標があからさまなのである。言うなれば利益の直結した地元の町内会、または出会いがメインの中高生や大学生にいるボランティア族ウェーイ系か、余生を楽しむ老人会。
それに対して、"パワー"はその内心までは読みとれなかった。典型的な信用はできても信頼はできない人物のパターンに当てはまってしまっている。
「成る程……。って、ん、ん? それって要するに、アタシは信頼できても信用はできないってこと?」
「はあ、それはまあ」
と受け答えしてから、失言に気がつく。案の定、「何でなのよ!! おバカっ」と殴られてしまった。
◇
"箱庭"の防衛には増援のブレアが当たることになり、小生は予定にあったように最重要人物として"レッドスプライト"号へと護送されることになった。他の同僚たちは複数回に分けて護送される手はずになっているようだ。中には「折角、ある程度安全の確保された現地でフィールドワークができるのにわざわざ艦に移る意義が感じられません。むしろ機材がこちらに来い」などとのたまう豪の者も見受けられたが、そんな存在は少数派である。というか、狂信者と理系脳くらいだ。
大多数は大喜びで、旗艦への受け入れを待ち望んでいた。
「それじゃあ、アタシはここで待ってるから」
鋭角なフォルムをした"レッドスプライト"号のタラップ前で、トラちゃんさんが腰に手を当てながらそう言った。
「トラちゃんさん、すいません」
小生はひらに頭を下げる。
甚だ不本意なことであったが、彼女の乗艦許可が下りなかったのである。
何でも規約とやらで艦内の"悪魔"召喚は禁じられているそうだ。デモニカのデータ内に収納された状態ならば乗艦も許可できるようだが、そもそも彼女をデータ内に押し込めるという行為に、小生の嫌悪感が勝った。
故にこうして艦の前で待機してもらうことになったわけである。
「平気よ! 人の子にだって決まりがあるんでしょ。それより、変なアクマがやってきたら、アタシがやっつけてあげるから。なんたって、アタシは信頼も"信用"もできる女神様なんだからね!」
そう言って、彼女は力こぶを作る。どうやら先だっての失言を根に持っているらしく、道中でずっと"信用"云々と語っていた。
これには護衛についていた"レッドスプライト"クルーも苦笑いである。
「お宅の女神、変わってるよな。可愛いから、全て許すけど。何せ可愛いもん」
アンソニーはトラちゃんさんに対して好印象を抱いているようであった。いや、彼の場合は好印象というよりも未だ懸想している可能性もあるのだが。
小生が「はは、比較対象がいないので、何とも……」と曖昧に濁していると、タダノ君が少し思案して口を挟んできた。
「彼女の種族はさておいて……、多分、女神にはこんな手合いが多いと思うぞ。いや、変な口癖がない分、むしろ普通といって良いかもしれない」
「おい、タダノの知り合いにも彼女みたいな娘いるのか!? ……紹介してくんない?」
「"おいしいお肉"とやらになりかければ、チャンスがあるかもな。お勧めはしない」
タダノ君はそう言って話を切り上げると、タラップを上り終えたところで振り返った。
「俺たちはここであの悪魔と留守番だ。ヤマダはこのまま乗艦してくれ。艦内は機動班員が案内してくれる手はずになっている」
「分かりました、えっと」
今生の別れというわけではないが、まさかの再会に名残惜しさを感じた小生は、タダノ君に何と呼びかけたものか言い淀む。そして、「トラちゃんさんのことを宜しくお願いします」と頭を下げて、"レッドスプライト"号に乗り込んだ。
ライトに照らされた降車デッキは、残骸と化した"エルブス"号とは対照的に文明の息吹が感じられる。小生はほっと息を吐いた。正真正銘、人間が作った人工物の匂いを久方ぶりに嗅ぎ取ったからだ。
「ウェルカム、"レッドスプライト"号へ。ヤマダ隊員だな?」
小生を一番に出迎えてくれたのは機動班の男性だった。
「どうも、えっと。機動班班長のマッキー隊員でしたよね?」
「良く覚えているな。南極入りしてからは顔合わせもしていなかったと思うが」
「一度、ニュージーランドのスコット
小生の答えに、マッキーは一応の納得ができたようで、すぐさま小生を艦の奥へと誘った。
途中、資材班の男性が「離すぜよっ! 何か良いフォルマを持ち込んでないか、ワシ直々に掛け合いたい!」と揉めていたが、小生に関係のある話ではないだろう。多分……。
マッキーは資材班が起こした揉めごとを困ったように見つめながら、
「ポジティブなのは良いことなんだがな……。物事には優先順位というものがある」
と小生を医療室へと連れていく。って、医療室?
中には顔を見知った短髪の女性と一方的に顔を知っている長髪の女性、そして短髪の青年が待機していた。
小生の入室に、顔見知りの女性が口をあんぐりと開ける。
「うそ、ほんとヤマダ君だ……」
「メイビーさん! 貴女も無事だったんですね……」
「ん、知り合いなのか……?」
マッキーが片眉をぴくりと持ち上げ、小生らの反応に首を傾げる。色々な可能性を考えているようだが、別に特別な何かがあるわけでもない。学生時代に同じ研究室に所属していた後輩であった。
マッキーも小生の説明を聞き、「ああ、そうか。同じインフラ班だったな」と再び納得し、思案する。
その様子に「ん?」と思いながらも、もう一人の女性である医療班の班員から、呼び出された理由についての案内を受けた。
「これからあなたには簡単なフィジカルチェックとメンタルケアを受けてもらいます。長期間艦外で活動していたそうだから、その影響を知りたいのよ」
「はあ」
言われるがままに頷いた小生は、デモニカスーツを脱いで清潔な衣服に着替えていく。
「この流れ、何故だか山猫がやってる料理店を思い出しますね」
「ケンジ・ミヤザワの?」
補佐という名目で小生の着替えについてきた青年が問うてくる。確か名前はウルフと言ったはずだ。
彼は親しげに笑いながら、「クリームはないから安心しな」と冗談を飛ばしてくる。
小生も釣られて笑い、支度を終えたその足でメンタルチェックを終えていった。
「身体的には異常がありませんでした。次はメンタルケアを行っていきます。もう少しですから、我慢してね?」
医療班の女性はそう言って、検査用の機材を並べていく。
まずは口頭での検査が行われた。
「貴方の名前と生年月日、ご家族の名前と出身を聞かせてください」
小生がこれに答えると、検査用紙に女性が結果を書き込んでいく。
さらにインタビューは続けられた。
矢継ぎ早で2択や3択を求められる質問や絶対に答えのでなさそうな選択を持ち時間5秒で突きつけられ、小生は若干困惑しつつも答えていく。
「このインクの染みは何に見えますか?」
小生も知っているロールシャッハ・テストだ。困惑が深まる。
P-Fスタディ、文章完成法、矢田部ギルフォード性格検査、ゲス・フー・テスト……。困惑が疑惑へ変わっていく。
多分、小生は何かを"疑われていた"。
だが、不満を口に出すことはしない。何がやぶ蛇になるか分からなかったからだ。ただ、胃腸の痛みに耐えつつ、作り笑顔で検査に応じる。
こうして長々と続けられた検査が終わり、
「……本当にお疲れさま。これで検査は終了よ」
と女性に解放される頃には、たっぷり2時間はかかっていた。
しゅんと落とした小生の肩を、部屋の隅に待機していたメイビーさんが叩く。
「ヤマダ君、お疲れ!」
「メイビーさん――。いや、正直疲れました……」
そのやりとりを見た医療班の女性が疑問を口に出す。
「アナタたち、先輩後輩の間柄なのよね? あまりそうは見えないのだけれど……」
「だって、この人ってあまり先輩っぽくないですから。ゾイさんにもそう見えるでしょ?」
「あー……」
何故かメイビーさんの軽口に、医療班の女性が納得してしまった。何でだ。ただ、同時に救われた気分にもなる。
恐らく、メイビーさんは意図して軽口を叩いたのだ。小生を人畜無害であると。彼女は在学中から苦労してきた背景があり、人の気配にはかなり敏感だった。
「検査が終わったのならば、管制室に向かおう」
一心地ついたところで、マッキーが小生に声をかけてくる。
「えっと、このままの格好でですか?」
「ああ、デモニカスーツを着る必要はない」
これも警戒心の現れだろうか……? ただ、駄々をこねられる状況でもないために素直に彼の案内に従う。
管制室には機動班の班員が数人と、作戦班の面々が小生を待ち受けていた。
どうやら、小生の応対は主に作戦班の二人が表に立って行うようだ。片方は小生と同じ日本人の男性であり、複雑そうな面もちで頭を掻いている。もう片方は肌の浅黒い女性で、こちらを見通すような眼で冷徹な表情を作っていた。
「……どうも。この度は救援を寄越してくださり、ありがとうございます」
黙っていても仕様がないため、まずは小生から彼らに対して頭を下げる。
すると、日本人男性が苦笑いして返してきた。
「参ったな……。でも、そりゃあそうか。お前が警戒するのも当たり前だよ。個人的に、こうして再会できたことは素直に嬉しいんだ。スコット基地振りかな。ウェルカムバック、ヤマダ隊員」
「はい、南極突入前ブリーフィングで一度お会いしたかと思います。そちらこそ、ご無事で何よりです。カトー隊員」
肌の浅黒い女性は、そのやりとりを無表情で観察していた。この態度の違いを見るに、もしかすると典型的な
少し目を落として、小生は続ける。
「それで、小生は何をお話すればよいのでしょうか?」
「今までの経緯を全て。アナタがこれまでに知り得た情報を全てお願いするわ」
「喜んで」
何が彼女らの警戒心に繋がっているのか分からない現状、下手な隠し事は互いの溝を深めるだけだ。小生は、母艦を襲ったアクシデントからトラちゃんさんとの出会い、今に至るまでの全ての経緯を洗いざらいに白状する。
"レッドスプライト"のクルーたちは小生のもたらした情報に、いちいち目を丸くしては「え、何だって?」と難聴のごとく声をあげていた。そりゃあ、黒豚から謎肉を精製するくだりと、トウモロコシ畑の存在や"アーシーズ"の土壌成分なんかを聞かされれば、拍子抜けしないはずがない。小生だって、逆の立場ならば同じ反応をするはずだ。
だが、彼らが何を知りたがっているか分からない以上は、こういう些末な情報をも提供した方が良いのは疑いようがない。
「……謎肉はトウモロコシ粉で揚げ物にすると美味しかったです。トウモロコシ粉の団子との相性も大変よくて」
「マジか。いや、その情報は多分必要ない。必要、ないよな? "アーサー"……?」
『いえ、いかなる情報にも価値があります。続けてください、ヤマダ隊員』
あ、やっぱり聞いていたのか。この艦のAIも。
小生が"アーサー"に対しても挨拶すると、彼も『遅ればせながら、ウェルカム』と返してくれた。
しかし、どうにも今のやりとりから察するに、この尋問の企画者は"アーサー"であるようだ。一体、彼に疑念を抱かせるに至ったものは何であるのか?
首を傾げながら、話は4号艦の生き残り救助や、艦長らからの通信、防衛戦にまで続いていく。
そして全てを語り終えたところで、浅黒い肌の女性がようやく表情を崩した。
「個人的見解から言えば、彼は"シロ"ね」
「"シロ"……、ですか?」
小生が問い返すと、女性は先ほどよりも表情豊かに返してくる。
「アナタが悪魔に精神を乗っ取られている可能性について」
「は、へ!?」
どうしてそのような可能性を危惧されていたのだろうか? 脳裏で疑問符の踊る中、"アーサー"が答えを提示してくれる。
『不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。ですが、ワタシたちはあなたたちを疑うに至るいくつかの情報を得ていたのです。実は、あなたたちの存在は救援に赴く27時間15分8秒前から既に察知していました』
と告げるや否や、艦内モニターに彼らが録画したと思しき映像が再生される。
そこには小生がディオニュソスさんと抱き合い、『ロンリネス』やら『プライスレス』やらと叫ぶ姿が映し出されていた。
「こ、これは……」
『疑惑を抱くに至った根拠のひとつでしたが、これはアルコールによる一時的な酩酊や錯乱の類と判断ができました』
映像が移り変わり、"エルブス"号の機動班が"悪魔"たちと戦闘している映像へと移り変わる。
『我々の後ろには何がある! 怯むな、守るぞ!! 突撃を敢行する。ゴー、ゴー、ゴー!!』
リーダーが臨機応変に指示を下し、他の面々がマシンガンを撃ちながら、背を低くして接近攻撃と遮蔽物を利用した回避を繰り返している。"ゴブリン"や"ハーピー"といった仲魔たちによる支援も見事にはまっていて、"悪魔"の群れがバターブロックのように溶けていく。
その大活躍の中にあって、水際だった働きを見せているのは"ギガンティック"の青年だった。
『雑魚が俺の邪魔をするんじゃねえッ! "ハルパス"ッッ!!』
『分かっておる! 肩慣らしにも成らぬ有象無象には――、ヒートウェイブよッ!!』
"ハルパス"さんの細剣が閃き、一瞬にして無数の敵が首をはねられた。辛うじて絶命を避けた生き残りの胸を青年が正確にナイフで貫いていく。
"ハルパス"さんもさることながら、青年もまた、ちょっと洒落にならない強さだった。
小生と同じく視聴していた"レッドスプライト"のクルーたちも、その戦い振りに顔をひきつらせている。いや、毛色の違う一人の青年は、ヒューと口笛を吹いていた。確か、ヒメネスという傭兵だったはずだ。
映像の中の戦闘が落ち着いたところで、"アーサー"が再び言葉を発する。
『彼らとの接触を行おうと試みる寸前。ちょうど、この戦闘の直後ですが、"エルブス"号の艦長からの広域通信に気になる文言がありました。天使と名乗る知的生命体の存在についてです。ワタシたちは、この通信を傍受したことで即座の接触を見送ったのです』
更にと彼は続け、映像が移り変わる。その映像に、小生は「あっ」と声をあげた。
その映像はまさしく、トラちゃんさんが能面のような表情で"悪魔"の軍勢を虐殺している最中の映像であったからだ。
『自らを"悪魔"と名乗る知的生命体。"天使"と名乗る知的生命体。そして、"女神"と名乗る知的生命体――』
"アーサー"が無機質な音声のままに言葉を続ける。
『ワタシは、このシュバルツバースにて人外の存在が覇権争いを繰り広げている可能性を考慮に入れました。そして、人間を戦争の駒として利用するつもりなのではないかという、危険性をも……。ヤマダ隊員、あなたは自身が操られていないと自信をもって言い切れますか? あなたは悪魔を使役しているのですか? それとも使役されているのですか?』
小生の喉から乾いた息が漏れ出た。
次回で多分話が大きく動きます。