シュバルツバースでシヴィライゼーション 作:ヘルシェイク三郎
だいぶ積載オーバー(タンガタ・マヌさん成分強め)気味の調査車両が道無き道をガタゴトと進んでいく。
荒涼たる大地にぽつりとそびえる摩天楼にも似た巨大なショッピングモールはもう目と鼻の先である。およそ1時間もかからずにその外縁部へと到着することだろう。
カグツチの発光する空を野良の飛行悪魔が羽ばたいて通り過ぎる。気味が悪いほどに順風満帆だ。しかし、こういう時ほど要らぬアクシデントに見舞われるものだと小生の人生訓が警鐘を鳴らしていた。例えば、駐車場ってあるのかな……? いや、路駐でいいのか……? 何処か公的機関から苦情とか来たりしない……?
小生が杞憂にウンウン頭を悩ませていると、全開にした窓の外から、小気味好い口笛が聞こえてきた。
先刻、道中で拾ったエノキさんによるものだ。この音色は聖歌の635番かな? 細身の体を上機嫌に揺らし、空を見ながら熱演しておられる。
あの曲、確か「さばきの日は近付けり」とかいうタイトルだった気がする。このシュバルツバースでそのチョイスは色々と皮肉が効いていすぎると思うんだよなあ。
見るからに上機嫌なエノキさんは、これまた上機嫌なままに口を開いた。
「良い風が吹いているんだよね。偽りではない本物の風だ。"滅びの大地"に吹くはずのないものなのに、新しい"秩序"の芽生えを感じてしまうよ」
「えっ? "バケツ頭"をかぶっていても風って感じられるものなんですか?」
「あはは、いや。これは言葉の綾なのだよ。機械の殻で風が感じられるわけないだろう? あはは」
小生は何も考えないことにした。無知は罪だとある人は言ったが、知っていることで降りかかる厄介ごともあり得るのだ。正直、大分嫌な方向にとある確信を抱きつつあるのだが、小生は何も見なかった。何も聞かなかった。良いね?
と、小生が見猿聞か猿言わ猿を決め込んでいると、エノキさんが自由気ままな独奏を一時中断し、少し驚きの混じった声をあげる。
「どうしたんですか?」
「いや、大したことではないよ。"とても古い知り合い"から声をかけられて驚いただけなんだ」
「通信が入ったんですか?」
「ああ、うん。そうなんだ」
そうぞんざいに返事して、エノキさんは通信相手とやらと話を始めた。
「……急にどうしたのだ。君とはだいぶ昔に縁を切っていたから、こんな形で便りがあるだなんて思わなかったよ」
なるほど、確かに彼が話している相手は古い知人であるようで、語る言葉の端はしから懐かしさのような感情がうかがえる。そして、今は絶縁状態にあったのだという。この人類滅亡瀬戸際の最中に、何たる昼ドラ展開なのだろうか。小生は耳をそばだてる。
「大丈夫かだって? 大丈夫だ。何も問題はないよ。何故なら、私は何もしないからね」
一体、何をしないというのだろう。この人類が生存のために死力を尽くす局面において、まさかのニート発言であった。これには小生もびっくりだ。何の話かはとんと理解できないが、少なくともこれが小生ならば、サボるなら「自分に可能な限り努力したいと思う」というように前置いてからサボることだろう。いや、多分実際は気分的に申し訳なさ過ぎてサボれないとは思うが、もし口振りだけだとしたって相手の神経を逆なでするような物言いはできそうにない。
小生がエノキさんの強靭なメンタルに舌を巻いていると、彼はまるで自嘲するようにして続けた。
「主は万能だが、だからといって主に造られた私たちは万能ではなかった。それを私は理解したのだよ。尤も理解した時には、既に災厄に見舞われていたがね」
更に言う。
「私たちは万能ではない。だが、何が正しいのかを知っている。だから、果報は寝て待つことにしたというわけだな」
一体何の話をしているのか見当もつかなかったが、とりあえず見当をつけたくもなかった。多分、すごいややこしい案件だと思う。これ。言うなれば、パンドラの箱的なサムシング。
故に小生は運転に集中し、そばだてていた耳をシャットダウンし、下手な口笛で彼らの会話を聞き流すことにする。"バケツ頭"内蔵集音マイクのボリュームは最小に調整。文明の利器って素晴らしい。
んー。んー。曲を何にするか悩んだが、とりあえずはアメイジングなグレイス的なあれにしておこう。先だっても窮地を脱するのにお世話になったフレーズだ。小生は何も聞かない。何も聞きませんぞー。
と小生が口を尖らせ、ぴゅーぴゅーやっていると、
「良い曲だね。それは」
最先端の防音技術の壁をやすやすと突破して、突如古い知人と話し込んでいたはずのエノキさんが小生に笑いかけてきた。バックミラー越しに見える満面の笑顔。思わず、口笛もピヨっとなった。何で聞こえてくるんだよ。そっちはそっちに専念してくれよ。お願いだよ。
「えっと、お話はもういいので?」
「うん。君に声をかけることもその答えであるとも言えるしね。君の存在は私たちにとっては果報だった、というわけだ」
ちょっと言っている意味がわからず、ショッピングモールの残骸らしき障害物を迂回するために傾けたハンドルとともに、首も同様傾ける。すると、エノキさんは上機嫌に続けた。
「君たちの祈りの言葉は"凍てついた土地"にも届いていたということなのだよ。私たちは総て正しきを歩めるわけではないが、あるべき結果を識っている。判別がつく。私の見立てでは、君の歩む道筋は私たちの"正解"へと向かう公算が限りなく高い。何の働きかけをせずともだ。これは誇るべきことだと思うよ?」
……おいおい。何やらよくわからない理由でよく分からない賛辞を贈られたぞ。どういうことかと問い返すよりも先に、エノキさんが「むむ」っとくぐもった声を漏らす。どうやら、古い知人に何かをまくしたてられたようだ。"バケツ頭"で覆われた耳を片手で塞ぎ、もう片方の手は煩わしそうにひらひらとさせている。
「まあね。ああ、そうだ。君の言う通りだ。主の在しまさぬこの世界において、確実や運命という言葉ほど虚しいものはない。だから、私たちは訝しんで人の子らに問うのだよ。
バックミラー越しに見る、頬杖をついた彼の横顔は、まさしく「してやったり」と考えているかのように頰が緩んでいた。小生の頰は引きつっていた。
「今度の私は決して導かない。道先案内人を務める自信がなくなってしまったからね。ただ、正しき道を歩もうとする者の後を見守り、引き返しそうなら背中をそっと押してあげるだけだよ。結果として正解なら、これを褒め称え、不正解ならば、これを嗜める。これ、気楽なものだね。全くずるい奴だぜ、君は」
彼の物言いに小生はレミエルさんの面影を見た。ただし、共に悩み、共に歩もうとする過保護なオカンメンタルの彼女と比べて、彼の語る立ち位置はずっとドライで無責任だ。言うなれば、放任主義の父親ポジション。もしくは収穫を待つ投資家。
小生の中で、とある確信が形を成して脳裏に浮かび上がってくる。その核心に白い羽根が生えていることを認めたところで、小生は思考を放棄し、車両の運転に専念することにした。……よそ見運転はダメだものな。
「はてさて、そろそろ会話を打ち切らせてもらってもいいかな。この私に親切を施してくれた彼の目的地はもうすぐだろうからね。分かるだろ。未来視を誇る君が分からないはずがない。ああ、うん。意外と静かな気持ちで楽しめたよ。
そうこうしている内に眼前に"レッドスプライト"号から送られてきた中継映像で見た、木造の家が見えてきた。当然ながら駐車場は見当たらない。マジでどうしよう。
「ん。ふわーぁ、"お屋敷"着いたんか?」
小生が逡巡している横で、ヴィヴィアンさんが背伸びした。気配がなかったと思ったら、今まで寝ていたのか……。いや、まあいいんだけどね。助手席だからといって、やることがあるわけではないし。
ただ、彼女が"ここ"を知っているという点において、何物にも変えがたい役割はある。小生は腕をスーツ越しにボリボリと掻きながら、彼女に問いかけた。
「"お屋敷"? に着いたんですけど、車をどこに停めたら良いと思いますか?」
「とりあえず、すぐにここから脱出した方がええと思うで」
「へっ?」
――直後、ぞわりと嫌な予感が背筋を伝っていった。これ、まずい。
極端な時間制限のある、
小生が車両のドアレバーに手をかけるより早く、防弾ガラスとセラミックス、炭素繊維強化プラスチックでできたフレームがバターのように真っ二つに切り裂かれていった。またそれより早くヴィヴィアンさんが助手席のドアを蹴破って小生を小脇に抱えて外へと飛び出した。トラちゃんさんにはない柔らかみをスーツ越しに感じたが、今はそれどころではない。
「あ、ありがとうござ――」
「舌噛むで。今は喋らんとき」
ヴィヴィアンさんは片足を地面に着地させたその勢いで、エメラルド色の長い髪をたなびかせながらさらにもう一歩跳躍する。勿論、小生を抱えながらだ。"悪魔"特有の瞬発力に引っ張られた身体がミシミシと悲鳴をあげた。くぐもった声を漏らしながらも、荷物と化した小生は被害状況を確認すべく、車両があった場所へと目を向ける。
車両は見事、俎の魚を下ろすように断ち切られていた。上半分が宙を舞い、重力に従い落ちてくる。1ダースのタンガタ・マヌさんたちも宙を舞う。皆、大きな怪我がないところを見るに、どうやら自力で脱出できていたようであった。して、荷台に乗っていたエノキさんはというと、
「――不躾だね。それは"罪"だよ」
何故か傷一つ負うことなく、そのまま上半分を綺麗にスライスされた車両の荷台に立膝をついて座っておられる。どういうカラクリなの、あれ……。
と、加速を感じていた体が浮遊感に包まれる。ヴィヴィアンさんの跳躍が地上3メートル地点で頂点に達したのだ。
同時に、彼女の足元に粘性のある雲が生じた。恐らくはなんらかの異能によって、空気中の水分を凝固させたのだ。シュバルツバースの大気にも水分が含まれていることは、既に小生たちが実証していた。
彼女はそのまま雲に腰をかけると雲を操り軟降下しつつ、小生を地面へと送り届ける。自らの二本足で地面を踏みしめた小生は、ほっと息を吐きながら車両を両断せしめた存在へと目を向けた。
その見てくれは、十代半ばごろの少年。
彼は"お屋敷"を守るように立っていた。白銀色の槍を肩に担ぎ、リラックスした様子で片足をぶらぶらとさせている。雪を思わせる純白を基調とする布鎧を身に纏い、その首には深緑のマフラーが巻かれていた。黒髪をおかっぱ、ツーブロックか? ――に綺麗に切りそろえた少年。その見てくれは周辺が雪景色かつ、物騒な得物さえ持っていなければ、ゲレンデでウインタースポーツを満喫するアクティブな高校生といっても通用するかもしれない。そんな少年がこちらを見渡し、意外そうに口を開いた。
「へぇ、鉄の馬車以外に被害は無しか。今度の客は随分としつこそうだ。――まあ、良いけどよ」
飄々とした口調で彼が言う。
そして、こちらが口を開こうとする前に、その表情を酷薄なものへと変えた。
少年が足を広く取り、槍を半身に構える。穂の向かう先は小生の喉元だ。
カグツチの陽光が白銀色の槍穂を煌かせ、周囲の空気が変質する。恐らくは物理的にも変わっていた。異能によって風を操れるのかもしれない。だが、それ以上に、この変質は強烈な殺気が引き起こしたものだ。
「――ひ、ぃ」
死の予感がじりじりと迫り来る、などという生易しいものではなかった。彼我の距離は凡そ5メートル強と、間合いは十分に離れている。だと言うのにたった今、小生の精神は彼の放つ殺気だけで何度も死んだ。白髪の老人に何度もお歳暮を渡してきた。
何かの武芸を収めた達人同士の場合、ふと対峙しただけでもお互いの力量や自らの死が容易にイメージできると聞いたことがある。
素人考えではあるが、小生が今感じ取ったものは間違いなくそれであろう。
こりゃやばい……。やばい以外に評しようがない。正体も実力も不明な相手と対峙してただ一つ確信できたことは、彼がそんじょそこらの高位悪魔を上回る――、それこそ今までに出会った"魔王"たちや"ローレライ"と同格かそれ以上の実力を持っているであろうことだけであった。
こんな存在と命のやり取りをするなんて冗談ではない。"アーサー"から委託されたミッションの枠外だ。
「ま、まままま待ってください! 小生たちは敵ではありません!!」
故に小生は必死に弁明する。だが、少年の見せる反応は芳しいものではなかった。
「待って――、ひえっ!?」
小生が慌てて飛び退くよりも早く、目の前で何かが弾け、硬質な音を響かせた。何だ? 彼がやったのか!? それにしたって、問答無用すぎる!!
腰を抜かす小生は捨て置き、少年は小生の目の前で弾けた"何か"を忌々しげに睨みつける。
それは一筋の切り傷が刻み付けられた、金属でできた一枚の白い羽根であった。
小生は少年の持つ槍の穂先へと目を向ける。到底届かぬと思われた間合いから、彼は今全く動かずに攻撃して見せた。いや、もしかしたら小生の動体視力をはるかに上回る速度で攻撃を仕掛けたのかもしれない。内蔵カメラを起動し、自動撮影されているはずの先程の顛末をスローモーション映像としてディスプレイ上に並行表示する。
「あ、あぁ……」
動いていた。少年は足を動かさず、上体の動きだけで槍をコンパクトに操り、真一文字に空を切っていた。そのあまりの速度ゆえか、空を切ったはずの槍全体から不可視の衝撃波が生じ、周囲の草をなぎ倒しては小生の首を断ち切らんと無慈悲に迫り来る。それを防いだのが白い羽根だ。超々ハイスピードに対応したスロー映像であるにもかかわらず、羽は唐突に、その場に"出現"したように見えた。……一体どこから?
少年がエノキさんへと目を向ける。これをやったのはエノキさんなのか。
殺気を直接ぶつけられたエノキさんは、そよ風に当たっているかのような澄まし顔で、肩を竦めながら少年と小生を順繰りに見た。
「――誤解してもらっては困るから弁明するけど、私が彼のために力を使うのはこれっきりだぜ?」
「手前の子分を見捨てようってのか?」
「そこが誤解なのだよ。今のは彼に対するお礼さ。私を車に乗せてくれたことに対するね。それ以上の加護を与えるというのは彼のためにも私たちのためにもならない」
少年はしばしエノキさんの言わんとすることを理解しようと目を落とし、すぐさま癇癪を起こしたように乱暴な手つきで自らの頭を掻きむしった。
「あー、くっそ。やっぱり、"天使"のいう言葉は難解過ぎて俺には良く分かんねえ!」
ああ。やはり、彼はそうなのかあと小生が納得するのと並行するように、ヴィヴィアンさんが驚きの声をあげた。
「"天使"おるやん!?」
「今更!?」
嘘やん。もっと気づくタイミングがこれ以前にいっぱいあったろ! 具体的には車内とか!! あっ、寝てたのか!
少年が呆れ顔で、今度はヴィヴィアンさんに胡乱げな眼差しを向けた。
「おるやん、じゃねえよ。何で、氷の森にいるはずのおめーがここにいるんだよ。"湖の乙女"」
見咎められた彼女は、雲に乗ってぷかぷかと浮きながら、その端正な顔をぷいっと明後日の方向へと背けた。
やがて、無言の圧力にいたたまれなくなったのか、頰を掻きつつ弁明を始める。
「そこの幸と髪が薄そうな兄ちゃんとの契約で同行してるだけやねんけど」
「イメージで語るのはやめてくれませんか!? 小生の頭皮はまだ滅亡の危機を迎えていませんよ!!」
謂れのない罵倒に小生が抗議すると、少年が毒気を抜かれたかのように槍を下げた。
「漫才は他所でやれよ……」
それについては全くの同感であったため、小生はブンブンと頭を縦に振る。
しかし、こうして会話が続くところを見るに、目の前の少年は完全に話の通じない手合いではなさそうだ。邪悪な気配も感じられず、この場を無血で切り抜けられる可能性は十分に期待できそうに思える。
後は彼の敵意の源泉が一体何処にあるのか、それさえ分かれば――。
そんな小生の抱いた一縷の望みを打ち砕くように、少年は低い声でヴィヴィアンさんに問いかけた。
「で、"契約"ときたわけだが。結局おめーは"今の人間"の味方なのか。そうじゃねーのか。どっちだ?」
「そ、それは……」
答えに詰まるヴィヴィアンさん。
今までのやり取りを見るに、彼女が少年と同じ陣営にいることはほぼ疑いがないだろう。その上で、彼女は小生との約束を考慮して、答えに窮しているよう見受けられた。
「……い、"今の人間"にも助けられそうな子がいるかもしれへんやん」
「戯け。性分の話で言えば、俺だっておめーの言いたい事は理解できる。ただ、もうこの"メムアレフ"の大地は何の因果か"ボルテクス界"になっちまって、俺たちは"メムアレフ"の浄化を傍から見守るただの傍観者の身分から、新たな"人"を助け"コトワリ"を生む側になっちまってるんだ。もう一度聞くぞ?」
少年はおかっぱ髪をがしがしと掻きながら、念を押すように言った。
「おめーは"母上"の味方か。そうじゃねーのか。どっちだ」
「ぅあ……」
ヴィヴィアンさんがたまらず呻く。第三者である小生から見ても、それは最後通牒であると容易に理解できた。少年は彼女に絵踏みをさせようとしているのだ。
彼らのやり取りから窺えることは、まず少年が"母上"なる存在を守ろうとしていること。そしてそれは、ヴィヴィアンさんや、恐らくは"ローレライ"の守るべき存在でもあるということ。彼の言う"母上"は小生ら"今の人間"と利害関係を異にしている、ないしははっきりと対立しているであろうこと。
対立解消の糸口を掴み取るため、小生はなけなしの頭をフル回転させ、彼らのやり取りに横槍を入れた。
「あ、あの。誤解は駄目ですよ」
「……あん?」
少年が苛立ち混ざりにこちらを睨みつける。凄まじい圧力に小生の胃が真っ先に根を上げた。やっぱ、何でもないですと切に続けたい。
だが、小生は踏みとどまって続ける。
「……彼女は小生らの味方ではありませんよ。あなたたちの味方です。断言してもいい。変な誤解はお互いを不幸にしてしまいますよ」
「に、兄ちゃん」
小生の擁護にヴィヴィアンさんが目を丸くする。予想外だったのだろう。素直な感情が彼女の口より漏れ出でた。
「流石不幸のプロフェッショナルは言葉の重みが違うとるな……」
「そういうところですよ!?」
あらぬ風評被害に抗議しつつ、小生はおかっぱの少年に対して面と向き合う。
眼光が鋭い。トイレ行きたい。
槍の切っ先が怖い。トイレ行きたい。
存在の格が違いすぎる。トイレ行きてぇ。
小生は口を開いた。
「……ト、トイレはありますか?」
「兄さん、中々いい度胸だな、おい。その空気に読めなさで、トラブったことあんだろ。絶対」
しまった。生理的欲求が理性を食い破って口をついて出てしまった。何とかフォローしようと口をもごもごさせていると、少年がため息をつく。
「……成る程、兄さんの人となりは何となく理解した。人誑しの類。意識しているのか、無意識でやっているのかはしらねーけど、敵意を煙に巻いて対立を避けようとする手合いだな。んで、"湖の乙女"も絆されちまった、と」
「対立を避けたいのは、本心なんですよ。敵対しようなんて意図はさらさらありません」
「それもまあ、理解したよ」
「じゃあ……」
光明の差した眼前にて、槍の切っ先が閃いた。
――重大な危険。デモニカシステム。先程の解析結果に従い、自動回避を実行します。
こちらの反射を上回る速度で、金属を引っ掻くような異音が耳朶を叩き、"バケツ頭"のバイザー型ディスプレイに真一文字の傷が生じる。今のはスーツが自動的に回避を試みてくれなかったら、命を刈り取られていた軌道だった。冷や汗すらも引っ込む生命の危険を感じながら、小生は少年の表情を窺う。彼は全くの無表情であった。
「……うん。やっぱ危険だよ、兄さん。アンタという存在は"母上"と同じ立場だってのに、"母上"よりも大物喰らいに適しているように思える。さっきは反応すらできなかった俺の槍を、今度は寸でで避けて見せた。それに、今も俺は兄さんに自分の名前を名乗ろうと考えている。悪魔の力に立ち向かい、悪魔の心を変えちまうヒトの存在なんてさ。俺の"母上"にとっちゃ危険でしかねえわ」
少年は自らの名前を"セタンタ"と名乗り、再び槍を半身に構え、戦闘態勢をとった。
もう、話し合いの余地はないと言った頑なさを小生はその全身から感じ取る。それでも小生は光明を求めて、再び叫んだ。
「待ってください! 小生に貴方のお母さんと対立する意図なんてありませんっ!!」
「だからさ。兄さんの存在自体が対立要素なんだって」
――重大な危険。解析結果の調整完了、戦闘行動補助機能のシステム優先度を最優先に引き上げます。不要なアプリケーションを終了します。
デモニカスーツからの案内に従い、その場からの後方跳躍を選択。直後、足元の大地に大きな亀裂が走った。初太刀を無傷で観測できたことが、小生の生存可能性の向上に大きく寄与していた。
「クソが、見切るのはえぇんだよ……!」
"セタンタ"は攻撃の不発を毒づくと、その勢いを殺さずに槍を独楽のように旋回させた。続く連撃はさらに激しい。
時には転がり、時には這いつくばってでも小生は必死に彼の猛撃を潜り抜けていく。でも、このままではじり貧だ……!
「兄ちゃん……っ!」
救いを求めて見た先では、ヴィヴィアンさんが悲痛な声で叫んでいた。長剣を両手で抱え込み、いたたまれない表情を浮かべている。
――どうする? 助けを求めるべきか否か。
小生の脳裏で思考の天秤がゆらゆらと揺れた。弱音を吐くなら、今すぐにでもこの鉄火場を彼女に押し付けてしまいたい。ただの人間である自分よりも、高位の悪魔である彼女の方が、ずっと防戦に適していることだろう。けれども……。
「ええか。ウチはアンタと契約しとるんやで! アンタが本当に必要ならウチは――」
「――仲間割れは駄目です!」
彼女の手を、この局面においては借りるべきではない。そう小生は判断して垂涎の提案を蹴り飛ばした。
一時の情を利用して彼女を仲魔に引き入れ戦闘に従事させた場合、彼女と"セタンタ"を筆頭とする"母上"側の関係が断絶する恐れがあるからだ。多分、それはよくない。彼女にとっても勿論ではあるが、それ以上に小生らに対する"母上"側の心象を今以上に大きく損ねる恐れがある。
和解の目を探すのならば、得てして狡猾さよりも誠実さが必要とされるものなのだ。これは小生の掲げる人生訓の一つであった。
「……真っ向勝負は、専門外なんですけどっ!!」
もう何度目になるかわからない連撃を辛うじて避けた後、小生は胸ポケットに忍ばせた封魔管に手を当て、「召喚」と呟く。
脱力感に目が眩む。下半身がせり上がってきた大地に飲み込まれ、体勢を固定。
オカルト的な現象がこの身に起こっている間も、文明の利器は淡々と敵の行動を分析し続けていた。
――解析の調整。攻撃の予測軌道を複数パターン、インジケータに表示します。
ディスプレイ上に表示された危機を表す赤ラインのいくつかから、小生は直感で一本を選び取る。これは失敗イコール即死の選択だ。正直、恐怖を禁じ得ないが、震えは起こらなかった。いや、起こさなかった。自身の四肢を強固な土塊で無理くり覆い固めていたからだ。
円運動に任せ続けた槍を腰だめに戻し、少年が次に選択した行動は体重を乗せた全力の一突き。寄っては離れてを繰り返していた両者の間合いが指呼の間にまで瞬時に詰められる。が、こちらの一点読み自体は成功した。
雷速で奔る"セタンタ"の一突きを、土塊に覆われた右手が掴み取る。ビンゴ。
「――ッ!?」
"セタンタ"の目が驚きで見開かれた。小生は自らに憑依させた"クエビコ"を操り、土塊の右手をさらに圧縮する。すると茶褐色の土塊が瞬く間に乳白色を帯びていった。恐らく生物土壌のダイアトマイト化が異能によって強制的に進み、二酸化珪素を主成分とした植物岩に変質したのだろう。きちんとした結果まで予測しての操作ではなかったが、いずれにせよ、これで"セタンタ"の得物を一時的にでも封じたわけだ。――だが、これで終わりではない。
「クランの猛犬を侮るんじゃねえっ!!」
"セタンタ"が圧倒的な膂力を持って、小生の右手を拳で思い切り殴りつけた。たったの一度で粉々にひび割れる乳白色の岩石。恐らくは次の一撃で彼の槍は自由を取り戻すことだろう。その前に――。
小生は自らの足元から自然と生じる植物の中から、蔦状の植物を"選んで"成長させる。"箱庭"の雑草を育て上げた時と同じように。
瞬く間に成長した蔓は、拠り所を求めて"セタンタ"の四肢に巻きついた。無論、こんなものは高位悪魔にとって足止めにすらならないだろう。"それ"単体で運用するならば。
「う、うおっ……!?」
小生は土塊を操作し、蔦を経由して"セタンタ"の身体を飲み込んでいった。優先されるものは密度よりも量と速度だ。先程砕かれた強固な植物岩と柔らかい土塊が撹拌されながら、彼の全身にまとわりつく。そこに成長させた植物の根を縦横無尽に這わせていく。
植物が根を張った地面の強固さは、インフラ整備に携わる者なら皆が知っている常識中の常識だ。小生はそれを敵の無力化に応用した。そして突発的な発想の結果が形として出来上がる。
「――へえ」
傍観していたエノキさんが賛辞の声を漏らす。
小生の眼前には植物が絡みついた歪な土人形が完成していた。
窒息死の危険と交渉の可能性を考慮したため、口の部分までは封じていない。それが返って得も知れぬおぞましさを醸し出している。
小生は安堵の息を吐きながら、"セタンタ"に語りかけた。
「……落ち着いて話し合えませんか? お互いの妥協点を見つけ出せる可能性は、決して0ではないと思うんです」
小生の呼びかけに"セタンタ"は答えない。忌々し気に口元を真一文字に切り結んでいる。ヤキモキする小生に対して、エノキさんが苦笑まじりに口を挟んだ。
「……駄目だよ、それでは。"母"を守る子犬は時として熊にだって立ち向かうのだから。奇襲で勝利を奪った相手とあらば、尚更敗北は認められない」
「しかし――」
それなら、どうすればいいのか。とは口にできなかった。
「熱り立つ大嵐」と"セタンタ"が言葉に紡いだ瞬間、小生の身体は凄まじい衝撃を受けて空高くに跳ね飛ばされてしまったからだ。
「――あ」
痛い。
全身が八つ裂きにされたかのような激痛が走る。いや、事実されたのだろう。
ぼろきれのように宙を舞いあがる小生の眼前を、見覚えのある"小生の一部"が同じような軌道で吹き飛ばされているのが目に映った。
千切れたのか? 体のどの部分が……? これ、くっつくの? ……治らないの?
「あ、あっぁぁ……!?」
一瞬後に、自らに起きた出来事を正確に理解する。宙を舞っていた"それ"は、太ももから下腹部にかけたいわゆる下半身であった。そこに足首はない。多分、土塊によって地面に固定したことで、取り残されてしまったのだ。
涙、血液、糞尿、全身から色々な液体が噴出していくのを自覚する。トラちゃんさんを助けるため、身を挺した時には怖さなんて感じなかった。でも、これは駄目だ。
見通しが甘かった。小生は、死ぬ。
――密閉sh、生命維持……。予備電――。
……デモニカスーツが"オシャカ"になったことを音声の途絶で理解する。
ただのフルヘルメットになってしまった"バケツ頭"の内側で、小生はひぃひぃと荒い息を吐いた。
……直に空気清浄機構も停止するだろう。やはり、小生は死ぬ。
アケロンの河行きだ。
死の恐怖が混乱を通り過ぎ、受容の域へと達したためか、小生の思考は死後の想像へと飛躍する。
ヴィヴィアンさんの助力を断った手前、積み立てたマッカを用いての死に戻りになるのか? でも一体"何処"まで死に戻る? もし満身創痍の状態で戻ってしまうだけならば、生き返ることに意味なんてない。また死んで終了だ。
詰み、の言葉が頭をちらつく。
救いを求めて地上へと目を向けたが、動力の通っていない"バケツ頭"越しでは"セタンタ"の姿もヴィヴィアンさんの姿も、タンガタ・マヌさんたちの姿も見えなかった。ただ、言葉にならない金切り声だけが聞こえてくる。誰の声なんだ、あれは。
そのような中、エノキさんの姿だけははっきりと見えていた。
「ああ、残念だったね」
……本当に傍観者なんだなあ。
多分、脳機能が低下したことによる幻覚だろう。"箱庭"の仲間たちの姿が目の前に浮かび上がった。リーダー、中尉、エース、班長、ヒスパニック……、カンバリ様。ああ、バースさんルートはワンチャンあるかもしれない。まだ結局花子さんを皆に正式に紹介してなかったんだよなあ。レミエルさんはちゃんと皆を導いてくれるんだろうか?
一通りの仲間たちが浮かび上がった後に、今度はタダノ君の姿が浮かび上がった。
『おい、ヤマダ。死んでないで野球やるぞ』
ちょっと走馬灯空気読んでとも思ったが、よくよく考えたらタダノ君との繋がりは野球が大部分を占めている。
『勝負は9回2アウトからだろ』
うん、野球はね。でも流石に死に際からの復帰はちょっと無理かな……。
『とどのつまり、勝負の強さって執念の差だろ?』
川上哲治かよ。
『ヤマダは捕手だろ。足りないところを補うなんて、得意中の得意なんだから』
お次はノムさん。何なの、野球縛りなの?
『まだ100人は余裕で行けるな……』
分かったよ。もうちょい頑張ってみるよ。
小生は血の足りていない頭を目一杯働かせようとした。
命が失われる間際の混乱状態にある思考の中から、冷静な部分を拾い取っていく。
すると何故か青い髪の、エキセントリックな服に身を包んだ女神様の姿が「えい、えい、おー」というポーズを取った姿で浮かび上がった。
『アタシの"箱庭"づくりはまだ始まったばかりよ! ヤマダ、手伝って!! 第一村人でしょ!』
小生は目を細め、笑い声を漏らそうとして血反吐を吐いてしまう。
成る程、シュバルツバースというこの異常な空間に迷い込んでより、小生らが人間らしい思考と冷静な感覚を維持できていたのは全くもって彼女のおかげであると言って良い。小生らの人間性は、彼女という道標によって支えられていたのである。
――うん、もうちょい頑張ろう。死に戻りを頼りにするとろくな結果にならなそうだし。
小生は血反吐でむせながらも、ヘルメット内の酸素が大気中へと逃げてしまう前に精一杯息を深く吸った。ここから先の時間は大事だ。
多分、このまま地面に落下しても死ぬんだろうが、それまでは時間的猶予を確保したい。
今、使える手札は? 回復の異能を持った石を……、いや流石にすぐさま千切れた体が再生するとは思えない。血止めくらいにはなるのかもしれないけど。
……となると、"クエビコ"だけだなあ。
考える。現状、小生が"クエビコ"でできることは、土塊や植物を操作することだけだ。
下半身を土塊に置き換える――。多分、可能だな。今までやってきたこととさほど操作は変わらない。魔石や宝玉やら何やらと組み合わせれば、失血死はこれで回避、と。
問題は呼吸器系の生命維持機構だ。こればっかりは"クエビコ"の異能でも回復の異能でも何とかなるものではない。
何せ、シュバルツバースの大気は"人間を選択して死に至らしめる"毒素を含んでいるのだ。この大気中にあって平気で活動できる例外はバースさんやリーダーたち。エノキさんも入れてもいいんだろうか? そのいずれもがシュバルツバースに適応した、"人間ではない人間"であった。
だから、小生にできることはない。ただの人間に過ぎない小生には――。
「って、あ……」
思いついてしまった。思い出してしまった。生き延びるための最も無難で堅実な方法を。だがこれ、仮にこの場を生き延びても、後に与える影響が大きすぎる。でも――。
トラちゃんさんが地団太を踏む姿を幻視して、小生はふと思い浮かんだ"悪魔的発想"を実行に起こすことにした。
帰らなければならないのだ。"箱庭"に。トラちゃんさんのもとに――。
小生の体が自由落下を開始した。
頭から真っ逆さまに落下しながら、小生は目に映る情報源を頼りに生存のための道筋を組み立てていく。
機能の停止したデモニカ越しだ。眼下には小さな野原が広がっていて、泉と小屋がある他は何も見えない。
……待った。風に揺れる雑草の一部が不自然な形に倒れて見える。何でだ?
多分、人間の視覚には映らない"セタンタ"が小生のことを直下で待ち受けているのだ。恐らくはとどめを刺すために。
倒れた草をぎりぎりまで注視する。
思うに、これはタイミングが大事だ。落下は未だ上半身にこびりついている土塊の使い方次第で、いかようにでも対応できる。
大事なのは"セタンタ"の行動だ。今、彼の動作を類推できる情報源は倒れた草の変化くらいしかない。
甲子園の大一番でも、小生のやっていた一番の仕事は周辺の雑多な情報を収集することだった。他校監督の出したハンドサインも、その日の陽射し風向きの具合も、アンテナを大きく張っていたからこそ、それらを読み取ることができたのだ。
相手の思考を読む。
多分、選択肢は串刺しか首を刎ねるかの二択かな……。彼との少ない会話の中から、彼がいたずらに獲物をいたぶる気質ではないことは推測できている。名を名乗ったり、誇り高そうなところを見るに……、首刎ねに一票かなあ。
地面が近づく。まだ草は動かない。
……え? ちょっと、動かないつもりなの? 待った。待って。もっとサインは読み取りやすいものにして? ねえ!
そうして落下死に至るまで後1秒というぎりぎりまで粘ったところ、
「★$%“」
多分手向けの言葉だこれ! と待ちに待った合図がきた。草動かないのかよ。分かりやすいからこれはこれでいいけど!
もし外していたら赤っ恥だが、恥をかいた後は死ぬだけである。小生は頑張った。この後は後で考える。
小生は憑依していた"クエビコ"に呼び掛け、右手にまとわりつかせていた土塊を首回りに移動させた。
「――っ!?」
首に猛烈な衝撃を感じる。多分、折れた。が、両断はされていない。
直下へ落ちていた落下運動のベクトルが槍か何かの一撃によって、横へとずらされる。
小生は運動神経が生きていることを祈って、地面へと手を伸ばした。動いた。ならいける!!
「"クエビコ"!!」
小生は、"クエビコ"に対して脳以外の損傷したすべての肉体と五感を悪魔のそれへと置き換えるよう命じた。
――我は汝、汝は我。
そんな"クエビコ"の言葉が脳裏に響いた刹那、
「うえっ――!?」
凄まじい異物感に吐き気とめまいを催す。
正常な人間の脳機能が人外との接続を拒んでいるのだろう。でも、勝算はある。
だって、うちの家系は代々人外への生贄になってたらしいしな! 諦めることに関しては年季が入っていると思うよ、小生。震える手でバックパックから宝玉を取り出し、必死に自分の体の再生を念じる。予想したとおり、欠損した部位まで元には戻らない。これは
そうして、しばし激痛と異物感に耐え続け、
「……マジかよ」
驚愕する"セタンタ"の声を耳にしながら、小生は土塊でできた両足で大地に立ち、土塊でできた肺をフル稼働させて息を吸い込んだ。
「けほっ……。あー、成功して本当に良かった……」
今の小生は小型化した"クエビコ"そのものであった。何割か人間のパーツも残っているのだろうが、恐らく見てくれはサイボーグかゾンビに近い。こんな姿で"箱庭"に戻るのが怖いなあ……。
また自覚症状として、思考の変質は見られないようであった。そうでなくては困る。そのために脳機能をそのままに残したのだ。班長の言っていた、何だっけ……? とりあえず脳が置き換わるとまずいって話だったもんな。
改めて"クエビコ"の眼を通して見えるようになった"セタンタ"と対峙する。
"セタンタ"は脱帽だとばかりに諸手を挙げた。
「こりゃ参った。正直、兄さんを舐めてたぜ。アンタ、"悪魔化"ができたんだな」
「……はい。発想自体は、うちの仲間が既にやっていましたから。ただ、これ正確にはオカルト的な外科手術というか、とにかくそんな感じなのかなあって」
「ん、てぇことは兄さん。アンタ今"どっち"だ?」
「……人間だと思いたいです。帰ったらドクターと相談して、肉体の再生治療も受けないと」
そうかそうかと"セタンタ"が頷く。そして、再び槍を構えた。
「じゃあ、第2ラウンド開始だな」
小生も頷き、その場にうずくまった。毒気を抜かれたかのように"セタンタ"が声をかけてきた。
「……何してんだ?」
「貴方と戦闘にならないための"腹案"です」
「……そうかよっ!」
侮られたと思ったのだろう。激情に駆られた声が響き、再びの殺気に心胆が冷える。
そして、土塊でできた体の一部が斬り飛ばされた。と同時に"セタンタ"が叫ぶ。
「……兄さん、それは無しだろ!?」
"セタンタ"の抗議を受け流しながら、小生は黙々と"腹案"を実行し続けた。
大地より原材料を吸い上げて、土塊の体を肥大化させる。そして肥大化した体にさらに土塊をまとわりつかせていく。やっていることは単純だ。要するに、危険から身を守るため殻に籠る。土壁を幾重にも築き続けているだけなのだから。
「……戦う気あんのか、アンタ!!」
「んなもんありませんよ! 最初から言ってるでしょう!!」
瞬く間に自らを核にした10メートルの土塊がこんもりと築き上げられた。野原や小屋の全貌を見下ろせる位置から、小生は思いっきり叫ぶ。
そもそも小生に戦うつもりなんざ元々なかった。それなのに真っ向から格上の相手の動きを封じようとしたのは、小生の驕りであり、致命的な過ちだったわけだ。
あそこで取るべき正解の選択肢は野戦築城。自身の安全を確保した後、延々と小屋に向かって平和と融和を大声で説き続ける。
名付けてプラカードを持った市民の座り込み戦術。
これこそ小生が最も得意とし、最も胃が痛まぬ攻撃的インフラ戦術であった。こんな安牌な戦術使わないでどうするの。今使おう。
小生はさらにまくしたてた。
「……大体デモニカがぶっ壊れた時点で、小生は貴方の攻撃についていけないんです! 戦闘は貴方の勝ち! はい、負けました!! じゃあ、話し合いましょう!!!」
「アホぬかせ! 決着がついたなら、そこで仕舞いだ馬鹿野郎!」
「戦争反対! 対話が大事! 平和が一番! ラブアンドピース!」
「うるせえええええ!!!」
"セタンタ"が再び槍を振るって小生の体の一部を切り飛ばした。小生は斬り飛ばされた箇所を修復する。
また斬り飛ばされる。はい、修復。また。はいはい。
あ、頭に血が上った"セタンタ"が槍を地面に叩きつけた。反論ないなら、小生の勝ちだぞ。お?
そうしてかっかしている"セタンタ"に向けて、エノキさんがしたり顔で声をかけた。
「成る程、この結果は正直予想すらしていなかった」
"セタンタ"の顔が、まさしく堪忍袋の緒が切れた状態へと変わった。
両手を組んで、何やら呪文を唱え、再び小生を八つ裂きにした「熱り立つ大嵐」を発動させる。
あー。成る程、人間の体では到底耐えられない暴風雨を局所的に発生させる異能だったのか……。さっきの小生は下半身を捩じ切られていたんだな……。二度とまともに食らいたくない。
しばしして暴風雨が収まり、体積の縮んだ小生の体が再び肥大化していく様を目にした"セタンタ"は、肩で荒い息を吐きながら両膝を屈した。
良し、このまま長期戦に持ち込んで叫び続けるべい、と小生が息を吸い込んだところで、
「もう、おやめなさい」
と穏やかな女性の声が、小屋の方より聞こえてきた。
「は、母上……」
その声を聞いて、"セタンタ"が困惑したように表情を歪ませる。
「でも、こいつらは母上にとって危険です。滅ぼさなければなりません」
「……貴方の思いやりを私は嬉しく思います。ですが、つい先程我らの"女神"がより深刻な脅威を感じ取ったのです」
「だったら、そいつらも一緒に俺が討ち取ります!!」
「いいえ」
小屋の戸が開き、中から二人の人影が現れる。
一人は……、多分悪魔だ。それもすこぶる高位の。かぶった仮面は異様だが、若草でできた髪を豊かに伸ばす様は神々しさすら感じられる。クローバーを模した杖を手にしてはいるが、すらりとした肢体は健康的で、肉感的で、異形であろうとも目が離せない。
もう一人は車椅子に腰掛けた、見るからに病弱そうで、見るからに気弱な"人間"の女性であった。美人ではあるが、生気はない。
そんな二人の内、"セタンタ"の眼差しは人間の女性へと向けられていた。
小生は言葉を失い、車椅子の女性を見る。
恐らくは"セタンタ"の言うところの"母上"とは彼女のことなのだ。
彼女は焦点の合わない眼を静かに瞬きさせ、小生のいる方向へと顔を向けた。
目と目は合わない。もしかすると目が見えていないのかもしれない。
彼女はほんの少しだけ口元を歪め、小生に向かって呼びかけた。
「不躾な出迎えお許しください。"同族"の殿方。お話を致したく存じます」