遅くなって申し訳ありません。
この話から、アリスこと深紅の一人称をわたしと平仮名にしています。
名月深藍は名月深紅の妹である。
それは彼女が生まれてからこの十数年間、一秒たりとも変わることの無い事実であり、深藍はその事を誇りに思っていた。
姉である深紅の事を誰よりも想い、誰よりも知っている。支えになれるのは自分だけだとすらも思っていた。
姉の好きな事も、嫌いな事も、何に喜び何に悲しむのか。幼少の頃よりずっと側にいた深藍には深紅について知らないことは無い。
が、それもおよそひと月前までの事であり、現在深藍には知らないことが出来てしまった。
それは、姉が囚われたデスゲーム――《ソードアート・オンライン》内部での出来事。
あの中で何が起きたのか。それを深藍は大まかにしか把握していなかった。
深紅――アリスが何を思い、何を感じ、そしてどんな冒険をしてきたのか。始まりから、彼女がゲームをクリアするその時までのエピソードを深藍は知らない。知る術がない。
それは、シスコン……もとい姉好きの深藍としては大変気に食わないことだった。
そして同時に、不安でもあった。
あの世界での出来事が、姉を変えてしまったのではないかと。
「はい、お姉ちゃん。あーん」
「い、いいよ。自分で食べれるよ……」
だから本人に直接聞いてしまえ、と深藍は行動に移していた。
「いいからいいから。甘えときなって」
「えぇ……? もう。あーん……」
《ソードアート・オンライン》がクリアされ、《アルヴヘイム・オンライン》での事件が収束し無事姉が目覚めてから一ヶ月。ついに固形食を食べられるようになった姉に甲斐甲斐しく世話を焼こうと深藍は病室に押しかけていた。
皮を剥いたりんごに爪楊枝を刺し、戸惑う姉をやや強引に押し切り口元に運ぶとしぶしぶといった様子で齧りついた。
しゃりしゃりと小気味の言い咀嚼音を繰り返し、嚥下する。りんごは姉の口に合わせ小さく切ったが、楊枝に刺さったりんごは半分ほど残っている。
そのまま無言でもう一度口に近づけると、観念したのか抵抗せずにそのまま残りを平らげた。
「美味しい?」
「美味しい……」
りんごは姉の好きな果物だ。好物には勝てなかったのか、先程までの困惑した表情も綻ばせ嬉しそうに呟いた。
「良かった。ちゃんと味、分かるんだ」
SAOに囚われている二年間、姉はずっと寝たきりでいた。生きる為に必要な栄養は点滴から直接摂取していたため消化器官が弱るのは当然の事として、食べないことによって味覚神経に異常をきたしていないか深藍は心配だった。
「まあ、最初は薄味の病院食で慣らしたからね。初めて食べた時はあんまり味がしなかったけど、段々と」
それに、と姉は続けた。
「向こうでも、ナーヴギアが味覚中枢? を刺激して味だけは再現してたから」
ナーヴギアはあの悪魔の天才『茅場晶彦』がその才能を全て費やして作り上げた超技術の塊だ。仮想空間にありながら、五感の全てをほぼ現実と同等に再現している。
その中には当然味覚も含まれており、甘い辛いしょっぱい苦いなどの大雑把なものだけでなく、精細な味の差異なども再現されていたという。
そのカラクリは深藍にはさっぱり理解が及ばないものの、姉がもう一つの現実だったという程の代物だ。
「ね、お姉ちゃん」
ここだ、とばかりに深藍は今回の目的を果たそうと話題を放った。
「その向こうでの事――SAOでの事、聞かせて?」
その言葉に、姉は少し緊張したように身体を固まらせた。
「ん……んー……んん――……」
そして迷うように腕を組み、うんうんと唸り始める。
あの世界での出来事を、姉はあまり話そうとしない。
それも当然の事で、命を賭けたゲームだったのだ。そう簡単に話せるものじゃない。
つい先日発売された《SAO事件記録全集》という内部で起こった事を記述した書籍にも少し目を通したが、中ではプレイヤー同士の争いが少なくない数あったようだった。
誰が何をしたかについては推察できないよう上手く暈されていたものの、命のやり取りがあったということが察せられる程度には情報が載っていた。
それほど過酷な環境にいたのだ。辛い記憶もあるだろう。そして深藍も、その辛い記憶を無理に聞き出そうとは思っていなかった。
だけど、同時にこうも思っていた。あの中では辛いことが多かったけど、それだけじゃなく良かった事もあったはずだと。
それを、知り合った他のSAO生還者の話から深藍は知っていた。
「全部が知りたいんじゃないよ。楽しかったこと、嬉しかったこと――向こうで出来た、お姉ちゃんの思い出を私は知りたいの」
深藍がそう言うと、姉はきょとんとした後にふっと表情を緩め苦笑した。
「しょうがないなぁ……」
その笑顔に、深藍は胸を衝かれ言葉を失った。
仕方が無いといいつつも、穏やかに笑うその顔が深藍は大好きだった。
二年以上もご無沙汰だった姉のそういった表情に感極まり思わず涙を流しそうになったが寸でのところで踏みとどまることができた。
「それで、深藍は何が聞きたいの?」
虚を突かれた思いだった。
確かに話を聞かせて欲しいとは言ったが、具体的にどんな話が聞きたいかは決めていなかった。
二年間も過ごした世界での事だ。語りきれないほど沢山の出来事があったのだろう。それならば、何から話せばいいか迷うのも道理だった。
深藍は少し考え、いくつか聞きたい事をピックアップするとその中で一番気になった事を最初に聞くことにした。
「じゃあ、コハルさんとのこと」
「コハルとの?」
今度は姉が虚を突かれた様に目をしばたたかせた。
「うん。コハルさんとは向こうで恋人で、結婚までしたんでしょ? その馴れ初めを聞きたいなーなんて」
「ぶっ!?」
深藍がさらりと爆弾を投下すると、姉が盛大に咽た。
「けほっ、けほっ……な、なんでそれを……?」
「いや本人から聞いてるし」
「本人って……」
「コハルさん」
姉が目覚める前、ALOの中で深藍は姉の恋人であるコハルと既に出会っている。そして一緒に冒険し、姉の事を語り合った仲だ。姉が目覚めた後も何度か会って話をしていたし、もっと言うならそれ以前から二人の関係は知っていた。
「もう……まあ、いいや。でも最初に聞きたいことがそれって……」
「私だって女の子だもん。恋の一つくらいしたくもなります」
これは完全に方便だった。
女に生まれた以上、素敵な恋というものに憧れが無いわけではないが、今の深藍は完全に姉LOVEであり、そこらの有象無象の男子など取るに足らない存在だ。
いつかは好きな人が出来、結婚するのかもしれないが、現状恋をするつもりはさらさら無い。
姉は「えぇー……?」と照れや困惑の表情を浮かべながら悶えている。
その反応は大変可愛らしくいつまでも眺めていたい気分に駆られたが、心を鬼にしてほらほらと急かすと、やがて頭の中で纏めるように一つ一つ話し始めた。
「コハルとは、ベータテストの最終日で会ったんだ。あの時わたしは最後に景色を見納めておこうと思って色々探索してたんだけど、ふらっと入った洞窟で話しかけられたのが最初かな」
「え? 急に話しかけられたの?」
「うん。あの時はびっくりしたなぁ……。だって、初対面の人にいきなり、戦い方を教えてください! だもん。それもベータ最終日に。今まで何してたんだろうね、コハルは」
ALOで共に冒険をしたコハルの姿からは想像も出来ない出会い方に面食らった。
深藍の知っているコハルは常に冷静で、状況判断も指示も的確。戦う姿はまさに歴戦の戦士といったイメージだったからだ。
「なんか想像できないんだけど……」
「だろうねぇ。わたしも、今のコハルしか知らなかったらきっと信じられなかったと思うよ。でもコハルは最初、一番弱いモンスター相手にも引け腰で攻撃が全く掠りもしなかったんだから」
くすくすと思い出し笑いをする姉は、楽しそうにコハルとの出会いを語る。
「それで戦い方を教えて、友達になって。正式版でも会おうって約束したの。それから正式版で約束どおり合流して……またへっぴり腰になってたからもう一度戦い方を教えて……そうそう、その時和人お兄ちゃんにも会ったんだよ」
「和人さんと?」
「うん。その時はまだ気づいてなかったんだけどね。あ、今思い出すと笑えるかも。和人お兄ちゃんったら現実とは似ても似つかない勇者っぽいアバターだったんだよ」
それもまた、深藍には想像がつかない話だった。和人――桐ヶ谷和人は、姉の親友である桐ヶ谷直葉の兄で、深藍も何度か一緒に遊んだ事がある。当初は姉を真似して和人お兄ちゃんと呼んでいたが、そのうち恥ずかしくなって和人さん呼びに落ち着いたりといった事もあったが、姉は今でも和人お兄ちゃんだ。
そんな和人は深藍の印象ではあまり喋らない印象が強く、彼が勇者顔でゲームをプレイしているなどやはりぱっと思い浮かばない。
「デスゲームが始まってからもずっと一緒にコンビを組んで――」
姉は言いかけて、迷うように口をつぐんだ。
何かを葛藤しているように見える。話すべきか、話さないべきか。
深藍はただじっと、姉の言葉を待った。
「一年くらい経ったあたりかな……一度、知り合いだった男の人に告白されたんだ。好きですって」
「えっ!?」
初耳だった。驚きのあまり声を上げると姉は少し困ったように笑いながら続ける。
「……それで?」
「断ったよ。あの時のわたしは、好きとか恋とか、誰かと恋人になるとか分からなかったし。その人はすごく良い人だったんだけど、そんな状態で恋人になっても彼にも嫌な思いをさせちゃうかもしれないし、わたしも嫌だったから。……でも」
迷いを断ち切るように、姉は言葉を区切った。
「その後、他のプレイヤーたちと仲良く笑ってるコハルを見て……嫉妬、したんだ。それはわたしの役目なのに。そこは、わたしの場所なのにって。……おかしいよね。そのプレイヤーの人達も仲間なのに。そもそも、コハルはわたしの物でもないのに。そんな人達に向かって、わたしが一番怖がってた……嫉妬の気持ちを向けちゃうなんて」
溢すように、苦しそうに吐露する姉の姿に深藍はただ、絶句する。
そんな深藍の様子を伺う余裕も無い姉は、更に続けた。
「あの時、同じだって思った。わたしを苛めてた、あの人達と。嫉妬して、暗い感情をぶつけてきたあの人達と――」
「そんなことない!!」
気がつくと、深藍は叫んでいた。姉は突然大声を上げた深藍に驚き、目を見開く。
「お姉ちゃんは悪くない!! あの時だって……今も――!」
「深藍」
じわりと視界が滲み始めた深藍を、姉は優しく呼び止めた。
そして、あやすように、痩せ細った腕を深藍の頭に乗せゆっくりと撫でる。
「ありがとう。でも、いいの。本当の事だから」
「でも……」
「深藍は優しいね。けど、あの時の嫉妬した気持ちは本物だったんだよ。それでパニックになって、逃げちゃったんだ。コハルとのパーティも解散して」
「…………」
深藍は何も言えない。
あの時、気づけなかった事が、姉を救えなかった後悔が津波のように押し寄せてくる。
違うと言いたい。姉は間違ってなどいないと声を掛けたかった。だが、掛ける為の言葉が何一つ浮かんでこなかった。
「けどね、それで良かったのかもって今は思ってるよ」
姉は尚も優しい声音で語り掛ける。
「そこで嫉妬したから、気づけたんだ。わたしはコハルに恋してたんだって」
その言葉に、深藍ははっと顔を上げた。そこには後悔の一つもない、青空のような笑みを浮かべた姉が微笑んでいた。
「これでよかったんだって。いつかコハルが成長して、わたしが隣にいる必要がなくなる時が来る。それが今だったんだって、無理矢理納得しようとしたんだ。けど、無理だったよ。コハルと過ごした日を思い出して、どうしようもなく胸が締め付けられて――ああ、これが恋なんだなって」
そこまで話すと、姉は照れくさそうに深藍の頭に乗せた手を離し、自身の頭を掻いた。
「それじゃあ……」
深藍は知っている。姉がコハルと長い間離れ一人で活動していたことを。
そしてその理由は、程なくして姉の口から直接語られた。
「気づいたんだけど、それでも元には戻れなかったよ。気づいちゃったからには、隠せる自信が無かったし。同性に恋心を持ってるなんてばれたら、あの狭い世界の中での事だからきっと居場所が無くなると思った。なにより、コハルに嫌われちゃうことが一番怖かった。もし想いが通じたとしても、コハルに迷惑がかかっちゃう。だから絶対に隠し通すために、誰にも会わないようにして一人で行動してたんだ」
姉がコンビを解散してソロ活動をしていた理由に、深藍は再び言葉を失った。
世間には認められない恋心を隠す為に、悟られぬように、これまでの交友関係の一切を断ち切り、只一人孤独でいることを選ぶ。誰にも打ち明けられず、助けを求められず、一人で苦しみ続ける。
それは命を簡単に落としてしまうあの世界で、どれほど残酷で、苦しく、辛い事だっただろう。
その決意の大きさと、背負った重さを、深藍は推し量ることすら出来なかった。
「でも……クリスマスの日に……」
「あれ、なんで知って……って、ああ。モニターしてたんだっけ?」
病室に菊岡が訪れ、幾度か姉が何をしているか行動ログを追った事があると以前話した事があった。その事を思い出した姉は話が早いと続きを語り始めた。
「そう。あの日、わたしは一度死んだ。ボスの最後の一撃からコハルを庇って。迂闊だったなぁ……普段なら絶対警戒してたのに、コハルが突然現われて気を取られちゃった」
どこか遠くを見るように話す姉の声には、悔しさが滲んでいた。
「HPがゼロになった後、意識だけユイちゃんに別空間に飛ばしてもらって、色々話したんだ。そこで自分の恋心を改めて認識して、コハルが蘇生アイテムを使って……生き返った後、一番最初に思ったんだ。言わなきゃって。コハルに、想いを伝えなくちゃって。そしたら、コハルも同じ気持ちだって知ったんだ」
「わぁ……」
それはなんて、ロマンチックなのだろう。
恋した相手を守る為に孤独に耐え、守り、力尽きる。そして恋した相手のお陰で死の淵から救い出され、結ばれる。
まるでおとぎ話のようなストーリーに、深藍は思わず感嘆の声を漏らした。
「も、もう! 変な雰囲気になっちゃった。これでおしまい!」
姉は恥ずかしさを隠すようにベッドをばすばすと叩いて話を切り上げた。
しかし深藍はまだ少し納得がいかなかった。
「とっても素敵な話だったけど……お姉ちゃんは結局どのタイミングでコハルさんに恋してたの? 気づいたのは、その……嫉妬した時だとして」
深藍に恋愛経験は無い。が、その感情を知らないわけではない。
恋心に気づいたタイミングは分かったが、それを抱いたタイミングがあるはずだった。
「え、えー……? そうだなぁ……気づいたら好きになってたっていうか……うぅーん……」
「なんかないの? 胸がキュンとしちゃったエピソードとか」
滅多に聞けない姉の惚気話が聞けるかもしれないと、深藍は逸る心を抑えきれずに問う。
しばらく悩んでいた姉はふと、「あ」と声をあげた。何か思い至ることがあったらしい。
「多分、一層を攻略した後……かな。ちょっと危ない場面があって、なんとか乗り越えたんだけど、そこで揉めてさ。ベータテスターだったわたしを糾弾する流れになったみたい。わたしは丁度その時意識を失ってて、後で聞かされたんだけど……その時、コハルが凄く怒ったんだって。『何でそんなこと言うんですか!』って。あのコハルがわたしを庇う為に、必死に声を荒げて怒ってくれた事を聞いた時……」
「胸キュン、した?」
「……うん」
顔をりんごのように耳まで赤く染め、消え入りそうな声で頷く姉に深藍が胸キュンしそうだった。
というか、した。キュンとした。なんだこの可愛い生き物。
「はいおしまい! 恥ずかしいから今日はこれで終わり!!」
再びの終了宣言に、深藍は仕方が無く今日のところは諦めようと思った。これ以上聞くと拗ねて何も話してくれなくなりそうだったからだ。
だがまた近いうちに話を聞きに来てやろうと脳内のスケジュール帳をチェックすることは忘れない。
「はいはい、お姉ちゃん。そんなに大声出すと他の患者さんに迷惑だよ?」
「だ、誰のせいだと……!」
軽口を叩きながら、深藍は帰り支度を始める。
恋愛話だけで結局姉の冒険譚は聞けなかったが、それはまたの機会に取っておこう。
失ってしまった姉との時間を取り戻すのは、ゆっくりとでいい。
これからも時間はまだまだ沢山あるのだから。
「あ、そうだお姉ちゃん。最後に一つだけ」
鞄に荷物を纏め、立ち上がりながら深藍は問いかけた。
「コハルさんの事、好き?」
姉は呆気に取られたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、言った。
「うん。大好きだよ」
ぴぽん。
軽やかなサウンドエフェクトが病室に響いた。
「はい、ごちそうさま」
深藍の手には、録音アプリを立ち上げたスマートフォンが握られていた。
姉は最初意味が分からずきょとんとし、徐々に何が起きたのか理解し始め、みるみるうちに赤い色が彼女の白い肌を覆い始める。
「それじゃあまたねっ!」
何かを言われる前に深藍は病室を颯爽と飛び出した。
背後で姉が何か叫んでいるが、深藍はにやにやとした笑みを崩さないままその場を後にする。
鼻歌でも歌いたくなるほど、ここが病院でもなければ人目も気にせずスキップしてしまいそうなほどに深藍は上機嫌だった。
二年以上も仮想世界に閉じ込められていた姉は、変わらなかった。
知らない姉などどこにもおらず、あの頃のまま。
深藍の大好きな、優しくて可愛らしい、自慢の姉のまま。
姉が目覚めた時から感じていた形の分からない不安な気持ちは、綺麗に吹き飛んでいた。
病院を出ると、陽もすっかり落ちて茜色の夕陽が都会のビル群を紅く染め上げている。
さあ、次はどんな話を聞こうか。
わくわくするような冒険の話? 心躍る幻想的な風景の話? 今日のような、惚気話もいいかもしれない。
けどその前に、あの人にも話を聞いておかなくては。
姉があの世界で出会い、愛したあの翡翠色の彼女に――
書いてて、深藍が一番好きなキャラになりそうです。
楽しい。
シスコン万歳。