『それで一体私に何をしろというの?』
『私と一緒に夢を見よう♪』
不安感を掻き立てる救急車のサイレンの音が、近付いて来たかと思うとドップラー効果を残してあっという間に遠ざかって行く。
気分のいい音ではないが、これもまた日常に街中でよく聴く音の一つであろう。
だが、たった今救急車が駆け抜けていった道路も街並みも実は陸の上には存在していない。
一見通常の市街地にしか見えないが、ここは学園艦と呼ばれる巨大な
しかしその巨大さ故に、一旦その街中に足を踏み入れてしまえば自分が海の上にいるなどとは思えない程地上と変わらぬ街並みが広がり、そこでは普通に人々が暮らしていた。
そして普通に人の営みがある以上病気や怪我は避けられず、医療機関や緊急を要する傷病者を搬送する為に救急車も地上となんら変わる事なく存在しているのだった。
「やっと2時間経過か…まだまだ先は長いな……」
滞在する宿舎の最上階のラウンジで眼下を通過した救急車のサイレンの音に、心の中に抱える不安感からそれまで洪水のように溢れていた言葉が途切れ思わぬ沈黙が生まれていた。
そして静寂にぽつりとまほが呟いた一言は思いの他大きく聞こえたのであった。
ラブの右目の手術が始まって2時間、事前に手術には7時間程掛かると見込まれていたがそれもあくまでも目安であり、正確な終了時間は誰にも解らなかった。
「そ……そうだ、皆さん昼食はどうされますか?」
まほの呟きで押し寄せた不安感は、寄せては返す波のように朝から何度となく彼女達の胸の内に訪れているものであり、それに抗おうとするように凜々子は勤めて明るい声で尋ねるのだった。
それまでもAP-Girlsがやって来た時に持ち込んでいたコンビニスイーツをお茶請けとしてポツポツとつまんではいたが、実際それを考えなければいけない時間も近かった。
「昼食…昼飯か……」
「さすがにこのラウンジのキッチンでは、この人数分のランチを賄うには無理があるなぁ……」
「だからこういう時位は作るの前提で考えるのよしなさいよ!」
いつものように人が集まれば頭が自動的にそんな事を考え始めるアンチョビに、カチューシャがすかさず突っ込みを入れた。
「いや、そうは言うがこんな時こそちゃんと食べないといけないと思うんだがなぁ……」
「で、でもドゥーチェ、確かにここのキッチンじゃこの人数分は無理がありますし、ここで待機中な事を考えると出前か何か買って来る方がいいかと思いますよ?」
腕を組んで考え込み始めたアンチョビに凜々子が取り成すように言うと、やっと彼女もそれもそうかと納得したようであった。
「学食が営業していれば一番良かったんですけど、生憎冬休みに入ってしまって休業中なんです。まぁウチも艦内には色々お店がありますので、ここは出前を取るのが一番かな……?」
「ならよぉ、せっかく母港入りしてんだからさぁ、それこそベースまでひとっ走りして何か買ってくるとかどうだぁ?」
凜々子がどうしたものかと思案していると夏妃が横からベースへの買い出しを提案したが、彼女のプランは即座に凜々子が却下していた。
「馬鹿ねぇ、今からベースに降りてたらどれだけ時間が掛かると思ってるのよ?大体ベースで何か買って来るってアンタ一体何買ってくるつもりなのよ?」
「何ってオマエ…そりゃあアンソニーのピザとダンキンのドーナツとか……」
「夏妃…アンタは本当に馬鹿だわ……」
「何だとぉっ!?」
凜々子が疲れたように溜め息を吐くと、カッとなった夏妃が牙を剥いた。
「こんな精神的にまいってる時に、そんな油ギトギトでお腹に優しくない物チョイスするお馬鹿さんはアンタだけだって言ってんの!それにひとっ走りとか言ってたけどまさか
「ば、バカヤロ!そんな訳あるか!大体こんな格好でどうやってバイクに乗るんだよっ!?そもそもこんな大人数分のピザはバイクにゃ積めねぇだろうがぁ!」
夏妃は更に声を荒げてゴスなエプロンドレスの裾のヒラヒラを、バサバサと振りながら言い返す。
「解かるもんですか!大体ね、ドゥーチェがいらっしゃるのにベースのアメリカンなピザなんて買って来てどうするのよ?お口に合わないに決まってるでしょうが!」
「うぐぐ……」
「まぁまぁ…私もそこまでじゃないぞぉ?それにこんな時だ、艦内に色々とお店もあるんだろ?私達もこの学園艦には随分世話になったがまだ知らない物も多いから、何かお勧めがあったらそれの出前を取るなり買いに行くなりすればいいじゃないか」
最早ここにいる者達にもお馴染みになりつつある凜々子と夏妃の夫婦漫才だが、放っておくとキリがないので自分の事が話題に上ってしまったアンチョビが仲裁に入ったが、まだ先が長いというのに今からこれでは先が思いやられるというのが彼女の偽らざる気持ちであった。
『夢……?』
『そう夢よ♪大丈夫、あなたとならきっと素敵な夢が見られるわ♡』
カラカラという車輪の転がる音と共に、救急救命士と看護士らしき者達が何やら医療的な専門用語で会話しながら扉の外を足早に通り過ぎて行く。
これはどうやら先程微かに聴こえた救急車で搬送されて来た急病人か怪我人が、緊急手術の為に手術室へとストレッチャーで連れて行かれる処なのだろう。
それまではたまに手術室に関係者が出入りする自動ドアの音が聴こえる程度で、比較的静かであった患者の家族の控え室の周辺がその時だけ少し騒がしくなった。
「…ん……」
その騒がしさのせいで、亜梨亜の膝の上で眠っていた愛の唇から微かに声が漏れた。
そしてまだ完全に覚醒してはいないが長いまつ毛が影を落としていた瞼が微かに開き、どこかまだ焦点が合っていない瞳がぼんやりとだが周囲の状況を探り始めた。
「……?あ…亜梨亜……さま?……!も、申し訳ございません!」
亜梨亜の膝の上で本当に寝入ってしまっていた事に気が付いた愛は慌てて起きようとしたが、そんな彼女の事を尚も軽く押し留めた亜梨亜は愛の顔を覗き込むように優しく微笑んで見せた。
「起こしてしまいましたね、救急搬送された患者さんが手術室に入ったようです」
「そうでしたか…今何時でしょう……?」
今度はゆっくりと身を起こす愛を亜梨亜も止める事はせず、ソファーに座り直した愛は時間を確認しようとしたその時になって腕時計をしていない事に気が付いた。
やはり彼女も朝から不安で色々と小さなミスを重ねているのかもしれない。
「まだ少し間がありますが、もうじきお昼になりますね」
「お昼……」
なんだかんだで二時間近く亜梨亜の膝の上で眠っていた事に軽い驚きを覚えた愛であったが、そのお陰で紙のように白かった顔色の方も若干赤みが差し生気を感じられるものになっていた。
「あ、あの……私、何かお昼を買いに行って来ましょうか?」
やっとその思考も回り始めた愛はお昼と聞いてそんな考えが頭に浮かんだが、亜梨亜は心配無用とばかりに目の前のローテーブルに置かれた自身のバッグを指差して見せた。
「愛さんのお口に合うかは判りませんが、お弁当を作ってあります。もしそれで良かったら私と一緒に食べましょう」
「え?お弁当ですか……?」
亜梨亜の意外な申し出に愛は驚ききょとんとしているが、その目の前でバッグを手元に寄せた亜梨亜は可愛らしいひよこ柄のナプキンに包まれたお弁当を二つ取り出して見せるのだった。
「わ、私の分もですか……?」
「ええ、お口に合えば良いのですが」
この厳島亜梨亜という女性は世界的なグループ企業を束ねる極めて有能な最高責任者であるのだが、元来が家庭的な面が強いらしく時間の許す限りこのようにマメに
「あ、ありがとうございます……」
思いがけぬ事に只々戸惑う愛であったが、その心の奥底に何かじんわりとした温もりのようなものを感じ、どうやら自分では気付いていないようだがその顔にはにかんだ笑みを浮かべていた。
『あぁ成程、これは恋がイチコロでやられる訳ですね』
聖母の笑みの下で娘の好みを熟知する亜梨亜は内心そんな感想を抱いていたが、それを面に出すようなヘマをする事など決してなかった。
「一応こんな物もありますが……」
凜々子がラウンジの片隅にあるマガジンラックから、宿舎の利用者の為に用意されているらしい笠女学園艦内のグルメマップを持って来ると皆に配り始めた。
「ほぉ?こんな物があったのか……」
受け取ったまほが興味深げにマップに目を走らせていたが、ジャンル毎に纏められた店名の一覧の中から早速カレー専門店の項目を見付け出し目はそこに釘付けになっていた。
「にしずみ……」
「あ…あぁ、分かっているさ……」
出前を取るにしても買出しに行くにしても、人数が人数だけに出来るだけ同じ物、運ぶのが楽なもの、更には精神的に皆相当参っているはずなのでお腹に優しい物をと事前に決めているにも拘わらず、案の定まほがカレーの専門店の一覧を凝視しているのに気が付いたアンチョビが抑えた声で短く警告を発し、我に返ったまほも慌ててそう答えるのであった。
「Amazing! ねぇ、どう見ても明らかに
「う、
まさに信じられないといった感じで声を上げたケイに続き、ダージリンも何かを言い掛けたが後が続かずに口篭ってしまった。
学園艦毎にそのモデルとなった国の文化的特色を取り入れる傾向がある為に、サンダースの食の環境はアメリカンで大味な印象が強かった。
そして口篭ったダージリンの聖グロは食に関してまでも英国面に支配されその評判は極めて悪く、質素倹約が過ぎる知波単以下、それ処か足元にも及ばぬというのが一般的な評価であった。
「
「学園艦がテーマパーク……」
「そりゃあ確かに普通の学校じゃあないかもしれんが……」
鈴鹿の補足説明にまほとアンチョビが唸った。
まだ全てを見た訳ではないが確かにこの艦の雰囲気はこれまでに見たどの学園艦とも違うものであり、今の鈴鹿の話で二人も心のどこかで感じていた違和感の一端が理解出来た気がした。
「と、とにかく今はお昼に何を食べるか決めましょう」
「それはそうだけど、こうも店の数が多いと何を食べたらいいか迷うばかりだわ!」
「Hey!あなた達AP-Girlsのお勧めとかないのかしら?」
改めてグルメマップに目を落としたダージリンであったが、やはりその店の多さにカチューシャが悲鳴に近い声を上げた処でケイが助けを求めるように言った。
『えぇと…東郷庵の親子丼弁当……』
「なら最初からそう言いなさいよ……」
あっさりとAP-Girls全員がハモってお勧めの名を上げた瞬間、カチューシャの声のトーンが1オクターブ下がり、AP-Girlsは揃ってシュンとなった。
『スミマセン……』
アレコレ騒いだ割に結局昼食はAP-Girls全員が美味しいと太鼓判を押した東郷庵の親子丼弁当に決まり、電話注文の後にAP-Girlsの選抜メンバーが買いに奔った。
『恋を泣かせたのはキサマか!?この私が成敗してやる!』
『まほ♪』
手術室ではバイタルを計る機器の電子音等が響く中、特殊なスコープの付きのゴーグルを装着したDr.ルシアが鮮やかなメス捌きで手術を続けていた。
『うん?笑った……?何か楽しい夢でも見ているのかしら?』
一旦ゴーグルを外し微かに浮き出た額の汗を拭って貰ったルシアは、ラブの口角が微かに上がったような気がしたが今も彼女は静かに眠ったままだ。
『ここまでは順調…さぁ、ここからが本当の勝負よ……』
再びゴーグルを装着したルシアは鋭い目付きに戻ると手術を続けるのだった。
「恋と同じ味……」
時計の針が全て文字板の頂点で重なる少し前、控え室にいる二人は亜梨亜が事前に用意していたお弁当の包みを解いていた。
「やはりお口に合わなかったかしら?」
ふっくらと焼き上げられている厚焼きの卵焼きを口にした愛がポツリと呟くと、亜梨亜も気になるのかほんの少しだけ不安げな声で尋ねるのだった。
「い、いえ!とても美味しいです、その…恋の……恋姉さまの卵焼きと同じ味だったので……」
「あの子卵焼きはこれ位甘くないと納得しないのよ…ご免なさい白状するわ、この卵焼きの甘さは私と妹の麻梨亜の好みなの……」
「麻梨亜様の……」
ラブの実の母であり亜梨亜の双子の妹である麻梨亜の名は、愛も以前ラブから聞かされ知っていたが、こんな話を聞かされるのはさすがに始めての事であった。
「えぇ……そう、この味がしっかり受け継がれていたのね」
ラブが幼い頃より戦車道以外にも時間を見付けては仕込んで来た亜梨亜であったが、愛の呟きに今も娘がちゃんとそれを守っている事に微かに嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「Buono♪」
「これは…確かに口を揃えて美味しいと言うだけの事はありますわね……」
「ダージリン…ほっぺ……ご飯粒……」
行儀悪く割り箸をダージリンの頬に突き付け咀嚼の合間にそう指摘したアッサムは、その後も黙々と親子丼を口に運び続けている。
AP-Girlsお勧めの親子丼弁当の味は、それぞれの食べっぷりがそれを証明していた。
「予定では後三時間半…今日は本当に時間の進みが遅く感じるな……」
昼食を平らげ一息吐いたアンチョビが時計に目をやれば、時間の方はまだやっと折り返しといった処で彼女がこの時間の進みの遅さを感じたのは三年前のあの日以来の事であった。
「そんな事があったんですか……」
「あぁ…
『私のせいじゃないわ……』
「幼い頃からあの子の突飛な行動には随分悩まされましたね……」
「お城で雪緒さんにその頃の写真を見せて頂きました……」
『そんな昔の話はやめてよ……』
「てっきり最初はもっと年上のお姉さまかと思いましたのに……」
「そうね……」
「お前等の事お持ち帰りしたかったらしいぞ?」
『それ今更バラす……?』
「まぁ確かに初めて会ったときゃよぉ、何で中坊のスカウトに大学か実業団の姉ちゃんが来るんだって思ったもんなぁ……」
「またアンタは!って、人の事言えないのよね…実際私もそう思ったし……」
『直ぐそうやって人の事オバちゃん扱いする……』
「けど…いつもここって云うタイミングでアドバイスをくれたり本当に優しい人ですよね……」
「エリカさん……」
『……♡』
「いつも眩しくて…私なんかでいいのかなって……でもあの
「あの子が夢中になるのも判るわ…あなたなら安心してあの子を任せられるわね……」
『勝手に話を纏めないで』
只待つしかない身には沈黙は苦痛でしかないであろう。
事実彼女達はそれを恐れるように言葉を紡ぎ続けたが、口を開けばいつの間にか話はラブに纏わるものばかりになっているのだった。
だが陽が傾き夜の闇が迫る頃、そんな時間も終わりを告げる時がやって来た。
「はい、どうぞ」
靴音が足早に近付いた後、手術中の患者の家族が待つ控え室の扉がノックされ、亜梨亜の返事と共に一人の看護師が入室しラブの手術が終了した事を告げた。
『ルシア先生……』
『あぁ亜梨亜様、お待ちしておりました』
愛と共に亜梨亜が手術室の前まで行くと、ほぼ予定通りに手術を終えたルシアがまだ手術着のままの姿で待ち構えていた。
その姿を見とめた亜梨亜の表情は一見では判らないが微妙に緊張の色を滲ませており、付き従っている愛に至っては結果を知るのが怖いのか俯きその小さな肩を小刻みに震わせていた。
『ご安心下さい、手術自体は無事に終わりました』
そんな二人の様子に一刻も早く安心させてやろうという配慮からか、ルシアは何の前置きもなく単刀直入にそう告げると柔らかく微笑んで見せた。
『そうですか……大変お疲れ様でした、そして有難う御座います』
ルシアの配慮に応えるように亜梨亜もまたまず彼女の労を労い、次いで短くはあるが万感の思いを込め礼の言葉を述べると共に深々と頭を下げるのであった。
『結果が解かるのは万全を期して年が明けてからになりますが、おそらく亜梨亜様のご心配は杞憂に終わると思います。医師の私がこう言うのもどうかと思われるかもしれませんが、それ程までに手術の方は完璧なものでした。これだけ完璧な手術は私もこれまで経験はありません』
『それでは……』
『はい、ですから心安らかにその日をお待ち下さい』
『ありがとう…本当にありがとう……』
ここまで毅然とした態度を崩す事なく来た亜梨亜であったが、それ以上言葉にならず口元を手で覆い溢れ出そうになる想いを懸命に堪えていた。
「亜梨亜様……」
「愛さん……」
小柄な愛がラブ程ではないが上背のある亜梨亜を支えようとするかのように寄り添うと、それに気付いた彼女も感極まったように愛を抱きしめていた。
そしてほんの一時昂ぶった二人の気持ちが落ち着くのを待っていたかのように、手術室の自動ドアが開きラブを乗せたストレッチャーが看護師の手で押されて姿を現した。
「恋……」
ストレッチャーに寝かされたラブの右目はガーゼで覆われ痛々しい限りだが、彼女の表情は非常に穏やかでありそれを見た亜梨亜も安堵の表情を浮かべた。
『それでは病室へと参りましょう』
ルシアの指示により動き出したストレッチャーに続き、愛と亜梨亜がそれに付き従う。
それから長い廊下を抜けエレベーターで最上階の病室へと向かったが、その間一般の入院患者やその家族など面会者に行き会う事は一切なく、それはどうやらラブの入院を徹底的に秘匿する為に取られた措置のようであった。
そして漸く辿り着いた病室でラブがベッドに移されて、各種モニター機器が接続され全ての処置が終了すると看護師達は退出し、残る医療関係者は執刀医であるDr.ルシアのみとなった。
「あの…亜梨亜様……手術が終わった事をAP-Girlsに知らせても良いでしょうか?」
愛は亜梨亜に向け確認するように言ったが目はルシアに向けられており、それに気付いたルシアが愛に向け微笑みながら答えるのだった。
『えぇ、構わないわよ。但し恋はまだ当分目を覚まさないし面会時間も短時間だけどね』
『あ、ありがとうございます』
「電話をするなら病室の外にそれ用の部屋がありますから、そちらを使うといいでしょう」
「はい、それでは連絡してまいります」
ルシアの説明に続き亜梨亜にそう教えられた愛は足早に病室を後にした。
「……!ハイ、もしもし!えぇ…そう、解かったすぐに行くわ……愛、お疲れ様」
突如鳴り響いた着信音とバイブ機能の振動で暴れだした携帯を慌てて取り上げた鈴鹿は、着信ボタンを押すのももどかしげに電話にでた。
着信音を聴いた瞬間強張っていた表情も通話をするうちに徐々に和らぎ、最後は慈愛の表情で愛に労いの言葉を掛けて通話を終えたのだった。
「鈴鹿君……」
緊張の面持ちでまほが鈴鹿に問い掛ければ、愛に労いの声を掛けた表情そのままに一つ頷く事でまほの問いへの答えとした。
それを受けてまほの表情も安堵したものとなったのだが、それ以外の者達は日頃クールな鈴鹿が初めて見せたその表情にドキリとして頬をほんのり朱に染めていた。
しかしそれまで延々と他愛もない話を続けていたが、心の奥底で張り詰めていた緊張の糸もやっと緩み皆の顔には僅かながら疲労の色も滲んで見えるのだった。
「マイクロバスを呼んでおきました、直ぐに来るそうなので下に降りて待つことにしましょう」
鈴鹿に愛からの知らせが来るのと同時に凜々子が送迎の手配をしており、それを受けて一同は人海戦術でラウンジの片付けをすると、順次エレベーターで車寄せのある一階へと降りていった。
「…それで鈴鹿君、愛君は何と……?」
「はい、手術の方は無事終わったと……」
「そうか……」
病院までの僅かな移動時間ではあるがやはりそれが気になってしまうまほは、通路を挟んで隣に座る鈴鹿へと質問したのだが、手術が終わった事を告げるだけの連絡故、鈴鹿もそれ以上の事は聞かされておらず後は病院に行ってから自分で確かめるしかないようであった。
しかしそれからラブの病室に向かうまでの時間が、彼女達にとって思いもよらぬ苦痛となった。
ほんの僅か数分の移動時間でしかないのだが、その数分が彼女達には一時間か或いはそれ以上に感じられて、何とも云えぬもどかしさを味わった後に2台のマイクロバスは昨日と同じように病院の地下にある専用の駐車場へと滑り込んだのであった。
そしてラブの病室のある最上階へと向かう直通のエレベーターも一度に全員が乗る事が出来ないので、それを待つ間も移動の時と同様の感覚を味わう事になり、彼女達にとってその時間はまるで何かの試練を課されたかのように感じる時間となった。
「ラブ……」
瞳いっぱいに涙を溜めたまほの視線の先でベッドの上に横たわったラブは、未だ麻酔から覚める事なく静かな寝息と共に布団越しでもそれと解かる胸の特盛りなたわわを上下させていた。
横たわる彼女の髪は手術の為に纏められ、日頃は長く落とした前髪で隠されている深い傷痕も術後保護の為に右目を覆うガーゼと共に露になっており、その痛々しさにまほを始めこの為に全国から集った者達はそれ以上の言葉が続かないのであった。
だがそんな彼女達の背後ではAP-Girlsのメンバー達が、独り代表として病院に詰めていた愛の労を労うように全員が順番に彼女の事をハグする姿があった。
「まほちゃん、みほちゃん……それに皆さんも本当にお疲れ様でした」
「おば様……」
術後間もないラブの病室にいつまでもいる訳にも行かないので、一同は彼女の病室の隣にあるそれなりに広さのある談話室へと移動していた
そこで亜梨亜の下へと歩み寄った姉妹を彼女は同時にそっと抱き寄せると、二人の髪を交互に優しく撫でてから話を続けた。
「手術は無事終わりました……
「で、では……」
亜梨亜の口からの説明を受け漸くまほの表情にも希望の色が浮かび、今にも倒れそうであったみほも堪え切れず涙を流していたが同じく涙ぐんだエリカに支えられていた。
そして他の者達も安堵の表情から喜びの表情へと変わり、ケイとナオミなどはいくら談話室とはいえさすがに騒いではいけないのでそっと音を立てぬようハイタッチを交わし、感極まったノンナに力一杯ハグされたカチューシャは苦しくても声を殺して目を白黒させ、それを見たダージリンとアッサムの二人は上品に口元を覆い大笑いしないよう気を付けながらクスクスと笑っていた。
「…どう致しましたか?先程から随分と大人しくしていらっしゃいますけど……?」
アッサムとひとしきり笑いあったダージリンであったが、そこでアンチョビのみが一言も発する事なく独り一歩下がって立ち尽くしている事に気が付いた。
「アンチョビ……?」
その様子に不審に思ったダージリンがその名を呼び改めて彼女の顔を見直せば、その顔色は恐ろしく青ざめ、表情も強張っているのが見て取れた。
「ちょっと…あなた大丈夫……?」
「…す、すまない……!」
心配げな声音になったダージリンの再度の呼び掛けにどうにかそれだけ答えたアンチョビは、そこで慌てて口元を押さえると小走りに談話室の化粧室へと飛び込んでいった。
「え……?」
何が起こったのか解からず取り残されたような表情でその場にダージリンが佇んでいると、同じく状況が読めていないまほが不思議そうに彼女の下へとやって来た。
「おいダージリン、安斎のヤツどうかしたのか?」
「…酷く顔色が悪かったので声を掛けたら……」
そこまで話した処で彼女は口を噤み、視線をアンチョビが飛び込んで行った化粧室のドアへと向けたがそれ以上の事は彼女にも解からないようであった。
「どうかしましたか?」
「あ…いえ、安斎の様子が……」
「千代美さんが……?」
要領を得ないまほの返事と彼女の視線の先に亜梨亜も目を向けると、化粧室のドアの向こうから微かに咽て咳き込む声がする事に気が付いた。
「千代美さん?」
亜梨亜がドアをノックして声を掛けるも返事はなく、近付いた分それまでより明確に中でアンチョビが咽て苦しんでいるのが聞き取れた。
「おば様、安斎がどうかしたんでしょうか……?」
さすがにまほも様子がおかしい事に気付き傍に来ようとしたが亜梨亜はそれを視線のみで押し留め、その只ならぬ圧力のようなものに気圧され無言で頷き従うのだった。
「千代美さん、大丈夫ですか……?入りますよ?」
化粧室の外扉に力を掛けると鍵は掛かっておらず、亜梨亜はもう一度確認するように声を掛けると素早く中に入り無意識に鍵を掛けていた。
「千代美さん…千代美さん!どうしたのです!?」
「あ…ありあ……さま…こ、こんなとき……ご、ごめん……なさ……お…おえぇ……」
亜梨亜の呼び掛けに便座に縋り付くような状態でへたり込んでいたアンチョビが顔を上げたが、その顔色は土気色で口元は吐瀉物で汚れ表情は涙目で苦しそうだ。
「千代美さん!」
駆け寄った亜梨亜はアンチョビの背中をさすりながら、今にもその場に倒れ込みそうになる彼女の華奢な身体を支えていた。
「げほっげほっ…ほんと……ごめんなさい……」
「しゃべらないで…今水を用意しますから……手を離しますが大丈夫ですか?」
亜梨亜の問いにアンチョビは力なく頷いたがその顔色は一層悪く見え、もう吐く物も残っていなさそうだがまだ吐き気を催すのか時々嘔吐いていた。
「このままでは駄目ね…でもなんで……」
病室に現れた時は別段おかしな様子は見受けられなかったが、今の彼女は何らかの変調をきたしているのは明らかであった。
「すみません…でも…急にあの時の事を思い出してしまって……」
手を離しかけた亜梨亜に向け、アンチョビが弱々しく声を絞り出した。
「思い出したって…あの時……?……!千代美さんアナタまさか!?」
断片的なキーワードに彼女が何を言っているか気付きハッとした表情になった亜梨亜の腕の中で、アンチョビはとても申し訳なさそうな顔をしていた。
だが亜梨亜もここに至って娘の命の恩人である目の前の少女、
う~ん、チョビ子の事が好き過ぎるのに色々背負わせちゃうなぁ……。
しかもそんな話が後もう一回……。