一日中途切れる事なく大小様々な船舶が行き交う、世界有数の海上交通路である浦賀水道。
この海上交通の要衝を眼下に見下ろす山の上には堅牢なドイツの古城を思わせる城がそびえ立ち、東京湾に出入りする船舶のランドマークとしてその威容を辺り一帯に誇っていた。
「ママ!麻梨亜ママ!樹パパ!何処にいるの!?」
「待ちなさい恋!お願いだから待って!」
その東京湾の出入り口である浦賀水道を守護するように建つ城の城内、最も高い尖塔へと続く長い廊下に、凄まじい勢いで駆けて行く少女とそれを追う女性の影があった。
ポニーに結って尚腰の辺りにまで届く緩く波打つ燃えるような深紅の髪を振り乱し、声を限りに両親の名を叫びながら走るその姿は完全に我を見失い半狂乱だった。
そして彼女の後を追う女性の表情もまた何ともいたたまれない悲痛なもので、少女の叫びが響く度に苦し気にその口元を歪めていた。
前を行く少女は厳島恋、後を追う女性は西住しほ。
それは急逝したラブの両親の葬儀から数日後、春の大型連休を目前に控えた頃の事だった。
「麻梨亜ママ!私を置いて行かないで!樹パパ!独りはイヤぁ……!」
「恋!止まりなさい恋!」
突然に事故により幼いラブを残し麻梨亜と樹が他界してから数日、葬儀の全てを取り仕切った麻梨亜の姉であり厳島の若き当主である亜梨亜は、後ろ髪を引かれる思いでラブを雪緒を筆頭とする城の使用人達に託すと、当時の彼女の主戦場であるアメリカにとんぼ返りしていた。
葬儀後も喪服以外身に着けようとしないラブは対外的には気丈に振舞っていたが、まだ小学校に上がって日も浅い少女にとって突然両親を同時に失うという現実はあまりにも過酷に過ぎ、その精神は病み疲れ限界に達しつつあった。
無論ラブが生まれる前から厳島本家に仕える雪緒達も誠心誠意彼女を支えてはいたが、残念ながらどう足掻いても両親の代わりが務まるはずもなく、精神的限界を迎えたラブは遂に奇行に奔るようになったのだった。
飛び抜けた賢さ故に神童の呼び声も高いラブであったが、その心は紛れもなく年相応にまだ幼い少女のままであり、例え頭では解っていたとしても心の方はあまりにも辛い現実を受け入れる事が出来なかったのだ。
結果、ある日を境に彼女は日に何度となく発作的に広い城内を両親の姿を求め走り回るようになり、その頻度は日を追う毎に増え続けて行ったのであった。
自分達だけではどうする事も出来ぬと彼女の身を案じた雪緒は、両親や亜梨亜と同様に彼女が懐いていたしほに相談すると、しほは話の内容に血相を変えヘリを飛ばしその日のうちに熊本から横須賀を訪れたのだった。
そしてしほはすっかりやつれ別人のように表情を失ったラブの姿に愕然とし、そのような状態になっても尚狂ったように城内を走り回る彼女を、このまま両親の思い出が色濃く残った城に置いておくのは危険であると判断し、亜梨亜に許可を取り付けるより先にまほとみほもいる熊本に連れ帰る事を決断したのだ。
何しろこの当時厳島家は無駄に敵対視して来る企業相手に一族を上げて全面戦争の最中であり、亜梨亜の想いとは裏腹に両親を亡くしたばかりのラブに愛情を注いでやる事も出来ない状況下、事後承諾で事を知った亜梨亜はしほに深々と頭を下げ全てを彼女にゆだねたのだった。
「イヤぁ!嫌ぁ…いやぁ……」
「恋!恋…こっちにいらっしゃい……」
「しほ…ママ……」
廊下に敷き詰められた絨毯に足を取られ大きくバランスを崩したラブは、全力疾走していた勢いそのままに尖塔へと続く回廊に転がったが、それでも尚両親の姿を求め先に進もうとしていた。
しかしとっくに体力を使い果たしていた彼女は立ち上がる事も叶わず、ズルズルと這いずりながら当てのない捜索行を続けようとする。
漸く追い付いたしほは倒れ込み手足をばたつかせるラブに駆け寄ると、しほの存在も目に入らぬように錯乱する彼女を落ち着かせようと強く抱きしめていた。
「ええそうよ!
ラブ特有の言い回しで自分の事をしほママと強調したしほは、抱き締めた彼女の背中をぐずる赤子をあやすように軽くトントンと叩き続けた。
時間を掛けてラブを落ち着かせたしほは泣き疲れ眠りに落ちた彼女を抱き締めたまま、メイド長の雪緒に指示を出し熊本に連れ帰る為の旅支度を整えさせたのだった。
それから暫くして全ての用意を雪緒達が整えると、長居は無用とばかりにすっかり憔悴し眠るラブを抱いたまましほはヘリに乗り込み、一路熊本を目指し日付が変わる少し前の横須賀の空へと飛び立ったのであった。
この出来事がラブが熊本で暮らす事になった真の理由であり、この時のしほの機転が幼いラブの精神の完全な崩壊を防いだのであった。
その後敵対勢力を完膚なきまでに叩きのめし事態を収拾させた亜梨亜が迎えに来るまでの約半年、しほの庇護の下まほとみほと共に熊本で穏やかな時間を過ごした事で、彼女の暗く閉ざされた心も徐々に解放され本来の明るさを取り戻して行ったのだ。
そして半年後、全ての問題を片付け彼女を迎えに来た亜梨亜に駆け寄り飛び付いたラブが見せた笑顔は、亜梨亜にとって妹の麻梨亜が他界する二月程前に夕食を共にして以来のものだった。
「…そうでしたか……」
しほの口から語られたラブの過去、彼女の熊本行きの真相に亜美は沈痛な表情で短く呟くと、言葉に詰まりそれ以上の事は何も言えなかった。
一方彼女とは対照的に独り瞑目し腕を組む英子は、彫像のように眉一つ動かす事なくその表情に一切変化は見られなかった。
無論彼女とて今の話に心を動かされなかった訳ではなかったが、職業柄どのような状況にあっても感情の変化をその面に出さぬ程度には精神的に鍛えられており、ただ黙ってしほの話に耳を傾けていたのだった。
何故なら彼女も横須賀の人間な上に、警官一家の生まれ故当時の事は誰よりもよく覚えていたので、亜美以上にこの話は重く受け止めていたようだ。
何しろ横須賀一の名家、市民で知らぬ者のいない厳島の年若き夫妻の突然の事故死は、地元に激震をもたらす程の大事件であったのだから。
「あの時…雪緒さんが迷う事なくしほちゃんに相談してくれた事……そしてしほちゃんも躊躇する事なく即決であの子を熊本に連れ帰ってくれた事、もしあの時の判断が少しでも遅かったらあの子……恋の心は間違いなく完全に折れていたでしょう……」
そこまで言った処で亜梨亜はしほ達に静かに目礼し、しほ達もまたそれに対し何も言う事なく無言で答えていた。
『葬儀に参列した親父殿も痛々しくてとても見ていられなかったと言っていたが…まさに綱渡りであったという事か……だが折角立ち直られ成長されたお嬢様にあのような災難が降り掛かるとはな……ふん、絶対この世に神などという──』
「私のやった事など大した事ではありません…それ以上に例の一件で首を縦に振った罪の方が遥かに大きいのですから……」
英子が鉄壁のポーカーフェイスのまま当時に想いを馳せていると、しほの洩らした苦々し気な声が彼女の思考を遮った。
その背景に隠されたカラクリを見抜く事が出来ず、安さだけを武器に売り込まれた東邦
「しほちゃん…その事はもう……」
自分があの時もっとしっかりと見極めていればと当時の事を今も悔やみ事ある毎に自分を責める為に、亜梨亜はその度に彼女の落ち度ではない事を説いたが中々その考えを改める事は出来なかった。
「ありがとうございます亜梨亜様…ですが何故あの子ばかりがこうも理不尽な目に遭わされるのかと考えるとつい……こんな事を言えば罰当たりなどと言う輩もいるでしょう……しかし私にはこの世に神などと称される者など絶対に存在しないと思えてならないのです」
「それは……」
彼女にもうこれ以上気に病むなと諭そうとした亜梨亜を軽く手で制したしほは、努めて抑えた口調と声音ながらも聞く者によっては激怒し兼ねない事を平然と口にしていた。
「だってそうでしょう?もし神とやらが存在するのなら、何故何の罪もない恋だけがかくも辛い思いばかりさせられるのですか?試練?そんなモノは盲目的に神とやらに縋る者だけに与えればよいのです、関係のない恋を巻き込むのはそれこそお門違いというもの……違いますか?もしそれでも神はいると言うのならば、そんな役に立たない存在などこの私が!…失礼、少々戯言が過ぎました……」
かなり極端な持論を語るうちに怒りが再燃したのか徐々に語気の荒くなったしほは、視線だけで獲物を射殺しそうな目付きで握った拳を震わせていたが、激発する寸前に安全装置が働いたのか険しいながらも落ち着いた表情で声を荒げた事を詫びるのだった。
『この人なら相手が神だろうが悪魔だろうが、一切躊躇う事なく
戯言が過ぎたとしほは儀礼的に頭を下げてはいたが、彼女が本心からそう思っていない事は重戦車の装甲にすら風穴を開けそうな眼光を放つ目を見れば明白であった。
亜梨亜を始め厳島と西住の使用人二人も平然としていて動じた気配は見られなかったが、英子と亜美はしほなら本気で神も殺るだろうと息を呑んだ。
「ええと…そうだLove Gun!今日はいきなり登場してまほさん達……ううん、私達も相当驚かされましたが、あのLove Gunは本物のLove Gunですよね?その…あの事故の後今まで一体何処に……?」
「何処にって……あれ?オマエもしかして知らなかったのか?ってか言ってなかったっけ……?」
何かこれ以上は話が怖い方へ進みそうな気がした亜美は自分でも些か強引だとは思ったが、今日の試合で一番気になっていた事へと話題の進路変更を図ったのだった。
ただ自分でも本物のLove Gunという表現はおかしいと感じながらも、他に表現する言葉が見付からず亜美はそのまま質問するしかなかった。
ところが彼女がその話題を持ち出すと英子の顔がそれまでの厳めしい表情が一変し、何処か間の抜けたポカンとしたものに変わっていた。
次いで少し驚いたような表情になった英子は、訝しむ亜美に要領を得ない事を呟くのだった。
「知らないって何の事よ?言ってなかったってどういう事?」
英子が何か自分に隠し事をしていたのかと勘ぐった亜美の表情が険しくなったが、腕を組み考え込む英子はそれに気付いた様子はなかった。
「いや何ってオマエ、今自分でLove Gunが今まで何処にあったかって聞いてただろう?」
「だから!」
「何そんなにイラついてんだよ?Love Gunなら小原台の城に保管されてたに決まってるだろうが」
「小原台の城って…小原台……城…あ……」
地元の人間らしく厳島本家の所在地の地名と絡めて小原台の城と表した英子の言葉に、丁目の存在しない同じ小原台に存在する防衛大学校出身の亜美は、そこで漸く彼女が何を言っているのかに思い当たったようであった。
「やっと解ったか…そう、恋お嬢さんのご実家だ……他にあるか?」
「それはそうだけど……」
「事件の証拠としての役目を終えたLove Gunを城に運んだのは私だもの、その後何処か別の場所に運んだのなら話は別だけど、そうでなければそのままだと考えるのが普通でしょ?」
「そんな話私は一言も聞いてないわよ!?」
英子の口調に何処か『オマエ馬鹿か?』といったニュアンスが含まれているように感じ取った亜美は、初めて聞かされた当時の話にキッとした目で英子を睨みながら思わず声を荒げていた。
「あのな…私の仕事を何だと思ってんだよ……?個人情報を多く扱うから守秘義務ってものがあるんだぞ?何でもかんでもペラペラ話せる訳じゃないんだからな?まぁこの程度の事はその範疇には入らんが、逐一オマエに報告出来る程私に暇があるように見えるか?」
本来なら彼女の仕事の範疇ではなくそこまでする必要もなかったのだが、事件に関わった経緯と複雑に絡み合った縁を思うと、それを一つの区切りと考えた英子はLove Gunを返却する際は同行し厳島家の居城たる小原台にそびえ立つ城に足を踏み入れていたのだった。
「それはそうだけど……」
将来は初の女性警視総監と噂される英子は刑事として極めて優秀過ぎる故に日頃から多忙を極め、その事は亜美も再会後に彼女を見ていて充分に解っていた。
「その…ごめん……」
「別に気にしちゃいないよ」
実際何とも思っていない様子の英子は手にしたグラスに亜梨亜が注いだワインを一気に飲み干すと、もう何度目か解らぬ満足気な吐息を洩らし亜梨亜を微笑ませるのだった。
「それでその……」
「はい、確かに英子さんの仰る通り、Love Gunは返却後そのまま城の格納庫に眠っておりました」
場所も弁えずつい英子とやり合ってしまった亜美は少々気まずそうだが、それでもLove Gunのその後が気になるのかおずおずと質問を発した。
しかしそんな事などお見通しな亜梨亜は、機先を制するように亜美に向かってワインボトルを差し出しながら、彼女が気になっているLove Gun復活の経緯を語り始めたのであった。
清水でアンチョビ率いるアンツィオとの一戦の後空路で一旦横須賀に帰投したラブが、愛というオマケが付いて来たものの単身格納庫で眠るLove Gun再会を果たし復活を決意した事。
更には笠女と協力関係にあり、Ⅲ号J型の改造を依頼した陸上自衛隊高等工科学校にLove Gunを送り出す前、彼女が独りで格納庫に放置状態にあったLove Gunを清掃した事などを亜梨亜は解り易く掻い摘んで説明したのだった。
「ちょっと待って下さい…まさか恋お嬢さんはたったお一人であのLove Gunの清掃をされたのですか……?事前にある程度の事はやってあったのですよね……?」
亜梨亜の説明を元のポーカーフェイスに戻り聞いていた英子であったが、大掛かりな修復と改造の前にラブが独りでLove Gunの清掃を行ったと聞いた途端血相を変えたのだった。
「いえ、運び込まれたままあの子が封印を解くまでずっとそのままでした」
「そんな……」
珍しく動揺を隠さない英子の様子に亜美も驚いていたが、そんな彼女も目に入らぬ英子は暫く絶句した後何といえぬ渋い表情で何やら呟き続けていた。
「あれを一人で…こんな事なら返却前にこちらである程度何とかしておくべきだったか……」
全てにカタが付いた後厳島家に返却されたLove Gunであったが、証拠物件を扱う際の常として原状を維持したままの状態で城に届けられていたのであった。
当時でもラブの血で染められた車内は赤黒く変色し凄惨な状態であったが、年単位で時間が経過した血糊の清掃、それも自身の流したものである事を考えるとさすがの英子も絶句し、立場上許される事ではないが返却前に自分が清掃するべきであったかと考え込んでしまったのだ。
「英子さん、全てはあの子が自分で決めた事なのであまり気になさらないで下さい」
「はぁ…ですが……う~む……」
亜梨亜が彼女の心情を察しそれとなくフォローするような事を言うが、英子の顔からは失態を犯したとでも言いたげな表情が直ぐには消えなかった。
「ちょっと英子、さっきから急にどうしたっていうのよ……?」
「ん?いや…そういえば亜美、オマエ確か事故後のLove Gunの車内の様子をちゃんと見ていなかったんだよな……?」
「え?ええそうね…当時私は事務的な処理と現役選手の精神的ケアで飛び回ってて、結局自分の目で直接Love Gunの状態を確認する事は出来なかったのよね……けどそれが何か……?」
今一つ話が見えない事に戸惑う亜美であったが特にそれで怒る訳でもなく、戸惑いながらも落ち着いた様子で先を促していた。
「亜美も知っての通り榴弾が暴発した事で恋お嬢さんは重傷を負った訳だが、その際車内が彼女の流した血で文字通り血の海であった事は話したよな……?」
「確かに…それは何度か聞いたわね……」
言葉と視線で確認する英子に、亜美も当時を思い出し硬い表情で頷いて見せる。
「警察ってのはその必要がなくなれば被害者に証拠としてお預かりした物を返却する訳だが、その際壊れている物を直したり綺麗にする事はないんだよ……」
「あ……」
ここで漸く亜美も英子が言わんとする事に気付いたが、それが意味する処に言葉を失っていた。
「そう…そういう事なんだよ……Love Gunは恋お嬢さんの血に染まったままの状態で、厳島家に返却されたんだ……そして先程亜梨亜様がお話しされたように、そのまま放置されていた車内をたったお一人で清掃されたという訳だ……」
「お嬢様……」
想像しただけでも気が遠くなるような話に、亜美も絶句するしかなかった。
無言で視線を交わす英子と亜美は、何度折れても立ち上がり厳島流が掲げる唯一絶対の言葉、
英子というキャラクターは実に不思議な存在です。
当初は中学編のチョイ役のはずでしたがちょっとした切っ掛けで大化けして以降、
どんな場面にもすんなりとハマる逸材となりました。
正直言って恋愛戦車道の登場人物の中で一番書き易いキャラクターですね。