例えそこが個人の住居であると言われても、俄かには信じ難い程美しいドイツ風の巨城。
海運業を中心に財を成した当時の厳島家の当主がこの地に城を築いた理由は、首都東京に近い横須賀が東京湾の玄関口に当たる事と、横須賀海軍鎮守府の存在が大きかったと言われている。
遠く熊本より厳島家がこの地に移り住んで以降、浦賀水道を見下ろす小原の高台に築かれた巨城が一族にとっての本丸となり厳島本家の象徴となったのだった。
この城の最深部に位置するリビング代わりの広間は、城主の許可を得た極限られた者しか立ち入る事を許されぬ云わば聖域であり、この城に住まう者にとってはくつろぎの空間であった。
その広間の片隅、そこには漆黒の輝きを放つドイツ生まれのピアノが置かれ、華美ではないが贅を尽くした室内装飾に見劣りせぬ存在感を誇っていた。
そして桜の開花ももう間もなくというある夜の事、広間のピアノのに向き合い鍵盤という名の舞台の上を、まるで踊るような華麗なタッチで指を滑らせ一心不乱に演奏を続けるラブの姿があった。
もし白魚のようなという表現は彼女の為にあると言われれば、何も疑う事なく信じてしまいそうになる程美しいラブの指が、鍵盤上を軽やかなステップで駆け巡り音を紡ぐ。
長い休みにこの城を訪れる度、彼女のピアノを何よりも楽しみにしていたまほのたっての願いを聞き入れたラブは、英子をゲストに迎えての晩餐の後にささやかな夜会を催したのだ。
とはいえ夜も更けての事なので彼女としても賑やかな曲は弾く気になれず、ラテン語で夜を意味する
「いい加減もういいでしょ?さすがに私も疲れたしネタ切れよ……」
立て続けの演奏に少し息の上がったラブが愛の差し出した水で喉を潤す合間に、それまで彼女の演奏に聴き入っていたアンチョビが、心底驚いた表情で今の気持ちをストレートに言葉にした。
「う~む…ラブのピアノもクラシックの演奏も初めて聞いたが……その、何と言うか凄いな……」
「だろう?やはりラブの弾くピアノが世界一だよ……」
中学時代に何度か一緒行ったカラオケで、ラブの歌の上手さが並大抵でない事はアンチョビも知ってはいたが、ピアニストとして彼女が弾くクラシック曲は衝撃の一言であった。
「だから大袈裟に褒め過ぎだってば…最初に言った通りブランクもあるし、この先私がピアノで何かをどうこう出来る程この世界は甘くないんだからさ……」
中学三年に進級する前の春休みに聴いたのを最後に、今日までラブのピアノを聞く事が出来なかったまほが瞳をウルウルさせながら手放しで彼女の演奏を絶賛すると、その過剰な反応に勘弁してとでも言いたげにラブは閉口していた。
「そういうものなのか?素人の私にはこれ以上はない素晴らしい演奏だったがな」
「だからそこはボロが出ないよう姑息な誤魔化しのテクニックで凌いでんのよ…けどそれは所詮誤魔化しでしかないから、聴く人が聴けばバレバレなんだってば……」
小学生の頃に音楽の授業でオルガン程度の鍵盤楽器に触れる機会が何度かあったが、出来れば避けて通りたかったクチのアンチョビにとってラブのピアノ演奏のテクニックは神業としか思えず、謙遜ではなく本気でそれを否定する彼女の事が中々理解出来なかった。
だが事故に遭う以前、それこそ自由自在にピアノを弾きこなしていた彼女にしてみれば、後遺障害による身体的限界に由来する技術レベルの低下は到底受け入れられるものではなかったのだ。
故に彼女は厳島流の掲げる百折不撓の信念そのままに、常人では耐えられぬ程過酷な試練を自らに課し、リハビリ担当の医師すら不可能だと断言していた領域を遥かに超えた処まで機能回復を果たしていたのだった。
しかしそれですらおのれの求める100%には程遠いらしく、彼女の演奏を絶賛する二人を前に歯がゆい思いを隠そうともせず不満を露にしたのであった。
とはいえここであまり事細かにその事に関して思いの丈を口にすれば、二人がまた自分が抱えるハンデの事で気に病むのが目に見えていたので、演奏家にとってブランクが如何に馬鹿にならないものであるかを説明するに留めていた。
そして特に誰かに師事するでもなく独学で好き勝手にここまで来た自分の演奏は、ピアニストとして第一線で通用するものではないと念を押しながら鍵盤蓋を閉じたのだった。
「そうかぁ?ステージじゃキーボード弾いたりしてるのによく解らん世界だなぁ……」
「だから例え同じ音楽の世界でも、求められるものがまるっきり違うのよ…戦車道とタンカスロンだって似て非なるものでしょ……?その辺の事情は千代美が一番解ってるんじゃないの?」
「そりゃまぁそうなんだが……」
それでも尚釈然としない様子のアンチョビに、ラブは彼女にとって最も分かり易いであろう例えを出して説明したが、結局は話が戦車絡みになってしまいもっと他に話しようがなかったのかと内心で自分に呆れていた。
「フム…そういえば古い知り合いに音響……確かPAでしたか?ライブイベントを中心に音響関係の仕事をしている人がいるのですが、その知人曰くステージ等の現場でデカい音を相手にしているのと、スタジオでレコーディングの為に繊細な音を扱うのとでは求められるものが全く違って来る上に、エンジニアとしての格の違いのようなものも生まれて来るという話を聞いた事がありますな」
ラブがアンチョビを相手に、自分がピアニストとしては一の線ではない事を如何にして理解させるかで苦労していると、それまで彼女の演奏に耳を傾けながら亜梨亜の勧めるままにバーボンの消費に努めていた英子が、思いもよらぬ話で助け舟を出して来たのだった。
「まあ、お知り合いにこちらの業界の方が……?」
「え~?それは初耳ですよ英子姉さん……」
意外な人物からの意外な助け舟にその場に居合せた者達も揃って目を丸くしたが、彼女の話に我が意を得たりと頷いたラブはアンチョビを納得させるべく話を纏めに行った。
「まさにそういう事…今の私は繊細さを求められるピアニストではなく、ステージで弾けてナンボなロックンローラーなのよ……これで千代美も解ったでしょ?」
「う~ん…なんかよく解ったような解らんような……な~んか上手く丸め込まれたような気もするけど、まぁオマエがそう言うならそうなんだろ……」
今ひとつ納得していないのはその顔を見れば明らかだが、これ以上ここで何かを言っても話が堂々巡りになるだけなのはアンチョビもよく解っているのか、歯切れが悪いもの言いながらも漸くそれで彼女も矛を収めたのだった。
「でもなラブ、それでも私にとっての一番はお前のピアノである事は変わらないんだからな?」
「そ、ありがと……」
アンチョビ相手に自分の演奏を否定する彼女の事がどうにも納得行かない様子だったまほは、二人が話の妥協点らしき場所に着地すると、それを見計らったように話の間に割って入り自らの想いを強い口調で主張していた。
するとさすがのラブも面食らったのか丁度ひと呼吸分の間が空いた後に、何とも素っ気ない口調で短くそれだけ返したが、面と向かってそんな事を言われたせいか気恥ずかしさからその目元は微かに赤みが差していたのだった。
ただ、それでも本来自分が思い描く通りの演奏が出来ていない事への歯がゆさを拭う事は出来ず、その瞳には僅かながら悔しさを含んだ色が浮かんでいた。
しかしある意味不遇な生い立ちのせいでそういった感情を隠す事に長けてしまっている彼女は、二人にそれを悟られるような失態は犯さないのであった。
「さ、ホント今夜はこれぐらいでカンベンして頂戴…まだ明日の予定も色々考えてあるんだし、折角の春休みなんだから少しは私ものんびりさせて欲しいもんだわ……」
「明日?明日には帰る予定なんだが……」
「え?何言ってんのよ?私は二泊するって聞いてるわよ……?」
「はぁ?それは誰から聞いたんだ?」
楽譜を片付ける片手間に疲れた事をアピールするラブが翌日の予定について言及すると、最初から一泊して翌日には帰るつもりでいたらしいアンチョビとまほの頭上に疑問符が点灯していた。
その二人の様子にラブもコイツら何言ってんだと眉を寄せ、楽譜を片付ける手を止め当然の事を聞くなとばかりに溜息交じりで質問に答えたのだった。
「誰ってしほママからに決まってるじゃない──」
「あのクソババァ!」
今回の横須賀行きに関しては詳細を一切聞かされず熊本を発っていたまほは、ラブの口から母の名が出た途端彼女が更に何かを言いかけたのを遮るように怒声を発し、瞬間湯沸し器も裸足で逃げ出す速さで沸騰し怒りに顔を歪ませていた。
「あらまほちゃんダメじゃない、折角しほちゃんが春休みに少しは羽が伸ばせるよう取り計らってくれたのに、その言い方はないんじゃないかとおばさんは思うんだけど……?」
「ぐっ…そ、それは……」
主にしほに原因があるとはいえ、最近実に下らない理由で母と衝突する事が多いまほは、またしても自分をハメたしほをいつもの調子でクソババア呼ばわりしていた。
するとそんな彼女の暴言にしほ大好きなラブが黙っているはずもなく、キッと目を吊り上げて小言の一つも言ってやろうと口を開きかけたが、それより早く亜梨亜が口を挿み思いもよらぬ方向から不意打ちを喰らったまほは、どう答えたものかと返答に詰まり目を白黒させたのだった。
そしてこの時アンチョビもまほに一言注意しようとしていたのだか、亜梨亜に先を越されてしまい口をパクパクさせて狼狽えるラブの顔を見てしまい、そのあまりの間抜けさが可笑しくて笑いを堪えるのに苦労する羽目になっていたのであった。
「はっはっは!春休みは学生の特権、いや羨ましい…私なんぞ明日は朝から……おっと、これ以上は守秘義務に引っかかるので本官は何も言えません♪」
「英子姉さん…酔ってますね……?」
明らかに亜梨亜も面白がっているとはいえさすがにこの状況で笑う訳にも行かず、アンチョビが独り襲い来る笑いの波に耐えていると、いつも以上に空気を読まぬ英子が大笑しながらショットグラスを満たすバーボンをグイっと煽り、その無茶苦茶ぶりでアンチョビを脱力させたのだった。
「とにかく…そういう訳なんだからアンタ達も少しゆっくりして行きなさいよね……」
しかしアンチョビがガックリと肩を落としているうちにどうにか持ち直したラブは、楽譜の片付けを再開しながら改めて二人に連泊するように言ったが、やはり二人が城に来た事自体が嬉しいのかその声はやや浮かれた印象があった。
「それと英子さん、英子さんも相当飲んでいらっしゃるんですから今夜は泊って行って下さいね」
亜梨亜相手にこれだけ飲んで潰れずにいる英子の酒に対する強さ並大抵ではなく、母の蟒蛇ぶりを一番よく知るだけにラブも彼女が只者ではない事は認めていたが、さすがにこれだけ飲んだら泊って行った方が良いであろうと判断していた。
「いやいや、お申し出は有難いのですが明日は朝から
二人に連泊するよう言い置いたのに続きラブは英子にも城に泊まるよう申し出たが、彼女の気遣いにそれまでいい感じにご陽気だった英子は、突然スイッチを切り替え刑事の顔に戻ると心配無用と直立し知波単仕込みの敬礼でそれに答えたのだった。
「そうですか?でもお車でいらしたのにそちらはどうするおつもりですか?」
「なぁに最近は横須賀も運転代行がありますからね、それを利用しますよ」
「わざわざお越しいただいたのにそういう訳には行きません、お帰りの際は城の者が代わりに運転致しますのでどうかご安心下さい」
「そうですか?ではお言葉に甘えさせて頂きます」
とても深酒をしたとは思えないキビキビとした動きで、折り目正しく一礼した英子にさすがのラブも驚きを隠せずにいたが、今度は亜梨亜が城主として招待客に不便をかける訳には行かぬと申し出て、あまり固辞してばかりでも失礼になると考えた英子は最敬礼でその提案を受け入れたのだった。
「いやぁ、それにしても実に美味しく飲ませて頂きました…そっか、千代美ちゃんも大学生になる訳だから直ぐ一緒に飲めるようになるわね……あ、でも恋お嬢さんはまだ
「え、英子さん!?」
「ふふ♪冗談ですよ」
昼間運転免許に関する事でまほに揶揄われたばかりのラブは、英子に似たようなネタで弄られてしまい信じられない様子で絶句したが、英子は軽く笑って彼女の反応を楽しんでいた。
「あ、けどちょっと待って…千代美ちゃんが大学生になるのよね?初めて会った時まだ中学生だった千代美ちゃんが大学生に……あ~、なんか急にすっげ~年食った気がするわ~」
「英子ねぇさ~ん……」
与太話をしたりラブを手玉に取ったりと、変幻自在な英子が果たして本当に酔っているのか怪しんでいたアンチョビだったが、不意に出会った当時を思い出しババ臭い事を言い出した彼女の肩を揉む仕草に、アンチョビもそんな事を忘れ疲れた様子で力なく首を左右に振ったのだった。
「それじゃまたね、今度はいつ会えるかしら?大学戦車道での活躍楽しみしてるわ……大丈夫、千代美ちゃんなら絶対上手くやれる、舐めてかかる連中に思いっ切り恥を掻かせてやるといいわ」
「はい、英子姉さん……」
楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもの。
明日も朝から忙しくなる事が解っている英子が、城の車寄せでアンチョビとの別れを惜しみながら彼女を軽く抱き寄せ、別れの言葉と共に新たな道に進むアンチョビの為にエールを送る。
そしてそれに応えるアンチョビの声にも、何処か名残惜しさが感じられるのは決して気のせいではないだろう。
「さて西住のお嬢さん…千代美ちゃんの事くれぐれも頼むわね、一番近くで支えてあげられるのはあなただけなんだからしっかり頼むわよ……?」
「は、はい!お任せ下さい!」
アンチョビをハグしたままの英子に彼女の事を任せると託されたまほは、まるで新兵のように緊張した面持ちで直立すると敬礼しながらそれに応えるていた。
「ふ…そんなしゃっちょこばらなくていいわ、今日は呼んで貰えて本当に嬉しかったし感謝してるんだから……さ、それじゃ私はもう行くわね……亜梨亜様、恋お嬢様、本日はお招き頂き誠に有難う御座いました、次にお会いするのは笠女の入学式の警備の時になると思いますが、当日はお互い忙しくなるので満足にご挨拶も出来ないでしょうな……」
まほの発案で今宵の晩餐に招待された英子は素直に感謝の気持ちを伝えると、次いで城の主である亜梨亜とラブに城を辞する挨拶をした。
「私達も本当に楽しい時間を過ごさせて頂きました、これをご縁に私達親子が城に戻った際は是非脚をお運び下さい…その、中々一緒にお酒を楽しんで頂ける方って本当に少なくって……」
「ちょっと亜梨亜ママぁ!」
会う度にポンコツ化の進む英子だがそこはやはり大人の女性でありTPOは弁えているので、亜梨亜に対しては礼節にかなった別れの挨拶をしていた。
しかしそれに応えた亜梨亜も最初こそは厳島のトップらしい姿勢を崩さずにいたが、途中急にモジモジし始めると小娘のような態度で戯言めいたセリフを吐き、隣にいたラブを膝カックンでも喰らったようにコケさせたのであった。
「あ、その…変な事を言って御免なさい……」
「はっはっは!いやこれは愉快♪私なんぞで宜しければ幾らでもお相手させて頂きます!亜梨亜様のお誘いであれば、不肖敷島万難を排して駆け付けさせて頂きます!それではこれにて!」
足下に尻餅を突いた娘の叱責に小さくなる亜梨亜の姿に豪快に笑った英子は、言葉通り心底愉快そうな笑みを残し愛車である真っ赤なチンクエチェントの助手席に乗り込むと、代行運転のドライバー代わりのメイドの運転でそのまま走り去って行ったのだった。
「ほんっと亜梨亜ママもいい加減してよね……」
「だって…一緒に楽しくお酒が飲める方って少ないからつい……」
どうにか立ち上がってお尻を掃いながらラブが深い溜息を吐けば、娘の視線に耐え兼ねたように亜梨亜は一層恥ずかしそうに両手で顔を覆い、初めて見た彼女の一面にまほは呆然としたのだった。
「…なんかホントに疲れたわ……それに結構冷えて来たから中に入りましょ……」
「あ、あぁそうだな……」
車寄せから走り去った英子のチンクエチェントの小さなテールランプが闇の中に完全に見えなくなると、これ以上ここにいる必要もなく、寒さにに軽く身を震わせたラブが城内に向け踵を返し見送りに出ていた者達も全員がそれに倣って城内に戻って行った。
『亜梨亜おば様があんな事を言うなんて……』
『もしかして西住も初めてなのか……?』
『そりゃそうさ…身内の子供相手ならともかくだ、大人の……それも城に招いた客人に対してあんな事言うなんて見た事ないに決まってるだろ……?』
先を行くラブと亜梨亜の背中を見ながらヒソヒソするアンチョビとまほであったが、同じく見送りに出て一緒にいたAP-Girlsが動じていない事にまでは気が回っていなかった。
「ああそうだ忘れてたわ…二人にはもう関係ない事だけど、少し前から要望が出始めて問題になってた全国大会の件、正式に連盟がルール改定を決定して家元会議側もそれを了承したわよ……」
「あぁ?何だって……?」
「おいラブ…それは一体何の話だ……?」
先を行く亜梨亜の意外な一面の事でヒソヒソやっていた二人は、ラブが急に足を止め振り返った事に直ぐに気が付かなかった。
そして突然ラブが言った事の意味が理解出来ず、二人は怪訝そうに厳島流家元の顔を見せるラブの表情を窺ったが、彼女の家元の仮面からは何も読み取る事が出来なかった。
今回英子が語ったPAに関する話は私がバンドを組んで間もない頃、
とあるライブハウスでベテランのミュージシャンから聞いた話が元ネタになってます。
春休みなのだからのんびりさせろと言いながら、
何やら含みのある事をラブが言いだしましたねぇ……。