――大陸の最北に位置するストリエ王国にメイドあり。そのふざけた噂が囁かれるようになったのはいつからだったか。とかく、凄いメイドがいるらしいというのがその噂である。
曰く――その容姿傾国にして、心奪われぬ者無し。頭脳明晰にして、その叡智及ばぬところ無し。その剣技至高にして、未だ下せた者無し。かの女に出来ぬことは無く、全ては女の手の内。千の男に求愛されるもすげなく断り、万の学者を論破し、億の敵を両断する。曰く、曰く、曰く――その伝説は枚挙に暇がない。
まるで冗談かおとぎ話のような噂。しかしそれは、多少の誇張こそあれど真実である。
ストリエ王国が誇る王城。要塞のような重苦しい外観に反して、内装は絢爛豪華そのもの。大理石の廊下は鏡と見紛うほどに磨かれ、調度品の数々――例えば一つで一般的な家庭の年収に匹敵するほど高価な壺だ――はそれぞれに適した手入れが的確にされており、その方面の人物をして唸らせるほど完璧な飾り方がされている。誰も見ないようなところですら埃の一つもなく、(いるはずもないが)舐めたとしても問題ないほどの清潔さを保っている。
そんな王城の一室。王の執務室にて、王と一人の女性が対面していた。
ドワーフの職人の手によって樫の木から削り出された重厚な机。その上に組んだ手を載せた格好の王は、心の中で深く息を吐いた。なにしろ目の前の女性は平民上がりのまだうら若き乙女とはいえ、この王城のメイド長を務め、ここのメイドどころか下級貴族の子女にすら慕われるほどの人望を持つ。さらには、単純に知識量も、戦闘能力も、何一つとして敵わない超人だ。
正直な話、なぜこの国にいるのか、ここで働いているのかが分からないくらいに有能なのだ。他所に行かれては困る。……理由はそれだけではないが、結果として彼は王であるのにも関わらず、たかが一メイドと話すのに他にないほど神経を使うこととなっていた。
不意に、女性が声を発した。聞いたものを恍惚とさせる、最上級のハープの調が如き可憐な声。
「……
「ああ。余の耳にも噂が入ってきている。聞けば、万の学者を論破したとか」
「噂とは事実であっても曲解と誇張が付き物でございます。確かに、一人ばかり神学者の方と問答したことはございますが、そのような事実はありません。私ではなく、専門の家庭教師を雇うのがよろしいかと」
王は内心で、もう一度息を吐いた。この女性と話していると、まるで自分がちっぽけな子供のように思えてくる。実際の年齢が反対であってもなおそう思わせるほどに、女性の教養は高く、他に並ぶもののない人格者であった。
さて、どうしたものか。王の脳内に浮かぶのはそんな思い。息子たちには出来るだけ高い教養を身に着けてほしいと考えた彼が家庭教師に選んだのは、このメイドだった。
思い立ったが吉日と呼びつけて話してみればこの反応である。半分くらい泣き出したい気持ちになりながら、頼み込む。
「……どうしてもだめか?」
「国王がそのような顔をするものではありませんよ。……私でなければいけない理由などないでしょうに、何が王にそこまでさせるのですか?」
「むぐっ……」
言えない。言えるわけがない。まさか――子供たちの教育を口実に会う機会を増やそうと考えていたことなど、知られたが最後軽蔑の眼差しを向けられながら辞表が提出されてもおかしくない。自身も結構な年だし、もうすでに側妃だって何人もいるのだ。断られるだろうし、まだ色ボケしているのかこの爺、と思われても仕方ない。
それでも。
(これほどに、心惹かれた女性は貴女が初めてなのだよ……)
蜂蜜を溶かしたような金の髪。釣り目気味の、エメラルドをはめ込んだような大きな瞳。すっと通った鼻梁に、柔らかそうな頬、玉のような白い肌。ぷるりと瑞々しい桃のような唇といい、全てが神から与えられた芸術品のように美しい。そしてなんといっても、右目の下に配置された泣きボクロが得も言われぬ色気を醸し出す。
それだけではない。その身体つきはほっそりとしていながら、年齢に見合わず育ち切っている。きゅっと締まった身体つきなのに、女性らしい丸みを帯びている。スカートを押し上げる尻に見とれた男は十や百ではないだろう。胸はメイド服に抑え込まれて窮屈そうにしていて、ともすれば飛び出しそうなほどぱんぱんに詰まっている。そのせいで服のサイズが特別に仕立ててもらわなければ用意できないという噂もあるほどに。
「?」
「ああいや、なんでもないのだ。……余の息子たちにつける教師は最高の人物でなくてはならない。王という重責を負うにふさわしい人材へと育て上げるのであれば、余の傍で仕えてきたそなたが一番だと考えたのだ」
思わず胸に行っていた視線を上げると、どうやら気付かれてはいないようであった。王はそのまま、誤魔化すのも兼ねて説得する。
やがて。ややあってから、メイドは躊躇いがちに口を開いた。
「つまり、私が教えるのは王としての自覚と責任、ということでございましょうか?」
「うむ。こればかりは並みの教師には出来ん。その点、そなたなら余をよく見ている。王という仕事の何たるかは分かっているだろう」
ん、とメイドが人差し指を顎に当てて考え込む。彼女が考え込むときの癖だった。
そうして結論が出たのか、彼女は柔らかな微笑を浮かべて王に向き直る。
「分かりました。王がそこまでお考えとあらば応えないわけにもいきませんし、お受けいたします。ただ、その分本来の業務――清掃などは他のメイド達に任せることになりますが、よろしいですね?」
「あ、ああ。元々そなたの業務からかけ離れたことを頼んでいるのだ。それくらいはな」
「ありがとうございます、王。……では、下がってもよろしいでしょうか? 他のメイドたちに伝えてこなければなりませんので」
「む、そうか……もう少しそなたと話していたかったのだがな」
「……ふふ、お戯れを。では、失礼します」
王の本心からの言葉を、ただの冗談と受け取ったのか。メイドは、ともすれば冷たい印象を与えがちな顔に小さな笑みを浮かべて退出していく。
残された憐れな中年は、自らの人生でも初めての感情――恋に心をかき乱されながら思う。
(私が彼女と、というのはありえないだろう。しかし……ならば義娘というのは? そうだ、息子のアルフリードならどうか。年も近い。顔もいいと貴族娘たちに持て囃されていたはず。もしあの娘がアルフリードと結婚すれば私はあの娘にお義父様と呼ばれ、毎日顔を合わせることだって不自然でなくなるはず。もしアルフリードが気に食わなければ他の兄弟を……)
自らの恋が成就することはないだろうと、半ば諦めているがゆえに。彼は自分の夢を息子に託すことにした。そこには自分の夢を子供に叶えさせようというダメな親の典型的な想いも大きくあったが、息子の結婚相手が彼女であれば安心できるという、親の心があった。
とはいえ、何にせよ相手からすれば迷惑極まりないだけなのだが。
(そうと決まれば必要なのは……そういえば、彼女は平民上がりだ。何かと煩くなるだろう貴族たちを抑えるために、文句の言えない貴族家の養子にしておく必要があるか。パースツル家がいいか? あそこなら力も強い、今代当主も私に頭が上がらない、と好都合だ)
……こうして。裏で王が迷惑極まりない計画を練っているとも知らずに、メイドの彼女は一度自室に戻って一息つく。小さなベッドとクローゼット、大きな姿見以外は何もない部屋。人によっては空き部屋とすら思うだろう。
しかしそんな部屋に何も思っていない様子の彼女は、一度着替えるために服を脱ぎ捨てて、神が作りたもうた芸術品が如きその裸身を惜しげもなく晒しながら、ベッドに倒れ込んだ。
「……うあー、疲れた。なんで家庭教師なんかやらせようとするかなー全く。流石に温厚な
ごろごろと。ベッドに転がっていた彼女はやがてのっそりと立ち上がった。
「……ううん。やっぱり田舎者っぽさが出てるんかね。さっさとやめろっていう無言の合図だったり? 正直こんなとこさっさとやめたいんだけど、やめて戻ろうにもお金ないしなぁ……はーやだやだ」
いいつつ、姿見に自分を映し出し、その格好に顔を顰める。
「はぁ……女の子も楽じゃないな、全く。
乾いた笑いを浮かべ、意味深なことを言いつつ。手早く新しいメイド服に着替えると、彼女は部屋を後にする。
これは誰も知らない、本人だけが知る話ではあるが。彼のメイド――オフィーリアは転生者である。現代日本に生きていた
しかしながら問題が一つ。
――肉体こそ最高の女性であるが、宿る精神、魂はごくごく普通の一般男性であったということだ。
これは、そんな彼の――彼女の、波乱に満ちた人生の物語である。