途切れていた意識が断続的に繋がり出し、やがて大きな光が、すべてを覆い尽くした。
燃え続けている巨大な焚火の中心に、勢いよく突き飛ばされたような。まるで肉体の末端から、徐々に灰へと巻き戻されていく感覚。
閉じられた目蓋を焼く鋭利な赤光に耐える事が出来ず、とうとう、乾巧はその目を覚ました。
「痛っ、つぅ――」
出迎えたのは、鋭い痛みだった。続いて、鼻腔を殴りつけてくる、鮮烈な鉄錆の臭い。べちゃべちゃと全身を濡らしてくるそれが血であることに、数秒経ってようやく気づいた。
ぱちぱちぱちと、何かが弾ける音。何処かから際限なく入り込んでくる熱気。闇の中に閉じ込められていても、わかった。どこかで何かが燃えている。それもすぐ近くで。暗闇に慣れてきた眼が、節くれ立ってはいるが未成熟な白い手を映す。幼い頃の夢でも見ているのかと、とりとめのない思考が浮かぶ。
「俺、何で、」
乾いた喉を動かして、ようやく、脳味噌が重い腰を上げた。擦り切れたビデオテープを早回すように、錆びついた情景が、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。木場との決着。王との戦い。そして、木場の最期。
――俺には分からない。何が正しいのか。その答えを、君が俺に教えてくれ。
木場が最期に絞り出した、魂の慟哭。
何が正しいのか、何が間違っているのか。本当の所を言えば、最後まで分からなかった。当たり前だ。人間は誰もが、自分だけの正しさを信じて生きている。他人の正しさは所詮、道端に転がっている石ころのようなものにしかなれない。邪魔にならなければ、無視する。邪魔になれば、蹴飛ばす。ぶつかるか、ぶつからないか、零か一でしか測れない。そんなものに正しいも糞もあったものではない。土台、無理な話なのだ。万人が納得する正しさを出すのは。
分かり合えると信じていたものに裏切られて、正しさを見失った。
それでも諦める事が出来なくて、傷ついて、苦しんで、悩み抜いて。
全てを失ってしまって、彷徨い続けて、それでも最後にしがみついてしまったのは。
それはまだ、奴が捨てられずにいたからなのかもしれない。
人間を。
呪いという名の、夢を。
正しさというものは、夢によく似ていると巧は思う。己の心の中にあるそれを少しでも曲げてしまえば、二度と立ち上がれなくなってしまう。自分が自分で無くなってしまう。そういうもの。
草加雅人にとって、オルフェノクの殲滅こそが宿命であるように。
村上峡児にとって、オルフェノクの繁栄だけが生涯であるように。
木場勇治にとって、オルフェノクと人の共存が理想であるように。
決して受け入れられない、相容れない考えだったとしても、その夢に魅せられ、憧れて、その後を続こうとする奴は必ずいる。その事に、人間もオルフェノクも関係ない。例え灰の一片になっても、連綿と受け継がれていく物は、確かにあるのだ。
だから、木場が最後に選んだ答え。――木場勇治という人間が二度の生を懸けてまで、足掻き、もがき苦しんで、刻みつけた痕跡。
迷い続け、血反吐を吐きながらも出した答え。
それを追い掛けてくれる誰かがこの世界にいるのなら、それはきっと。
――すべてに、意味はあったのだと思った。
〇
立ち上がる他に道は無かった。
鉛を詰め込まれたかのように動かない鈍間なこの身体が、いい加減うざったい。それでも足を踏ん張り、歯を喰いしばって、覆い被さってくる棺桶型の置物を乱暴に押しのけた。
全身に刻まれた裂傷が小さく悲鳴を上げる。身体中を走り回る痛みがたまらなく鬱陶しい。苛立ちからふらつく身体を何とか立て直し、ようやく立つ。熱を孕んだ風が髪を荒々しく舐り、闇に慣れ切った目を眩い炎が出迎えた。視界が白く明滅する。喉の奥底で蠢く吐き気。煤けた服で顔を拭い、眼を開く。
――そこには、地獄があった。
紅蓮の津波が、加速度的に広がっていったその情景。砕け散った建材はどす黒く濁り、もうもうと立ち込める暗雲は止む気配を見せず、まるで世界全てが燃やし尽くされてしまったかのよう。
この光景を、巧はよく知っている。
黒煙に包まれ苦しみ抜いた死体が、ゴミのように転がっていた。誰か助けてくれと、行く当てもなく伸ばされた腕が、墓標のように突き立つその景色を、巧はよく知っていた。もはや、苦しみの叫びすら聞こえなくなったそこに、俺はまた取り残されてしまったのだと、今さら知った。
諦観が全身を、ゆっくりと満たしていく。行き場を無くしたどす黒い感情が降り積もり、頭が金槌で叩かれているように痛んだ。また、助けられなかった。救えなかった。ほんの少しだけ手を伸ばせば、届いていたかもしれなかったのに。歯を砕きかねないほど喰いしばり、真っ赤に燃える虚空を睨みつける。零れ落ちたのは汗か、それとも血か。あふれ出る後悔が、口から溢れ出しそうになった瞬間、
「――れ、か」
激しく燃え盛る意識に、弱々しい呻き声が響いた。
居ても立っても居られず、走りだした。
幻聴かもしれない。それに、もし本当に誰かが助けを呼んでいたとしても、生きている、という証拠はない。助けられる、という確証もない。だが、誰かが声を上げている。生きていたいと、叫んでいる。それだけで、充分だった。
死体が散らばる広場を駆け抜ける。泥のように纏わりつく熱気を振り払う。ひっきり無く噴き出す汗が背筋を滑り落ちる。乳酸がたまり切った足は擦り切れた棒の如き有様だ。既に全身の感覚も、火炎に巻かれて薄れ始めている。大きく、呼吸。口内を黒煙が殺到する。喉を蝕む苦しみの黒煙。涙と額汗で視界が滲んだ。思い通りに動かないこの身体に、むかっ腹が立つ。降りかかる無数の痛苦に、どうしようもなく苛立つ。怒りで思考が真っ赤に覆われる。それでいい。どのような些事であれ、この身体を動かす力にさえなれば。
瓦礫の山を登り切り、犬のように舌を出して喘ぐ。
その眼下には、瓦礫に埋まる少女の姿があった。
「――おいっ!」
駆け降りながらも、叫ぶ。少女に反応は無い。閑散とした空間に繰り返される巧の叫びだけが、痛々しく響いた。
「おい、しっかりしろっ! おい! ――っ、」
辿り着き、絶句する。少女の下半身は、瓦礫に押し潰されている形になっていた。隙間から湧き出す真紅の液体の量は、想像を遥かに越えていた。噎せ返る芳醇な血臭。獰悪なまでの破壊衝動が、一瞬首を持ち上げかけた。握りつぶす。
今までに、死は何度も見てきた。しかし、こうして目の前でゆっくりと死に絡めとられていく人間を見るのは、無かった。
「せん、ぱい。……よかっ、た。ぶじ、だったんですね」
傍にいる巧に気づいたのか、見知らぬ少女の瞳が、ひび割れたレンズを透かして滑らかな弧を描く。この少女は、他人も同然の筈の自分の身を、本気で案じてくれているのだと、その瞬間わかった。どうして笑えるんだと、思わず叫びたくなった。
瓦礫に手をかけた。無駄だと喚く自分を殴り飛ばす。肉が焦げる音。あまりにも鮮明な衝撃。掌を侵す鋭い痛みに呻きつつ、構わず力を籠める。大地に根を張り巡らしたかのように、動かない。もう一度力を籠める。腕が折れても構わない。残り少ない体力を振り絞る。だが、忍び寄る死の気配は、少しも衰える事が無かった。
何の為に、俺はここにいる? 怒りのあまり目が霞み、衝動的に瓦礫を殴りつけた。固く握り締められた拳から、ぽたりと一滴、血が漏れ落ちた。これこそ、悪夢だ。何もできない自分が心の底から憎かった。
「はやく、逃げてください。も、うすぐ、隔壁が」
息も絶え絶えな少女の言葉を遮るように、何処かで何かが閉じられる音が聞こえた。
少女の双眸が、深い自責に歪んだ。
「しまっ、ちゃっ、た……」
数秒の沈黙。やがて、二人の間に静寂の帳がゆっくりと降ろされた。聞こえるのは、何かが燃える音だけ。最早、何もかもが限界だった。長時間の酷使により、痙攣し続ける足を引きずり、少女の隣に座り込んだ。地に伏せられた薄葡萄の頭が、ふるふると震えていた。
虚ろに揺らぐ薄い虹彩を宿した眼。今にも泣き出しそうなほど眼を潤ませているその表情は、何処か人形めいた無機質さを感じさせる。整った顔立ちに、すっきりとした鼻梁。その下にある唇は、噛みちぎられんばかりに、しっかりと引き結ばれていた。そこから隙間風に似た、か細い後悔が流れる。
「どう、しましょう。これじゃ、ぁ。せんぱい、が」
「……別に、お前のせいじゃねえだろ」
「いいえ、わたしが、わたしさえ、いなければ。せんぱいは、にげ、られた……はず、なのに」
「だから、」
思わず、口調が強くなった。震えた肩を見て、自分の不必要なまでの無愛想な挙動を悔やんだ。
「……もう、いい」
「…………わかり、ました」
そして、沈黙。
自分が未だに一夜の夢の中にいるのか、まだ判別がつかなかった。夢と断言するには、あまりにも現実感が有り過ぎる。未だ燃え続ける炎も、全身を蝕む裂傷も、もたれかかった瓦礫から伝わる熱さも、全てがリアルだ。しかし、この場所は現実から乖離し過ぎていた。
中空に浮かぶ赤い球体を見上げる。地球儀を際限無く膨れ上がらせた様な形のそれは、幾つもの円環を周囲に纏わせ、その巨体から耳障りな警告音を吐き散らし続けている。そういえば、ここが一体どこなのかすら、分からないままだ。自分の記憶は、王との決戦を最後に途切れている。となれば、ここは王が産まれた場所に違いないのだろうが、それにしては、小綺麗だ。そこまで考えて、止めた。ここが現実か夢かなど、どうでもいい。どうせ、答えなんて見つかりはしないのだから。
「せん、ぱい……」
声に振り返れば、少女がこちらを見上げていた。瞳の色彩が、消えつつあった。生々しい死の香り。それを振り払いたくて、巧はわざとぶっきらぼうに返した。
「何だ」
「手を、」
「は?」
「手を、にぎっ、て、もらえませんか……?」
嫌だ、と反射的に言いかけて、止めた。少女の相貌は、こうして喋れているのが不思議なほど、蒼白だった。遠のきつつある意識を引き戻すように、巧は自分でも驚くほど優しく、少女の柔らかな手を握り締めた。
「……あった、かい……」
「そりゃ、熱いからな」
「ありがとうございます。これで、未練は、なくなりました」
「バカ、大した事してないだろ」
笑みを浮かべる少女を、軽くこづく。弛緩した空気が二人を包んだ。
いつの間にか、熱さを感じなくなっていた。
そういえば視界も、やけに薄暗い。
「せんぱい、どうか、生きて――――」
次第に、少女の声も遠のいていく。全身が、黒いベールに包まれていく感覚。
とうとう夢から醒めるのか、それとも夢でも眠るのか。どちらでもいい。
ただ、目の前の少女が助かればと。叶わない筈のそれだけを願って。
深い暗闇の中に、乾巧の何もかもが消えていった。
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