Fate/Φ's Order   作:うろまる

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終節「掌の灰」

 少年は、夢を見ていた。

 

 

 それは、自分が炎の海に巻き込まれる夢だった。確かな害意を持った火の群れが、視界に映る全てを飲み込まんと、波のように畝り続けている。

 ある種の地獄めいたそんな風景の中に閉じ込められてしまった自分は、逃げようともせず、ひたすら呑気に寝転がっている──とても不思議な夢だった。

 ひょっとしてこれは夢ではないのかもしれないと気づいたのは、纏わりつく熱気と周囲を渦巻く何かの焼ける音がいやに鮮明だったからだ。

 生きたまま焼かれる趣味はない。だったらさっさと逃げなければ――と立ち上がろうとして、自分の下半身の感覚がまるでない事にいまさら気づく。おそるおそる呼吸をしてみると、肺が黒く焦げついていく音がした。指を動かすと、脆い炭の塊となって崩れ去る音がした。それはまるで、精神よりも先に身体が死をとうとう受け入れてしまったようにも見えて、あぁ自分はもう助からないのだなと、少年はふと悟った。

 不思議と、恐怖はなかった。何もかもが炎に包まれた中で、頭の中に居座るはずだった恐怖心も、一緒に焼け落ちてしまったのかもしれない。それとも、これは本当にただの夢でしかなく、自分は今ごろ布団の中で眠りこけているからなのか──

 いや。

 本当の事を言えば、もうどちらでも良かったのだと思う。夢でも、現実でも。

 確かなのはたった一つだけで、どうやら自分の人生は、ここで終わってしまうという事。

 ひどく寂しかった。

 充満し切った熱気が、鼓膜から体内に入り込み、じわじわと記憶を焦がしていく。最後に残った精神まで殺し尽くさんと、火は少年を激しく責め立てる。

 初めに、自分が消えた。次に、家族が消えた。その次に、積み重ねた日々が消えた。

 大切なものは失ってから初めて気づくとよく言われるが、失いながら気づく事もあるのだと、その時に少年は知った。それは堪え難い苦痛でしかなく、思わず発狂しかけたが、そのうち何に苦しんでいたのかを忘れた。

 瞬きを繰り返すたびに、「    」を構成していた何もかもが、炙るように溶けていく。

 そんな中で、最後に脳裏に過ったのは、純真な眼差しをこちらに向けてくる、紫色の少女の姿だった。

 自分すら忘れ去ってしまった中で、自分は、彼女をまだ憶えている。

 もちろん全てを憶えている訳ではない。名乗ってくれたはずの名前も、呼び掛けてくれたはずの声も、握り締めたはずの掌の感触も、とっくの昔に忘れてしまっている。

 ただ、一つだけ。脳を焔に焼かれ続けてもなお、ずっと憶えていることがあった。

 彼女は、自分を先輩と呼んでいた。

 人間らしいと、言ってくれた。

 何故かそれだけは、どうしても忘れる事ができなかった。

 

 

 炎はさらに勢いを増す。もはや、地上の理が自分の存在を許しておく時間は、塵ほども無いだろう。

 刻々と燃えていく少年の中には、少女しか残っていなかった。輝く瞳の奥に、虚ろな何かを残しているあの女の子が、どうかこの先も幸せに生きていけるようにと、こんな時にもかかわらず考える。

 ゆえに、手を伸ばした。鮮やかな赤と息苦しい黒が混ざり合う空に向けて、指先のない掌を伸ばし続けた。

 それはなんてことはない神頼みだ。何気ない日常の合間にやるような、届くはずのない下らない仕草。

 だけど、なぜか今だけは、届くような気がした。

 この願いさえ届けば、自分の生まれた意味はあった、と思った。

 だから願った。掠れた吐息しか零さない喉を必死に動かした。どうかあの少女が、幸せに生きていけますように。道の途中で迷って、躓いて、膝を折ってしまうかもしれないけど、それでもどうか、幸福な結末を迎えられますように、と。

 

 少年が、燃え尽きる最期に零した、か細い叫び。

 すぐさま炎に巻かれて消えたそれは、確かに世界を救う鍵となった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 なめられている。

 目を開けるとざらついて底が見えない獣の瞳と出くわした。次いで頬をぺろぺろと行き来し続ける湿った舌。巧は何度か瞬きしてから、意識を取り戻した事に気づいた瞬間に顔をくるくると歩き回りだした白い塊の首根っこを掴み上げた。

 

「……」

 

「……」

 

 犬とも猫ともリスともつかないその生物は、ぶらぶらと揺れながら紫色に光るつぶらな目で巧をじっと見返してくる。なにかを見透かしているような、試しているかのような目だった。

 巧と白い獣はしばらく見つめ合っていたが、やがて獣の方が飽きたように「ふぉう」と珍妙な鳴き声をあげて、器用に後ろ足で巧の手首を蹴り飛ばし、華麗に床に着地した。そのまま、てちてちと間抜けな足音を立てながら扉に向かう姿を、巧はぼうっと眺め続けている。まだ寝ぼけているのかもしれない。

 獣が扉の前に辿り着いたのと、扉が何者かによって開かれたのは同時だった。

 たぶん、扉に触れるつもりだったのだと思う。前足を伸ばした姿勢のまま、前のめりに転けかけた獣をひょいと軽く抱き上げた人物は、意識を取り戻した巧を見ると嬉しそうに笑った。

 

「──や、起きた? 身体の調子はいかがかな? お腹とか空いたりしてない? リンゴでも剥いてあげよっか?」

 

 ひらひらと手を振りながら、偶然旧知の友人に再会したような口振りで、その女は巧に話しかけてくる。面識はまるでなかった。過去に出会っていて巧が一方的に忘れている──という可能性もなくはないが、左腕が異形めいた義手と化している人間など忘れようにも忘れられない。

 つまり、目の前の女はまったく知らない誰かだ。

 

「誰だ、あんた」

 

 初対面の相手には滅法辛辣な、我らが乾巧。しかし女は無愛想な視線をあっさり受け流すと、巧が寝かしつけられていたベッドのそばの丸椅子に座り込んだ。警戒を露わにする巧の前で、女はどこから取り出してみせたのか、真っ赤に熟れたリンゴを器用に剥き始める。

 

「誰だ、って聞いてんだ」

 

「まあまあ落ち着いて。……ほら、ウサちゃんリンゴ」

 

「……」

 

「あれ、ウサちゃんはお嫌いだったかな? それならこの…………タコさんリンゴなら、気にいるんじゃないかな!」

 

「いらん」

 

 頑なに口と心を閉ざし続ける巧に女は困り眉になったが、やがて面白そうな事を思いついたように笑うと、よよよ、と閉じた目元に指を当てながらわざとらしい泣き真似を始め出した。

 

「酷い……君にとっての私なんて、所詮一夜のお遊び相手だったって事なんだね……」

 

「あんたと遊ぶぐらいなら、さっさと帰って寝てる」

 

 つれない返事ばかり寄越す巧に、しかし女は愉快そうに話し続ける。

 

「あ―――んなに熱い夜を一緒に過ごしたっていうのに、随分冷たいねえ。文字通り傷つきに傷ついた君のハートを一日かけて癒してあげたのは、この私なんだぜ?」

 

 膝の上で眠たげに目を瞬かせていた獣を持ちあげておもちゃにしながら、女は冗談めいた口振りでそう呟く。まったくもって、身に覚えがなかった。初対面にも関わらず馴々しくウサちゃんリンゴを押しつけてくる女にも、犬とも猫ともリスともつかない珍妙な鳴き声を発する白い塊にも。

 話すだけ時間の無駄だな──と嘆息する。変人に付き纏われる事にそろそろ慣れてきてしまった自分に嫌気が差して、ここから抜け出そうと立ち上がりかけた次の瞬間、

 

 巧の胸を、稲妻のような痛みが貫いた。

 

「い──づ、ぅ」

 

 思わず胸を抑えた。洪水のように押し寄せる吐き気と目眩と冷や汗に、黒と白の交互に点滅を繰り返す視界。ニヤつきを消して背中を撫でてくる女の手を振り払った巧の脳裏に、芳しき血と灰と後悔に塗れた数時間の記憶が一瞬で走り抜ける。

 蒼く燃え続けながら、最期まで自分に助けを求めていた少女。

 灰を零しながら、それでも必死に伸ばされた手を、自分という愚か者はとうとう握ってやる事ができなかった。

 

 なぜ、いままで忘れていたのか。

 なぜ、忘れる事が、できていたのか。

 

「……」

 

 震える手で、毛布を強く握り締める。噛み締めた唇から洩れた血が、赤いシミを数滴作る。

 乱暴に振り払われたせいか、軽い痺れがある手で、女は俯いた巧の背をふたたび穏やかに撫で始めた。たちまち背筋に染み込んでいく暖かさを前に、今度は振り払う気力が湧き上がらなかった。

 ただ、ひたすら嫌になってきた。為すべき事を為せず、交わした約束ひとつさえ守り通せないまま、おめおめと生き残ってしまった自分の存在が。自分など今すぐ灰になってしまえばいいと本気で思いかけた。

 それでも踏み止まったのは、自分が悔やんで死んでみせたところで、蒼く燃え尽きてしまった少女が──そして、これまで死んでいった奴らが帰ってくる訳ではない事を、知っているから。命はたった一つしかない。死ねば、そこで何もかもお終いだ。人である事を、辞めない限りは。

 二度目は無い。

 二度目、は――。

 

 巧が深い自己嫌悪に苛まれる中、女は何も言わず、ただ全てを受け入れるように。

 震え続ける少年の、ことのほか小さな背を、いつまでも撫で続けた。

 

 

 ○

 

 

「……落ち着いたかい?」

 

「……悪ぃ」

 

「こちらこそ、すまなかったね。なにせ特異点を攻略して、まだ一日しか経っていないんだから。私とした事が、少しばかり気が利かなさすぎた」

 

「別に……変に気を回される方が、気持ち悪い。大の男がみっともないなって、笑えよ」

 

 滅多に表に出さなかった自分の傷を、あろう事かまるっきり初対面の相手に堂々と見せつけてしまい、自嘲気味に唇を歪める巧の横顔を、しかし女は慈愛を籠めた目で見つめた。

 

「みっともないなんて、あるものか。いなくなってしまった誰かを思ってやれるのは、君が善いヒトである証拠さ……優しいんだね」

 

「──優しくなんか、ない」

 

 その言葉ほど、今の自分に似つかわしくないものは無かった。忌み嫌うかの如く苦々しく呟き返した巧に、女は幼子を諭すかのように柔らかに語り掛ける。

 

「主観の問題だよ。君から見た君自身は優しくないように見えていても、私から見た君は、とても優しく見える。ま、ちょーっとだけ口が悪いけれども、何、私に比べれば可愛いものさ」

 

「……確かに、な」

 

「む。中々言ってくれるじゃないか」

 

「自分で言ったんだろ」

 

 それもそうだ、と意地悪く笑う女の姿に、巧もつられて苦笑する。和やかな空気が流れる中で、さて、と女は手を叩き、

 

「もうちょっとだけ親交を深めたい気持ちはあるけれど、そろそろ君の帰りを待っている誰かさんの元に行ってやった方が良いだろう。──藤丸立香くん。君がこの先どんな選択をするにしても、私個人としては、君とまたこうしてお喋りできる日が来てくれると嬉しいな」

 

「……」

 

「だめ、かな?」

 

「……内容による」

 

 突きつけられる上目遣いから顔を背けて出した巧の答えに、女はそれじゃあ考えておかなきゃね、と笑った。

 毛布を畳み、寝かされていた寝台から降りる。丁寧に用意されていたスリッパを履いてとんとんと爪先で床を叩いている最中、女の名前を知らない事に気づいた。後で聞き出せばいい――と思ったが、わざわざ名前を尋ねるのを後回しにする方が面倒だった。

 

「なあ」

 

「ん? なあに? 手始めに私のスリーサイズでも教えてほしいって? しょーがないなァ。一度しか言わないから、耳の穴をかっぽじってよおく聞いておきたまえよ。まずバストから――」

 

「名前、何て言うんだ」

 

 一切をスルーして繰り出された巧の問いかけに女はしばらく目を瞬いていたが、やがてウェーブがかった豊かな栗色の長髪を大袈裟にばっと靡かせ、衣服越しからでも大きさが分かる胸に手を当てながら、得意満面といった感じで高らかに名乗りを上げた。

 

「――では、遅まきながら自己紹介といこう。私は、カルデア召喚式英霊第三号にして、サーヴァント・キャスターのレオナルド・ダ・ヴィンチさ。以後、お見知りおきを? って……ふふふ、冗談だよぉ。私の事ぐらい、とっくの昔に知っているだろう?」

 

「誰だ、そいつ」

 

 真顔でそう返した巧に、ダ・ヴィンチは笑顔のまま固まった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 姿形だけでなく台座や位置の部分まで整えられた一流の彫刻のように、その場で固まったまままったく動かなくなってしまったダ・ヴィンチを置いて、巧は部屋を出た。そして、無駄に広いカルデアの回廊を歩いていく。

 てちてち、と足音を立ててついてきた白い小動物は放置していた。それほどこちらに懐いているという様子でもないし、放っているうちに飽きてどこかへ逃げ出すだろう――と予想していたのだが、そんな巧の甘い下馬評を覆し、獣はいつまでも後ろをくっつき回ってくる。心なしか、獣の視線の中には、巧が迷子にならないようにしっかりと見張っているかのような感情が籠っている気がした。

 そんな監視の視線があったおかげか、やがて巧とその小動物は中央管制室とやらの扉の前に辿り着いた。とは言え表札も何もなく、位置を知らされたとはいえ完全なる当てずっぽうでここまで来た為、本当に合っているのかと少し不安になってくる。まあ、もし間違っていたとしても全部すっぽかせばいいだけの話だ、と巧は思う。別に強制されている訳でもあるまいし、放っておけばそのうちあっちの方から探しに来るだろう――というどうしようもない思考のまま、巧はそっと扉をノックする。

 開かない。

 その後も何度かノックを繰り返してみるが、何秒経っても開く気配がしない。

 

「……帰るか」

 

 呟いた途端、ふぉう、という鳴き声と共に足元から突き刺さってきた非難の視線を無視して、元いた部屋に戻ろうとさっさと方向転換しかけた巧の背に、「あの、管制室はそこじゃないです」と控え目に言葉が投げかけられた。振り返ると、すっかり数少ない顔馴染みとなった紫紺の少女が立っていた。

 

「……先、輩」

 

「……」

 

 特異点で共に過ごした数時間がふたたび過ぎる。何を言えばいいのか、わからなかった。無言を貫き続ける巧に、マシュもまた沈黙を返すしかない。重苦しい気まずさが、時を経るにつれて淡々と積み上がっていく。やがて、そのままではいけないと思ったのだろう。妙に思い詰めたような顔を見せたと思った途端、少女はいきなり頭を下げた。

 

「――おはよう、ございます」

 

「……ああ」

 

 唐突なそれに硬直した巧は、呻きにも似た声でそう返した。そして、ふたたび沈黙。つまらない返事しかできない自分が、情けなくてたまらなかった。搾り出すように、気になっていた事を尋ねる。

 

「あの後、どうなった」

 

「所長が灰になった後は、彼は──レフ・ライノールは、魔神柱と共に消えました。恐らく、撤退したのだと思われます」

 

「……あいつの、灰は」

 

「所長の灰は……カルデアスに、飲み込まれました」

 

「……」

 

 沈鬱に顔を俯けた巧に、マシュは言葉を続けるべきかどうか迷ったが、後回しにする方が余計に辛いと判断し、手の中に握り締めていた長方形型の薄いチップを差し出した。

 

「なんだ、これ」

 

「先輩のバイクが、最期にわたしに遺した物です。あの機体は、レイシフト直前に起きた崩落からわたし達を守って、破壊されました」

 

「そ、うか……」

 

 あいつは、守り抜いたのか。巧は手渡されたチップを、包み込むようにそっと握る。あの、当たり前のようにいつも傍にあった無骨な鉄の冷たさがまだ、残っているような気がした。

 どうにも辛気臭い空気が漂い続ける中、手の中の冷えた感触に背中を押されるようにして、巧は頭を掻きながら、ぼそぼそと何事かを呟いた。

 

「え?」

 

 咄嗟で聞き取れず大きな疑問符を頭の上に浮かべるマシュに、巧はだから、と一拍置き、

 

「……あとでここ、案内しろよ。いい歳こいて迷ったりするのは、もう御免だからな」

 

 照れ臭そうに目を逸らす巧の姿に、マシュは引き締まっていた頬の緊張を解いて、はい、とあたたかく笑ってみせた。

 

 

 ○

 

 

「――ああ、本当に目覚めてくれて良かったよ! いや、あの出不精なダ・ヴィンチが直々に出張ったとはいえ、背後から心臓を一刺しだったからね……君の治癒力がずば抜けていなかったら、一体どうなっていた事か……」

 

 扉が開き巧たちの姿が見えた途端に大慌てで駆け寄ってきた男――ロマニ・アーキマンは、額に浮かんだ汗を拭き取りながら目に見える安堵を曝け出した。大袈裟な身振り手振りを繰り返し続けるロマニに、マシュは咳払いをして落ち着きを促す。

 

「ドクター、落ち着いてください。先輩がその、ものすごく引いてらっしゃいます」

 

「へ? あっ、ごめんよ! 一人で盛り上がっちゃって。……藤丸くんの意識が戻ってくれた事は、今の状況じゃ唯一と言ってもいい吉報だからつい、ね。……その、君自身がどう思っているかは、分からないけれど」

 

「どうでもいい。それより、話って何なんだ」

 

 巧は、申し訳なさそうなロマニの言葉をばっさり断ち切り、さっさと話題に入れと言わんばかりに首を振った。ロマニはこくりと頷くと、話を打ち切って自分の背後の赤く染まった地球儀状の物体――カルデアスを見つめた。内部に世界を焼いた焔を宿しているカルデアスは、禍々しい赤光をあたりに放ちながら、唯一生き残った人類であるロマニたちを睥睨するように悠々と宙に浮かんでいる。

 

「見ての通り、人類社会の存続を示すカルデアスは赤く染まっている。つまり今現在、カルデア内にいる僕たちを除いた人類はすべて滅びているという事だ」

 

「……」

 

 その言葉を聞いて、巧の腕に力が入った。男の台詞はきっと嘘ではないのだろう。つまり、あの小さな洗濯舗で巧が短いながらも積み重ねたかけがえのない日々は、そして共に過ごしてきたかけがえのない人々は、ひとつ残らず消え去ってしまったという事だ。もし真実だったならそれは、乾巧という存在には到底、受け入れる事ができない悲劇だった。

 だが、もはや夢とは思えないほどリアルなこの世界が、本当に自分がいた世界と同じなのかは、まだわかっていない。もしかしたら、これまで目の前で起きたすべては、巧があの生気が欠けた薄暗い王の住処で倒れ伏している最中に見た一瞬の幻想でしかなく、現実の自分は今も呑気に微睡んでいる最中なのかもしれない。

 だが――

 渦巻く炎の海の中で、死に瀕した少女が、それでも生きようと必死に伸ばしたあの手を。

 崩れゆく世界の中で、とうとう掴めなかったまま、掌を擦り抜けていったあの手を。

 夢と断じては、いけないと思った。

 

「……所長の事は、本当に残念だ。けど、今の僕らには、悼むだけの余裕しかない。

 ─ーだからこそ、所長の願いであり使命だったこのグランドオーダーを完遂する事が、オルガマリー・アニムスフィアへの最大の弔いになると、僕は思っている」

 

 ロマニは、黙り込む巧に視線を据えた。そして、白い手袋に包まれた大きな手をそっと差し出す。

 

「──マスター適性者番号48番、藤丸立香くん。ただ一人だけ残ってしまった君に、すべてを背負わせてしまうのは、ひどく酷だとは思う。それを承知で、言わせてもらう。

 君にもし、カルデアの──そして、人類の未来を救う覚悟があるのなら、どうか、僕の手を取って欲しい」

 

 世界が燃え尽きかけている今、この手を取る以外の道など、最初からどこにもない。それを踏まえて、目の前の男は自分に選択肢を突きつけて来ている。

 抗う覚悟が、あるのかどうかを。

 きっと敵は、呆れるぐらいに強大だ。対する自分は、訳の分からない状況に置いてけぼりにされた、ちっぽけな一匹の異形に過ぎない。叶えるべき夢も叶えられず、守るべき誓いも果たせないままでいる、いつ灰と化すかも知れない、弱々しい存在だ。

 

 それでも、と思う。

 迷っているうちに、誰かの夢が潰えようとしているなら。

 その運命を、覆す事ができるのならば。

 俺は、戦う。

 立って、戦い続ける。

 

 心に湧いた迷いを振り切り、灰の感触が未だに残る手を、強く、強く、傷がつくほどに握り締めて、

 巧は、男の手を握り返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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