──とにかく、今は異変の中心になっていたオルレアンに行ってみるしかない。そこに特異点発生の原因か、それに関連する何かがあるのは、間違いないだろうからね。
コルデーの話をひと通り聴き終えたロマンから飛び出したそんな提案を断る理由などある筈もなく――巧はしばらくのあいだ渋っていたが――巧たちは村を出て、オルレアンへ向かうこととなった。しかし、方々に街が点在しているとはいえども、フランスという広大な土地を土地勘も無いまま徒歩で移動するのは、体力的にも時間的にも無駄しかないのでは──というマシュの素朴な疑問に、新たな旅の道連れとなったコルデーはこう答えた。
「それでは馬車に乗りましょう!」
それにしても尻が痛い、と巧は思う。
初めのうちはまだ我慢できる程度の痛みだったが、そろそろ無視を貫けなくなってきたような強さになってきたような気がする。それも当然だった。15世紀フランスの道路のインフラは、お世辞にも整っていたと呼べるような代物ではなく、死亡に繋がってしまうような事故が起きてしまうことも決して少なくはなかったという。
無論、そんな事情など露ほども知らない巧は、できるだけ痛くないポジションに落ち着くべく、ズボン越しの試行錯誤を繰り返していた。
無駄な努力に励み続ける巧の背中にふと、啄まれているかのようなむず痒い感覚が走った。怪訝に思って振り向くとそこには、コルデーが馬車の隅っこに置かれていた座布団を持ってきて、
「これ、使います?」
と笑みを浮かべながら、こちらに差し出していた。
旅をする中で擦り切れるまで使い潰されたせいなのか、座布団はところどころからぐしゃぐしゃになった綿が飛び出た、世にも無残な姿である。緩和できるとはとても思えず、断わろうとした瞬間、ふたたびの揺れと石で殴りつけられたような鈍い痛みが巧を襲った。同時に背筋がじんと痺れる。よりにもよって、尾骨を打った。
「すまねえなあ、ここらはちょっとした悪路なんだが、別の街に繋がる道で一番近いし、便利なんだ。もうちょっとでなだらかな道に入るから、それまで辛抱しといてくれ」
馬車を運転している行商人は、ふくよかな顔に似つかわしくない申し訳なさを浮かべながら言った。
「そんな……ただで乗せて貰っているのはこちらですから、そこまでお気遣いいただかなくても」
「何言ってんだ。嬢ちゃん達みたいな別嬪さんと相乗りできた方が、よっぽど気ィ遣うってモンだぜ──それにしても綺麗な姿勢だなあ、初めて乗るとはとても思えねえよ」
「こういう事態に備えてシミュレーターで──いえ、ええっと、その、旅に出る前に、カルデ──村で、そうです、村で特訓しましたので」
「へぇ、生真面目だなあ」
「──」
背中越しに交わされている時折ボロの埃が零れ落ちている会話を聞いて、巧は飛び出しそうになった声をそっと噛み殺した。
自分ひとり──しかも男が──だけ泣き言を吐くというのは、なんだかひどくみっともない気がする。巧は声をどうにか嚥下すると、無言でコルデーから座布団を受け取り、無言で尻に敷いた。巧の予想に反し、痛みは幾分かではあるが和らいでくれた。密かにため息を吐き出していると、コルデーがニコニコと笑いながらこちらを見ているのが、視界の端に不意に映り込んだ。
「……」
正直に言うと触れたくはなかったが、無視を貫き続けていてもどうせ話しかけてくる結果は変わらない気がしてならず、巧は渋々と先手を打つことに決めた。
「んだよ」
コルデーはぱちん、と音を立てながら両手を合わせて、
「お話、しませんか?」
「……話?」
胡乱そうに眉を歪める巧とは正反対に、はい、とコルデーはどこまでも嬉しそうな顔をしながら頷いて、
「せっかくサーヴァントとマスターの関係に――もとい主従関係を結んだんですし、これを機に互いの親睦を深め合いましょう! それに私、純粋に興味があるんです! 貴方にっ。だからお話、しましょ。ね?」
たとえ初対面であっても、あっという間に絆されてしまいそうなぐらい、柔らかで明るい人好きのしそうな笑顔だった。しかし彼女がそれを向けている相手は、恐竜の痛覚並みの鈍感を誇る我らが乾巧である。
「嫌だね」
巧はコルデーの提案をたったひと言でバッサリ見事に切り捨ててみせると、これで用は済んだと広がる景色へと意識を集中させた。もちろんコルデーは納得がいかなさそうに、むすっと頬を膨らませている。
「何でですかっ」
「眠たい。面倒臭い。話したいって気分じゃない。──それに、」
「それに?」
「……なんかお前は、嫌だ」
歯切れ悪くもまっすぐに告げられた言葉に、コルデーの頭の中の導火線にとうとう火が点いた。
「座布団貸してあげたじゃないですかーーーーーっ!!!!」
「それとこれとは話が別だ」
「あの……先輩はもう少し、誰かとコミュニケーションを取ることを試みた方が良いかと思います」
冷たい態度ばかり取る巧を、なかなか友達ができずにいる我が子を慮るかのような目で見つめながら、マシュはそう言った。しかし巧はその発言を歯牙にも欠けず、
「かったるいんだよ、そういうの。お前やっとけ」
と気怠そうに言った。断るにしたってもう少し別の言い方がある。
それを聞いたマシュははあ、としょうがなさそうに溜め息を吐き、コルデーはますます頬を膨らませる。だが巧は知らぬ存ぜぬという言葉を体現するかのごとく、明後日の方向を見続けている。そして巧は内心、ここまで意固地になっている自分に微かな戸惑いを覚えていた。
目の前で膨れっ面をしている女が、悪人でないことだけは分かる。子供と手を繋げる人間が悪人ではないと巧が信じたいだけかもしれないが、そういった贔屓目を抜きにしてもシャルロット・コルデーは、少なくとも信用してもいい味方だと頭では分かっている──分かっているというのに。
──どうしてか、俺はこいつが気に喰わない。
それが、嘘偽らざる巧の本心だった。理由はわからない。別に嫌いな性格をしているわけでもないし、最悪な出会い方をしたというわけでもない。ただ、正体不明としか言い表しようがないしこりが、コルデーを見るたびに心の底でちらちらと熾火のように燃えるのだ。
思わず沈み込んでしまいそうなほど深く、静謐を湛えた水面のように滑らかな、女の翡翠色の眼──その目を見ていると、自分の中にいつまでも居座り続けている、絶対に追い出すことが出来ない無力さを、真っ正面から突き付けられているような気分になって──
「……ぐすん、ぐすん。そうですよね、私みたいな、戦闘があんまり得意じゃないサーヴァントなんかと仲良くしたって、貴方に何か得があるわけでもありませんよね。ごめんなさい」
果てのない深みに入りかけた巧の思考を、コルデーの泣き真似が遮った。だが顔を覆った掌の隙間からちらちらとこちらを窺っているのが丸見えだし、セリフには泣き声ではなくぎこちなさが入り混じっている。どうせやるならちゃんとしろ、と巧は思い、うだうだ考えていた自分が何だかバカらしくなってきた。
「……少しだけだからな」
頭の中をふと通り過ぎていった、お節介な同居人に背中を押されたような気がした。
自分から折れるというのはもっとも苦手としていた巧だったが、がしがしと頭を掻くと、仕方なさそうに会話に混じり始める。と言っても、自ら話題を出すことは皆無であり、殆ど聞き役に徹するという具合だったのだが、それでもこの男の以前を考えてみれば、大きな進歩である。
穏やかな旅にふさわしい、穏やかな時間が淡々と過ぎていった。
「……先輩は、どう思いますか?」
「何が」
立てた片膝の上に頬杖をつきながら景色を眺めていた巧の横顔に、マシュはそう問い掛けた。巧が気のない返事を寄越すと、マシュは自分でも確かめるかのように、
「オルレアンの救世主の噂です。……本当にいるんでしょうか、そんな人が」
と呟いた。しかし巧は相も変わらずにべもない口調で、
「いるわけねえだろ、そんなやつ。胡散臭すぎる。大体、そいつが本当にここの救世主だってんなら、なんで俺たちが来なきゃいけなくなったって話になるだろ……あと、気に入らない」
「何がです?」
「言葉の響きが。……自分をそうやって名乗るヤツは、ロクな性格してない」
と、珍しく饒舌になった巧に、コルデーはこてん、と首を傾げた。
「そうですか? とても素敵な響きの言葉だと思うんですけど……」
「そりゃおまえの感性がおかしいだけだ」
「……もしかして私、遠回しに喧嘩を売られてます?」
「さあな」
顔を逸らしながら巧がそう答えた次の瞬間、ポケットに雑に突っ込んであったファイズフォンが、低い唸り声を上げた。取り出して耳に当てると、すっかり耳に馴染んでしまったロマンの声が巧の耳朶を打った。
『もしもし? 藤丸くん? ごめんね、何度も。でもほら、一般人が一緒であんまり目立つ訳にはいかないだろ。だから自然と君の携帯の方にかけることが多くなっちゃうんだよね』
「用事は」
『ああそうそう──近くに、森が見えないかい? 方位はえっと……北北西あたりで、』
「変わるぞ」
巧は、話がややこしくなりそうな気配を鋭く察知するや否や、こちらを見ていたマシュへとファイズフォンを放り投げた。突然の暴挙に驚きながらも、マシュは空中で固まったまま動かないそれをしっかりと両手で受け止め、躊躇いがちに耳に持っていく。
「……もしもし? ドクター、ですか? 私です」
『距離はね──ってあれ、マシュ? 藤丸くんは?』
「先輩はその……」
向けられる視線に、構うなと言わんばかりに手を振る。それですべてを察したらしく、マシュは扱いに慣れない機器に戸惑いながらロマンとの通話を再開した。
「取り込み中だそうです。なので、私が代わりに」
『あ、そう? でもこういうのも何か新鮮だね……まさかマシュとこうして電話越しに会話するなんて。ほら、この前一緒に見たドラマを思い出し』
「ドクター。先に話をしてください」
『……はい』
漫才めいた二人の会話を巧がぼうっと見つめていると、いつの間にか隣に座り込んできていたコルデーが会話の邪魔にならない程度の声の大きさで、
「ずっと気になっていたんですけど、アレって何なんですか?」
と耳打ちしてきた。巧は今度は無視はしなかったが、
「携帯」
と、極めて簡素に答えるのみであった。広がる気配のまったく無い不毛なやり取りに、さすがのコルデーも堪えたらしい。小ぶりな唇をきゅっと引き締めると、ため息を吐きながら両膝を抱え込んだ腕に顎を置いた。
「……マスターはどうして、そんなに私に冷たいんですか?」
「考え過ぎなだけだろ」
するとコルデーはいーえ! と頭を勢いよく起こし、
「ぜぇーーーーーーーっっっっったいに私のこと嫌ってますっ。いえ、本当に私の気にし過ぎなのかもしれないんですけど……こう、マスターの目つきとか態度とかから、すごーーーーく含みを感じるというかっ」
「あのな、」
力説を繰り広げるコルデーを、巧は呆れ果てた目で見つめている。それには気付かずコルデーはしばらく文句ありげに唸っていたが、突然天から啓示を受け取ったと言わんばかりにぱっと目を見開くと、
「もしかして私に構って欲しいから、わざと冷たくしてるんですか?」
と、先ほどまでとは打って変わった余裕ある態度になって、巧にしなのある半目を送った。
お前もしかしてバカなんじゃないのか──と開きかけた口を、しかし巧は閉じる。そして一端呼吸を置いてから、唇の端をそっと持ち上げて、
「かもな」
当然ツレない返事が返ってくるとばかり思い込んでいたコルデーは、困り眉になりながら仄かに赤みが差す頬を掻き始めた。
「──え、っと。私、もしかして聞いちゃいけないことを聞いちゃいました、か? や、や。あの、その、嬉しくないってことは、無いんですけど、でも私たちまだ出会って間もないですし、そもそもあんまりお互いのことを知りませんし心の準備というかもう少し段階を踏んでからっ」
「バカ、冗談だ」
「…………」
全身に突き刺さる無言の非難を難なく受け流していると、会話を終えたらしきマシュが閉じたファイズフォンを手渡してきた。どうだった、と巧が尋ねると、マシュは、
「霊脈が見つかったそうです──この近くにある森の中で」
と答えた。
○
時刻はまだ昼を過ぎたばかりだというのに、森の中は鬱蒼とした仄暗さで満ちていた。
見渡す限り立ち並ぶ木々から垂れ下がる無数の葉が折り重なって、自然の天井を作り出し、差す陽の光を防いでいるからだろう。そのせいか、森の空気はどことなく冷ややかさを含んでおり、上着を持ってきていて正解だったなと、巧は思った。
ロマンから霊脈が見つかったという連絡があった後、巧たちは馬車から降りて、指定されたポイントへと向かっていた。オルレアンに着くことも重要だが、まずはベースキャンプを作る方を優先すべき──らしい。巧は霊脈だの召喚サークルだのといった魔術に関しては、まるで門外漢だったが、これ以上慣れない馬車旅をする必要がなくなるというだけで、ずいぶん楽な気持ちになっていた。
地面に生えた背の低い草が、靴に踏みしめられるたびに、ざくざくと軽やかな音を立てる。鼻先を湿ったような土の匂いが頻繁に掠める。単調な緑色の景色がいつまでも続くため、ひょっとしてここには出口など存在しないのではないか──とさえ巧が思っていると、前の方で交わされていたマシュ達の会話の声が、いつの間にか聞こえなくなっていることに気づいた。
少し離れすぎたか、と距離を詰めるべく俯けていた顔を上げる。
いない。
「──マシュ?」
立ち止まり、辺りを見渡した。焦げ茶色に染まった木々の群れ。ちろちろとどこかで鳴く鳥。薄らと自然の天井から差し込む細い陽の光の柱。満ちる静寂を取り込んだかのように微動だにしない足元の草。
「──コルデー?」
何かが、おかしい。
静かすぎる。
見失うはずがない二人の姿が消えていたこともおかしかったし、自然がそこら中に溢れているというのに生きた気配が一切しないこともおかしかった。前者はまだ自分が迷子になってしまったという──決して認めたくはない──可能性が残っているが、後者は言い逃れなどできない、明らかな異常だった。
無言で周囲を警戒する。ひと呼吸ごとに張り詰めていく神経とは相反して、身体はいつでも動けるように準備を整えていく。どんなに小さな物であっても、それが状況を変える物でさえあれば、すぐさま全速力で走り出せるほどに。
だが、
「────」
その女は、いとも容易く、巧の目の前に姿を現した。
金色の髪をした女だった。
森の薄暗さは相も変わらないというのに、三つ編みに結われた女の髪は、いまもなお太陽で照らされているかのように光り輝いて見えた。こちらをまっすぐ捉えている双眸の奥には、決して崩れることのない強固な意志の光がちかちかと瞬いている。両腕と胴体を覆った厳つい鉄鎧と、服の下から垣間見える女性的な丸みを帯びた肢体の組み合わせは一見アンバランスに見えるが、逆にそのコントラストが侵しがたい神聖さを女から感じさせる事に成功していた。
逃げる暇もなかった。
正確に言えば、逃げようと思えば逃げられたはずだった。なのにそうしなかったのは、巧が不覚にも目の前の存在に圧倒されてしまったからだった。
目に入れるだけで、人間とは違う存在だと一瞬で理解できる、密度の濃い気配。
瞬間、巧の脳裏に過ぎったのは、獣めいた雰囲気をまとった杖を携えた蒼い男。
──サーヴァント。
「──アンタ、サーヴァントか」
固まったまま動かずにサボっていた口を、どうにか動かして捻り出した問い掛けに、女は驚いたように眉を上げた。
「貴方は……サーヴァントを知っているのですか?」
「……」
「いいえ、聞くまでもありませんでした。その右手の赤い刻印は、聖杯戦争に参加した魔術師のみが持つことができる聖痕──令呪。つまり貴方は、マスターなんですね」
余計な警戒はさせまいとばかりに、女は巧の間合いから一歩退いた位置へと移動した。完璧に、見切られている。余計に緊張が走って知らず喉を上下させていると、女は解きほぐすかのような笑みを浮かべて、
「警戒する必要はありませんから、安心してください。貴方が聖杯戦争に参加するマスターである以上、ルールを破らない限りではありますが、危害を加えることはしませんから。……しかし、私が呼び出されたという事は、この地の聖杯戦争は少し特殊な状況になっているようですね」
思案する女に応じず、巧は横目で辺りを見回しながら、
「……これは、アンタがやったのか」
と、周囲一帯から生き物の気配が途絶えていることについて尋ねた。女ははい、と首肯し、
「不慣れではありますが、結界を少し張らせていただきました。ここには霊脈がありますし、それに……追手がいつ来るともしれませんから」
「……追手?」
不穏な言葉に眉根を寄せる。よく目を凝らしてみると、女が身に付けている鎧には微かな擦り傷のようなものが見て取れた。
「はい。おそらくは、この聖杯戦争に私というサーヴァントが召喚された理由のひとつではないかと推察、できるのです、が──」
そこで、女は言葉を途切れさせた。あまりにも唐突に訪れた沈黙に巧が不信に思っていると、無言になった女の目が自分の手に──より正確に言えば、手の中のファイズフォンへと集中していることに気づいた。ダ・ヴィンチやコルデーもそうだったが、サーヴァントからするとコイツはよっぽど珍しく見えんのか──と巧が呆れた次の瞬間だった。
視界の端から、
白銀の塊が、
弧を描いて迫り──
「──っぶねぇっ!」
さっきまで頭があった場所を、暴力的なまでな鉄臭さを孕んだ風が削いだ。直後、眉間に怖気。恥も外聞もなく子供のように丸まりながら後ろに転がった瞬間、巧が座り込んでいた地面が、葉を撒き散らしながら盛大な土飛沫をあげた。距離を取って立ち上がる。前を見据えるとそこには、先ほどまでの柔和な気配とは真逆の、一切の容赦が見られない敵意と戦意を剥き出しにした女がいた。その手には、たなびく白い旗を括り付けた長大な鉄の棒が携えられている。
「──なんのつもりだ」
じわじわと下がりながら、語気鋭く問いただした。しかし女は態度を崩すことなく、むしろこちらを圧迫するかのような語調で、
「それはこちらの台詞です。あの時は、状況を把握できないまま、泣く泣く撤退しましたが……貴方達がどのような目的のためにこの聖杯戦争を始めたのか、今度こそ聴かせてもらいます」
「お前、何言ってんだ?」
「喋りたくないのなら、それでも構いません──言葉よりも、実力行使の方が幾分か楽ですから」
ここで巧が興奮した相手を落ち着かせることができ、かつ冷静に互いの持っている情報の擦り合わせができる人間だったのなら、事は荒立たずに済んでいただろう。
だが、乾巧とはそのような器用な真似ができる性格ではなかったし、上から押し付けてくるかのような女の頭ごなしな態度にも腹が立っていたし、そもそもいきなり鉄の棒で頭をぶん殴られかけて落ち着いていられるほど、巧はできた人間ではなかった。
つまりキレていた。
「じゃあ言ってやる──寝言は寝て言ってろ」
呟くや否や、巧はブラスターモードに変形させていたファイズフォンを、女の額へと向けた。これに見覚えがあると言ったのはどうやら本当らしく、女は照準点を正確に防御しながら間合いを潰すべく駆け出し、
その、足元を狙った。
放たれた高速の閃光は、空気を引き裂きながら寸分の狂いもなく、女が踏み出しかけた右足の一歩手前の地面に着弾した。先ほどの女の一撃が生み出したものに勝るとも劣らない土煙が立ち込める。数秒遅れて褐色の煙を旗で払った女の視界から、すでに巧の姿は消えていた。
──相手してられっかよ、あんな危ない女っ。
森の中を息を切らせて走りながら、巧はぼそりと吐き捨てた。とにかくマシュ達と合流しなければならない。よほど鈍感でなければ、あちらも異変に気づいているはずだった。横たわった大木をひと息で飛び越え、積もった落ち葉と腐った土を踏み台にしながら、飛ぶようにして走り続ける。背後に殺気。振り向かず後ろ手に引鉄を引いた。再び地面が弾け飛んだ音に混じって、怯んだ足音が微かだが確かに聞こえた。心臓が激しく揺れる。汗がひっきりなしに垂れ落ちる。視界は絶え間なく上下を繰り返し、抑えきれない熱が口から零れ落ちていく。もはやどこをどう走っているのかわからないが、それは元からだったと思い直した。
開けた場所に出る。
どれだけ走っただろうか。マシュ達とは相変わらず合流できなかったが、辺りを取り巻いていた異質な気配が少しずつではあるが晴れてきたような気がした。もしかすると出口が近づいてきたのかもしれないと、巧が気持ちを明るくさせて、
それは空から、来た。
止まることができたのは、ほとんど偶然だった。
まるで大砲が炸裂したかの如き桁違いの轟音が、森の静寂を今度こそ完膚なきまでに打ち破った。その衝撃を受けて、地面には修復不可能な深い断裂が走り、根を大地の奥底まで固く巡らせているはずの木々は嘘のように揺れ動いた。
当然、至近距離でまともにそれを喰らった巧も無事ではいられなかった。目立った外傷こそ無いものの、肌には大量の擦り傷が刻まれており、関節は油を差し忘れた螺子のようにぎこちなくなっている。それでもどうにか立ち上がり、口の中に入った土を吐き捨てながら逃げ出そうとした巧の喉に、
「──っ」
鋭い穂先が、容赦なく突きつけられた。
とうとう自分が袋小路に追い詰められてしまったことを悟る。この様子では、指一本分でも妙な動きを見せた瞬間、喉を刺し貫かれてしまうだろう。固まる巧を他所に、女は淡々と話を続ける。
「どうやらその手にあるものは、魔術と相性が悪いようですね。おかげで結界が解けてしまいましたが──この至近距離では、もはや無力です。追いかけっこは、いい加減お終いですよ」
「……」
「内情を話してもらった後で再起不能にはなってもらいます……命までは取りません」
「そうかよ」
打つ手が無くなったというにもかかわらず、不敵な態度を貫く巧に、女は眉をひそめる。しかし巧は構わず、
「俺も、そろそろ疲れた。だから交代だ」
と告げた。何を言って──と女が口を開こうとしたその刹那、その場に漂う魔力が急激に膨れ上がり、振り返る寸前に膨大な衝撃が女の身体を叩いた。
高速で吹き飛んだ女の代わりに巧の視界に現れたのは、巧が探し続けていた少女──マシュ・キリエライトその人であった。虚空で盾を振り切った体勢にいたマシュは、曲芸めいた軌道で地面に着地してみせると、戦意が滾る眼差しを女が吹き飛んだ方向へと向けた。
ひとまずは危機を乗り越えたらしい。巧が思わず安堵の息を吐くと、ようやく巧がいることに気づいたらしいマシュが、
「──無事ですかっ、先輩っ!」
と、慌て顔で近づいて来た。
ああ、と生返事を返しつつ、ぐいぐいと近づいてくるマシュを遠ざけながら、巧は疼く右手の令呪を見下ろした。どうやら無意識のうちに、疼きが強くなる方向へと走っていたらしい。正直に話せばこんな得体の知れないものが、身体に刻まれていることが気に食わなかったのだが、マシュと引き寄せてくれたことには素直に感謝した。
「──スター! どこですかマスターっ!? ──あっ、ほらいましたよフォウさんっ。マスターっ! 大丈夫ですかーっ!」
「フォウフォ――――――ウ!!」
フォウを腕の中に抱えたコルデーが、マシュに遅れる形で辿り着いた。そして巧の全身に纏わりついた葉や土をぱんぱんと手で払い始める。叩かれるたびに土汚れが落ちていく感覚は爽快だった。
「わわ、すっごいことになっちゃってますね……何があったんです?」
コートの前をはたいていた巧はしばらく考え込んで、
「ヘンな女に、襲われた」
「なんですかそれ」
さっきまでの自分を真似たかのように、もう汚れの取れた巧のズボンをひたすら引っ掻き続けていたフォウを抱き上げたコルデーが、おかしそうに首を傾げる。しかし巧にはそうとしか言い表しようがないため、
「ヘンな女は、ヘンな女だ」
と頑なに言った。コルデーはいまいち納得できない様子だったが、やがて今考えてもどうしようもないと思い至ったようで、何処からか取り出したナイフを構えながら、マシュと同じ方向へと視線をやった。
視線の先には、女がいる。
どうやら咄嗟にマシュの一撃を防いでいたらしく、汚れはあるものの、女は無傷のままだった。それでも不意を突かれてしまった事は確かなようで、よく注意を凝らしてみれば、あれほど鋼めいて見えた重心が僅かにぐらついているのがわかった。
「──貴方は、いえ、貴方達は、いったい何者ですか」
旗を槍のように構えながら、女は油断のない口調で問うた。巧は唇の端についた土を裾で拭いながら、
「人にもの聞く時はまずアンタから名乗ったらどうだ」
と無愛想に応じる。
女はしばらく躊躇っていたが、教えても害はないと判断したのか、閉ざしていた唇を重々しく開いた。
「私の名は──」
「────ジャンヌ・ダルク」
その声は、まるで福音のように、天から鳴り響いた。
全員が、思わず動きを止めて、同時に空を見上げた。
そこには、二対の巨大な翼をはためかせる竜と──ひとりの、女がいた。
銀色の髪をした女だった。
色素が極限まで抜けた女の銀の髪は、陽の光を浴びているにもかかわらず、生気がまるで失われているように見える。こちらを睥睨する金の瞳の奥には、粘ついた妄執の光と見ているだけで燃やし尽くされてしまいそうな憎悪と悪意の炎がこびりついている──だというのに、その眼差しの烈しさとは真逆に、女の表情はゾッとするほど空っぽだった。乾き切った血液を連想させる黒に濡れた鎧は、女の白い肌が内包している屍体めいた印象を、より際立たせている。
誰かに似ている、と思った。その人物がいったい誰なのかということは、すぐに分かった。
虚空ではなく、地面に立った金色の髪の女──ジャンヌ・ダルクに、似ているのだ。いや、似ているというレベルではない。まるで同じ人物が同時に存在しているようだった。
誰もが急変した事態に身動きが取れずにいる中で、ただ一人支配者の資格を持った空に君臨する魔女は、無言で禍々しい刻印がされた旗を掲げると、
「──────死ね」
息をするのも困難になるほどの圧倒的な殺意と共に振り下ろした。