Fate/Φ's Order   作:うろまる

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第二節「吼える孤狼」

 

 

 出来の悪い夢を見ている。

 何故自分は、見覚えの無い街中を見知らぬ女と二人で、暢気に歩いているのか。

 

「ちょっとっ、貴方っ、歩くの速いのよっ! ねえったらっ、ちょっと聞いてる!?」

 

 ずかずかと、道路に散らばる瓦礫を蹴飛ばしながら乱暴に歩き続ける巧の四、五歩後ろを、オルガマリーが息を弾ませながら必死についていく。当然、男と女の間にある歩幅の問題に対する気配りなど、巧の脳味噌に存在するわけが無く。少女が追いつけず、時には足を取られて転びかけても微塵も気にかけることなく、巧はひたすら思案に暮れていた。

 最初からおかしいと、思ってはいた。

 燃えている知らない場所。瓦礫に押し潰された眼鏡の少女。意識を失い夢から醒めると思ったら、今度は廃墟と化した燃える街。そして最初に出会ったのが、ヘンな妄想を撒き散らすアブナイ女。仕上げに鏡を見れば、自分が自分で無くなっていると来た。悪夢もここまで来るといっそ笑えてしまう。

 一体、戦いはどうなったのか。真理は、啓太郎は。自分が守りたかったものは、果たして最後まで守り通す事が出来たのか。表しようのない昏い焦燥が、心臓をじくじくと苛む。低い、舌打ちが漏れた。

 

「ちょっと! ……あっ」

 

 ぐぎゃっ、と曳かれた犬のような呻き声と同時に、何か重いものが転ぶ音が聞こえた。さすがにうんざりして振り返る。地面の上にへたり込み、耐え難い羞恥と屈辱から涙目になっているオルガマリーの姿。巧は大きく溜め息を吐いた。

 

「お前、いつまでついてくるつもりだ」

 

「……仕方ないでしょ。認めたくないけど、貴方も一応、適正者の一人なんだから。カルデアに所属している以上、所長である私は貴方から眼を離すわけにはいかないのよ」

 

「だから、俺はその適正者とかじゃないし、藤丸とかいう奴でもない。何度言ったら分かるんだ?」

 

 うざったそうに放たれた巧の言葉にオルガマリーは苛立たしげに眉を歪め、突き刺さんばかりの勢いで巧に指を突きつけた。

 

「何度言っても分からないのは、アンタの方でしょうがっ! そうじゃなきゃ、名前は――別として、その礼装は一体何なのよ? ……こらっ、脱ごうとするなっ!」

 

 巧は裾口に延ばされた手を引っぱたいて、後ろも見ずに歩き出した。叩かれた手を押さえぐちぐちと文句を言いつつ、立ち上がったオルガマリーがその後ろを続く。

 

「――貴方、そんな性格でよく生きてこれたわね。どうせ、友達も少なかったんでしょ」

 

「お前に言われたくない」

 

「はあっ!? ちょっとそれどういう意味よっ」

 

「言葉通りの意味だ」

 

 オルガマリーの顔が暗がりでもわかるほどぷるぷると痙攣している。

 

「……とにかく、さっきのは全部忘れることっ。わかった!? ほらさっさと前見て歩く!」

 

 つい数秒前まで涙目だった事実も無かったかのように気丈に振舞うオルガマリーを見て、真理に似ているなと取り留めも無く思う。特に、気に食わない事があればすぐ怒鳴る所とかそっくりだ。

 

 ――あんたね。ずっとそんな態度だと、いつか絶ッ対痛い目見るんだから。あたし、そん時になって助けてくれって言われても知らないからね!

 いつまで経っても無愛想かつ無神経な態度を取り続ける巧が気に食わないのか。真理は事あるごとに、そうやって突っかかっていた。当然、巧が黙っている筈もなく。売り言葉に買い言葉でエスカレートするのはよくある事だった。

 ――バーカ。何でお前なんかに助けてもらわなきゃならないんだ。こっちから願い下げだぜ。

 ――あっそ。あれ? じゃあこの前千円貸したげたのは、一体どこの誰だったのかなぁ。

 ――お前、それはっ。

 ――何? またタッ君お金貸してもらったの? もう、駄目だって俺言ったじゃんか!

 ――おい真理! お前よくもっ。黙ってろって言っただろうがっ! おい啓太郎、いい事教えてやる。こいつな、最近木場の奴に――

 ――巧! あんたほんといい加減に――!

 

 激しい暴露合戦の末、お互いに隠していたあらゆる秘密を微に入り細を穿つまでバラし合った結果、啓太郎の機嫌を激しく損ねてその日の晩飯は無くなってしまった。

 当然、次の日はお互いに口を利かず、一週間は子供じみた罵り合いが頻繁に巻き起こり、最終的には険悪な空気に耐え切れなくなった半泣きの啓太郎による必死の休戦協定が両者の間に結ばれ、事態は終息を迎えた。

 巧は、懐古を終えると、再び歩き出した。ただしその歩調は、さっきより緩やかで、柔らかい。それは混乱し切っていた心の整理が、ようやくついてきた事もあるが、ただひたすらに懐かしい追憶が、巧のささくれ立った心をゆっくりと解きほぐしていったせいもある。

 よく考えれば、自分が自分で無くなっているのが何だというのか。一度死んでオルフェノクになって生き返った事に比べれば、ほんの些細な出来事でしか無いだろう。

 元々突拍子もない事態に耐性がついている巧は、徐々に自分が置かれている状況を受け入れつつあった。

 ようやく追いついたオルガマリーが、巧の右隣に並ぶ。乾巧という人間とまともな会話を試みるだけ時間の無駄だとようやく理解したのか、今度は黙々と歩いている。しかしその眼は、何か物問いたげな光を含んでいた。

 突き刺さる視線を気にも留めず、巧はマイペースに歩き続ける。ふと、空を見上げた。冴え冴えと輝く月に濁った雲が覆い被さり、僅かに混ざった赤光がちらちらと瞬いている。湿気を巻いた風が、砂埃を巻き込んで天高く舞い上がる。多分明日は曇るだろうなと、巧は根拠も無くそう思った。

 

 

 〇

 

 

 結局、適正者とやらは、一人も見つからなかった。

 生存者さえ見つけられなかった、というのが正直な所だ。とっくに避難している可能性を考えたが、ならば街全体が燃えているという異常事態が放って置かれる筈が無い、というオルガマリーの辛辣な言葉によって、ばっさりと否定された。

 申し訳ばかりの探索を終えて、半ば崩れ落ちた教会の古びた扉を開ける。蝶番が軋む鈍い音が、夜の中天に響き渡った。

 幅広い石畳に沿って均一に並べられた針葉樹が緩やかに揺れている。満ちる夜気を吸い込めば、雨の予感を混ぜ込んだ空気が、肺に染み込んでいった。

 何故か、ここまで付き合う羽目になってしまった。もちろん何度も逃げようとはした。が、その度に目の前の高慢ちきな女が引き起こすであろうヒステリックを想像して、気が滅入った。

 見知らぬ街の中、あの妙な攻撃から逃げ切れる自信はあまり無かったし、殺意にも似た陰惨な気配が、目の前の女と合流してからずっと鼻先を漂っている事が、巧の足を無理にでも止めさせていた。バイクでもあれば話は別だったのだが。

 くん、と獲物を見つけた猟犬の如き仕草で、巧は鼻をひくつかせる。随分薄くなったが、自分達に対する確かな害意が、霧のようにじっとりと辺りに立ち込めていた。

 梢が作る深い闇に紛れて、誰かが獲物を見定めているような目つきで、こちらを見ている。喉仏を締めつける圧迫感が、教会を離れるにつれて段々と色濃くなっていく。まるで、底無し沼に気づかずに、自ら沈み込んでいく感覚。

 敷石を一つ踏みしめるごとに、気配がまた一段と濃くなった。知らず、掌に嫌な汗が滲む。

 

 ――面倒臭え。

 

「――恐らく、だけど。私達以外に、レイシフトした人間はいないでしょうね」

 

 教会を出て、なだらかな傾斜の坂を下りている途中。いつの間に拾ったのか、考え込むようにして瓦礫を握り締めていたオルガマリーが、一連の調査をそう結論づけた。

 

「何でだ」

 

 オルガマリーが声を出した巧を凝視し、訝しげな表情を作った。小一時間も自分を無視し続けていた男が、いきなり話し始めたのだから、当然と言えば当然なのだが。

 喋る珍獣を見たような目つきに耐え切れず、巧は苛立しげに首を振って先を促す。我に返ったオルガマリーは、人差し指を立てて話し出す。

 

「……さっき、貴方の話を思い出してたんだけど。私と貴方に共通する特徴が一つあるでしょう?」 

 

 分かるわよね? という目つきをされても、まるで見当がつかない。巧の視線にその思考を読み取ったのか、あからさまな失望が、表情に浮かんだ。こいつやっぱロクな奴じゃない。巧の脳内で、オルガマリーの顔にそう落書きが入った。

 

「――二人とも、コフィンに入らず、生身でレイシフトに巻き込まれた事っ。……あのコフィンには、いざという時のセーフティが付いてたから、もしやとは思ってたんだけど。――前途多難……どころじゃないわね。あぁもう、何だって私がこんな目に……」

 

「大変そうだな」

 

 気の無さげな巧の返事。オルガマリーの眉が、不快げに歪んだ。

 

「……ねえ、貴方。何でそんなに平気な顔が出来るの? カルデア内部にテロリストがいるかもしれないのに。それに私達がこうしてもたついている間にも、私のカルデアスが大変な事になってるかもしれないのよ!?」

 

「どうにもならねえ事を考えたって、仕方ねえだろ」

 

「それはっ! ……確かに、そうだけど」

 

 元々、オルガマリーは聡明だ。心身共に落ち着いていれば、どのような現実でも受け入れ、飲み下すだけの力はある。嫌がらせとしか思えないほど立て続けに押し寄せた災いは、もはや遠い過去の出来事でしかなく。だから今さら喚いてもどうにもならないと、冷静になった今ではよく分かっている。

 しかし。

 頭でそう理解出来ても、どうしても割り切れない物が心にあった。

 

 ――カルデアス。

 

 地球の生存を示す、希望の灯。

 アニムスフィア家が産み出した奇跡の産物。

 それを管理する事が、アニムスフィア家代々の当主に受け継がれていくべき使命であり、オルガマリー・アニムスフィアが、オルガマリー・アニムスフィアである為に必要不可欠な宿命。カルデアスが無ければ、私の存在は誰にも認めてもらえない。私は私でいられなくなる――半ば本気で、彼女はそう思っていた。

 だから、どうしても諦め切れずにいる。未練がましいと、自分でも思う。時計塔を統べる十二のロードにあるまじき心情。だが――

 黙りこくったオルガマリーの複雑怪奇極まりない胸中を他所に、巧は暇そうに辺りを見回しつつ、密かに付き纏う気配の元を探していた。

 やはり、見当たらない。というか、本当にいるのかさえ怪しくなって来た。何度も死線を潜り抜け、先鋭化されたオルフェノクの感覚でも判別できないほど、薄らいだ存在。ともすれば、夜気に紛れて消えてしまいそうなほど儚い。しかし、乾巧が十九年間積み上げて来た人間としての直感が、危機は必ず存在すると告げていた。

 

「――どうかしたの?」

 

 ぼうっと暗がりを見つめる巧の顔を、胡乱な目つきでオルガマリーが覗き込んでくる。

 

「何でもない。それより、これからどうすんだ。まだ探すのか?」

 

「――いいえ、それはもう後回しにしましょう。こうなったら、私達だけで、この特異点の原因を発見するしかありません」

 

 その言葉を聞いた瞬間露骨に顔を顰めた巧を完全に無視して、オルガマリーはつり上がった眼差しで、彼方まで包み込んでいる炎の海を眺めている。その危うげな雰囲気に、巧は自分が付き合わざるを得ない事を瞬時に察知し、深いため息を吐いた。

 

「出来んのかよ」

 

 投げ掛けられた言葉にも振り向かず、オルガマリーはぼそりと、

 

「このまま何の収穫も無しで帰れば、カルデア解体は必至。……そんなの、冗談じゃない。何としてでも、結果を残さなきゃ。私は、」

 

 誰にも認めてもらえない。

 搾り出すように吐き出されたオルガマリーの言葉。そこには、煮え滾る感情が僅かに見えた。

 

 

 〇

 

 

 喧噪の絶えた新都を遠ざかりしばらく歩いていると、やがて冬木大橋の巨大な姿が二人の視界に飛び込んで来た。風が強い。黒々と濁る水面には、新都と同じように煌々と燃え盛る深山町の情景が静かに浮かび上がっていた。

 オルガマリーがこんこん、と錆びついた欄干を叩く。鈍い音が深夜の静寂を切り裂いた。

 

「2004年の冬木に、一体何が起きたのかしらね」

 

「さあな」

 

「……貴方、好奇心が欠如してるって言われた事あるでしょ」

 

「いいから黙って歩け。寒いんだよここ」

 

「……ほんとうに、何でこんな奴と……」

 

 あらゆる不平不満がだらだらと垂れ流されてくる背後を無視して、巧は黙して歩を進めた。その表情は硬い。辺りを見回す視線は警戒に満ち、尖った神経が充満する悪意に反応し続けている。この橋に辿り着いてから数秒も経たない内に、気配の濃度は飽和点に達しようとしていた。

 嗅ぎ慣れた、殺意の匂い。視覚化出来るのではないかと思う程に、濃い。

 全身から蒼い炎が燃え上がる錯覚。

 脳髄を侵す絶え間ない疼きに、視界がぐらりと曲がっていく。

 

「――あれ、誰かしら」

 

 背後から、疑問の声。俯いていた顔を上げれば、数メートル先の闇の中に、女が立っていた。

 亡霊を思わせる佇まい。刀身の歪んだ槍を携えた影。黒衣の下の黄色い瞳が、こちらを見て大きく弧を描く。

 むせかえるような、血の臭い。

 瞬間、感覚が弾けた。

 

 

 ――――――――――――――――――――あれだ。

 

 

「――逃げろ」

 

「は?」

 

「早く逃げろっ!!」

 

 叫ぶと同時に、女の姿が掻き消える。気づけば巧は飛び込んでいた。少女を突き飛ばし、その後で回避する。間に合う訳が無い。それでも身体だけは動いた。視界の端で白刃が閃く。間延びする緩慢な時間の中、自分の物ではない腕が、自分の意思を確かに伴ってオルガマリーの肩を掴む。瞬間、灼熱が背筋を食い千切り、閃光が脊椎を走り抜けた。到底耐え難い苦痛。視界が白く点滅する。世界が反転し眩い光に包まれる。上げた声は悲鳴に近い。それでも、手を止める訳にはいかない。脳天を焼き尽くされる中、少女の肩を突き飛ばした。

 

「――づっ、あ」

 

「藤丸!!」

 

「いいから、いけっ!!」

 

「行けるわけないでしょっ!!」

 

 怒声に怒声を返しながら、オルガマリーは膝を折る巧に近寄った。苦痛に歪んだ表情。自分を庇って、出来た傷。思わず、唇を噛みしめる。血に濡れた礼装を脱がせて傷を診る。興味深そうに遠くからこちらを見つめる女はこの際無視する。考えが全く読めないが、通り魔同然の思考を理解出来ると思う事が間違っているのかもしれない。

 

「――っ」

 

 脊椎を両断するかのように刻まれた裂傷。真一文字に引き摺られたそこから、未だにぷつぷつと血珠が噴き出している。幸い、出血の量はあまり多くない。この程度なら十数秒で完治できる。短い文言が呟かれ、オルガマリーの両手が淡く輝いた。治癒魔術の繁雑な刻印が巧の背中を包み込む。やがて、薄膜が剥がれ落ちるように魔法陣が消えた箇所は、もはや残痕すら残されていない――

 

「――うそ」

 

 ――筈だった。

 

 唖然と口を開くオルガマリーを見て、くすくすと黒衣の女が、無垢な少女の如き微笑みを浮かべた。

 

「治る訳が無いでしょう。我が槍は“不死殺し”。たかが人間のちっぽけな魔術風情で、打ち破れる宝具ではありません」

 

「――宝具。まさか、貴方。サーヴァント……!」

 

 戦慄に身体を波打たせるオルガマリーに、女――サーヴァント・ランサーは美しい笑みを向ける。

 

「在り方は大分異なってしまいましたが、そういう事にしておきましょうか――それにしても、なんて、甘美」

 

 恍惚とした表情。女が頬にこびりついた血を指で浚い、口に含んだ。小ぶりな唇が指先を包む。眼を瞑り、皮膚に染みついた分まで丹念に味わっている。つ、と引き延ばされた銀の糸がか細く尾を引いた。ぎょくりと上下に揺れる喉。漏れる官能の溜め息。色濃い嗜虐を湛えた黄金の瞳は、確かに伏せる巧を捉えていた。

 

「死を目前にした人間の血は、得も言われぬ甘さがありますが――貴方の血は、特別濃厚ですね。まるで、永遠に死に続けているよう。……生きたまま、標本にしましょうか」

 

 膨大な魔力が女――ランサーの総身から立ち昇る。つい先刻までとは比べるのも烏滸がましい程の殺気。オルガマリーの足が退がりかけ、しばらく躊躇して、止まった。怪訝な顔をする巧に、オルガマリーが呟いた。

 

「これで、貸し借り無しだからね」

 

「――お前」

 

 巧を庇う位置に立ったオルガマリーを見て、ランサーの表情に愉悦が滲んだ。

 

「邪魔を、する気ですか?」

 

「……生憎だけど、こいつはもうカルデアの所有物なのよ、ランサー。そんなに欲しいのなら、引取り手続きを済ませてからにしてくれるかしら。そんな物、無いけど」

 

「その必要はありませんよ。どうせ、貴方は死ぬのですから」

 

 その言葉に嘘は無いと、すぐに分かった。恐怖で脚が震える。逃げ出したい、という気持ちで胸が一杯になる。だが、逃げ出す訳にはいかない。もしそうすれば、二度と自分は立ち上がれなくなる――。

 脚の震えを見たランサーが、くす、と小さな笑みを零した。

 

「……ですが貴方には、上等な食事を持ち込んで来てくれた礼を言わなければなりませんね。特別に――優しく、殺してあげます」

 

 ランサーが蛇のようにその肢体をくねらせ、駆け出した。距離、僅か八メートル。一瞬で細切れにする自信があったが、限界まで恐怖で熟成させてから殺す。その方が血肉にコクが出ると知っているからだ。二歩で半分を過ぎ、三歩で到達。手始めに、腕を切り飛ばす。それから先は単純作業でしかない。末端から徐々に削り取っていく。恐怖に歪む少女の相貌を幻視し、やがて訪れるであろう饗宴の時に、心の底から笑った。

 それが、唯一の隙だった。

 後ろ手に回されていたオルガマリーの手が動き、ルーン文字の刻まれた瓦礫が宙に投げ放たれた。ランサーの眼に、一瞬の隙が生まれる。好機。すぐさま大量の魔力が乱雑に送り込まれ、ルーンが音を立てて唸り出す。耳障りな眩暈。暴発寸前でようやくランサーが意図に気づいたが、もう遅い。

 瓦礫は光を伴って、ランサーの眼の前で爆発した。

 だが足りない。その程度でサーヴァントが止まらない事は分かっている。あくまでこれは本命から目を引き離す為の囮に過ぎない。

 本命は、至近距離から脳天を打ち砕く、超高密度の魔力を込めたガンド。

 莫大な魔力が込められた連撃が、噴煙を切り払い、女の元に殺到する。

 

 ――その全てが、紙屑のように消え去った。

 

「なっ――」

 

「それで対抗出来ると思っている所が、本当にかわいらしいですね」

 

 極限まで手加減されたランサーの蹴りが、オルガマリーの腹部を貫いた。張り詰めていた意識は限界を迎えて消失し、元々身軽な体躯は軽々と吹き飛ぶ。数メートル後方に重い物が落ちる音が、巧の耳に聞こえた。すぐ傍で、優し気な声が囁く。

 

「――後で、ゆっくり楽しみましょうね」

 

 そして、遠ざかる足音。朦朧とする意識の中で、やけに鮮明に聞こえた。

 

 ――追想したのは、自分だった。

 

 まだ、真理とも啓太郎とも出会っていなかった頃。オルフェノクである事に恐怖し、いつ殺人衝動に呑まれるか分からない空っぽの自分を嫌悪し続けていた。

 ほんの少しでも手を伸ばしていれば、助けられたかもしれない命があった。

 それでも、怖かった。

 自分が人を手酷く裏切り、傷つけてしまう事を何よりも恐れていた。

 結局、最後に残る物といえば、山のように積み重なる灰と、どうしようもない自分に対する底無しの後悔ばかり。

 そんな俺にも、夢が出来た。

 数え切れない離別の果てに、運命に抗い続けた男の尊い理想を受け継いだ。

 あの時確かに聞こえた、頷く木場の最期の声。

 

 ――俺の出来なかった事を、君が。

 

 立ち上がる。ふらつく身体は、とっくに限界を越えている。泥のような眠気が全身に纏わりついている。

 だが、立った。痛みで意識を叩き起こす。

 

 

「二度と、目の前で――」

 

 

 倒すべき敵がいる。乗り越えるべき困難が見える。足はまだ動く。拳はまだ作れる。

 なら後は、一歩踏み出すだけだった。

 

 

「死なせたり、するかよっ――!!」

 

 

 ――たまらず、吼えた。

 

 

 そして駆け出す。内から湧き出す烈火の如き衝動。一歩踏みしめるごとに、魂に刻み込まれた孤狼の遺伝子が脳髄にまで響く咆哮をあげる。闇に覆われた視界が眩い流線の中に融けていく。もっと、速く。死と再生を顕すオルフェノクレストが蠢く。全身を迸るエネルギーが臨界点を迎え、いつしかその身体は、銀色に輝く外骨格に包まれていた。狼の遺伝子を配された異形。人類が行き着く成れの果て。人の理を打ち砕く、唯一無二の進化系。

 

 

 ――乾巧は、ウルフオルフェノクに変身した。

 

 

 

 

 

 

 


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