「――先輩?」
ずいぶん、長い夢を見ていた気がする。
重い目蓋をこじ開けると、こちらを覗き込む紫色の瞳が、巧の薄暗い色彩に入り込んできた。その背後では古臭い雰囲気が染みついた板が、木製の枠に沿って几帳面に並べられている。
独特の臭いが、鼻をつんとつく。全身を包む柔らかい感触から、アスファルトではなく布団の上に寝転がされている事が数秒経ってようやく分かった。
「ここは……」
何処だ。疑問符と共に起き上がろうとした巧の身体に、無視できない鈍痛が迸る。ぐうと、間抜けな呻き声が、静かな和室に反響する。少女が慌てた様子で、倒れ込もうとする巧の身体を抱き止めた。
「いけませんっ。いくら強力な治癒魔術があっても、すぐに動けるような怪我じゃありませんでしたから」
しつこく伸ばされる手を振り払おうとする度、全身が錆びた螺子の如く軋んだ。数度の試行の末、とうとう諦めて布団に潜り込む巧を見て、少女は安心したような表情を見せた。
一体、ここは何処なのか。自分はどうなってしまったのか。何もかもが分からないが、今はひたすらに眠かった。柔らかな羽毛に深く身体を押しつければ、沈んでいた眠気が再度浮上を開始しようとする気配を感じた。ずっとここで寝そべっていたい。巧の意識が、本格的に二度寝のスイッチを入れようとしたと同時に、顔面にべちゃりと濡れた何かが押しつけられた。
「がっ」
「あっ、すいません」
慌てて取り除かれたタオルの下の巧は、過剰に吸い込まれていた水分をぶちまけられ、惨憺たる有様になっていた。濡れた口の端が引き攣る感覚。いつもの癖で怒鳴ろうとして起き上がった瞬間、俯いた紫の瞳と目が合った。
――手を、握って――
唐突に止まった巧の挙動に、少女も訝しむ。
「――どうしました?」
言っていいのか。散々迷った挙句、巧は口を開く事に決めた。
「……お前、あの時の奴だろ」
巧の眼の奥で瞬く何かを感じ取ったのか。少女の顔に驚愕が走った。
「……覚えて、いたんですか?」
「忘れる訳無いだろ、あんな」
あんな――。下半身を瓦礫に押し潰された少女の凄惨な姿が、巧の脳裏を一瞬掠めた。血の気を失い白くなった顔。瓦礫の隙間から漏れ出る、オイルのような血。明らかな、致命傷だったはずだ。贔屓目に見ても見なくても、あらゆる老若男女が死という太鼓判を押す重傷。死ぬまで十数秒もかからないだろうと巧は思っていたし、耐え切れなかった意識に黒い帳が降りる寸前にはもう、少女の肌から生気というものが抜け落ちていた気がする。
仮に、自分が気絶した後に何らかの奇跡が起こり助かったとしても、あの燃え盛る炎の群れを単独で抜けられたとは、到底信じられなかった。
一体何が、どうなっているのか。
呆然としている巧を他所に、少女は今度こそタオルの水気を充分絞り取ってから、唐突に巧の上着を剥いだ。ひんやりとした空気が背筋を這い上り、大きく身震いした。
「何すんだっ」
「じっとしていてください――今の先輩は、マスターである前にひとりの怪我人です」
有無を言わせぬ視線と口調に圧倒され、思わず視線を逸らしてしまう。それを了承ととったのか、タオルが背中を丁寧に往復しはじめた。
気まずげな、かといって居心地が良くない訳ではない空気が部屋を漂う。特にする事の無い巧は、ちら、と横目で少女を盗み見た。一心を巧の背中をふき取る事だけに賭けているその顔に、傷は一つも見受けられない。
眼に宿っているのは死を前にした虚無では無く、力強い生を思わせる意志の光。その眼を見れば、この少女は一度死んだのだと誰にどう言っても、信じてもらえないだろう。それほど、少女には生命という物が溢れていた。
――まさかこいつ、オルフェノクじゃないだろうな。
巧が疑念を渦巻かせているうちに、少女は一仕事を終えたのか。大きく息を吐いて、往復していた手を止める。背中に貼りつく濡れた感触を気持ち悪がっていると、少女は申し訳なさそうに呟いた。
「お疲れ様でした。……その、いきなりこんな事してすみません」
「全くだ」
不貞腐れたようにそう吐き捨て、上着を着直す。その後、巧は思いついたように、口にした。
「それよりお前――怪我はどうした」
「? 怪我、とは?」
少女の瞳が疑問に彩られる。
「だから……あん時の奴だよ。――瓦礫の」
躊躇いがちに零された巧の言葉にようやく思い当たったのか、少女は納得したように掌を叩いた。
「……ああ、はい。デミ・サーヴァントとなった時点で、負傷箇所も修復されたみたいです。今は、傷一つありません」
「……そうか」
巧のまなじりが、安堵によって緩やかな円弧を僅かに描いた。少女は目の前の無愛想な壁に現れた微かな亀裂に眼を見張り、くすりと笑った。
「なんだよ」
「その、先輩にとっては、取るに足らない事かもしれませんが。先輩が私の手を握ってくれた事を思い出して。……あの時は、ありがとうございました」
頭を下げた少女に、巧はうざったそうに手を振る。
「よせ。大した事じゃないだろ」
「それでも、私は嬉しかったんです。……本当に」
元来の性格もあって、他人から純粋な好意をぶつけられた事の無い巧は、少女の笑顔にどう対応していいか分からず、黙り込む事しか出来なかった。その様子を見た少女が、再び笑った。巧が顔を背けてがしがしと頭を掻きむしる。暖かく、どこかむずがゆい空気が二人の間に染み渡っていった。
「――ここは、何処だ?」
甘ったるい雰囲気に耐え切れずこぼれ出た疑問に、少女は困ったような顔を見せた。
「実は、私も知らないんです。キャスターさんが、今はこの場所が一番安全だと言っただけで」
「キャスター?」
「はい。この街の唯一の生存者……なのでしょうか?」
「はっきりしない物言いだな」
「サーヴァントはあくまでも死者の精霊なので、生存者、という言い方はあまり適切ではないかもしれません。受肉しているなら話は別ですが、未だ聖杯が誰の手にも渡っていない以上、それはあり得ないかと」
「そうか」
長くなりそうな話を無理やり打ち切り、ざらついた畳に手をついて巧は立ち上がった。少しふらつくが、問題ない。そのまま立ち去ろうとする巧を、慌てて少女が止めた。
「先輩、駄目ですっ」
「平気だ」
「ですが」
「平気だっつってんだろ。ほっとけ」
助けてくれた事には感謝している。だがそれ以上に、赤の他人も同然の相手と同じ空間に居るという事が、巧にとっては耐え難い苦痛だった。そして、これ以上親しくなってしまえば、いつか必ず後悔する羽目になるという確信が巧にはあった。だから、出て行く。ただ、それだけの事。
少女の悲しげな視線が巧の五体を抉る。
たまらず、足を止めかけた。
「先輩っ!」
悲愴に満ちた声に耐え切れず、このままさっさとずらかろうと襖に手をかけた巧の裾を、少女が引っ掴んだ。ふらついた巧に少女が自責の念を浮かべたが、ぐっと唇を噛み締めて、再び握り締めた。熱の篭った視線が、巧の背中に浴びせかけられる。ひどく、熱い。
「離せ」
「いけません。絶対安静にしていなくては」
「離せって!」
「離しませんっ!」
「お前なっ!!」
振り払おうと力を込めても、少女の腕は鉄釘で縫い留められたかのように、微塵も動かない。普段の腕力も出せないほど、身体が衰弱しきっているのか、それとも少女の方が自分よりはるかに力強いとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい妄想だと笑い飛ばそうとして、止めた。そういえばここに来てからは馬鹿馬鹿しい目にしか合っていない。突然襲ってきた槍持ちの通り魔に、喚きを撒き散らすヒステリック女――
その瞬間、巧の脳髄を電撃が貫いた。
「あいつはどうした」
「あいつ?」
振り向いた巧の表情、焦燥の色が濃い。何故今まで忘れていたのか、その思考ですらも今ではもどかしい。少女の肩を掴む。硬い鉄の感触が、神経を透き通っていった。
「俺と一緒にいた奴だ。どこやった」
「所長の事なら、隣の部屋ですが」
居場所を聞くや否や、巧は隣の襖を躊躇なく開けた。その仕草には女性に対する気配りなど全く存在しない。
巧の記憶は、謎の影に襲われた所でぷっつりと途切れている。だから、どうしようもなく不安だった。自分はあの少女を助ける事が出来たのか。二度と目の前で死なせないと決めたのだ。人間を守ると、誓った。だが、もし間に合っていなかったとしたら。最後の最後に堪えきれず倒れてしまった自分が心底憎らしくてしょうがない。だからか、巧は少女の制止にとうとう気づかなかった。
不安と期待を入り混じらせながら開けた扉の先には、
「――――――――――な、あ、あんた」
着替え真っ最中の、オルガマリーの姿があった。
薄闇の中だからこそ映える銀髪が、微かに差し込む月光に照らされてぬらぬらと輝いている。滑らかな曲線美が均整の取れたシルエットを生み出し、きめ細やかな白肌を覆う質素な下着でさえも、一種の芸術として成立させていた。その肢体には傷一つ見当たらない。遅れて、安堵の溜め息が漏れた。オルガマリーと目が合う。濃い狼狽に彩られた金色の眼。気まずくなり、眼を逸らした。
「着替えてんなら、着替えてるって言えよな」
無茶苦茶な巧の言いがかりに、オルガマリーは顔を赤くしたり青くしたりするのに忙しくて答えられない。わなわなと口が震え、ぶち、と何かが切れる音が確かに聞こえた。後ろで少女が耳を塞ぐ。
数秒後、雷鳴の如き轟音が、巧の耳孔を鋭く貫いた。
〇
「――以上が、所長達と合流するまでの経緯です。」
マシュ・キリエライトと名乗った少女は、一連の話をその一言で締めた。
オルガマリーと衝撃的な再会を果たした後、語るのも憚られるほど複雑な紆余曲折を経て、巧達は居間に集まっていた。少女――マシュから聞かされた一部始終によって、オルガマリーはキャスターと名乗る痩身の男、を多少はまともなサーヴァントだと信用する気にはなったらしい。もっとも、巧は話半分しか聞いていなかったが。その気配を目敏く嗅ぎつけたオルガマリーは、嫌味たっぷりの視線を巧に送りつけた。
「……何だよ」
「いえ、別に。ただ、女性の下着を覗いておいて平気な面していられる人間は、さすが精神の出来が違うなって思ってただけ」
「お前、まだ引き摺ってんのか?」
巧のめんどくさそうな態度が癇に障ったのか、だんと、机を叩いてオルガマリーは立ち上がった。その形相には怒りに燃える修羅が色濃く映されている。
「当たり前でしょっ! レフにだって、見られた事無いのに……何でよりにもよってあんたなんかにっ!」
「俺だってあんなもん見たくなかった」
「あんな、もの……!?」
「大体、下着見られたぐらいでごちゃごちゃ騒ぐな。ガキかお前。バーカ」
怒りに震えるオルガマリーに容赦なく追撃を加える巧。その鋭い舌鋒の燃料は、自分が仕立てた、巧の頬にべっとりと張りついた手形の紅葉から来ている事をオルガマリーは知らない。自業自得ともいえる。
「誰が、バカですって!?」
「お前だこのバカ女」
「ふたりとも、もうやめておいた方が――」
止めようとしたマシュであったが、一度火がついた時点で、常人よりも頭に血が上りやすくなっている巧の頭が止まる訳が無かった。巧の口舌に呼応するかのように、オルガマリーの思考も怒りの赤一色に染まっていく。
「なによっ! この無神経、無愛想、野蛮人っ! 唐変木のあんぽんたんっ!」
「バカ、バカ、バカ、バカ!」
「――このバカ男っ! バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ!!」
「バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バーカ!!」
「やめてください二人ともっ! キャスターさんも、面白がってないで止めるのを手伝ってくださいっ! こらっ! やめてくださいってば!! ――もおっ!」
〇
結局、見かねたマシュの武力介入によって事態は鎮火の気配を見せたが、いい歳をして取っ組み合いになりかけた二人の間の空気は、最悪になっていた。目を合わせた途端、威嚇しあう猫のように睨み合う二人の姿に、マシュはとうとう匙を投げ、台所に行った。逃げたともいえる。
「――これが、こちらの凡その事情です。……貴方、確かキャスターだったわね」
真っ先に正気を取り戻したオルガマリーが、巧を牽制しつつカルデアの事情を話す。その様子を見ていたキャスターは堪えきれないとばかりに大きく笑った。
「おうよ、何か用か。気の強いお嬢ちゃん」
「……態度は放っておくとして、あなた、真名は何?」
「ほほお、いきなりそれか、いいね。大胆な女は嫌いじゃない。仮にも今は聖杯戦争中なんだが……ま、今となっちゃ隠していても意味はねえか。―――アイルランドの光の御子って言えば、分かるよな?」
「光の、御子――貴方はもしや、赤枝の騎士団のクー・フーリンでは」
そう言いつつ、マシュが湯飲みをそれぞれの前に置いていく。中身は当然の如く、お湯だった。中空をゆらめく湯気を見て、巧が苦虫を嚙み潰した顔をした。
「御名答。ま、今回はキャスターでの現界なもんだから、槍は無いんだがね。――ああくそっ、槍さえありゃなあ。あんな奴ら、一刺しで終わらせられたのによ」
「無い物をねだってもしょうがないでしょうが。――それより、この異変は一体何なの? 冬木の聖杯戦争に一体何が起きたっていうの? 確か、この街の聖杯戦争は七騎のサバイバルだって聞いてたけど」
「最初におかしくなったのはこの街だ」
キャスターは湯飲みを掲げ一気に飲み干すと、何でもないようにそう言った。
「一夜にして炎に覆われ、人外化生どもが闊歩するクソみてえな有様になった。元からきな臭い気配はあったんだがな。――最初に聖杯戦争を再開したのはセイバーの野郎だ。アーチャー、ランサー、ライダー、アサシン、バーサーカー。オレ以外の英霊はセイバーの奴にぶっ倒されて、真っ黒い泥に汚染された。盾のお嬢ちゃんは聞くまでもねえが……あんたらも、会ったんじゃねえのか?」
ランサーという単語を聞いた瞬間、巧とオルガマリーの表情が忌々しげに歪んだ。
「その顔だと、心当たりがあるみてえだな。……それで、奴らは怪物どもと一緒に何かを探してる。それが何なのかはオレにも分からんが、幸か不幸か、探し物にはオレも含まれている」
「唯一聖杯戦争を続行する意思が残っているまともなサーヴァントが、貴方とセイバーだけだから、か」
顎に手を当て考え込むオルガマリーに、キャスターが莞爾とした笑みを浮かべた。
「そういう事だ。だが、オレもいい加減終わらせようと思ってな。永遠に終わらないゲームなんざ退屈だろう? 良きにつけ悪しきにつけ、駒を先に進めないとな?」
「それでキリエライトを助けたワケ。何よ、結局のところ、自分の都合が最優先って事じゃない」
「人間、大体そんなもんだ。それにお互いに悪い話じゃないだろ? あんたらの目的はこの異常の調査。オレの目的はこの戦争の幕引き。ほら見ろ、利害は一致してる」
「――貴方が、裏切らないという確証が無い」
ランサーに襲われたからこそ、言える言葉だった。確かに今は正気を保っているかもしれない。だが、いつか泥という物に汚染されて、こちらを襲ってくるかもしれないのだ。不発弾を隣に置いて眠るような行為を、カルデア所長として、許しておける筈が無かった。
オルガマリーの疑念の視線に、キャスターは杖を掲げ、不敵に宣言した。
「オレは、良い女を裏切らない」
オルガマリーは、信じられない物を見つめる目つきをした後、深いため息を吐いた。
「………………わかった、わかりました。冬木のキャスター、貴方と協力しましょう」
「おっ、話が早いな。アンタ、将来美人になるぜ」
「……本当にこんな調子で、大丈夫なのかしら」
「任せとけって! ルーン魔術の真髄ってもんを見せてやるからよ」
軽快に笑うキャスターを不安げに見つめた後、オルガマリーは巧を睨みつけた。視線の先。巧は話に関わろうとする気配すら見せず、ふうふうと溶鉱炉のように煮えたぎるお湯を吹いていた。
「……藤丸」
「ふーふー」
湯飲みの保温性がよほど良いのか、中々冷めない。巧がひたすら吹いているその隣では、冷やした水を持って来るかどうかでまごつくマシュが見える。さすがに、オルガマリーの堪忍袋も限界だった。
「藤丸っ! 貴方ね、話ちゃんと聞いてた!?」
「聞いてた」
「嘘つけっ! ずっとふーふーやってんのバレてんのよっ!」
オルガマリーが机を勢いよく叩いた瞬間、湯飲みが飛び跳ね、中身が巧の手に飛び散った。
「熱っ!」
「ああっ、先輩大丈夫ですか」
「物に当たるのは良くねえぜお嬢ちゃん」
「どいつもこいつもうるさいうるさいっ! ――四十八番、藤丸立香っ! 貴方、カルデアの一員としての自覚を、ちゃんと持ってるんでしょうねっ!?」
突きつけられた指先を、巧はうざったそうに見つめた。
「何だよ」
「何だよ、じゃないっ! 話には参加せずずっとフーフーしてるわ! わたしを差し置いてマスター資格を有してるわ! 挙句の果てには人の裸を見ても謝罪の一つも無いわっ。ちょっと! 一体どういう事なのよこれはっ!」
前半はともかく、後半は明らかな私情も混じっていた。巧はめんどくさそうに眉を顰めて、
「話は纏まったんだろ。だったらそれでいいじゃねえかよ」
「そういう問題じゃないの! 良い? 貴方には協調性とデリカシーってモノが欠落してるようだから教えてあげる。……コラっ! 寝るなバカっ!」
先輩がんばってくださいと、マシュが眠りかけた巧の肩を揺する。舌打ちしながら巧は話を聞く態勢を作った。
「……認めるのは本当に、非常に癪だけど、私にはマスター適性がありません。だから、私達が頼れるのは貴方一人しかいないのよ。わかる? 貴方しか、いないの」
ひと言ひと言を諭すかのようにオルガマリーは告げた。本当はこんな、魔術のまの字も知らなさそうな素人も同然の人間を頼りにするのは間違っている。そんな状況に追い込まれてしまった事自体、魔術師として――いや、ひとりの人間として恥ずべきだった。
だが、それ以外に道は無いというのも、また動かしようの無い事実なのだ。
オルガマリーの言葉に、キャスターも追随するように告げる。
「オレはマスターに従うのみだ。例え仮契約だろうが、マスターである坊主が行けって言うんなら、すぐにでも奴らの居所に乗り込んでも構わねえよ。ま、オレ自身がそうしたいのもあるがな」
「私も先輩にお任せします。私は、先輩のサーヴァントですから」
「だから、俺はな」
一同の視線が、巧に集められた。
心底、鬱陶しい。
しばらく黙りこんだ後、巧はおごそかに宣言した。
「疲れたから、寝る」
〇
庭先には、濃い夜の帳が落ちていた。
あの後、オルガマリーの視線に追われるようにして寝室に戻り、布団に入ったまでは良かったが、何故か、一睡もできずにいた。たまらず飛び起きた巧は、自然と縁側に足を向けていた。
中庭に降り立つ。一月半ばの冷たい夜気が、羽織ったコートを透かして肌を刺す。長い間整備されていないのか、伸び切った雑草が風に揺れ、川のせせらぎにも似た音を闇に響かせていた。
しつこく纏わりついてくるそれらを、靴で乱雑に掻き分けつつ歩いていると、寂れた土蔵の近くに少女が立っている事に今さら気づいた。
冴え渡る月光が、刹那の瞬間、マシュを照らし出す。ただ、何をするわけでもなく、じっと空を見つめ続けるその姿に、巧は何故か途方もない虚しさを覚えた。わざと靴音を立てて近寄る。すると虚ろだったマシュの瞳が、そっと光を取り戻していった。
「――先輩?」
「どうした。眠れないのか」
巧の問いに、マシュは困ったような笑みを浮かべた。
「いえ、その。少し、空を見たくて。……先輩こそ、眠れないんですか?」
「そんなところだ」
「こんな所に出てきているのを見られたら、また所長に怒られますよ?」
「まあ。何とかなるだろ、多分」
適当な答えを返して、少女に倣らうように巧も空を見上げる。あれだけ立ち込めていた黒雲は刃物のような夜風に全身を切り裂かれ、夜空に淡い破片を散りばめて消えていた。無数の雲片をささやかに照らす月が、黒い画用紙に一つだけ描かれた円のような風情で居座っている。
ふと強い風が吹き、マシュが肩を震わせた。巧はしばらく逡巡した後、羽織っていた砂色のコートを脱いで、マシュの前に突き出した。
「……大丈夫です。まだ未熟とはいえ、この身体はサーヴァントですから」
「いいから着ろ。見てるこっちまで寒くなるんだよ」
「……ありがとう、ございます」
マシュは、半ば強引に押しつけられたコートを戸惑いながらも、鎧の上から着込んだ。幾分か珍妙なそれを見届けた巧は鼻を鳴らし、踵を返して足早に屋敷に向かった。いい加減、寒い。確か居間にはヒーターがあった筈だ。キャスターとオルガマリーは未だにぺちゃくちゃ喋り込んでいるだろうが、暖房には変えられない。いずれ直面するだろう叱責に、足取りを重くした巧の背に、少女の鋭い制止が響いた。
殺気。
脳髄でサイレンが鳴り響く。振り返れば、颶風と化した針が、巧の脳髄を貫かんとする射線に乗っているのが見えた。避けられない。過剰分泌されたアドレナリンが世界を緩慢に彩る中、音速を越えて放たれた射撃は、咄嗟に割り込んだ白銀の盾によって弾かれた。中空を回転しつつ舞った針が、蒼く燃え上がり灰となって散る。
「先輩、無事ですかっ!?」
「――右だっ!」
思考より先に身体が反応し、マシュは即座に盾を掲げた。轟音。掲げられた盾に殺到しているのは無数の針。微細な振動が無数に連なり、瀑布の如き衝撃を生み出している。骨を伝わる絶え間ない振動に、このままではいずれ押し負けると判断。巧を抱え、マシュは上空に跳んだ。瞬間、留まっていた場所を、無数のクレーターが埋め尽くした。
「敵……! そうだ所長達はっ」
「おい来たぞっ!」
巧の叫びと同時に、暗闇から敵手がその姿を現した。ヤマアラシの特質を備えた異形――ポーキュパインオルフェノクは、瞬時に掌で長大な槍を生成し、マシュへと投げ放つ。防御。しかし敢えて前に出る。突進の勢いも重なって、白亜の円卓は槍を真正面から打ち砕いた。蒼炎の欠片が宙を舞う。退こうとする敵の焦りが見て取れた。反撃はさせない。無呼吸で盾を振りかざし、そのまま殴り抜いた。
渾身の力で振り回された盾に、音が遅れて追いついた。得物の速度が常軌を逸した証。明らかに人間では成し得ない所業。肉を砕く感触が腕を伝わる。だが、浅いとすぐに分かった。防がれた。その証左に、壁に激突したポーキュパインオルフェノクは、ほぼ無傷に近い。盾越しに相手を睨みつつ、じりじりと近寄っていく。後悔している暇は無い。
レイシフトしてから数分も経たない内に、キャスターと共にライダーを倒した経験を積んでいるとはいえ、単独での戦いはこれが初めてだった。害意と殺気が満ちる禍々しい世界に自分が足を踏み入れた事を、今さら知った。冷や汗が背筋を流れる。
怖い。本音を言うならば、今すぐ逃げ出したくてたまらない。
しかし、自分には守るべき物がある。――ならば、戦わなくてはならないのだ。
どんな事があろうとも。
「――」
「――」
互いに間合いを測る中、先に痺れを切らしたのは、
ポーキュパインオルフェノク。
両手に無数の針を生成し、投擲。銀矢が重なり豪雨となって殺到する。恐らく敵の武器より、こちらの盾の方が強度は上。ならばやるべき事は一つしかない。マシュは怯む事無く豪雨の中に踏みこんだ。鋼と鋼がぶつかり合う耳障りな音が空間を迸っていく。しかしマシュは止まらず、ひたすら敵の懐を目指して駆けていく。距離、半歩も無い。この一撃に全てを賭ける。地を踏みしめ溜め込んだ力を解放。
裂帛の気合と共に盾が打ち込まれ、一際大きい砂柱が昇った。
手応えは――無かった。
嫌な予感が全身を舐め回す。推察。自分が敵の立場ならまず最初に狙うのは誰か? 自分と拮抗し得る実力を持つ相手より、遥かに狙いやすい――つまりはマスターを狙う。何の為に? 人質に取るなりすれば相手の行動を制限する事が出来るし、何より今は聖杯戦争。サーヴァントより弱く、かつ現界する為の楔であるマスターを狙うのは、当たり前の事。しかし敵がサーヴァントでは無い事と、冬木の聖杯戦争が大きくその形式を歪ませていた事が、マシュの判断を誤らせた。
先輩――!
振り返る。そこには、長大な槍を大きく振り被る異形の姿と、己がマスターの姿があった。駆け出す。間に合わない。手を伸ばす。届かない。誰か来て。あの人を、助けて。
全てがコマ送りとなった景色の中、突き出された先端が巧の頭を貫こうとした瞬間。
「――Ausuz」
炎を纏った灰塊が、唐突に異形を襲った。
轟音と共に吹き飛び、そのまま壁を突き破って道路に飛び出る。もうもうと立ち込める噴煙がマシュの視界を覆う中、縁側からゆっくりと、キャスターがその姿を現した。その脇にはオルガマリーが抱えられている。
「――いい機会だ、嬢ちゃん。何心配すんな、腕前じゃあいつらに負けてない。なら後は、心胆決めりゃいいだけだ」
「キャスター、さん」
「何かっこつけてんのよっ。キャスターのクセに接近戦するなんてサーヴァント、聞いたこと無いっ!」
「そりゃアンタが世間知らずなだけだ。ま、ランサーの時の癖がまだ残ってるのかもな。――それより、来るぞ」
瓦礫を押し退けて、二つの灰の影が煙を切り裂く。フードの下のキャスターの顔に、知らず獰猛な笑みが浮かんだ。