「今日は暖かい、いい日ですねぇ」
ある部屋の一室からぼんやりと空を眺める白髪交じりの淡い金髪を揺らしたその少女は、窓から映る蒼天の空を見上げて微笑んでいた。
老女にも、童女にも見える外見で浮かべる笑みは、若かりしときと何一つ変わることのないあどけないもので、そしてどこかつかみどころのない悪戯気なもの。
「そろそろ行きますかね」
長い髪を揺らし、扉へと向かおうとする途中、何かを思い出したのか不意に立ち止まり、棚の上から見ていた俺へと手を伸ばす。
耳らしき部位のない俺に話しかける彼女はいつものように俺へと触れ、定位置である頭に乗せて呟いた。
「今日もよろしくお願いするのですよ、宝譿」
その言葉が『俺』という意識を持った日、相棒である風にかけられた初めての言葉だった。
見慣れているようで初めて見る魏の景色を風の頭の上から眺めながら、ここ数年・・・ いやこれまでになかったと言ってもいいほど多くのところを自らの足で訪れていく風に、何か予感めいたものを俺は感じていた。
「風様ー、どこですかー!」
「おっと、こちらはやばそうですねぇ。
あちらへ向かうとしましょうか」
遠くで聞こえてくる声を避けるように足を向けて、時には警邏隊の者や町の人たちの手を借りて見つからないように行動していく風。
「ふふ、いつもならこの辺りで見つかってあげるのですが・・・ 今日だけは風の我儘を通させてもらうのですよ。
それに今日はたくさん回るところがあるので、ちゃんと最後にはお城に帰るのでそれで許してほしいのです」
旦那がいた時と何も変わらない悪戯気な姿、俺が『俺』となる前から見てきた相棒はいつものように笑う。
「宝譿には最後まで付き合って貰いますがねぇ~」
『おぅよ! なんて言ったって俺は、風の唯一無二相棒だからな!』
風の腹話術によって答えとなる俺の言葉は、風の言葉でもあるが間違いなく俺の言葉だった。
なんてったって俺は稟の嬢ちゃんよりも、旦那よりも風との付き合いがなげぇからな。
「ふふふ、風の相棒は稟ちゃんで、想い人はずっとお兄さんですから、宝譿は正確にはちょっと違うかもしれませんねぇ。
宝譿は・・・ そうですねぇ、『もう一人の私』といったところでしょうか」
『おぅ?! 俺様、大出世だな!』
それは変わった独り言だった。
まるで誰にも聞いてほしくないと望みながら、誰かに聞いてほしいなんて矛盾するおかしな気持ちを吐露するように。
「まぁもっとも、稟ちゃんも・・・」
風はさらに言葉を続けかけたが、結局話すことなく口を閉じた。
「さて、もう少し回るべき場所を回って、花でも買っていきましょうかね」
花を買った風は俺を乗せて、ただ一人で歩いていく。
愛しい魏国の街を見守りながら、もう共に時代を駆けた者が誰一人も残っていないこの大陸で、戦友たちが残した愛しい名残に追いかけられながら、風は何を思うのだろう。
その後も、風は様々なところへ足を向けた。
店主が代替わりした魏の将たち行きつけの茶店と飯店、魏国の王御用達だった菓子屋。警邏隊の詰所、服屋、川辺、屋上、執務室、玉座。そして最後に訪れたのは・・・
「お兄さん、入るのですよ」
数度叩いて扉を開けた先は、やっぱり旦那の部屋だった。
風は部屋の机へと抱えていた花束を置き、旦那の席へと深く座った。
「やっぱりここは、落ち着きますねぇ」
何年経とうと埃一つ積もることなく綺麗に保存された部屋を、風は満足そうに見渡して目を細める。
「お兄さん、風は頑張ったのですよ」
多くに置いて逝かれ、それでも多くを支え、最後の最後まで風は魏を、三国を支え続けたことを俺はずっと見ていた。
「支えきったのですよ」
満足げに呟いて、目を閉じる。
もはや旦那と実際に話した者は風しかいないこの大陸で、今なお旦那の名は語り継がれ続けている。
街を守る警邏隊に、街を作る大工の商会に、人々の笑顔を作る一座に。
旦那本人が橋渡しをした土地の碑に、旦那と関わった者の書にその名は刻まれている。
「そして皆さんも長短に差はあっても、懸命に生ききったのです」
魏国の将の誰もが後継者を残し、基礎を創り上げ、勤め上げた。
その最期は病に倒れた者、死期を悟って行く宛ても知らぬ旅へ向かった者とそれぞれだったが、誰もが皆、己から死を選ぶようなことはしなかった。
風はそんな友人たちを誇るように胸を張り、そこに居ない旦那へと報告しているようだった。
「華琳様は最期に言っていたのです。『また、皆で会いましょう』、と。
だから風は、少しだけ期待しているのですよ。お兄さんと会える次を・・・・ お兄さんと皆さんと過ごせる日々を。
どんな場所でもお兄さんたちと、皆さんと居られるのなら、風にとってそれ以上の幸福はないのです」
最後に華琳の嬢ちゃんが言ったあの言葉にわずかに期待を込めて、風は深く息を吸い込み、吐き出した。
「今日はたくさん歩いたので、風は疲れたのですよ。
少し、眠るとしましょうかね」
俺を頭から降ろし、旦那の机の上へと置いた風は綺麗に笑って、俺の頭部に触れた。
「宝譿もたくさん付き合って貰いましたからねぇ、本当にお疲れ様でした」
風はそう言ってまるで眠るように安らかに、もう再び目覚めることのない眠りへついた。
最後まで寂しいとも、悲しいとも、辛いとすら言うこともなく、満足げに風は自分の生涯を終えた。
苦楽を共にし、死に別れても、再び出会いたいと思うのは果たして人だけなのか?
そんなわけがねぇだろ。
俺だって見てきたんだぜ?
旦那の良いところも、スケベなところも、男を見せたところも、かっこわりぃところもよ。
なぁ、風。
次はありえねぇぐらい幸せになろうぜ。
今度は俺も、俺としてそこに居るからよ。
「何、人の頭の上で黄昏てるんだ? 宝譿」
白蓮嬢ちゃんの言葉に我に返った俺は、気持ちのいい青い空を見ながら、遠い日の名残りを振り払った。
「なーに、男にはどうしようもねぇ過去を振り返っちまう日があるもんなのさ」
ある化け物どものおかげで俺は今ここに居るわけだが、それはまぁいつか話すことになるだろうよ。もっとも話しても楽しいかどうかはわからねぇがな。
「ふーん? お前、男だったのか」
「男かどうか見た目じゃわからなかったら、その心の在り様を見るんだぜ。白蓮嬢ちゃん。
たとえ男に見えなくても、男らしさなんてもんは行動から溢れ出てくるもんなのさ」
「ふーん? よくわかんないけど、まぁいいか」
白蓮嬢ちゃんらしいどこかずれた返事をもらいながら、俺は軽く周囲を見渡した。
今俺は白蓮嬢ちゃんのお供をし、袁紹の嬢ちゃんのところに挨拶をしてきたところだ。袁紹の嬢ちゃんのところには前には居なかったちっさい坊主がいたけど、白の旦那のとこにも知らねぇ嬢ちゃんがいたからいろいろ違うっつうことはわかりきってるし、驚くことじゃねぇな。
「それにしても、麗羽は相変わらず楽しい奴だよな。
私が来ても嫌な顔はしないし、高笑いとかはしててもちゃんと話は聞いてるし」
「・・・・嬢ちゃんはあれだよな、人に優しすぎるところが美点であり欠点だよな」
「そうか?」
俺の警告を交えた一言に対し、嬢ちゃんは不思議そうに首を傾げるだけで意味を分かっていない様子だった。
前の時に居たかどうかは知らねぇが、赤根嬢ちゃんの苦労が見えるようだぜ・・・
「それはそうと・・・ あの占いの件は一体どうなったんだよ?」
嬢ちゃんは話を変えるように頭の上の俺へと話しかけつづけ、俺も俺で嬢ちゃんの尻尾みたいな縛り目に背中を預けて問い返す。
「占い? 管輅嬢ちゃんのか?」
「そうそう、あの白の使いと赤の遣いの・・・・ って、そっちじゃない!
前に言ってた私に・・・ その、運命的な出会いがあるとか言う奴の方だよ」
「あぁ、そっちか」
俺は半ば忘れかけていた件を話されたもんだから、おもわず両手を打って音をたてる。
あの占いやる時は半ば覚醒状態にちけぇから俺自身適当に言ってるに等しいんだよなぁ。神のお告げっつうか、何かのお告げっつうか、風の知らせっつうか、考えるもんじゃなくて感じるもんなんだよな。
「そっちかって、まさかあの時適当なことを言ってたのか・・・?」
声だけで落ち込んでいくのがわかる白蓮嬢ちゃんに俺は慌てて、否定する。
「そりゃねぇよ。
適当なこと言ってたら、風とか稟嬢ちゃんがあれだけで済むわけねぇだろ。
俺だって、言っていいことと悪いことぐらいの区別はつくぜ?」
まぁ、白の旦那の方にゃそれがあんまりなかったみたいだけどな。
旦那にそっくりな見た目して、まったく違うからたまげたもんだぜ。
「じゃぁ、あの占いは本当なんだな?」
「おぅよ! 俺様は、嘘はつかねぇぜ!」
ただそれがいつかまでは、保証できないんだけどな。
俺自身、風に会えるかもしれないと思って通りにあった適当な店に入って商品やってたけど、かれこれ十年ぐらい風を待つことになっちまったしな!
あん時は辛かったぜ・・・・ 風が店を訪れて、俺を手に取ってくれた時は人目をはばかることも忘れて泣いちまったもんだった。風からは記憶が戻ってなかったからめちゃくちゃ怪しまれたし、そのせいで一から全部説明することになっちまったんだけどな。
「おい、宝譿?
何で急に黙るんだ?」
「いや、何でもねぇよ。白蓮嬢ちゃ・・・ ん?」
嬢ちゃんの返事を誤魔化しながら、俺が何かを感じて空を仰ぐとそこに見えたのは黒い点。嫌な予感がすると同時に、感じられた何かはあの占いの時と酷似していて、俺は一瞬判断に迷う。
避けた方が安全だけど、ついでに何かの危機を与えてしまうような気がすんだよな。主に白蓮嬢ちゃんが結婚できるかどうかについて。
「んー・・・ でもなぁ」
「宝譿?」
まだ気づいていない白蓮嬢ちゃんは不思議そうに俺の名を呼び、俺は腕を重ねて考えつつ、距離を測る。落ちてくる速さと、わずかに聞こえてくる悲鳴らしきものから考えて、これはどうやら人間っぽい。
晴れ時々人間、すげぇ天気もあったもんだな。
あっ、そろそろ距離的にまずいわ。こりゃまぁ、うん・・・ 賭けだな。
「白蓮嬢ちゃん、避けろ!」
これで嬢ちゃんが避けられたら避けられたで、怪我がしなくて最善だし。
「はぁ? 突然何言ってんだ?」
本気にとるわけねぇよな、俺だって信じたくねぇし。他人に言われたら信じない自信あるどころか、そいつの頭の心配すると思う。
でも、本当に飛んできちまってるから、どうしようもねぇし。瓶を抱えて飛ぶことは出来る俺でも、流石に大人一人を何とかする力はねぇよ。
「上から人が降ってくるんだよ!」
もし、これがあの占い通り運命の出会いだとしたら、嬢ちゃんにとっちゃきっと最高の出会いになる筈だ。多分きっと、おそらくは。
「そんな斬新天気があるわけ・・・・」
俺が頭の上で飛び跳ねればやっと上を見た嬢ちゃんの目に飛び込んできたのは、おそらく突然降ってくる人らしきもの。
「本当に降ってきてる?!
でも、避けたらあの人危ないよね?! 助け・・・ でも、私も避け・・・」
あー・・・ 白蓮嬢ちゃんの人の良さって筋金入りだよな・・・
普通は自分の安全確保するもんだっつうのに、相手も助けようとかするとかもう・・・ だから劉備に兵とか渡しちまうんだよ。まったく。
「わりっ! 白蓮嬢ちゃん。
俺は先に離脱するわ!」
下手な角度でぶつかって俺に付き刺さったらあぶねぇし、そのついでに嬢ちゃんも危なくないように軽く後ろへ引いておく。つっても、一歩か二歩ぐらいしか下げらんないんだが、脳天同士がぶつかるよりかはいいだろ。
俺が離脱した瞬間聞こえたのはぶつかり合う音と、少しの砂埃が辺りに立ちこめる。
「おーおー、どんな勢いで飛ばされたんだか。
嬢ちゃん、無事かー?」
つーか、連合外から飛ばされてこない限りは方向からして旦那とか、華琳の嬢ちゃん所から飛んできてんだよな。旦那とかなんか妙なことが起きてなきゃいいけどな、主に風達の機嫌のために。
そんなことを思いつつ、砂埃が落ち着いた現場を見ているとまず目に飛び込んできたのは華琳の嬢ちゃんを連想させる金髪長髪の優男。そして、その下敷きになるような形になった白蓮嬢ちゃん。
目を回してるから嬢ちゃんが無事はわかったが、問題は優男の手の場所。
白蓮の嬢ちゃんって昔から地味地味言われてるが、無い乳どもに比べりゃ胸はあるし、上下の均衡もとれてて、ぶっちゃけ美人だ。
そりゃ華琳の嬢ちゃんたちみてぇに芸術的な美人ってわけでも、劉備の嬢ちゃんみたいな和む感じはねぇが、村に居たら軽く振り返るぐらいの美人ではあるわけだよ。
つまり、だ。
「事故とはいえ、そんな女の胸触るのは犯罪だと思わねぇか。優男。
つーわけで起きろ! ゴラアァァ!!」
俺は叫びながら、偶然胸に手を置いてしまった男へと回転しながら突撃する。
お前はあれか? 旦那か? 何、ラッキースケベかましてんだ?
それとも日常的に接吻とか、触れ合いとか普通にしてた華琳の嬢ちゃんか?
「ごふっ!
う、うぅ・・・ こ、ここは?」
優男の背中に乗りながら、とりあえず事態を見守るに徹する。
大抵の奴は俺が話しかけると夢扱いしやがるからな、白蓮嬢ちゃんの意識が戻るまではその方がいいだろ。
つーか手、胸をさらに押してるんだが・・・
「はっ?!
こ、これは失礼しました!!」
「ん? あ・・・・」
とりあえず嬢ちゃんを下敷きにしていることに気づいたらしく優男はさっさとその上から退き、手をどけようとしたんだが、手をどけるほんの一瞬早く白蓮嬢ちゃんは目覚め、二人は互いに見つめ合い、二人して顔を真っ赤に染め上げた。
おーおー、嬢ちゃんと髪色とおんなじ色になっちゃってまぁ・・・ 初々しいなぁ、おい。
「本当に申し訳ありませんでした!
突然降ってきたこともですが、その・・・ 事故とはいえ女性の胸に触れてしまうなどと、本当になんと謝罪したらいいやら」
「い、いや、これは事故だからしょうがないし、そ、それに私の胸なんてあってないようなもんだから、別にそんないいもんじゃないなかっただろうし」
おーい、嬢ちゃん? なーに、言ってんだー?
それ、無い乳の奴らの前で言ったら呪い殺されんぞー?
「そ、そんなことはありません! とても柔らかで、その私は好きです」
おーい? お前も何言ってんだー?
んで、その会話で何で二人して頬染めてんだよ?!
あー、もう。俺が独断でやっちまうか。
この二人じゃ、いつまでもうこうして二人で見つめ合って動かないとかありえそうだしな。
「ヒューヒュー!
もうお前ら、結婚しちまえよ!」
「はっ?! け、結婚??!!
宝譿、お前一体何を言って・・・・」
俺がヤケクソ気味に突飛な発言をすれば、予想通り白蓮嬢ちゃんが食いつき、顔をこれでもかってくらいに真っ赤に染め上げる。
そんな嬢ちゃんを相手にせずに、俺は優男の肩に乗ってぽんぽん数度叩く。
「なぁ、優男の旦那。
未婚の女の胸を事故とはいえ触っちまって、しかもそれが見も知らぬ自分を身を挺して救ってくれた女。それも見ている限り、お互い悪い印象も抱いてなけりゃ、むしろ好印象ときた。
これはもう胸触った責任云々とか無しにして、旦那と嬢ちゃんを合わせる運命の悪戯だと思わねぇか?
まるで見えない何かで繋がった縁に導かれるように、旦那はここに飛んできたんだぜ?」
「運命・・・ 縁・・・」
もはやいろいろありすぎて麻痺しているこの事態の中で俺の存在はツッコまれることもなく、優男の旦那は白蓮嬢ちゃんを真剣な表情で見つめ、頷いた。
「胸を触った責任ではなく、私は・・・・ その」
優男は一度顔に手を当て、何かをいおうとして迷っているようで、それでも懸命に言葉を探していることが俺にすら伝わってくる。
「知らない誰かを助けようとするあなたを・・・・ いいえ、違いますね・・・」
何かを振り払い、飾ることをやめるように、優男の旦那はその場で声を大にして叫んだ。
「私、曹子廉は、名も知らぬあなたに一目惚れをしました!
どうか私と、結婚を前提に付き合ってはいただけないでしょうか!!」
それは一世一代の告白で、俺が優男の旦那を華琳嬢ちゃんの実弟だと理解したのはその数秒後だった。