「なぁ、千里ー」
「うーん?」
『馬鹿と煙は高い所が好き』なーんて言葉の通りに、あたしと
霞は視線を関の外に向け続け、私は私で定期的に送られてくる攸ちゃんからの報告書と、泗水関・虎牢関にそれぞれ配備した十人ほどの馬の腕だけは鬼神御墨付きの伝達兵から、交代で送られてくる報告書に目を落としていた。
「この戦い、どうなるんやろうなぁ?」
「はっはっは、あたしがそんなこと知るわけないじゃん。
軍師の仕事はー」
あたしは頭の中にある書を捲るように、女学院時代のことを思い出す。
水鏡先生によって各地から選ばれ、時に自ら門を叩く大陸の才女たち。
時に師から学び、時に自ら創り、確たる己を持っていなければ落ちぶれていく場。
個を尊重し、尊重するが故に自由であり、その自由さこそが時として、自らを襲う刃となる。
けれど同時にその刃の痛みは、常に優しさと表裏一体のものであり、その意味すらわからずに学院を去る者もけして少なくはなかった。
思い出から呼び起された多くを振り払うように、あたしは頭の中にある古びた基礎たる知識を引っ張り出す。
「多くの状況を想定しつつ、現場で臨機応変に対応し、正確な判断を下すこと。
だから、状況がどう動いてもいいようにするのがあたしがすることー。
むしろ霞の方が知ってんじゃない?」
そう言って見上げたら、何かまずいものでも食べたような顔をした霞があたしを見下ろしていた。
「うっわー・・・
仕事熱心な千里とか、ひくわー・・・」
「いや、あたしは霞よりよっぽど仕事熱心だから。
ていうか、そんなこと言いながら霞だって別にサボりばっかりってわけじゃないじゃん」
「まぁ、そうやけどなー。
それとな、千里。ウチの方が知っとるなんてことは、もう何にもあらへんよ。
なーんもかーんもが違いすぎてあてにならへんし、ウチ自身も多分前とはちゃう」
そう言いながら霞はあたしの三つ編みに触れて、編んだ髪を上から下へと撫でていった。
「ウチがこんなあけっぴろげに全部話す親友はおらへんかったし、知らん奴も多い。
都のことはどうやったか知らんけど、それも全部月や詠にまかせっきりやった。
ウチは・・・ いいや、ウチだけやない。
ウチの知っとるみんなもきっと、ここにある今を歩いてるんや」
まるで何かを自慢するみたいに得意げに笑う霞を、あたしはほんの少しだけ遠く感じた。
きっとあたしは、あの子たちのことを今の霞みたいに誰かに話すことは出来ない。
友達としては当たり前に好きだけど、きっとあたしは・・・・
「・・・ん? 千里、なんか来たで?
ありゃ、ウチの伝達兵やないか?」
霞の言葉にあたしも考えていることを中断して視線を向ければ、董卓軍の色である紫を基調とした装備がうっすらと見える。そして、それに乗っている兵士はどう見ても普通の状態ではなく、しがみついているようだった。
「っ!
霞! この書簡、あたしの部屋の机に放っておいて!! それが終わったら霞も城門に! あとは全部、その場で判断するから!」
脳裏にはいくつかの可能性がよぎり、あたしは書簡を霞へと放り投げる。
「ちょっ?! 千里! 待ちぃや!」
霞の言葉の半分も聞かずに、あたしは想定していたどの事態が起きてもいいように考えを巡らせ続けることだけに集中する。
泗水関で何が起きた? どの最悪の事態が招かれた? 状況は? どう判断する? 今後の策は?
自分の足も、思考も全てが遅すぎて、舌打ちしてしまいそうになる中で、顔には
「全兵! そこを退きなさい!!」
普段滅多に使うことのない権力を使って兵たちを押しのけ、こちらも滅多に使わない大きな声を張り上げて、たった今着いたばかりの騎馬へと駆け寄る。
馬からずり落ちるような形でしがみついている伝達兵を見張りの兵が抱え、地面へと軽く横にすることと水を持ってくるように指示し、見覚えのある伝達兵へと声をかけた。
「わかる?」
「は・・・い」
体を震えさせ、動きにくそうにしているけれど、外傷は見られない。それなら毒? だけど、吐いた様子もない・・・ 致死性のものではない? 体を動けなくさせることが目的の毒だとしたら、考えられることは・・・
思考が巡り、まだ確証もない事が行き来する。
「泗水関で何かあったのね?」
兵は頷くと、懐から一本の書簡を取り出した。
『編入部隊 料理 毒 裏切り』
乱れた字で書かれたたった四つの単語。けれど、あたしが事態を飲み込むのはそれだけで十分すぎた。
想定していた中でも、最悪の事態の内の一つが起きちゃったかな?
おもわず顔をしかめそうになるけれど、口角をあげて笑みを作る。
上に立つ者は、感情を露わにしちゃいけない。
それが策を巡らせ、あらゆる状況を考えて、その上で兵士たちに直接指示をする可能性がある戦場に立った軍師なら尚更。
「華雄と高順は?
あなたはどの段階でこれを?」
わからないというように彼は首を振り、必死に口を動かす。
「しょくじ・・・ごに、とびだした・・・ので」
それなら時間はあまり経過していないだろうけど、毒を飲んだかによっては二人は・・・!
脳裏によぎった最悪の事態を悟らせることのないように、あたしは兵士の額へと手を当てる。
熱はないし、見る限り体も動かしにくい程度、毒性は非常に弱いけれど効き目が長い。あたしの私物で対処できる範囲の毒かもしれないだけど、裏切りがあった泗水関では薬の類はあったとしても、処分されたとみるのが妥当。
「ご苦労様、今はゆっくり休みなさい。
彼をすぐに医療部隊の元へ!」
顔見知りである兵士をその場から選んで指示を出し、次にやるべきことに向けて立ち上がった。
「さてっと・・・」
あちらの策を察するに、後から合流して関から内乱。その後、連合と合流というのが流れだったんじゃないかな?
兵は清流派に属する高官たちの息子やら親類によって編成されてるし、未熟な兵たちが内乱を起こしやすくするための麻痺毒なら納得もできる。関に華雄と芽々芽がいることを考えたら、毒だけじゃ見積もりが甘いように感じるけれど、二人は兵を盾にすれば頷く可能性が高い。
問題は後続部隊との合流が不可能になった今、向こうにいる清流派の動き。
けど、麻痺毒に侵されているだろう兵を抱えた華雄に残された選択肢はあまり多くはない。
籠城か、出陣か・・・ 相手に主導権を握られたなら、選択肢は後者一択。万が一こちらが主導権を握れたとしても・・・
「千里ー? 状況が読めへんのやけど?」
「霞、いい時に来たねー。
仕事頼んでもいい?」
「ウチにとって、最悪の時やね」
「まぁまぁ、そう言わずにね。
ちょっと真面目な仕事だからさ」
お互い挨拶代わりに軽口の応酬をしつつ、あたしの目を見て真剣さが伝わったのか、霞も笑顔を消してくれる。
ううん、正確には少し違う。
お互いに笑っているけれど、目が笑っていない笑顔を向けあっているっていうのが正しい。
「何があったんや?」
「泗水関で王允の兵が内乱。料理に毒を盛って、兵は毒に侵されて、華雄たちの安否は不明・・・ ってカンジかな?
この後どう転ぶかはわからないけれど、あたしは泗水関が落ちる可能性が高いと見てる」
華雄の判断次第だけど、霞によって自信を打ち砕き、鍛え直された魔王の盾はその忠義も、武人としての心意気も鍍金ではなくなった。
けれど今回は、その想いが首を絞める事態になりかねない。
芽々芽もいるけど二人とも性格が似てるから、どちらかが歯止め役になることがないっていうことがまた致命的だった。
「策はあるんか?」
「・・・ねぇ、霞。
知ってる?」
あたしはそこで、わざと明るい声を出して笑って見せる。
「軍師の一番大事な仕事はね、どんな状況下でも最悪の事態を考えることなんだよ?」
何故軍師が武将に疎まれ、嫌われるのか。
それは自分に出来ないことが出来ることへの嫉妬だったり、君主との距離感の近さだったり、命をかけて戦場に立つことのない無責任さもあるのかもしれない。
どれもけして間違ってない。きっと、武将にとってはどれもが正解なのかもしれない。
だけど、それらは全て後付けの理由。
あたしはもっと単純なものだと思ってるし、それが正解なんだと信じて疑わない。
「ねぇ、あたしってさ。
霞が思ってるより、ずっと最低だよ?」
軍師は最低だ。
だって軍師は、常に最悪の事態に備えなきゃいけない。そして、最悪の事態の中でもっともわかりやすいのは、主戦力たる武将を失うこと。
つまりあたし達軍師は仲間である武将の力量に問わず、常に武将が
武将が
武将から嫌われて当然だし、軍師も将を嫌って当然。
過信が死をもたらすことすらわからない武将に苛立ちをもち、
同じ方向を向き、君主を通して協力することは出来ても、軍師と武将の考えは決して交わらない平行線のまま。
「私は、あらかじめ華雄が負けることを可能性の一つとして想定してたんだよ」
それがたとえ二人の死を意味することであっても、どんなに大事な友人であっても、あたしが目を逸らすことは許されない。
だってそれが、あたしの役目だから。
霞には嫌われちゃうかな?
なんて考えながら霞へと視線を向ければ、霞はあたしを見て口角をあげて、手を振り上げ・・・
「ハハッ! それのどこが最低やねん。
おもろいこと言うなぁ、千里は」
あたしの肩を叩きながら、大声で笑い飛ばした。
「え・・・・・?」
言っている意味がわからなくて、あたしは今凄い間抜け面をしてると思う。
「仲間が死ぬかもしれへんことまで考えて、死なないように考えて、死んだ先まで考える。そんなん、そんだけ千里が華雄たちのことが好きっちゅうことやないか。
胸張りや、千里。
千里はもう、聞いとるこっちが恥ずかしゅうなるくらい仲間思いなだけやで?」
そう言いながら霞はあたしに背を向けて、頭の後ろで手を組みながらあたしへと振り返ってくれた。
「次の事、考えてあるんやろ?
なーに、ウチらがあんだけ脅したんや。華雄も、芽々芽も早々死なへんって」
これがあたしの親友、かぁ。
あぁまったく・・・ かなわないや。
「ぷっ、確かに。
何せ、こわーい鬼神が『死んだら殺すー』なんて脅したんだから。そりゃ、死にたくても死ねないって」
「なーに、言うてんねん。
鬼より怖い麒麟が、後ろで蹄鳴らした方がおっかないやろ?」
「はははは、あたしの後ろにはさらにおっかない魔王様と、その知恵袋がいるもんね」
あたし達は董卓軍、諸侯が群れを成さなければ恐ろしくて立ち向かってくることも出来ない魔王軍。
この悪名が何を意味するかをわかっていても、もう動き出した乱世は止まってくれない。
命を如何に尊ぼうとも、自分が踏み潰されぬように守ることしか人には出来ない。
ならあたしが、麒麟が尊び守るものも自分が好ましいと思った存在でしかない。
「霞、兵の全てに召集をかけて」
「あん? ・・・あぁ、やるんやな?
ウチの腕の見せどころか」
その言葉に一瞬で理解を示す霞だけど、少しだけ違ったのであたしが首を振ると霞は不思議そうに首を傾げた。
「全兵が揃ったら、鬼神がしたがえてる飛龍をあたしに貸して?」
「・・・そこまでやるんは、
「この関を預かったのは霞じゃなくて、あたし。
それに今回は名が知れた霞じゃなくて、影に隠れてたあたしがやるから意味があるんだよ」
机上において麒麟と称されたあたしが、自ら粛清するという覚悟を見せつけ、虎牢関内部の結束を高める。
何をしでかすかわからない怪物へと昇華したあたしの粛清と一撃は、泗水関を抜けた連合と洛陽にいる清流派にまず間違いなく痛撃となって襲うだろう。
まして、自分たちの策の一部が崩壊したことからよほどの馬鹿でない限り、それを知らせることとなる一撃は牽制になることは間違いない。
まっ、それでも戦況がよくないことに変わりはないんだけど。
初戦は頂くよ、ウチの鬼神と飛将がね。
「はぁ、わかったわ。
けどな、千里。一人で泣くことも、苦しむこともなんもない。
それだけは忘れんといてや」
「してないってば!
霞は心配性だなぁ、もう」
「どこがや、あほ。
一緒に学んだダチと向き合ってるちゅうに」
軽く叩かれても、あたしは笑う。霞の考えとあたしが思ってることはまた少し違うんだよね。
「あたしはあの二人に並ぶほど、大した頭もってるわけでもないんだよ」
『臥龍』、『鳳雛』の中にある本来二頭一対である『麒麟』という名に秘められた、遠回しな師の言葉。
差は歴然としていて、嫉妬するのも馬鹿馬鹿しくて、それでも並び称されてしまったあたしが自分を守るために選んだことは、二人にないものを見つけることだった。
料理も、護身も、手段でしかなくて、趣味になるなんて思ってもいなかった。
「あの子たちにどんな気持ちを向けたらいいかなんて、もうずっとわからないから。
だからその辺に関してあたしのことは気にしなくて大丈夫だよ、霞」
敵になるとか、争うとかいう前から、あたしが二人に向ける思いは真っ白なんかじゃない。
仮に白かったとしてもそれは上辺だけで、裏を返せばきっと真っ黒だった。
二人に料理を教えたのも、姉のように接したのも、二人には秘密で主を選んでいたことも、隠れて見えなかった嫉妬をいつか二人に向けてしまうのが怖かったから。
全部全部、自分のため。
護身術で弱い自分を守りたくて、笑顔の下に臆病で醜い自分を隠したかった。
「千里、叩くで」
「はっ?」
またも突然すぎる平手があたしを襲って、気持ちのいい音をたてる。
ていうか、結構本気だったみたいであたしはその場で尻もちまでついた。
「千里、痛いやろ?」
何で人張ったおしてドヤ顔してるかなぁ! この鬼神様は!!
「突然平手されれば、そりゃね!」
「痛いんなら、泣けや。
どうせ、今の状況でこんなとこ見張っとるあほはおらん。
見られてても、ウチと千里の口喧嘩なんて珍しないしなぁ」
このぶきっちょ大酒のみ鬼神め! でも、あたしを舐めんなよ!
「霞ー、あたしの性格知ってるよね?」
「ん?」
「やられたら、やり返すのがあたしなの!」
油断しきった霞の脛を思いっきり蹴り体勢を崩し、あたしは霞がさっきしてくれたようにドヤ顔で立ってやった。
「ははっ、そやったなぁ!
ホンマ、武器も無しにウチを地につけるんは千里ぐらいやで」
「あーぁ、もう。
霞の性で目に塵が入っちゃって、涙出てきたじゃん。どうしてくれんの。なかなか取れないし」
そう、これは塵の性。土埃が入ったせいで、涙が止まらない。
友達と戦うことも、こんなあたしの真っ黒な部分を受け入れてもらえたことが嬉しいわけでもない。
ただ、目が痛いだけ。
「まっ、どうせ召集まで時間かかるんや。ゆっくり取りやー」
そう言いながらなんてこともないように立ち上がって関へと戻っていく霞を見送って、あたしは誰もいないそこへ呟いた。
「見つけたよ、先生。
あたしの、生涯の親友って奴をさ」
現実離れしたあの場所から今も大陸を楽しげに見守っているだろうあの人へ向けて、あたしは笑って見せた。
「いや、正しくは違うかな?