「ふぅ・・・・
これでこの一件はどうにかなりそうですかね」
そう溜息を吐きながら僕は一人、洛陽の城にある自分の部屋へと歩いていました。
現在、この城には月さんと詠さん、そしてお二人が信頼を置くごく少数の女官しか残っていません。
「まぁそれも、今日で減るといいんですがね・・・」
脇に抱えた書簡を開けば、そこに書いてあるのは千里さんや恋さんが虎牢関を旅立ってから根気よく行った説得の成果であり、現在の民の避難状況が事細かに明記されています。
軍師は戦の先を読むことが責務であり、常識。
が、本来は勝つということに向けられる筈のその知識を、お二人は関に兵を出陣させる前からこの洛陽ですら戦渦に巻き込まれることを想定し、こちらが負けることを前提にして策を進めている。
『もし仮に勝つことが出来ても、民の避難は無駄にはならないしね』
『・・・そう、ね』
笑いながら言う千里さんとどこか難しい表情のまま頷く詠さんは対照的で、その後千里さんが詠さんの眉間を指差して笑い、追いかけっこをしながら去って行ったのは記憶に新しいです。
泗水関、虎牢関の配備についてはあとから知りましたが、新参である僕から見ても妥当であり、素晴らしい布陣だと思います。
ですが、千里さん。一つだけ言わせてください。
どうして新参の僕に、民の説得なんてさせたんですか?!
どう考えても、もっと適役が居たでしょう?!
いや、城に勤めている古参の方々を説得できるのが詠さんくらいしかいないことも、千里さんしか霞さんの手綱を握れないことも、恋さんの傍をあの二人が意地でも離れないことはわかりますよ?
ですがね、新参且つ女装を強制されている僕が説得とか・・・
「普通に出来ちゃったんですけどねー・・・」
女装していることがばれるどころか、城下では普通に女性扱いされて
それならばどうして説得に時間がかかったか、それはそう難しい理由ではありません。
霊帝様が治め、月さんが善政を敷き、十常侍の行動は民への直接の被害になることはならなかったこの洛陽を。自分たちの暮らしてきた街を離れたくないという民たちの、切実なる思いでした。
「まぁそれでも・・・ 全員が全員応じてくれたわけではないのですがね・・・」
説得には多くの方が応じてくれましたが、全員というわけではありませんでした。
最高とは言えない結果で終わった僕の説得。そして、千里さんはそれを見越したうえでこの説得に期間を設けたのでしょう。
「はぁ・・・」
仕方ないこととはいえ溜息を零しつつ、僕は疲れ切った体を休めるために自室へと入りました。
そして僕がこの洛陽において唯一男物の服を着ることを許されている寝間着へと着替えようと衣服の籠へと手を伸ばし、いつも通り服を広げて確認しようと目を開くと・・・
そこにあったのは、わずかな風にも揺れるほど薄い布で作られた衣服。
襟や肩、裾などのあちこち可愛らしい花の飾りが施され、胸元で結ばれた飾り紐がとても可愛らしい。
色合いは僕の瞳の色に合わせただろう新緑、そして腰の辺りには取り外し可能の幅のある赤い紐がつけられ、色合いの調和も素晴らしい。
そうそれは、以前あの助平夫婦により考案されたあの『ねぐりじぇ』でした。
ドウシテ、コレガ、ココニ、アルンデスカ?
目の前に突然現れた予想外の衣服、そして何故よりにもよって僕の部屋にあるのかがわからず、体も思考も膠着する。
いや、僕がここで働くことが決まった際、千里さんが嬉々としてこれから使うだろう衣服を含めた日用品を女性物で揃えたり、霞さんが僕が持ってきていた男物の衣服を燃やしたり、そりゃいろいろありましたけどね?
流石に寝間着ぐらいは普段の格好がいいだろうからと言って、譲歩してくださっていたんですよ? にもかかわらず、何故ここに女性物の寝間着があるんですか? 都の優秀な女官たちが間違えるのは考えにくいですし・・・
僕がそんな疑問を抱いていると、服の間から何かが音をたてて落ちてきました。
「ん?」
落ちたのは一本の書簡。そして、そこには書かれていた筆跡はこの洛陽にて仕事する面において見ない時がないと言っても過言ではない千里さんのものであり、僕は嫌な予感が感じつつも書簡を拾い上げる。
『最近、洛陽で流行ってるんだって♪
寝間着にどーぞ♪』
「だと思いましたよ! 畜生!!」
想像通りの内容の書簡を壁に叩き付け、僕は叫ぶ。
ていうか! 出発して何日か経ちますよね?!
まさかわざわざ女官に頼んで、僕が疲れて帰ってくるだろうこの日を見越して仕掛けたんですか!? あの人はあぁぁぁーーー!!
ここまで芸が細かいと怒る気が失せる、とか思うでしょう?
むしろここまで細部まで凝っていると、それすら通り越してぶっちぎれるんですよ!!
「樹枝、ちょっといいかしら?」
部屋の前から聞こえた詠さんの声と、軽く壁を叩く音に僕は怒りを忘れて、僕の心境を表すかのように心臓も体も驚きによって飛び跳ねる。
「え、詠さん?!
こ、こここ・・・ こんな時間にどうかしましたか?」
女性がこんな夜分遅くに男の部屋を訪れる。
その意味がわからないほど、僕は樟夏ほど鈍くない。もっとも、兄上ほど開放的でもないですけど。
「話があるから、入るわよ」
「は、はい! どうぞ・・・・」
だから僕は、忘れていた。
自分がついさっきまで誰に怒り、何を持っていたかということを。
「・・・・・あー、邪魔したわね」
「ファッ?! あ、あのこれは違うんです!!」
詠さんの呆れきった表情と言葉によって、僕は自分が一体何を持っていたかを思い出し、咄嗟に隠そうとするが既に遅い。
「あんた、いくら否定しても寝間着まで女物にしたら・・・ ねぇ?」
「だから、違うんです!!」
頭痛を堪えるように額に手を当てる詠さんに僕は弁解しようと必死であり、自然と声は大きくなり、詰め寄ってしまう。
「まぁ、それは冗談だけど。
そんなことよりも・・・・」
「どこが冗談なんですか?!」
詰め寄る僕から微妙に距離をとりつつ、詠さんはうんざりしたような顔をして僕がまだ持ったままのねぐりじぇを指差した。
「だってそれ、千里からの贈り物でしょう?
千里が最近の流行だからって、同じものを僕たち全員に贈ってくれたのよ。
『みんな可愛いんだから、寝間着も可愛いのじゃなきゃね』なんて言って、まったく千里は僕達の何のつもりなのよ・・・」
「なんですって?!
ぜひともその姿を見たいで・・・ ブッ」
ぜひ! ねぐりじぇ姿の詠さんが見たい!!
「何、想像して口走ってんのよ!! この馬鹿!」
おもわず口を飛び出してしまった本音に対し、詠さんからの容赦ない平手を貰ってしまいました。もっとも、今まで殴ってきた方々が方々なので吹っ飛びはしませんし、可愛いものなのですが。
千里さん、僕に贈ったことに関しては物申すところがありますが、詠さん達にも贈ったなどとは・・・
「素晴らしいとしか言いようがありません!」
「僕の話を聞かずに、妄想続けてんじゃない!」
「すみませんでした!」
「まったく・・・
女装してても、仕事をしてる時は多少はましなのに・・・」
顔を赤くして、ブツブツと何やら言葉を続けている詠さん。
しかし、こんな時間に僕に何の用事があったのでしょう?
「って、こんなことしてる場合じゃないわ。
僕と一緒に月の説得を手伝って!」
「説得?
どういうことです?」
「樹枝、一度しか言わないからよく聞きなさい。
虎牢関が落ちたわ」
「!?」
「僕と千里は、泗水関が落ちた時点である約束をしてた。
だけどそれも、民と月を説得できなくて長引いてたの。
そして樹枝、あんたに話すかどうかは僕の判断に任された」
僕の驚きを察して、言葉は端的に選ばれていく。
「そして僕はこの洛陽にいる間を通してみて、あんたを信頼に足る存在だって認めた。
だから樹枝、僕と一緒に月を説得して。
何としてでも、この洛陽から僕達は脱出しなくちゃいけない」
「ですが、仮に脱出出来たとしても・・・」
僕の当然の問いを完全に聞かずに、詠さんは心配無用とでもいうかのように首を振る。
「それもあてがあるから、大丈夫。
千里が『もしもの時のために』って預けたものがあるでしょ。そこに必要なものが入ってる筈よ」
「は、はい!」
僕は慌てて、棚の上に置いておいた千里さんからいただいていた中身のよくわからない籠を開ける。
すると、その荷物の一番上に入っていたのは・・・・
肩から細い紐でつりさげられるような小さな胸当て、
僕の肩幅を隠すためか、付属として肘のあたりまでをすっぽりと隠すような肩掛け。
薄く煌びやかで、動けば音を鳴らすように装飾のついた腰巻。
そして極めつけは、僕の髪色に合わせて揃えたであろう鬘。
「またですか!! 千里さーーーん!」
叫ぶ僕に対し、詠さんが向けてくる同情的な視線がとても痛いです。
ここまで来たら、いっそ笑ってくださいよ・・・・
「そ、それ以外の荷も一応確認しときなさいよ。
まともなものもあるかもしれないじゃない」
「もう一番最初にまともじゃない物が来てますけど、そうしますね・・・」
こぼれ落ちそうになる涙をこらえながら、僕が引き続き荷物を確認していくとそこに入っていたのは旅に必須な保存食料と兄上が随分前に考案した簡易の濾過装置、調理程度には十分使えそうな小刀と数枚の布。
「え・・・ まさか」
そして、洛陽に到着してから取り上げられた僕の得物である『理露凄然』と、兄上が僕と樟夏に贈ってくれた短刀。
あの千里さんが僕に武器を渡した理由。
それは信頼の証とも取れるし、先程の詠さんの話と照らし合わせて出るものは・・・・
「準備、出来たわね。
行くわよ」
「はい」
民の避難が済んだこの洛陽はもう、安全な場所ではないということだった。
詠さんと共に慣れ親しんだ城内を警戒しながら歩いていると、僕はいつもの習慣で腰に差していた短刀を鞘ごと引き抜いて詠さんへと渡しました。
「詠さん、もしもの時のために護身用としてこの短刀を持っていてください」
「えっ・・・ だってこれ、あんたの義兄が贈ってくれた大事な物だからって、最後まで僕達に預けるのだって嫌がってたものじゃない。
そんな大切な物、受け取れないわよ」
「少しの間、お貸しするだけですから。
それに・・・ 女性に怪我なんてさせたら、兄上と叔母上が僕をどうするかわからないので」
「ぷっ・・・ 何よ、それ。
どんな身内よ」
僕が落ち込みながら言えば、詠さんは笑って短刀を受け取ってくれた。
その笑顔がどうしてかもう少し見ていたくなって、僕は言葉を続ける。
「そりゃもう、凄い人達ですよ。
そんな人たちに囲まれていた僕は空を飛びますし、書簡をやるために走り回り、時に同性から告白を受けたり、兄弟からも容赦ない言葉を貰っては言い返したり、毎日ドタバタしていました」
「あんた、どこに居ても同じなのね」
詠さんの言葉に、僕はこちらの暮らしと陳留での暮らしを比べてみる。
確かに、僕が女装している点以外は普段と何も変わらないかもしれません。ですが・・・
「それはもしかしなくても褒めてませんよね?!」
「褒めてるわよ。
あんたがどこでも一言多くて、女装癖だってことがわかったしね」
「だから・・・!」
僕が反論しようとしたところで、詠さんは数歩先に進んで僕へと振り返りました。
「・・・そんなあんただから、僕達は信頼出来たのかもしれないわね」
目元をわずかに緩ませ、口元に弧を描いた詠さんの笑顔という最高のおまけつきで。
「それ、本音と建前を使い分けられない馬鹿だって言ってませんか?」
「そうよ。
あんたは能力があるのに、そういうことが出来ない馬鹿だわ。
・・・けど、それを信じた僕らも同じ馬鹿だもの」
冗談めかしなやり取りをしていると、僕ら以外の足音が近づくことに気づき、僕は静かに棍を構えて、詠さんの前へと立つ。
「僕の背からなるべく離れないでください。
交戦は・・・」
「わかってるわよ」
何も言わずに周囲を囲んでいく者達に、僕は久しぶりに持った得物を軽く振るう。
「さて、頑張りますかね」
が、僕のその様子に囲んだ者達がわずかに動揺しているのがわかった。
まぁ、女官だと思って襲ってきた側からすれば戸惑うでしょうね・・・
「全員、相手は所詮女二人だ。
かかれ!」
僕は叫びたい気持ちをぐっとこらえ、僕はまず五人いる内の一人へと下方から頭めがけて棍を振るい、詠さんの周りを半回転するようにしながら迫っていた者の頭を砕く。
『っ?!』
「どうしましたか?
僕はまだ一動作しかしてませんよ?」
驚く周囲へと僕は冷たく笑うと、視線に怒りが増した気がしますが、正直痛くもかゆくもありません。
この大陸で生きる男が、この程度の殺意や悪意でへこたれるわけがないんですよ。
「守られてる方を狙え!
やれ!!」
今度は三人同時、ですか。
「詠さん!!」
流石に守りきれるかもわからず、おもわず人の目も気にせずに真名を呼んでしまいました。
「・・・はぁ、あんたは僕を舐め過ぎよ」
そう言って先程僕が預けたばかりの短刀を抜き、襲ってくる一人の首元へと迷いもなく突き立てた。
自分が血で濡れるのもかまわずに、その命が絶えるのを待つように動かない。
「詠さん!」
そんな彼女を守るように残っていた二人をあしらって傍に寄ると、詠さんの顔は血塗れだというのに、血をなくしたように白く染まっていた。
「無茶をして・・・」
「わかってるわよ!
洛陽を守ることも、霊帝様をお救いすることも、僕には無理なことだったって!!
でも、それでも・・・! 誰かの命を奪ってでも、守んなきゃいけないものが僕達にはあったのよ!」
首に刺したままの短刀を引き抜き、詠さんの手から離れようとしない短刀ごとその体を包む。
出なければ今の詠さんは、自分を傷つけてしまいそうな危うさがあるように感じられた。
「勅令だったからじゃない! 義務だからじゃない!! 尊い御人だったからじゃない!!!
あの人達を! それを守ることを決めた月を僕は・・・!!」
感情が爆発していく詠さんを抱きしめて、僕はただ優しくその頭を撫でました。
幼い頃、叔母上が僕にしてくれたように。懸命な努力をした者へと、ささやかな労いとして。
「頑張りましたね、詠さん」
「・・・!!」
「だから、もう少しだけ頑張りましょう?
月さんの元へ急がなくちゃいけませんし、それに僕も早く脱出して
いつまでも女官服っていうのはここでは目立ちませんが、そろそろ解放されたいですし。
「最後が余計なのよ・・・ 馬鹿」
そう言いながらも僕の服に縋るように握る詠さんを、僕は改めて守りたいと思いました。
「緊急時における不純同性交遊禁止、です」
「ぐへっ!
ろ、緑陽?! どうしてここに・・・ っていうか、千里さんまで?!」
そう言いながら僕の頭上へと飛び降りてきた白装束の緑の仮面をかぶった緑陽に潰され、すぐさま怒鳴り返そうと立ち上がると何故かその脇には千里さんが軽々と抱えられていました。
が、千里さんは僕を見ずに詠さんの方を抱きしめて、何やら話しているようでした。
「お久しぶりですね、樹枝殿。
女官服が大変お似合いですが、この緊急時において何故あなた様は女性を抱きしめておられるのでしょうか?
それとも女装をしながら女性を楽しむという、深い趣味にでもお目覚めに?」
「違います!
これはその・・・」
「男が言い訳しない」
「こんな時だけ男扱いですか?!」
淡々とした口調でもっともなことと理不尽なことを同時に言われ、僕が反論しようと口を開くとすぐさま言葉を斬って捨てられる。
「ていうか、どうしてあなたがここに居るんです?!」
「詳細は省きますが、虎牢関交戦時においていろいろありまして、現在は冬雲様のご指示の元、千里殿へと協力しています。
また冬雲様のお耳にも樹枝殿が洛陽にて女装していることが伝わったことを、ここにご報告いたします」
淡々と事実を告げていく緑陽ですが、何故か余計なことまで僕に伝えてくるのは絶対にわざとですよね?!
ていうか! 絶対広めたのあなたでしょう?! そして兄上が知っているということは・・・・
嫌な予感が脳裏をよぎり、緑陽をちらりと見れば、こちらへと無言で親指を立ててきました。仮面の向こう側で、さぞやあなたは清々しく笑っているんでしょうねぇ!!
「さて、緑陽ちゃん。
そっちはもういーい?」
「はい、しっかりいじ・・・ 叱っておきましたので、問題はございません。
千里殿もよろしいですか?」
「うん、だいじょうぶだよー。
それにあたしは・・・ もう一人叱らなきゃいけない子がいるから」
そんな千里さんの後ろには詠さんが居て、少しだけ目元を赤くしていました。
「さっ、行こ。
急がないと連合が来ちゃうからね」
一切の疲労を感じさせることもなく、千里さんは三つ編みを揺らしながら僕らの前へと歩き出しました。
四人で城のあちこちを丁寧に見て回りつつも、詠さんは月さんが一体どこに居るのかをわかっているかのように自然と足を玉座へと向けていました。
「月!!」
「詠、待ちなって!」
駆け出す詠さんを追う千里さん、当然後ろを歩いていた僕らも駆け出していきます。
玉座に近づくにつれ駆け足になっていた詠さんが扉を壊してしまいそうな勢いで入っていき、それに続いた僕達が見たものは血に汚れ、床だけではなく壁すらも真っ赤に染まった玉座でした。
「あー・・・ やっぱり」
千里さんの言葉も耳に入らず、僕はただその光景に言葉を失いました。
死体の全ては一刀のもとに首を駆られ、飛ばされている首は恐怖に彩られるか、呆気にとられた表情のまま冷たくなっている。
そうそれはまるで、黄巾の乱で見た怒りに触れた兄上のように容赦のないもの。
「やっぱりって・・・ どういうことですか? 千里さん」
「ねぇ、攸ちゃん。
涼州がどんな地方なのか、知ってる?」
千里さんの言葉を聞きながら僕は恐る恐る詠さんが駆けて行った死体の中央へと視線を向けると、そこにいたのはいつもの衣装で血に塗れた月さんを抱きしめる詠さんの姿。
「確かに五胡から漢を守ってるのは英雄・馬騰だけど、五胡から攻められるという脅威にさらされてるのは西涼だけじゃない。涼州全土に言えたこと。
そして月はね、その涼州の出身であり、洛陽に来る前はそこを治めていた。
その意味を多くの人は仁徳によって成し遂げたととらえるし、それも間違ってないよ」
千里さんは一歩ずつ前へと出ながら、緑陽へと周囲の警戒をお願いしています。
「けどさ、あんな辺境で力も何も備わってない子が一番上に立てると思う?」
千里さんが指差した先にいる月さんの手には無骨で刃先の四角い実用的な鉈が握られ、月さんは詠さんに抱きしめられながら、ただぼんやりと立っていました。
「あの子は、鉈という武器において最強。
そして辺境故に噂は広まらず、鉈以外の武器はからっきしなの」
「あぁ、特定の得物が得意な人っていますよね」
実際、叔母上も鞭は使えますが、他の物はからっきしですし。
説明はそれで終わりだとでも言うように千里さんは月さんの傍に近づき、迷うこともなく、手を振り上げました。
「「
突然のことに僕と詠さんが驚きの声をあげますが、千里さんはそれをかまうこともなく、月さんを見つめていました。
「月、何してんの?」
それは、いつもの千里さんからは想像できない冷たい声でした。
「千里、さん・・・? どうしてここに?」
「あたしは逃げろって言ったよね?
泗水関が落ちたら、そうする約束だったでしょ?」
僕達が入ってきたことにも気づかなかったのか、彼女の目はようやく千里さんをとらえました。
「私は・・・ いいえ、『魔王董卓』はこの乱を終わらせるために死ななければなりません。
だから私は、逃げません」
「もう乱は起きた。そして、一度起きた乱は全てを壊し尽くすまで止まらない。
君主の命一つで終わるなら、それまでの多くの命は何のために消えたの?
守るためでしょ? 抗うためでしょう!?
なら、最後までみっともなく、誰が死んでも生き残るのが君主の務めでしょうが!!」
「わかっています。
ですが私は、霊帝様から任されたこの洛陽を守ることも、連合を止めることも出来ず、多くの方が洛陽を守ろうとして散っていきました。董卓が死なない限りこの乱は続き、このままでは多くの無辜の命が消え続けてしまいます。
この責任を取るためには、私が命を持って贖うしかないんです」
怒鳴る千里さんに対し、月さんはとても静かで、まるで全てを受け入れてしまっているようだった。
零れる言葉は重く、多くの責任に雁字搦めとなった月さんを救うことは僕には出来ない。彼女の背負った多くを理解することも、代わりに背負うことも、力不足にしか感じられない。
兄上・・・ あなたなら、彼女を救えるのでしょうか?
脳裏にふとよぎった考えに、隣に居た緑陽が扉の方へと視線を向けていました。
「緑陽、まさか襲撃でも・・・」
「いいえ、違います」
僕の問いを緑陽はすぐさま否定し、むしろその警戒を解いていました。
「黄巾の乱でもですが、どうやら英雄とは遅れてやってくるそうですね」
「はっ?」
言葉の意味がわからずに、僕はただ近づいてきている足音へと警戒していると扉が文字通り粉砕されながら二人の人影が姿を現した。
「千里ー、無事かいな?」
「約束通り、助力する!」
その人は、僕が今まさに想像していた兄上本人だった。