社会に忙殺され生きる気力も尽きかけていた男は、ある日の帰り道で不思議な体験をする。

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銀河の星屑

 僕は死ぬほど疲れていた。

 真夜中の歩道を、フラフラとおぼつかない足取りで歩く。車通りもすでにほとんどなく、夜道は等間隔に並んだ街灯の、ほの暗い明かりで照らされている。大通りから外れた夜のシャッター街は、まるで廃墟のような寂しさがあった。

 今の自分にはお似合いだろうな、とニヒルな笑いを浮かべる。

 会社に忙殺されるしがないサラリーマン。

 僕という人間を表すならば、その一文だけで十分だ。なんと面白味の無いことか。僕自身、面白いなどと思えたことは、ここ最近の記憶にはない。

 楽しいことを考えようとすれば、賑やかな学校で、または温かな家庭で過ごした幼少の頃の思い出が、断片的に頭のなかを過るだけである。まるで心の喜びに繋がる所に、シャッターが降りているような。そんな不健康な想像をしてしまう。

 一人で暗い路地を歩いていると、自分が世界中でたった一人ぼっちになってしまった感覚がして、背筋に走った悪寒に体を強張らせる。

 しかしそんなことも、すぐにどうでもよくなる。

 僕はただひたすらに、疲れていた。憧憬も孤独も、泥のような倦怠感に包まれ、埋もれてしまうのだ。そんな毎日が何年も続いている。

 仕事のこと、人付き合いのこと、保険や、面倒な諸々の手続きのこと。もう、うんざりだった。

 かつて食事処だったり、喫茶店であったり、洋服屋や宝飾店であった場所を通り過ぎて行く。

 近道なので仕方なく通っているが、この場所が好きでない僕は、怠い体に鞭を打って早く抜け出ようとした。

 

 

 

 もう少しで通りを抜ける。その時だった。

 俯き歩く僕の鼻腔に、香ばしい匂いが漂ってきた。それは職場でも嗅ぎ慣れた、コーヒーの匂いだった。

 一瞬、錯覚かと思った。なにせただでさえ人の気のない通りで、それも丑三つ時を回ろうかという時間に、ひどく場違いな香りだったからだ。

 顔を上げた僕は、右手側から来る光に目を細めて、そして目を見張った。

 うらびれたシャッター街。時代の潮流に負けてすっかり錆び付いたその場所に、ポツンと一つ、小さな喫茶店が建っていた。

 我が目を疑う。何度もまぶたを擦って、小じんまりとしたレンガ造りの建物と、そこから漏れ出ている灯りが、本物であることを確かめた。

 次に僕は自分の頭を疑った。僕の記憶の限りでは、こんな所に、こんな喫茶店などなかった。新しく出来たにせよ、あまりにも突然すぎる。薬で無理矢理誤魔化してきた脳みそに、ついにガタが来たのかと思った。

 だがどうにも、これは現実のことのようだった。

 喫茶店に近付き、そのヘンテコさに首を傾げる。

 こんな真夜中にやっているだけでも十分に変だが、この喫茶店には、店名らしきものがなかった。一見お断りとか、隠れ家的とかそういう類いかとも思ったが、扉の上部に『Welcome 』と書かれた木の看板がぶら下げてあるし、何よりやっぱり、どう考えても真夜中の無人通りに佇む飲食店は異質の存在だった。

 炎を燃やしているような暖かな灯りを届けている窓の向こうを覗こうとする。しかし曇りガラスなのか、店内の様子はサッパリ見えない。

 香るコーヒーの匂いで喫茶店だろうということは分かるが、それ以外は推測のしようもなかった。

 

 僕はしばらくの間、入ろうか悩んでいた。

 この店の存在は、惰性で生きているような僕から見て、結構なイレギュラーだった。錆び付いた好奇心が刺激されている。有り体に言えば、ワクワクしていた。

 草木も眠る真夜中のカフェ。まるで絵本の世界のようなメルヘンとロマンに満ちた響きがある。古びた頑丈そうな木の扉も、ツタが絡まった赤レンガの壁も、煙を吐き出す煙突も、何から何まで素敵に見える。

 生唾を飲み込んで、真鍮のドアノブに手をかける。ヒヤリとした冷たい感触も夢の中のことのように感じる。

 僕は導かれるかのごとく、ゆっくりと、店の扉を開いた。

 

 

 

 店内は、外観からの期待を裏切らない、異国情緒で満たされていた。

 仄かに暗い照明と、その光を補うように揺れる、壁に吊るされた蝋燭の火。

 樹をそのまま切り出したんじゃないかという丸テーブルが三つ並んで、各々が猫の刺繍をあしらったテーブルクロスでめかしこまれている。

 店内の隅々を飾る調度品も素晴らしい。振り子時計が一定の音を刻み、重厚な印象を受ける木製の棚の上には様々なガラス細工が置かれていて、それらが蝋燭の光を受けて、何とも言えない美しい色合いを出している。

 そして全体を包み込む、コーヒーの香り。

 まるで日常から切り離され、ここのみで世界が完成されている錯覚に陥るほどの、楽園のような空間だった。

 ここが色褪せたシャッター街だということも、今が深夜であることも、自分が死にたくなるほど疲れていることさえ忘れて、僕は店内の様子を呆然と眺めていた。

 

  「いらっしゃいませ」

 

 店の奥から聞こえた声に、半ば夢心地だった気分が引き戻される。

 カウンター越しに、一人の男性が立っていた。白髪混じりの黒髪を後ろに撫で付け、バーテン服と口元の髭が理想的に合っている、初老の男。一目でここのマスターなんだと分かった。

 

 「どうぞ、こちらへ」

 

 穏和な微笑みを浮かべるマスターに促されて、カウンターの一席に座る。さすがに深夜なだけあって、客は僕以外に一人もいない。

 オープンになっているキッチンはパッと見でも、とても清潔に使っていることが分かった。

 染み一つ無い壁にぶら下がっている銅製のフライパンや小鍋。ガラスの戸付きの棚の奥で、整然と並んでいる酒の瓶。飲み会で飲兵衛どもの話を聞くうちに僕も酒にはそれなりに詳しくなったつもりだが、知らないものがその内の半数はあるようだった。さらには棚の上段に、記憶の限りでは何十万とするウィスキーが見えて、目眩を覚える。

 カフェというよりはイタリアのバル──食堂やカフェと飲み屋が合わさった、大衆向けの飲食店──と言う方が正しいようだ。

 おしぼりが出される。そしてその横にはお冷や、ではなく。

 

 「どうぞ」

 

 マスターが僕の前に、ソーサーに乗ったカップを恭しく置いた。覗くとコーヒーが湯気を立てていた。さっきまで蒸らしていたものらしい。

 

 「あ、あの、頼んでません、が」

 

 突然のことにぎこちなくそう言った僕に、マスターは変わらない笑顔で答えた。

 

 「サービスの一杯です。遅くまで、お疲れ様です」

 

 そんなことってあるのか。

 入る前から非現実に期待してはいたが、他の店では聞いたこともないようなサービスに、狐に鼻をつままれた気分になる。

 だが、労われたことは素直に嬉しかった。心のこもった『お疲れ様』を言われたのは、ひょっとして初めてではなかろうか。

 マスターの顔と、カップの中のコーヒーに視線を行き来させ、冷めない内にありがたくいただくことにした。

 一口啜る。熱い。そしてうまい。

 濃い香りから想像していたのとは真逆の、アメリカンのように薄めのコーヒーだ。

 いつも脳みそにガツンと来るくらいには濃いコーヒーを飲む僕にとってしてみれば一瞬、薄すぎるようにも感じたが、爽やかな酸味と飲みやすい苦味が喉をスッと通って気持ちが良かった。

 デスクにかじりつきっぱなしで喫茶店なんて縁がほとんど無い僕だが、この一杯が素晴らしく、高級店のものにも比毛をとらないだろうということは察しがつく。

 本当にこれが単なるサービス品なのか。

 そんな風に考えながらちびちび飲んでいたら、あっという間にコーヒーを飲みきってしまった。なんだか口寂しいというか、勿体ない気がする。

 いや、そもそも何の注文もせずにサービスの一杯を夢中で飲み干したことが恥ずかしくなってきた。

 さて何を頼もうか。そう思ったとき、少し困ったことに気付いた。

 

 「あの、すみません」

 

 僕はドリッパーの片付けをしているマスターに呼び掛ける。

 

 「メニューを見たいんですけど」

 

 店のどこを見ても、よくあるパンフレット型のものも、黒板などに書かれているようなメニュー表もなかった。

 マスターは作業の手を止めて、にこやかに言った。

 

 「当店では、お客様のご希望のものを提供させていただいています。お好きなものを、ご注文ください」

 

 僕は内心、そら来た、と思った。もしかしてとは思っていたが、期待通りの答えに満足する。

 そんなテレビでしか見たことがないようなサービスを受けられるなんて。

 そして僕は、高揚感に後押しされて、平素なら決して頼まないような注文をした。

 

 「じゃあ、それ。そのぶら下がっているやつがあるでしょう」

 

 僕が指差したのは、キッチンの隅で天井から吊り下げてある、肉の塊だった。たぶんベーコン。それもマスターのお手製だろう。

 

 「それでサンドイッチを作ってくれませんか。パンは温めた固めのフランスパン、とれたてのレタスとトマトを挟んで、溶かしたバターとハニーマスタードのソースを付けてください。ああ、他にもルッコラなんかも欲しいですね」

 

 そこまで言い切って、自分は何とも口やかましく無茶な注文をしたのかと後悔した。

 僕は社会人だ。一見客がやっていい範疇など、知っているはずなのに。

 悪意はなかったつもりだ。ただ店の雰囲気に舞い上がり、童心に返ったような気持ちでつい、言ってしまったのだ。

 しかし、マスターはまるで動揺も困惑もなく、

 

 「かしこまりました」

 

 と、一も二もなく快諾してくれた。

 面食らう僕の前で、マスターが調理を始める。

 木の棚から短くもこんがり綺麗な焼き色のパンを取りだし、ホットサンド用の器具で軽く押し付けながら火にかける。吊るしていたベーコンの塊から三枚ほど薄くスライスされ、これもパンとは別に焼く。手でちぎったレタスと厚く切られたトマトはついさっきまで畑に植わっていたかのように瑞々しい。ルッコラもちゃんと用意されている。温める程度に焼いたパンを半分に切って、僕の希望通りバターとハニーマスタードソースがまんべんなく塗られる。

 そして野菜とベーコンを、オリーブオイルと岩塩と粗挽きの胡椒を散らして挟み、食べやすいようにカットされて、僕の前に白い皿に乗せて出された。

 圧巻の一言に尽きる。

 僅か1、2分だったと思う。流れるような手際の良さに見惚れている内に出来上がってしまった。

 

 「どうぞ」

 

 見るからに美味しそうなホットサンド。僕は手を合わせてかぶりついた。

 

 「美味しい。とても美味しいです」

 

 思わずそう言っていた。昔から引っ込み思案で、大人になっても人と距離を置いてしまう僕が、手放しで誉めずにはいられなかった。

 

 「ありがとうございます」

 

 マスターは変わらない笑顔で、物腰柔らかにお辞儀する。

 

 「いや、本当に美味しいです、これ」

 

 「お客様がお考えになったレシピですよ」

 

 そう言われると少し晴れがましい。

 

 「いつもこんな風に客の注文を聞いているんですよね」

 

 僕が感心して言う。

 

 「えっと、何て言ったらいいかな。僕ね、子供の頃からこんな感じの店に憧れていました。大人になったら料理人になってやる、何て思っていたこともあって」

 

 「左様ですか。お客様は見たところ、会社にお勤めのようですね」

 

 「ええ、はい。全く、散々ですよ。毎日こんな時間までこき使われるし、薄給だし。ストレスのせいで薬を飲んでいないとやっていられなくて」

 

 それにね、と僕は続ける。

 

 「認知症になってしまった母を良い施設に預けるためにも、どうしても辞められませんし」

 

 あれ、どうしてこんなことまで喋っているんだろう。誰にも、酔ったって、こんな愚痴はこぼさないのに。

 僕がそう疑問に感じたその時、背後から、店のドアベルが鳴る音が聞こえた。

 お客が来たことを告げる、軽快で澄んだ音。

 まさかこんな真夜中に、僕以外に客が来るなんて思ってもみなかった。親近感を覚えると同時に、非日常が薄れてしまった気がして少しガッカリしてしまう。

 失礼だろうか。いや、心の中に留めておく分にはいいはずだろう。

 

 いらっしゃいませ、とマスターが言ったあとに、その客が僕から一つ席を開けた所に座る。

 どんな奇妙な人か気になって、盗み見るようにチラリと横目を向け、そして僕は驚きに目を見開いた。

 丸椅子のカウンター席に座っていたのは、なんと猫だった。足音がほとんど聞こえないとは思ったがさすがに予想外だった。

 白のなかに斑模様に灰色が混じった、美しい毛並み。かなり大きいが顔つきはなかなか端整で、鋭い目付きが貫禄を感じさせる。首には小さな鈴がついた赤い首輪をはめていた。

 ここの飼い猫かな。

 冷静になった頭で妥当な考えを浮かべる。しかしマスターはそれを裏切るかのごとく、

 

 「こちら、サービスになります」

 

 猫に恭しくミルクを注いだ皿を差し出した。

 僕は絶句した。

 まさかそんな、猫の客だって。

 この店でもう何度目かになる衝撃の中でも、飛び抜けて度肝を抜かれた。

 

 「失礼します」

 

 いつの間にこっち側に移動したのか、マスターは椅子の高さを猫がカウンターテーブルで食事をしやすいところまで上げる。

 言葉にならずまじまじと見つめる僕に一向に構う様子もなく、猫はひたすらにミルクを舐め始める。これが驚くほど器用で、テーブルに飛び散らせることはなく、ぴちゃぴちゃと舐めて飲む音も静かだ。人間でも人によってはここまで行儀よくはできないだろうと思わさせられる。

 静かな割に一滴も残さず、あっという間にミルクを飲み切った猫は、顔を上げてマスターを見た。

 

 「にゃあ」

 

 と一声。

 

 「かしこまりました」

 

 まるで淀むことなくそう言ったマスターに、もう何度目かも分からない衝撃を受ける。

 なんだ今のは。猫語ってやつか。マスターは猫の言葉が分かるのか。

 非日常感もここまでくると目眩を覚える。僕は本当に幻覚を見ているんじゃなかろうかとさえ思ってしまう。

 そんなことを考えているうちに、猫の前に一つの皿が置かれた。

 

 「どうぞ」

 

 マスターが作ったそれはなんと、どこからどう見ても猫まんまだった。麦が混じった白飯に鰹節と醤油をかけただけの、素朴でなんの変鉄もない猫まんま。鰹節が蒸気で揺れていないのは、人肌の温かさに調節されているからか。

 この店の雰囲気にはおよそ似つかわしくないそれを、猫はうまそうに食べる。相変わらず上品だがミルクの時よりがっついているというか、一心不乱といった様子だった。

 実に、実にうまそうに食べる。

 そんな猫を見ていたら僕も何だかお腹が空いてきて、現実とのギャップなんて気にならなくなり、食べかけのホットサンドに再びかぶりついた。

 

 

 

 僕と猫がそれぞれの食事を食べきったのはほぼ同時だった。

 本当に満足のいく食事だった。軽食だけれど安らぐと言うか、心が満たされた気分になった。

 

 「にゃ」

 

 米の一粒まできれいに舐め取った猫は、短く鳴いた。

 

 「お勘定ですね」

 

 マスターが、相も変わらず穏和な微笑みで言う。僕も慣れたのか、感覚が麻痺したのか、もうこれっぽっちも驚かない。

 猫は、カウンターの上にのそりと上がり、目を閉じ、顔を少し上向けて、差し出すように首元をマスターに見せた。

 マスターは感慨深そうに目を細めて、猫の首輪に付いている鈴に、そっと触れた。

 どうやったのか、鈴は音もなく外れ、マスターの手の平に落ちた。あの色がくすんだ小さい鈴が、代金ということか。

 

 「確かに、いただきました。ありがとうございます」

 

 挨拶をするように喉をゴロゴロ鳴らし、猫はその大きい身体の体重を感じさせない身軽さで、椅子から飛び降りた。

 と、思ったら着地に失敗した。

 

 「あっ」

 

 咄嗟に助けようとして屈んだが、猫は自分の力で立ち上がると、何もなかったように歩き出す。その後ろ姿を見つめていると、猫が少しだけ、右半身を引きずるようにして歩いているのが分かった。怪我か病気か。貫禄があると感じたのは、あの猫がもう寿命だからなのかもしれない。

 猫が近付くと、扉は音もなく独りでに開き、猫を現実へといざなっていった。閉じた扉には、猫や犬なんかが出入りするための小窓は付いていなかった。

 僕はもう、驚かない。その代わりに暖かくもどこか切ない気持ちになった。あの猫の行く末を想うと、言い様のない慈しみが心の底から湧いてくるようだった。

 

 「マスター」

 

 「はい」

 

 「コーヒーのお代わりをください。今度はとびきり濃いやつを」

 

 「かしこまりました」

 

 新しいコーヒーの香りが、また店内に立ち込める。最初とは違い、深いローストの芳ばしさが特徴的だ。

 しばらくして出されたコーヒーは一杯目よりも黒色が鮮明で、見るからに濃そうだった。カップは年季が入ってそうなマグカップで、ソーサーには乗せず直にテーブルに置かれた。

 僕はそれを啜り、匂いも味もいっぺんに味わった。

 うん。良い。良い香りだ。苦味も濃く出ていて、僕が期待した通りの味だった。

 

 「コーヒーに、何か思い入れがあるのですね」

 

 マスターが確信めいたような口調で僕にそう言った。

 別に隠すようなことでもないと思い、コーヒーを堪能しながら僕は答えた。

 

 「はい。母がね、よく淹れてくれたんですよ。真っ黒い豆を買ってきて、それを小さなミルで挽くのを、僕も手伝ったりしてました」

 

 母さん。

 僕は懐かしいコーヒーと共に、母のことを鮮烈に思い出していた。

 コーヒーが好きだった母さん。

 母さんが淹れるのはいつも濃すぎて、僕が小学生の時は砂糖とミルクを大量に入れて飲んでいたっけ。中学に上がってからはブラックで飲むのが普通になってきていて、家に遊びに来た友達にはそれで『背伸びしている』とか言ってからかわれた。後々そいつらもコーヒーにはまったのは、今思えば微笑ましい。高校を卒業するまで僕が淹れることもあったが、何故か母さんと同じ味になったことはなかった。その時いた彼女は僕の方が美味いって言ってくれたけど、僕は母さんのコーヒーが一番だと思っていた。

 大学生になって寮に入り、そのまま社会人になって、実家とはだんだん距離が離れていった。そしてコーヒーの記憶も忙しさの中に薄れていって、僕の中には濃いめのコーヒーが好きだという感覚だけが残った。

 インスタントでも何でも、濃いのをストレスと一緒に一気に流し込むようになっていたのだった。

 

 そんな僕が今、こうして懐かしのコーヒーを飲んでいる。そのことが堪らなく嬉しくて、寂しかった。この何年も凍てついていた感情が、コーヒーの熱に溶かされるような気分だ。

 

 「ごちそうさま。美味しかったです」

 

 最後の一滴も飲み干して、僕は心からのお礼をマスターに述べた。

 素晴らしい気分で、これで前に向かっていける、そんな気がしていた。

 

 「会計を......」

 

 言いながら鞄に手を突っ込み財布を取り出そうとする僕を、マスターの穏やかな声が止めた。

 

 「申し訳ありませんが、お金は受け取れません」

 

 マスターは変わらずの微笑みで僕にそう言った。

 僕は先ほどの、鈴を支払った猫を思い浮かべる。

 

 「じゃあ何を、お支払いすればいいですか」

 

 「あなたの胸ポケットに入っているもの.....その一枚をお譲りいただければ幸いです」

 

 どういうことだろう。

 言われるままに、くたびれたスーツの左胸のポケットを探ってみると、四つに折られた古ぼけた紙があった。

 こんなものをいれていたかな。

 覚えがないそれを広げて見て、僕は息を飲んだ。

 それは写真だった。家の台所を背景にして並ぶ、二人の親子が写った写真。

 母親が息子に、マグカップを渡している。中学生くらいの男の子は、その写真の中で幸せそうに、少し不揃いの歯をみせて笑っている。

 いつの頃からか、すっかり忘れていたものが、今僕の手の中に納まっていた。

 

 「......どうぞ」

 

 「確かに、いただきました」

 

 なんでこんなものがスーツのポケットに入っていたのか、とんと記憶になかったが、僕は快くこれをマスターに支払うことにした。

 徹頭徹尾、不思議な店だったが、僕の心を穏やかに晴れ渡らせてくれた。それだけで、十分だった。

 

 「ありがとうございました」

 

 玄関に向かって歩き出した僕へ、マスターが一礼する。

 

 「こちらこそ、ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」

 

 振り返って返事をし、木製の扉を押し開ける。

 まだ深夜で、外は依然として真っ暗だ。忘れていたが、ここはうら寂しいシャッター街の一角であった。人気のない通りに、切れかけの街灯が明滅している。

 しかし当の僕は、明るい気持ちだった。店の温かさも、控えめな灯りも、コーヒーの香りも、そのどれもがしっかり心の中に焼き付いている。

 

 通りを抜け、いくつかの交差点を渡り、マンションの錆びかけた階段を登りながら、今までのことを思う。

 どうしようもなく苦しかったあらゆることが、どこか遠い、地球から見た星々のように小さな、大昔の悩みにしか思えない。

 マンションの自室の鍵を開けて、押し入れから狭い部屋の中へ布団を引っ張り出す。

 眠かった。カフェインなんて全く摂っていないみたいに、強烈な睡魔が僕を包んでいる。いつもは布団を敷くことすら億劫で、ソファーに横になって仮眠のように寝ていたが、今夜はぐっすりと眠りたい気分だった。

 きっと良い夢を見られる。そう思い、寝巻きに着替えて布団に潜り込む。

 今度休みが取れたら、久しぶりに母さんの所にでも行こうかな。土産話もできたことだし。

 そんなことを考えながら、僕の意識は次第に遠退いていった。久しぶりだった。本当に長らく忘れていた、安心に満たされる感覚。

 

 深く濃い、安らかな眠りがやってきた。

 

 




タイトルは、これを書き終わってから「あ、これ桑田さんのあの曲に被るなあ」などと勝手に思い、付けたものです。



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