前をゆっくりと流している天龍のスカイラインのテールランプを眺め、雪に足をとられておっかなびっくりといった様子の彼女に、加賀ははにかむ。
2月の上旬のこの峠は、年間を通して一番走りづらい路面状況だった。道のセンターライン付近は路面が見えているが、壁とガードレールのある両端は雪が多く残っている。ドリフトしようだなんて思わなくても、FR車なら簡単にリアが暴れるようなコンディションだ。
そんな悪路に苦戦する天龍を微笑ましく見守りつつも、加賀も何度か変な方向に振られるFCを、ハンドルをこじって道に戻していたときだった。
自分の車のダッシュボードが明るい光に包まれ、何だ? とバックミラーに視線を移した。そしてすぐに察する。さっき上で出会った車が追い付いて来ていたのだ。
「…………ッ」
そこまで絡んでくるつもりなら……少し付き合おうじゃない。
小さく舌打ちをして、前の天龍にパッシング。相手は察してくれたようで、対向車線に逸れて進路を譲ったスカイラインの横を、FCと、それを追い掛けて銀色のスポーツカーが追い越していく。
チュンッ、ヒュルルン! といった鳥のさえずりを鋭くしたような独特な機械の駆動音を加賀は耳にした。
間違いない。ターボチャージャーのバックタービンの音だ。つい最近に自分の車にも搭載した機械と同じ音を出している背後の車に、加賀は考える。
4に入れていたギアを2速に入れ直して車をフル加速の体勢にし、速めにブレーキングに入る。出来る限りで一番速い50キロ台のスピードでコーナーを抜ける。だが相手のほうが上手なのか、直線で差が開いていたのが、曲がり角でアドバンテージは無くなってしまった。しかも加速勝負なら勝てるかと思ったが、立ち上がりでも軽く煽られてしまう。
速い。そして何よりも、たぶん間違いなく自分よりも上手い――
後ろからくる小さな銀色の車に、言い様のないプレッシャーを感じ、加賀の背筋と頬を汗が伝う。仕事で海で戦うのとはまた違う緊張感に、彼女は支配された。
いくら夜の峠道とはいっても、交通量がゼロになるとは限らないため、流石にセンターラインを割ってまでして、限界まで攻め込んでスピードを出すのは憚られるので。斜線一本だけを使って今は走っていたが、正直加賀は辛く思っていた。車が大きく感じられたのだ。
使える車線は安全を考えて一本だけ、そしてその道路は半分が雪に覆われているため、自分の車の駆動方式だと直線でも車体が安定しない。初めてのスポーツ走行の恐怖に、峠ならではのネガティブな要素が彼女に襲いかかる。
「…………!」
目の前にガードレールが迫ってくる。彼女は巧から教わった、サイドブレーキを使ってのアンダー殺しを駆使してきつい曲がり角を抜けていく。自分から作り出したオーバーステアで曲がりすぎる車を、カウンターステアで向いた方向を修正し、すぐさまアクセル全開で立ち上がる。
彼女はこれで後ろの車は離れるかと思ったが、予想の真逆で、こちらに追突しそうな勢いのプッシュを見せられて。思わず焦りが生じた。
巧と摩耶によれば、FCの馬力は290を越えていたはず。それに加速で追い付いて来るなんて、一体後ろは何て言う車なのか。彼女の中に興味が芽生える。
一瞬先の道路から見えた光から対向車を察知して速度を落とす。
それをやり過ごすと、すぐにまた加速に入り、キチンとしたグリップ走行でこのおいかけっこに興じるものの。ついに麓に近付くところまで加賀には後ろの女を振り切ることは敵わなかった。
記憶が正しければ、あと少しで展望台の大きなコーナーに入るはず。また対向車が無ければそこで抜かれるか? そんな予想は的中し、背後に居た車は空いていた車線に移り、ピッタリと横に付けながら加賀にブレーキ勝負を挑んできた。
信じられないものを彼女は目にした。
時速100kmオーバーで相手はノーブレーキでカーブに突っ走っていったのだ。そして一瞬、コンマ数秒だけブレーキランプを点灯させ、銀色の車はフロントの向きを変える。
すごい。思わずそんな感想が口から漏れた。銀色の車高が低いコンパクトスポーツカーは、ラリードライバーがやるような4輪ドリフトで華麗に自分を抜き去って行ったのだ。前をいく車の、残像を描くテールランプに思わず見入ってしまう。
そして前に着いたその車は、遊びに付き合ってくれた社交辞令か礼のつもりなのか。ハザードランプを何秒間か点灯させ、2回クラクションを鳴らした後に、道なりに下っていった。我に返った加賀は、負けじと相手を何分か追い掛けたものの、ついに見えなくなるほどまで引き離されてしまう。
あまりジロジロ見ていた訳ではないから解らないけれど。もしかしたら巧よりも上手い人だったのかも知れない。
売店の駐車場で艦娘の島風と名乗った金髪の彼女に。加賀は一緒に走って綺麗にパスされてしまい、そんな感想を抱いた。
夕食がまだだった二人は、峠のドライブを切り上げて愛車に給油を済ませ、ファミリーレストランに立ち寄ることにした。
加賀が注文したパスタに手をつけていると。チャーハンにがっついていた天龍から、初バトルの感想を聞かれる。
「で、どーだったんすか。勝ちました?」
「負けたわ、それも完敗よ。ムキになって抜かれた後も追い掛けたけど、見えなくなっちゃったもの」
「そんなに上手な人だったんですか」
「わからない。私がまだ下手だったからかもしれないし……というか私としては、貴女が着いてこなかった事のほうが意外だったわ」
「へ?」
「貴女見るからに喧嘩っ早そうじゃない。だからアクセル空けてくると思ってたのに」
「いやぁ、納車早々に解体屋送りとか嫌っすから」
「あら、そうなの?」と返事を返しつつ。意外と臆病な性格なんだなと加賀は目の前の女について思う。
振られた話題に連動して、ついさっきに鮮やかにこちらをパスした島風の運転を、映画のフィルムを観るように脳内に描く。他人の運転を見て、憧れというか尊敬の念を抱いたと表現すべきか……加賀は初めての感情を抱いていた。
巧の隣に乗った時にはこんなことは全く感じなかった。自分でハンドルを握った車のガラス越しに、彼女の運転を見れば同じことを私は思うのだろうか?
が、考えても答えは出ないだろうな……。そんなことを思いながら。彼女はフォークで巻いたパスタの塊を口に放り込み。余計な事は忘れようと努めることにしたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「峠でバトル?? あんな狭いところで、しかもお前がか?」
「そんなに不思議なことかしら」
「いや、ただ意外だなって思っただけだけど」
翌日。加賀が、仕事に空きが出来て暇になったのを、CR-Xの整備で時間を潰していた那智に昨日の事を伝えると、そんな態度の反応を返される。
一応近頃は常人並みにルーズな性格に変わってきてはいるものの、どうやら周囲からの「お堅い」イメージは払拭できていないらしい。ほんのちょっぴり寂しく感じながら、加賀は那智に渡されたクリーナー粘土で彼女の車の鉄粉を取りながら続ける。因みに今日は巧、摩耶、天龍は朝の警備に海に出ていたので、鎮守府にいる加賀にとって親密な間柄の人間は那智だけだ。
「楽しかったけれど、思い返せば怖かったわ。なんというか、あんな状況でアクセルが踏めた自分が」
「踏んでると結構スピード出るからな、バイクやクルマってのは。事故とかは気を付けろよ……と言いたいが、一度は経験したほうがいいぞ」
「そんなこと聞いたことがないけれど……」
「そら当たり前だ。教習所が「一度は事故ってみろ!」なんて言えるわけ無いだろ? 2輪も4輪も当てはまるが、どんなに軽くでも事故起こした奴は、よっぽどのヘタクソか阿呆じゃない限り上手くなるよ」
「それ、詳しく教えて貰えないかしら? 那智先生」
「おちょくるなよ気持ち悪い……そうだな、ちっとばかし考えたらすぐわかるよ。事故の経験があると、「限界」が解るからな、それを越えない無茶はやらなくなるからさ」
「限界? 車の性能のこと?」
「あはは、それもあるがな、どっちかといえば「人間の限界」かな。「もっとアクセルを開けたい、だけど踏むと事故っちまう」というのが頭に入ってるから、知らずにセイフティーというかストッパーというか、そういうのが体にかかるんだよ」
「へぇ………」
ペタペタと持っていた粘土を車体に貼り付けては取って、と繰り返しながら、加賀は那智の声に聞き入る。歳は近いが、運転歴が3年も先輩なのだ。言葉に重みがあるような気がして、勉強にならないこととは思えなかった。
「なんでこんな偉そうなことが言えるか教えてやろうか。実はこの車事故車なんだよ」
「え!? 本当に言ってるの?」
「大マジだよ。フロントのフレームなんて修理屋と仲良くハンマーもってぶっ叩いて直したし、エンジンとミッションなんて載せ換えてる。中古車に出したら一番嫌われる奴だね」
「壊したときはもうギャン泣きしたぜ?」 エンジンルームに顔を突っ込み、笑いながら那智は言う。
「フレームまでいっちまったらもう直らないと思うのが一般人だからな。直ると知ったらもう、何でもするし幾らでも金積むから直してくれぇ!って工場長に泣きついてな。そこからだな、車にのめり込んだきっかけは」
「そうだったの……」
「凍った道で調子のって遊んでた時にな。慌ててブレーキ踏んだらロックしちまって、そのまま壁に突っ込んでさ。で、話を戻すけど、そんなことがあったせいでもう変な場所じゃ踏まなくなったね、私は」
「そんなことがね……肝に命じておくわ」
「冬は気を付けたほうがいいぞ特に。注意してても事故るやつが居るぐらいだしな」
「えぇ……ところで貴女さっきから何を弄っているのかしら」
「ただ眺めてるだけだぞ」
「はい?」
たったそれだけなの? と加賀は変な顔になった。その様子を見て、口角を吊り上げた表情で那智はまた説明に移った。
「結構大事なことだよ。部品のサビとか故障とかバッテリーとか、点検しといてマイナスになることはないし」
「ふ~ん」
「それに加えて古い車だしな。見てやって介護してやらんと、何が起こるか……」
「よし。」と一言呟き、那智はドライカーボンの軽いボンネットを、車体に叩き付けるようにして閉める。前に加賀が「扱いが乱暴じゃないか?」と突っ込んだことがあるが、ボンネットの素材が軽すぎるので、こうでもしないと閉まらないらしい。
それから二人がかりでCR-Xのホイールを棒タワシでゴシゴシやっていた時だ。警備の艦娘の入れ換え時間を意味する放送チャイムが鳴り響き、加賀は手首の腕時計を覗く。すっかり雑談と洗車に夢中で気が付かなかったが、針はもう午後3時を指していた。
遅めの朝食でも摂ろうか。隣の彼女の提案に乗り、加賀はひとまず作業を中断して建物に戻っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
すっかり見慣れた洋上迷彩柄の、やたらとゴツゴツと尖ったデザインの艤装と籠手を床に置いて。海上警備から戻った巧はパイプ椅子に腰掛けて、ジャージ姿の艦娘から受け取った水を飲む。
基本的には整備士組として働く彼女だったが、ここ最近は他の艦娘の負担軽減としてヘルプで海に出ることも増えてきていた。さて、今日はどんな理由だったのか。水と一緒に受け取ったタオルで汗を拭きながら、戦果報告係の親友にそれとなく聞いてみた。
「マコリンさ」
「なんだ」
「私が応援で入るって珍しくない? 何かあったの」
「ああそんなこと。長門の代わりにアイツの持ち場の警備やってくれって話だったんだよ」
「そうだったんだ? なんでまたそんなことに?」
「アイツ、インフルエンザだってさ。全身ダルくて痛くて立ってるのも辛いらしいんだと」
「アララ、お大事に……」
見るからにアスリートみたいな筋肉質で、めっちゃくちゃに体が頑丈そうな人だけど、病気には勝てなかったか、なんてことを勝手に思う。
「そんな事よりよ、また一斉休日やるって聞いたよ。しかも1週間だぜ! ……その代わりに普通の休みがちっと削られるらしいけど」
「また? こないだあったばかりなのに?」
「アタシも思って聞き返したんだけどな。巧の母さん頑張ってるみたいだぜ。新規で入ってくるやつに深海棲艦足して、一気にここに20人ぐらい補充人員が来て一人辺りの負担が軽くなるから、今までよりも安定して休みが出るって」
「…………??? 一斉だったら関係なくない? だって全員休みでしょ?」
「あ、その事だけど、今度から「半一斉」になるんだと。半分を休みにして、そいつらの休暇が終わったら今度はまた半分。人の数は充分だしそれで問題ないだろうって……まぁ何かが起きたらスクランブル招集は変わらないと思うケド」
ははは、と乾いた笑いを撒いて親友の目が死んでいく。前から度々話題にあがるが、まだ巧には経験がないが、スクランブル招集はマコリンには相当きつかったんだなと察する。
そんな二人の会話に耳を集中させている人間もいた。同じ枠で海に出た天龍だ。昨日に負けず劣らずな元気を発揮して彼女は話し出す。
「一斉来るんなら、今度こそ走りに行きませんか!」
「私はOKだよ。マコリンは?」
「モチロン。でもどこに行くんだ?」
「決まってないっす」
「「えぇ………?」」
2人仲良く思わずズッコケる。瞳を輝かせて言うものだから、てっきり予定があると思いきや、無計画だったらしい。じゃあ、どこに行こうか? と3人が考え始めた時。また2人車好きが増える。
「箱根方面なんてどうだ? 観光も峠も満載だし楽しいぞ」
「あ、那智さんに雪菜さん」
「お疲れさま、巧」
「箱根か……アタシ東名の乗り方が未だに怪しいんだけど」
「自分が案内するよ。生まれはあっちだからな、向こうの地理は強いから」
計画だての上手な那智と加賀が加わり、トントン拍子で軽い旅行の計画が決まり。5人は各々の車で、那智が提案した鎮守府近くの駅に現地集合することになった。
ギリギリまだ年頃のオンナノコらしく、全員ハイタッチでその場を締めて。さて、と巧は摩耶と愛車のセットアップでもしようかと、外に出るのだった。
若干巻いていきました。これからズブズブと車にまみれていきます(白目
用語解説
オーバーステア→車が曲がりすぎて内側の壁にぶつかりそうになる挙動のこと。これによる事故を防ぐのがカウンターステア、俗に言う逆ハンドルである。
アンダーステア→上記の反対で曲がらないこと。これを嫌ってサイドブレーキを引き、上記のオーバーステアを意図的に誘発させるのがドリフト走行や、アンダー殺しと言われる走り方。
オマケ 加賀さんwithFC。皆さんに文章だけでこんな状態の車を想像させれていたら良いな
【挿絵表示】