「良かったのか。摩耶は」
「は? 何が」
「お前もさっきの龍田みたいに、巧を止めようとはしないんだな、って」
「あぁ。そういうこと」
国道を走っている最中の車内で、那智が聞いてくる。摩耶は前を行く巧とその母が乗る白い86のテールランプを見ながら、独り言のように返答する。
「そりゃ最初は不安だったよ、当たり前だけど。でも言っても聞かないやつだってのは昔から知ってるし。さっきの会話見てても解るだろ?」
「確かにな。だが、こう、親友として何がなんでも止めようとする人間だっているだろう。摩耶はそういう類いではないのだな、と」
「だってさ。結局ここまで来ちまったし。それに言っても聞かないってんなら、せめて手伝いとかの後押しをやるわけヨ。それが友達ってものだろ」
「へぇ……そういう物なのか。あまり深い仲の人間が少なくてな。自分には少し理解しかねるかね……」
口ではそう言いつつ、那智が顔に薄ら笑いを浮かべているのが、暗い室内でも摩耶にはくっきりと見えた。否定っぽいことを言ってはいるが、こういう人情話は嫌いではないらしい。
しばしお互い無言が続き、車内に走行の雑音のみが響く。そして、また似たような雑談が入り、というローテーションを何度か繰り返すこと30分程だろうか。走っていた2台は遂に箱根の入り口にまで来ていた。
ここまで来たなら、待ち合わせの展望台駐車場に上りきるまで10分もかからない。バトルを受ける当事者ではない立場ではあったが、那智のハンドルに込める力は少し強まり、摩耶は握っていた手が強張る。
「いよいよ、だな」
「うん」
なんというか、気のせいだったのかもしれないけれど。2人には山の峠道に漂う空気が今までとは違うもののような感じがした。どう表現したものか。マジックテープのフック側を背中に当てられたような、体が痒くなるような妙な雰囲気が椿ラインに充満していた。
その理由は住宅街を抜けてすぐに解ることになった。大きなコーナーを1つ抜ければ、おびただしい数のギャラリーが歩道やガードレールに寄り掛かって集まっていたのだ。
「おいおい……すげぇ数の人だな」
「あぁ。地元だがこんなに集まってるのを見るのは初めてかも知れないな」
「やっぱりあの野郎が集めたのか?」
「だろうな。巧が無様に負けるところを動画でも撮る魂胆だったりしてな」
「冗談だと笑い飛ばせねーよ。生々しい考察はやめてくれや」
「悪い。……大丈夫かな。巧は」
「さぁな。もう来ちまったし、アタシはあいつの腕を信じるだけだよ。」
口を動かしつつ、頬杖を解いて摩耶は顔を動かす。前に向いた視線の先には変わらず白い86が居る。
負けんなよ。巧。
伝わったかどうかなどは関係なく。86のリアの更に奥に居る親友を見据えながら。摩耶は念でも送るように、1フレーズ、心中で呟いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
道なりに山を登りきり、巧は86を駐車場まで走らせる。視界に、スカイラウンジと大きく文字が入った六角形の建造物が目に入る。目的地に着いたのだ。
道中で見てきたギャラリーの数に、正直、内心で巧は変な焦りを覚えていた。何かの間違いで事故に巻き込んでしまったらどうしよう等といった考えで頭が埋まっていくが、このあとの行動を考え、なるべく脳内は白くしておく。
広い駐車場の白線に車を停めようとして視線が助手席に向く。座っていた水鬼はカメラ片手にそわそわしていた。よっぽど鎮守府から外に出られたのが嬉しいのか? と思う。
「着きました。さっき言った通り、後で拾いに来ますから」
「了解したわ……えぇと、巧は何をしに来たんだっけ」
「少しばかり車で遊ぶだけです。じゃあね。」
素っ気ない、あまり感情のこもっていないような声で事務処理でもするように巧は言って、車から降りる。そして開けたドアを閉めるとき、彼女の目に水鬼の浮かべていた表情が映った。
初め、本当に巧は自分の母は観光目的で箱根に連れていってくれと言っているものとして理解していたので、先程と同じくカメラ片手に目を輝かしているのだと思っていた。が、違った。水鬼の薄ら笑いに似た顔の頬に涙が伝っているのを確かに確認する。彼女は泣いていたのだ。
瞬間的に巧の頭の中には大量のクエスチョンマークが浮かんだ。それが顔に出ていたようで、変な表情になっていた巧を見て、水鬼は慌てて目元を服の袖で拭ってからばたばたしながら車内から外に出る。
「久しぶりの外出だから感動しちゃった」。 聞いていないがそう言ってから彼女はスカイラウンジのある方へと歩いていった。
妙な態度だった水鬼を見たせいで軽く呆けていると。近くに来ていた摩耶が、自分の後ろの方を顎でしゃくる仕草で見るように促してくる。体の向きを変える。積載車に積まれたオレンジ色の35GTRと、今日の喧嘩の相手が居た。
生意気な事に、金持ちなのか、タイヤウォーマーやら何やらの設備を持ち込んでスタッフに作業を指示していた島風がこちらに気づく。たかだか峠の遊びにそんなものまで用意して……。不快感を隠そうともせずに顔に出していた巧に、相手は話し掛けてきた。
「あ、来たんだ。遅いね」
「……10分前行動ですが」
「そ。まぁ関係無いや。どうせ負けて恥晒すのはそっちだし?」
「だといいですね」
「っ……ホラホラ、ちゃっちゃと済ませてよ」
恐らくだが挑発として言ってきたのであろう発言を淡白な返事で済ませると。島風は軽い舌打ちをしてから、自分の車を弄っていた作業員たちを捲し立てる仕事に戻っていった。
「随分色々持ち込んでるみたいだね……本格的にやりやがって」
「勝てそうか?」
「どうだろうね。やってみないことには」
摩耶の質問に適当に答えると、ぱちんと音が出るぐらいの強さで顔を両手で叩き、巧は86に乗り込む。そのまま巧は、道路作業員が持っているような誘導棒を持っていたギャラリーの指示に従って、車を駐車場の入り口まで持っていった。
「勝ち負けは関係無い。」 自分が天龍に言ったことを脳裏に浮かべながら深呼吸をする。同時に親友が言ってきた、「勝てるのか?」との言葉も浮かんでくるが、なるべくネガティブな事は考えないようにしようと思ったときだった。
何も考えないでぼうっと覗いていたサイドミラーに水鬼が写っていたのを見て、巧は目線を動かした。走ってきたのか、息を切らしながらこっちに来た彼女に表情が怪しくなる。理由はわからないが、なんだか今日の彼女は様子がおかしい。
水鬼がそんな変な行動を続けていた意味は、彼女の口から出た言葉で、巧は理解することになった。
ドアハンドルを回してウインドウを下げ、何かと巧は母に尋ねる。
「どうしたの?」
「ごめんなさい。巧、私は今日嘘をついたわ」
「?」
「全部知ってた。貴方が、その、喧嘩した相手と車でレースをするためにここに来たってこと……それが危ないことだって事も」
「……やめろと言われてもやめないよ」
「そんなくだらないことを言いに来たわけではないの」
自分を落ち着かせる目的で水鬼は深呼吸をする。そうしてから、続けて彼女は重い唇を動かした。
「1つだけ……言っておきたいの」
「なに?」
「…………。絶対戻ってきて、私を拾ってね。私は、貴女の、その、うるさくて、乗り心地の悪いクルマ以外で帰るつもりはないから。」
「……………」
「雨が来ても、嵐が来ても私はここを動く気は無いから、だから、その……本当に危ないことはしないでね。お願い」
相手の顔をじいっと見つめる。巧の目がおかしくなければ、薄く光っている水鬼の赤い瞳には涙が滲んで潤んでいた。尚も彼女は舌ったらずな口から震えた声を出す。
「帰ってこなければ……私はここでひっそり死ぬつもりよ。嘘偽りなく。本気で」
「大丈夫だよ。そんな簡単に人が死ぬわけないでしょ」
「でも」
まだ何か言い足りない様子の水鬼の声を、大排気量エンジンの耳をつんざくような音が掻き消す。2人が横を向くと、機嫌が悪そうな島風が隣に車を着けているところだった。
憎たらしいとは思ったが、空気も読めねーのか。会話を邪魔されたのもあったが、その他諸々の悪感情を相手にぶつけるように眉間にシワを寄せて巧は相手を睨む。そんな大戦相手の心情など無視しながら、島風はまた挑発的な態度を崩さないで会話を切り出してきた。
「ごめんねぇ? うるさくしちゃって、こっちは馬力が違うからさぁ」
「そーですか」
「始めようか。絶対負けないけど、まぁそっちが勝ったら? 土下座ぐらいならするかもねぇ」
「……本当に」
「はあ?」
「本当に、負けたら地べたに手を付いて謝ってくれるんですよね」
「…………。ちょっとォ、誰か暇なヤツ、誰でもいいから誘導とカウントして!」
相手の顔も見ないで言った巧の発言をはぐらかして、島風は近くに居たスタッフにスタート合図の係りをやるように煽る。イライラしているのかハンドルに置いた掌を揺すっている彼女の様子に、不機嫌さが前面に出た表情をほんの少しだけ緩めて。巧は先程途切れた水鬼との会話を再開した。
「じゃあね。もう出るから。ここで待っててね」
「解った。……勝ってね」
「もちろん!」
元気な返事の後に、巧は誘導係に従って駐車場から車を道路に出す。
白いスポーツカーが灯火装置の赤い光を伴って自分から離れていく様子を眺める。水鬼は一言。それを駆る巧に向けて呟いた。
「……約束、破ったら承知しないわよ。巧。」
母の声は、娘の耳には届かなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「スタート10秒前!」
スタートラインに車が並んで1分もしないうちに、カウントダウンを始めた男に、慌ただしく巧は車内で最後の準備を始めた。
着けていたシートベルトを外して、座っていた場所から後方へと身を乗り出し、Nosの暴発ストッパーをボトルに付いていたバルブを捻って解除する。それが確認できしだいドライバーポジションに戻り、四点ハーネスの競技用シートベルトでガッチリと自分の体を椅子に固定する。
深呼吸をする。ブーストメーターは正常に作動。ステアリングに増設したニトロのスイッチに異常ナシ。タイヤは新品。大丈夫、自分は勝つ……多分。
己に渇を入れる。カウントはもう3秒前まで迫っていた。
「3……2……1……」
「GO!!」
挙げていた指を折って数字を作っていた男が、大声と共に腕を降り下ろす。
類い稀な反射神経で目から入って来た情報を処理した巧の脳が、彼女の体を動かす。ブレーキペダルに置かれていた右足がアクセルに移り、上手くクラッチが繋がれた86は弾丸スタートを決めてR35の前に出た。
いくらそれなりのチューンを施したとはいえ、馬力の差が大きすぎる相手だ。このまま勢いに乗って逃げるべきか。早くから結論付けた巧はベッタリと床までアクセルを踏みつけて3速まで車を加速させると、早速Nosのスイッチに指をかけた。
「…………!」
シューッ、と風船の空気が抜けるような音が車内に響く。映画なんかとは違う、シャーシの下からゆっくりと押し上げるような加速が車体を動かす。レプリミットアラームの指示に従って彼女はギアを上げる。
スタートしてまだ100mかそこらか。椿ラインの前半は緩やかな道が続くため、ノーブレーキで突っ走っていくうちに車内のタコメーターと、シフトインジゲータが指し示す数字はどんどん大きくなっていく。たが巧は恐怖感などは感じない。
道なりに進んで、初めてコーナーと呼べるような角度のきつくついた道が現れる。落ち着き払った様子で、的確にブレーキを踏んで車を制動させる。ゆっくりと86のフロント部が沈み込み、荷重が前にかかった瞬間を見計らい、シフトノブに手を掛けハンドルを切る。
「…………ちっ」
スピードを生かさず殺さず、最低限の減速のみでS字クランクを越える。後ろを見て彼女は舌打ちした。後方に付いたR35がこちらのリアバンパーに接触しそうな勢いで煽ってきているのが見え、相手はスタートが遅れたのではなく、わざとこちらに道を譲ったらしいことに感づいたのだ。
昔からこういう挑発には弱いが、ぐっと巧はこらえる。まだ序盤もいいところ、残りのNosは何かがあった時までとっておきたい。それに相手もこんなに早いところで仕掛けてはこまい。そういう考えで「いつも通り」を心掛ける。
浅く残った雪にタイヤがとられるため、直線を走っていても車が真っ直ぐに走らない。意図的に右に左にと小刻みにハンドルを揺すりながら、その片手間に巧も相手の様子を見ることにした。
流石は700馬力の怪物みたいな車だ。こっちは全開なのに、直視していなくても余裕な辺りが背後から察せられる。だけど……
「…………」
この違和感はなんだろうか?
パフォーマンス性を廃した速いドリフトで凹凸の激しい山道を抜けていく。自身の出来る範囲の最高のスピードを乗せて逃げるが、やはり追い付かれる。
しかし、何故なのか。自分にも意味はわからなかったが、巧には、後ろの相手が驚異には思えなかった。
考え事をしていると、椿ラインに3つある内の最初のUターンカーブが迫ってきていた。浅いブレーキングで車の姿勢を変え、彼女はグッとサイドブレーキを始動させる。後輪がロックされた86は、レールの上を走る電車のように綺麗に難所を滑って抜けていく。
数秒ほど感じていた違和感の理由が解った。
一瞬だが、自分がブレーキングに入る遥か手前から、大きく相手の車と差が開いたのが見えたのだ。
「…………!」
そうか、ブレーキングが下手なんだ。そうと解れば、何に乗っていようが何も怖い相手じゃあない。巧の中にこれ以上ないほどの余裕が生まれた。
35GTRという車は確かにモンスターマシンで有名だが、それと同じくらいに非常に重たい事でも知られる。
例えば、今回巧が乗っている86は1200kg程で、軽量化が施されているために仮に1000kgだとする。それに対して、このGTRという車は実に1800kgもある重量級のマシンなのだ。
ここまで差があると、止まる、曲がる、加速するという行動・操作すべてが次元レベルで違うこの2台だが、特に今回のような峠道の競争となると、重さという要素は深く速さに関わってくる。
昼間のサーキットのような場所は別として、峠とは不確定要素の塊のようなステージだ。軽く道に撒かれた砂や小石はタイヤを滑らせ、時には野性動物が飛び出し、道の見通しも利かない。何かがあったとき、より速く加速し、より速く「止まれる」軽い車には大きなアドバンテージがつくのだ。
話を戻すと、巧が余裕を持った原因は、自身が乗る「軽い車」が相手を曲がり角で引き離すことができた事に、作戦通りと思ったからだった。
重たいものは急には止まれないので、自分よりも早くブレーキを踏む。重たいものは慣性で外に流れやすいため、より速度を殺して曲がる必要がある。子供でも解るような基本的な物理学だが、流石に馬力差がありすぎるという不確定要素があった。だが、それも考えずに済むような結果が確認できたのだ。
確かにGTRは速い。こういった山のような狭い道だと、速すぎて扱いづらいという特徴も重々承知して、「上手く車に乗せられている島風」も充分非凡だと言える。だが今回ばかりは相手が悪かった。前を行く86に乗る女は、自動車という道具をまるで自分の手足のように御せる人間なのだ。
ただでさえ運転者を恐縮させる峠が、夜という前が見辛い、という要素で増幅されてドライバーに襲いかかる。このとき既に島風は表現の難しい不快感に苛まれていたのだが、対照的に巧は愉快な気分になっていた。
馬力の無い車でも腕前で簡単に覆る。FRの底力を見たかッ。
ニヤリ、と会心の笑みを浮かべながら大きく回り込むような形の左曲がりに差し掛かった時だった。
ガツン、と大きな音が車内に響いた。
「えっ――――」
リアバンパーを押された86は、制御を失い、振り子のように前輪を軸にしてスピンした。
シフトインジケータ→何速にギアが入っているか、をドライバーに知らせる電子機器。昔はターボメーター等とよろしくポン付けする機械だったが、最近では標準装備している車もある。