昼休み。
「82……83…!」
食堂の片隅に声が響く。
「84……は、はちじゅう…ご…!」
もちろん、僕の声だ。
「はち…じゅう…ろく…!」
「おい、腕立てになってないぞ。休むな!」
「は、はい!」
必死に腕立て伏せをしようとするが、疲労のたまった上腕は重力に逆らって身体を持ち上げることができない。
歯を食いしばって、何とか上半身だけでも持ち上げる。
「腰が上がってない!」
「は、は…い」
なんで、こんな目に合っているのか。
答えは簡単だ。
僕の食べ方が汚かったから。
「貴様、幹部たる者があんな無様な食い方をしていいと思っているのか。部下を前にして、上官の威厳を保てるとでも思っているのか?」
僕の頭上から、オニの声が降ってくる。
幹部候補生学校には、オニが居る
「いいか。遠洋航海、海外派遣等になれば我々海上自衛官は、各国から日本の代表として扱われる。その実際を担うのが我々幹部自衛官だ。貴様は他国の海軍士官の前で、日本の恥をさらす気か?」
幹部候補生学校学生隊幹事付。
この学校の学生、つまり僕たち候補生の生活一般を担当する部署に所属する秘書官のような人物だ。
階級は2等海尉。
略称は幹事付。
通常二人いて、それぞれアルファ(A)、ブラボー(B)と呼んでいる。
だけど僕たちはこう呼ぶ。
赤オニ、青オニ、と。
彼らの主な仕事は僕らの生活指導。
僕らの挙動に常に目を光らせていて、少しでも不良な態度があればすかさず指導してくる。
「おい、腕立て伏せの続きはどうした。早くやれ!」
ちなみに今ここにいるのは赤オニだ。
「はいっ……はちじゅう…はち――」
「87だ! 数を誤魔化すな! もう一度最初からだ!」
「は、はいっ!」
数え間違えただとか、腕がもう動かないとか、そんな言い訳は許されない。
腕立て伏せをやれと言われたら、力尽き倒れるまでやるしかない。
で、力尽きた。
汗が零れ落ちた食堂の床に、僕は崩れるようにうつぶせに倒れこんだ。
制服が悲惨なことになる。
「誰が倒れていいと言った!」
…力尽き倒れることだって、許されなかった。
だけどもう、腕に力が入らない。
僕のその状況を見て、赤オニは少しだけ僕に温情を与えてくれた。
「腕立てができないなら仕方ない。その場に立て」
助かった。そう思いながら立ち上がる。
「いいと言うまでスクワットだ。呼称はじめ!」
「はいっ…1,2,3――」
足腰立たなくなるまでやらされた。
生まれたての小鹿のようなおぼつかない足取りで何とか居住区の部屋に帰り着いた僕が目にしたのは、鬼気迫る表情で制服にアイロンをかけているキヨテルの姿だった。
「まずい、くそ、シワが取れないっ!」
半ば悲鳴のような声を上げながら必死にアイロンをかけている。
「カイト、戻ったのか――うわ」
がくぽが僕の姿を見て、絶句した。
僕は汗だらけ、制服もしわくちゃ、倒れた時の床のほこりも付着している状態だった。
「キヨテル、カイトにアイロンを貸してやれっ……て、ダメか、もう時間がない!」
「急げ、もうすぐ五分前だぞ!」
居住区の廊下にデルの叫び声が響き渡った。
「キヨテル、いつまでアイロンをかけているんだ、早く片付けろ。カイトは…仕方ない、あきらめろ」
なんだか見捨てられた気分。
僕はうまく動かない手足で廊下に出る。
すでに多くの候補生が通路に並んでいた。
「並べ! 列を整頓しろ! 人員確認!」
デルが駆け回りながら、候補生をまとめあげようとする。
「98人? おい、10人どこ行った!?」
「キヨテルがまだ準備できていない!」と、がくぽ。
ほかにも同じような理由で遅れている者がいると、あちこちから声が上がる。
「首ねっこ引っ掴んで連れてこい! 五分前に整列、報告完了は海上自衛官の常識だろうが!」
デルの声に感情が混じった。
なんとか108名の人員を確認し、集合場所をめざして走り出す。
腕立てスクワットを限界までやらされた身には、拷問だ。
集合場所は学生館中央ホール。
そこに青オニが待ち構えていた。
デルが候補生を整列させ、申告する。
「第2学生隊学生、総員108名、事故なし、現整列員108名!」
「……集合時刻5分前まで残り30秒。ぎりぎり間に合ったようだな」
青オニが腕時計を見て言った。
彼は目を上げて、整列した僕たちをにらみつける。
「あの短い時間の中で、指示時刻に遅れずに集合できたことは褒めてやる。だが、それだけだ。……おい貴様ら、なんだその制服の着こなしは!」
青オニが、そのすぐ目の前に立っていた候補生の一人に詰め寄る。
「帽子が傾いている、ベルトのバックルの位置がずれている、ズボンにシワが寄っている、靴が汚れている。たった一人目についただけで、これだけの不備がある。――そこの貴様っ!」
キヨテルが指差された。
「はいっ!」
「なんだそのズボンのシワは? 貴様、アイロンがけ一つも満足にできんのか? 貴様らは防大や一般大出の連中とは違う、兵隊として第一線の部隊で飯を食ってきた人間だろう。いったい部隊で何をやってきた!」
「はいっ」
「私は貴様らに、きれいな制服で集合しろと言ったはずだ。それを守らんというのはどういうことか分かるか?」
「はいっ。命令の不履行、です!」
「分かっているなら、なぜ実行しない!」
「はいっ。時間がありませんでした!」
「言い訳するな! 貴様の隣を見てみろ。こいつの制服は完璧にアイロン掛けされているぞ!」
キヨテルの隣はがくぽだった。
確かに彼の制服はしっかりアイロン掛けされていて、折り目も立ち、シワひとつない。
「時間は全員同じだ。こいつにできることが、貴様にできないはずがあるか!」
「いいえ、できます!」
「ならばやれ!」
「はいっ」
「神威候補生!」
「はい!」
がくぽが、少しだけ誇らしげに胸を張る。
「貴様はちゃんと命令を守っているな」
「はい!」
「だが、それがどうした。貴様一人ができてそれで意味があると思っているのか? 私はここにいる全員に命令したんだ。全員ができなければ意味がない。貴様、氷山候補生と同室だろう。手伝わなかったのか?」
「は……はい」
がくぽの声がわずかに震えた。
「貴様は仲間を見捨てたということだ。そんな上官を部下が信じると思うか?」
「いいえっ!」
「貴様ら全員、命令不履行だ! 腕立て伏せ用意!」
108人が、中央ホールの床に手をつく。
もちろん、僕も。
う、腕が、つりそうだ。
「私が1と言ったら腕を曲げろ。2というまで上げるんじゃないぞ。…1!」
腕をぐっと曲げる。
両腕が悲鳴を上げた。
そのままたっぷり、一分近く放置された。
本当の悲鳴も上がりそうになる。
「2!」
全力を振り絞って腕を上げる。
だけどその状態だけでも、十分、つらい。
腕が持たない。
僕は食堂に引き続き、また倒れ伏した。
「おい、始音候補生。誰が倒れていいと言った?」
食堂で赤オニが言ったセリフと全く同じセリフが、また降ってきた。
「は、はい…けど――」
「けど、なんだ? 貴様が食堂で腕立て伏せをやっていたのは知っている。だがそれがどうした? 戦場で一発、弾に当たったからと言って、次の弾が避けてくれるとでも思っているのか?」
「い、いいえ」
「腕を撃たれて銃を構えられないからといって、敵が撃ってこないとでも?」
「いいえっ!」
「始音候補生、我々は何者だ!」
「自衛官です!」
「そうだ。この国を守る最後の盾だ。我々が倒れるときはこの国が倒れる時だ。いいか、貴様の両腕が支えているのは自分の体重じゃない。この国の重さだ。それを忘れるなっ!」
「はいっ!」
僕は身体を持ち上げる。
腕が震えるのを堪える。
喰いしばった歯ががちがちと音を立てる。
目に涙がにじむ。
にじんだ視界の向こうに、めーちゃんの姿が見えた気がした。
「腕立て伏せを続ける。…1!」
僕は、また倒れた。
逸郎さん、元気で学校に通っていますか、兄さんはこの前の3月10日の休暇の時、逸郎さんの元気な顔を見て、毎日安心して訓練しております。
兄さんが戦死したら逸郎さんです。兄さんは誰にも負けないような手柄をきっと立てます。
幼い時から逸郎さんが好きだった兄さんは、きっと戦死した後も草葉の陰から見守ることでしょう。
では、おばぁちゃん、お父さん、お母さん、お姉さんの言われることを良く聞いて、怠けた時は、兄さんの最後の御願いを思い出し、きっとお役に立つ人になって、兄さんを喜ばして下さい。
では、今から兄さんは元気で征きます。