閉店後のカジノ。
レンは店内のバーに立ち寄り、店じまい中のバーテンに頼み込んで、グラスを出してもらう。
「飲める歳になったんだっけ?」
「とっくにね」
「もう少し老けたらどうだい。君の外見は、酒を飲むには若すぎるよ」
人の良さそうなバーテンはからかい口調で、レンのグラスにウィスキーを注いだ。
レンはそれを傾けながら、
「じゃあ、聞くけどさ。あんたが酒を飲み始めたのはいくつの時だ?」
「さてね、覚えてないよ。ま、少なくともお袋のおっぱいよりは後だね」
「お袋さんも酒飲みさ。アルコール入りのミルクだったんだろう」
「君のお袋さんはどうなんだ?」
「さてね、覚えてないよ」
レンはバーテンの口調を真似て答えた。
しかしその外見は、バーテンが指摘したようにせいぜい十代の後半にしか見えない。
実は、レン自身も自分の正確な年齢というものを知らなかった。
レンが、意識を取り戻してから六~七年。
そのなかで一番古い記憶に残っている自分はおそらく十代前半ぐらいの体つきをしていたから、そろそろ二十歳ぐらいにはなっただろう。と、レンは適当に検討をつけていた。
レンはまだ中身の残ったグラスをカウンターに置き、頬杖を付いた。
顔の横に当てた手のひらが、なんとなく自分の後頭部に回され、そのまま金髪をかき分け軽く頭を掻いた。
指先に、後頭部に残る古傷の感触がある。
この後頭部の傷がいつのものか、レンは知らない。
何が原因で出来た傷かさえ分からない。
ただ、この傷が原因で自分は過去の記憶を失ったのかも知れない、という見当ぐらいはついていた。
確かなところは何も分からない。
七年前。
少年だったレンは、たったひとりで街の路地裏の隅で倒れていた。
それを、孤児院も兼ねていた教会のシスターに運良く拾われたのだが、少年は目を覚ましたあとも意識は朦朧とした状態のままで、記憶どころか自分の名さえ認識できなかった。
レンという名は、少年が身につけていた服に“レン”とだけ刺繍がされていたので、仕方なくそう呼ばれるようになっただけだ。
だからレンは、未だに自分の本当のファミリーネームも知らない。
身体付きは十代前半だが、意識は赤子同然だったレンは、その孤児院で、もう一度、イチから成長しなおすことになった。
当初は完全な記憶喪失に加え、その原因らしい後頭部の傷もあって、何らかの障害が残ってしまうだろうと誰もが思っていた。
しかしレンの回復速度は目覚しかった。
レンは数ヶ月で言葉を覚えなおし、一年で年齢相応の自我を持つに至った。
いや、これはやはり回復ではなく成長といったほうがいいかもしれない。
レンは記憶を取り戻さないまま、“新しい自分”という自我を自ら作り上げたのだ。
今のレンがはっきりと記憶を持ち出したのも、拾われてから一年が過ぎたあたりの頃のことだった。
二年が過ぎると、レンは記憶も自我さえも失っていたのが嘘のように、健常な状態になっていた。
いや、それ以上だった。
レンは並外れた記憶力、計算能力、集中力、洞察力と手先の器用さを獲得していた。
レンが短期間で言葉と知識を習得し、新たな自我を確立できたのも、これが理由だった。
もしかすると後頭部の傷が、何らかの影響を与えていたのかもしれない。
しかしそれゆえに困った問題が起きた。
すっかり年相応に育ったと周囲から見なされるようになったため、孤児院ではレンの面倒を見ることができなくなったのだ。
独り立ちできるようになった者は、もう子供ではない。
孤児院を出て、仕事に就き、自分の力で生きていかなくてはならなかった。それは孤児院のルールでもあり、同時に社会のルールでもある。
とにかく、レンは仕事に就かなくてはならなかった。
その仕事がカジノでルーレットを回すなんていう特殊なものになった理由は、そのカジノのディーラーの一人に、同じ孤児院の出身者がいて、その人物に拾われたからだ。
そのディーラーは、何かのポリシーか、それとも方向性のズレた孤児院への恩返しのつもりか、それとも単なる気まぐれか、孤児院に居る者たちから弟子をとろうと決めていたらしい。そして、そのディーラーの目にとまったのがレンだった。
(別に才能を見出されたわけじゃ無かったんだろうな)
と、レンは今でも時々思う。
あの時、なんでもいいから仕事を探していたレンと、弟子といっても本当は雑用係を安く雇おうかぐらいにしか考えていなかったディーラーの思惑が偶然一致して、話がトントン拍子に進んだだけだ。
ディーラーは、レンを雇ってしばらくしてから、彼の並はずれた能力に気がついたのだ。それからやっと本格的に弟子として鍛えられた。
そうして、今のレンがある。
あっという間の六年間だったな。と、レンはグラスの中で溶けていく氷を眺めながら思った。
忙しくて、慌ただしくて、一生懸命で、だからこそ充実した日々だった。
いつも、今現在の目の前のことに全力で取り組んできたから、覚えてもいない過去のことなぞ振り返りもしなかった。
振り返らないほうがいい。と、レンは思っていた。覚えていないのではなく、知らないのだ。
過去の“自分”などどこにもいない。死者と同じだ。
ここにいる自分自身は“レン”だけ。
それでいい……
……そう思っていたが、しかし不思議と、今夜ばかりは自分の過去が気になった。
他人同然の“自分”。
今までも時々、そんな気分になったことはあったが、考えれば考えるほど過去の自分とは身体だけは共通しているが、全く別の人格であるとしか思えなかった。
しかし、他人の目から見た場合はどうだろうか?
レンは今日、自分を見つめていた女のことを思い出す。
――やっと逢えたね、レン。
あの女の笑みは、たしかにそう言っていた。
レンのことを知っているのだ。自分の知らない“自分”のことを。もう、レンが別人同然になっていることも知らずに。
そんな人間が現れたというのは、レンにとって穏やかなものじゃなかった。
あの女に、今の自分が否定されてしまいそうな気がするからだ。
(僕は“レン”だ。名も知らぬ過去の“自分”じゃない)
過去の自分などには興味はない。むしろ邪魔だった。
(あの女が何者であろうとも、もう僕には関係ない……)
――私はあなたを知っているのに、あなたは私を知らないの……?
彼女が去っていく直前に見せた、あの寂しげな表情を思い出し、レンは胸が苦しくなった。
目の前のグラスをつかみ、一気に煽る。
「もう一杯」
「帰ってくれよ。いい加減、店じまいしたいんだから」
「つれないな」
「本当、つれないわね」
横から女性の声が割り込んできた。
やってきたのは、黒いスーツ姿の女性。
「師匠?」
「めーちゃんまでここで飲むの? やめてよ、朝まで残業なんて冗談じゃない」
「残業代にチップぐらい弾んであげるわよ。っていうかね、あんたたち。ここでは私のことをフロアマネージャーって呼びなさいって言ってるでしょ」
黒スーツの女性、フロアマネージャーのメイコはそう言いながら、レンの隣のカウンター席についた。
しぶしぶ新しいグラスを用意するバーテンに、おかわりの念押しをしながら、レンはメイコに話しかけた。
「別に今ぐらいは師匠って呼んでもいいじゃないですか。仕事はとっくに終わってますよ」
「その仕事の話よ。ディーラーの師匠としてじゃなくて、フロアマネージャーとしての話。……レン、あんた明日からポーカーのテーブルにつきなさい」
「ポーカーに? シフト表じゃ来週からのはずですけれど」
「事情が変わったのよ。今日、厄介な客が来たわ」
メイコが、目の前に差し出されたグラスを手にしながら言った言葉に、レンもまたグラスを受け取りながらオウム返しに聞き返した。
「厄介な客?」
「レン、あんた気づかなかったの?」
そう問われてすぐに思い浮かんだのは、あの女の笑みと寂しげな表情だった。
「……いいえ、気が付きませんでした」
「まぁ、あの男、ルーレットには近づかなかったから仕方ないか」
メイコの言葉に、やはりあの女のことではないのか、とレンは少し落胆した。
そして、落胆した自分に気づき、驚いた。
「紫の貴公子よ」
「はぁ?」
貴公子?
なんのことだ?
「“紫の貴公子”だなんて笑える二つ名を持ったイカサマ師よ。最近あちらこちらのカジノで荒稼ぎしてるらしいわ。そいつが今日、うちのカジノに来てたのよ」
「名の知られたイカサマ師なんて、二流もいいところだ。どこのカジノでも最初からマークされて放り出されるのがオチじゃないですか」
「ほとんどの連中はそうだけど、中には看板を掲げた上で堂々と挑んでくる実力を持ったバカもいるのよ。“紫の貴公子”なんて笑えるにも程があるけど、あいつの腕は笑えないわ」
「それで、僕がポーカーにつくのとどんな関係が?」
「紫の貴公子を迎え撃ちなさい」
「僕が?」
「奴の得意手はポーカーよ。そのテーブルに経験の浅そうな若年ディーラーが居たなら、間違いなくやつは食いついてくるわ」
「囮じゃないですか」
「無能じゃ囮に使えないわよ。餌にされるだけ。大丈夫よ、あんたならやれるわ」
だって私の弟子なんだもの。メイコはそう言ってグラスを傾けた。
「いい、レン。カジノは遊技場、ゲームを楽しむ場よ。フェアなルールとアベレージに則ったスリルと興奮で、お客様に夢と希望を与えるのが私たちの役目。そこで重要なのは、アベレージを常にフェアに保つこと。それをぶち壊して、自分たちだけで荒稼ぎするような不貞な客はたたき出してやりなさい」
「……分かりました」
フェアであるがゆえにアベレージが保たれるわけではない。
アベレージをフェアに保つためには演出が必要なのだ。
メイコやレンはそれを演出する側であり、客はそれを享受する側である。客に勝手に演出されては困るのだ。
カジノか、
イカサマ師か、
どちらが運命を演出するのか。
これは、その奪い合いだった。