リンと名乗る少女を買ってから、四年。
神威家が取り潰されたから五年が過ぎた。
この四年というもの、真綿に水がしみ込むように忍法を覚えて行く凛に、修行を施すのは楽しかった。
と言っても、幼い身体を痛めつけるような過酷な鍛錬を課した訳では無い。
忍法と一口に言っても色々ある。
高い壁を飛び越えたり、長時間水に潜っていたり、数百里の距離を数日休まずに走り抜けるような体術を駆使する忍法は、それこそ死の淵に落されるような地獄の鍛錬を得てようやく身に付けることが出来るものだ。
しかし、忍法には権謀術数、兵法軍学といった知性的なものも含まれる。
火薬や薬物、動物を使役する忍法もある。
楽歩が少女に仕込んだ忍法はそれらよりもさらに特殊な部類、催眠術であった。
これは他の忍法のように後天的に勉学や鍛錬して身に付く様なものでは無く、生まれ持った才能に大きく左右される特殊な忍法だった。
そのためこの類の忍法を使える忍びは少ないが、才を見出すことさえできたならば、その習得は容易だった。
楽歩自身が、この才の持ち主だった。
神威忍法、流れ椿――
彼が遣うこの忍法は、己に自己催眠をかける術だった。
人間の脳というものは不思議なもので、例えば目隠しをされた状態で鉄の棒を腕に当てたとする。
このとき、その耳元で「これは熱い焼け火箸だ」と何度も言い聞かせながらその鉄の棒を当てると、本当にそこに火傷が出来てしまうのだ。
流れ椿は、この原理を究極まで突き詰めたものだった。
この身体は水よりも軽い、と己に強烈な自己催眠をかけることで、自らの体重を水よりも軽くするものであった。
有り得ない、と思うかもしれない。だが彼は実際にそれをやってのけたのだ。
そしてその催眠術の効果は、自己だけでは無く、他者にも及んだ。
楽歩は、刀であれ鎖であれ、とにかく自分と触れた相手ならば、ほんの一瞬に限り、完全に操ることが出来た。
その具体例というのが、あの自ら海へと落ちて行った追っ手たちの姿だった。
これが、忍法、流れ椿の正体である。
楽歩はこの忍法を、少女に仕込んだ。
しかし、凛は鍛錬以外でも何かと重宝した。
幼いながらどこで仕込まれたものか、家事の一通りはこなすことが出来た。
旅の最中、着物のほつろい、草鞋の修繕など、凛はどこからともなく糸や布切れ、わらを調達してきてはすぐに直して見せたし、料理だって限られた食材から中々に手の込んだものを作る。
追っ手の眼をくらますためにとある山奥の庵を手に入れてからは、家の事全般を任せるようになった。
凛は活き活きとして家事に取り組んだ。
その熱意はやもすれば鍛錬に打ち込む以上のものだったが、楽歩は不思議と、悪い気はしなかった。
いつしか楽歩は、この凛との暮らしが気に入っている自分に気が付いた。
以前なら毎日のように滅びた家のこと、そしてそれに殉じた妻のことを思い出しては復讐心を養っていたのに、気が付けば、そこに陰鬱な影は消え去っていた。
いまでは、家のこと、妻のことを思い出しても、そこにあるのは静かな寂しさだけである。
侍の意地と、忍びの冷徹な信念に支えられていた楽歩の復讐心は、皮肉なことに、彼のもっとも忍び的な部分によって解きほぐされていた。
レンを見つけよう。
楽歩はいつしか本気でそう思うようになった。忍法の才では無く、ただ、凛のために。
そう思って、ときおり庵を出ては各地を旅した。
そして、二人が出会ってから四年目の夏。
初めて訪れた城下町で、額歩は偶然、レンの消息を知った。
忍びの性に、初めて訪れた街では先ず色街を覗くというのがある。娼婦との寝物語には、その土地の風俗や裏事情、方言や隠語に至るまで多くの情報が隠されているのだ。
凛を宿に残し、一人訪れた娼館の娼婦から、楽歩は翡翠の眼をした少年の話を聞いた。
近くの陰間茶屋に、世にも珍しい色の瞳をした男娼が居たという。ことの最中にその少年の眼に見つめられると、この世のものとは思われぬ快楽を得られると評判だった。
だが、その陰間茶屋を訪れると、その少年はもういないと告げられた。
一年前に流行り病にかかって死んだという。
身寄りのない売られた子であったから引き取り手もおらず、山に捨てたらしかった。
楽歩からその知らせを聞いた、その夜、凛は宿から抜け出し、一人山へと分け入った。
その事に気が付いた楽歩は、慌てて凛の後を追って山に向かい、夜じゅう駆けまわってようやく少女を見つける事が出来た。
その時の様子を、楽歩は今でも覚えている。
凛が居たの、はうっそうと茂る森の中にぽっかりと空いた草原だった。
背の高い草がぼうぼうと生い茂った、うちはぶれた寂しいそこに、何本もの卒塔婆が乱立していた。
それらを頭上から青白い月が冴え冴えとした光を浴びせ、その真ん中に、一人の少女が胸に朽ちかけた髑髏を抱いて蹲っていた。
月に照らされて、うなだれたうなじ、そでから伸びる細腕と、その内に抱えられた髑髏の白さは眩しいほどで、その伏せられた顔から時折こぼれ落ちる滴が、キラキラと輝いていた。
凛が抱いたそれが、本当に弟の髑髏だったのか、それは誰にも判らなかった。
しかし二人はそれを丁重に供養し、手を合わせた。
それから、半年が過ぎた。