ボーカロイドソング二次小説集   作:PlusⅨ

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浅き夢見し 酔ひもせず

 あの山奥の旅籠で那須衆の頭領を討ちとってから数日が経っていた。

 

 楽歩と凛は国境の山中の片隅で、庵を手に入れて暮らしていた。

 

 山々の紅葉はすっかりと落ち、寒々しい裸枝が乱立する森の中を、時おり銀の粒子をはらんだ風が寂しい音を立てて吹き抜けて行く。

 

 晩秋が終わり、いよいよ冬が来ようとしていた昼下がり。

 

 楽歩は谷川の河原の岩に腰をおろし、渓流の流れに目を向けていた。

 

 山の上流の景色らしく、川の一面にごつごつと荒々しく削られた岩が転がり、その岩の上へ谷川の水がかかってよどみをつくっている。

 

 あちらこちらで水が岩に砕けては白いしぶきを際限なく上げ、時おりそのしぶきにまじって、川魚が岩の上めがけヒョイと身を躍らす。

 

 川鳥がそれを狙うよりも早く、河原に腰かけた楽歩の手が閃き、棒手裏剣が空中に飛び出した川魚のえらを貫いた。

 

 川魚はそのまま下流へと流れて行き、大きな岩の途切れた、やや広い流れの凪いだ水域に達したところで、その川の中央に佇む少女の手に拾われた。

 

 凛だった。

 

 凛は濃い藍染めの木綿の小袖に黄色の帯を締め、小脇に籠を抱えて、素足のままで水面に立っていた。

 

 時折、しゃがんでは楽歩の仕留めた川魚を拾い上げ、小脇の籠に入れて行く。

 

 十数匹ほどの魚を仕留めたところで、楽歩は河原から腰を上げた。

 

「凛、帰るぞ」

 

「はい」

 

 凛は川魚でいっぱいになった籠を抱え直し、そろそろと水面を歩きだした。

 

 籠の中には川魚だけでなく同じ数だけの棒手裏剣も含まれているので、その重みはかなりのものだった。

 

 凛は両手で籠を抱えながら、まるで綱渡りをしているように、そろそろと足を運んでいく。

 

 しかし、もう残り十数歩で河原に付くというところで、彼女の足がもつれた。

 

「きゃっ」

 

 ずぶり、と水の中に片足が沈み、凛の身体が大きく揺れた。籠が投げ出され、そのまま水中に倒れこみそうになる。

 

 そう思った矢先、凛は楽歩の腕の中に抱きかかえられていた。

 

 楽歩は片腕だけで凛を水の中から引き上げる。もう片手には投げ出したはずの籠が受け止められていた。

 

「まだ、修行が足りぬな」

 

「…はい」

 

 凛を片腕で抱いたまま、楽歩は水の上を渡り、河原へと戻ってきた。

 

 大地に降ろした凛に籠をわたし、楽歩は庵への帰路を歩く。その足には一滴の水も付いていない。

 

 その後を籠を抱えて歩く凛の後ろには、水にぬれた小さな足跡が点々と残っていた。

 

 厳しい凍気をはらんだ風が足元を通り抜け、凛の濡れた足に容赦なく吹き付けた。それでも凛は表情一つ変えず、楽歩の後を追い続けた。

 

 山野に囲まれた土地ゆえに陽が落ちるのが早い。

 

 とっぷりと暮れた夜の帳の中、雨戸を鳴らす冷風に耳を澄ませながら、楽歩と凛は慎ましい食事を済ませた。

 

「凛」

 

「はい」

 

 楽歩が何も言わずとも、凛はいつものように夜の支度を始めた。この四年かかさず続けて来た、夜の日課だった。

 

「はじめよ」

 

「はい」

 

 胡坐をかいて座る楽歩の前に跪き、そっと手を伸ばす。

 

 そこに在ったものを手に取ると、その先端を口に持っていき、舌の先でちろりと舐めた。

 

 そして、濡らした木の棒の先端で、目の前においた木の板の表面に「い」と書いた。

 

 続いて「ろ」と書く。

 

「い…ろ…は……」

 

 一文字、一文字、声に出しながら、少女は唾液で板の上に文字を描いていく。

 

 

 

 

 

 いろはにほへとちりぬるを

 

 

 わかよたれそつねならむ

 

 

 うゐのおくやまけふこえて

 

 

 あさきゆめみしゑひもせすん

 

 

 

 

 

 書き終え、うかがうように楽歩を見上げると、

 

「うむ、上手くなったな」

 

 そう言われて、凛は嬉しそうに、顔に笑みを浮かべた。

 

 凛は木の板を袖で拭うと、もう一度、木の棒を口に含んだ。

 

 次に書いたのは「凛」という文字だった。

 

 その隣に続けて「憐」と書く。

 

 りん、と…れん。

 

 どちらの文字も、楽歩が教えたものだった。

 

 凛はしばらく木の板の二つの文字を眺めた後、その文字を消した。

 

「レン…いつも、ワタシと一緒」

 

 凛はそう言って、木の板を大事そうに抱えると、それを庵の隅の元あった場所に片づけた。

 

 楽歩は、その凛の背中をしばし眺めた。

 

 この四年で、凛は一人前の忍法遣いになった。まだ術の領域は楽歩に及ばぬものの、他の忍びに比べれば充分すぎるほどの腕前だった。

 

 成長したのは忍法だけでは無い。

 

 その身体つきも、痩せさらばえた子供のころに比べれば胸や腰周りは丸みを帯び、女らしさが表れていた。

 

 しかし何より、顕著に成長したのはその美貌だった。

 

 あの旅籠で那須衆の頭領を悩ましめたその美貌は、翡翠の目の輝きをも加わって、もはや魔性の域に達していた。

 

「凛……」

 

 なに? と少女の翡翠の目が楽歩に振り向く。

 

「お主、本当に良いのか?」

 

 なんのこと? と凛は不思議そうに小首をかしげたが、すぐに楽歩の質問の意図に気が付き、その瞳に柔らかい笑みを浮かべて頷いた。

 

「後悔せぬのだな?」

 

「楽歩は、ワタシに忍法を教えてくれた。一緒にレンも探してくれた。とても楽しかった。だから……楽歩に恩返しする」

 

「恩なぞいらぬ。忍法を仕込んだのも、レンを探したのも、拙者の気まぐれに過ぎぬ。だから復讐なぞ、お主には関係のない話なのだ」

 

 楽歩の言葉に、凛は首を横に振った。

 

「ワタシ、楽歩と一緒に戦った。だからワタシも、追われる身」

 

「彼奴らにとどめを刺したのは全て拙者だ。お主は手を汚してはおらぬ」

 

 むしろ、汚された方だ。と楽歩は思った。

 

 いくら那須衆の頭領を仕留めるためとはいえ、凛の身体を男がまさぐっていた光景に、楽歩の心は激しく乱れた。

 

 凛はまだ男を知らぬ。

 

 ましてその身体をまさぐっているのは、己の復讐相手の一人でもあったのだ。

 

 凛と出逢ってから失いかけていた憎悪に満ちた復讐心が、このときばかりは激しく蘇った。

 

 しかし、あの罠を提案したのは凛自身だった。

 

 彼女は自ら、男の牙の下に身を投げ出したのだ。

 

「自らを囮にしてまで拙者の復讐を手伝ってくれたのは嬉しい。だが……」

 

 死ぬぞ。と、楽歩は告げた。

 

 大殿に直談判してのお家再興など、楽歩自身、不可能だと判っていた。これはただの侍の意地に過ぎない。

 

 楽歩の復讐の結末は、大殿の目の前でこの意地を突きつけた挙句に、相手を道連れにして死ぬことだった。

 

 忍びとはいえ侍の忠義を踏みにじった者に対する、命をかけた当てつけだった。

 

「楽歩と一緒なら、怖くないよ。それに、向こうできっと、レンにも逢えるから」

 

 そうしたら、今度は三人で暮らそうね。凛はそう言った。

 

 

 

 深夜。

 

 凛が、奥の間に寝具を整え、楽歩を呼んだ。

 

「おやすみなさい、楽歩…」

 

「うむ」

 

 寝所に楽歩を残し、凛は自分の寝所へと下がっていく。

 

 凛に対して、楽歩は今まで一度も手を出そうとはしなかった。

 

 初めは純粋に忍法の師匠と弟子として接していた。

 

 情欲の対象としてみるにはあまりにも幼かったし、なによりも楽歩自身、この少女に忍法を仕込むのは己の復讐の旅の中の気晴らし程度に考えていた。

 

 だが、いまでは一人の女として愛情を抱いていた。

 

 それでも抱かなかったのは、その愛の深さゆえだったのかも知れない。

 

 いずれ死出の旅路につく男のために、凛の人生を縛りたくなかった。

 

 いつかレンを見つけ、姉弟ふたり、睦まじく暮らさせてやりたかった。

 

 己が死ぬのは、それを見届けてからが良い。楽歩はそう思って四年の月日を過ごしてきたのだ。

 

 だが、そのレンはすでに死んでいた。

 

 売られた少女であった凛にとって、もう頼るべきは楽歩の他にいないのだ。

 

 そしていじましくも、あの少女は自らの命を純潔ごと、楽歩の復讐に差し出そうとしている。

 

 ならば、それをみすみす敵の手に散らされるくらいなら、いっそ………

 

 夜具の中で眠れずに寝がえりを打った楽歩の耳に、微かな嗚咽が聞こえてきた。

 

(凛……?)

 

 嗚咽は凛の寝所から聴こえていた。

 

 恐らく必死に堪えているのだろう、とぎれとぎれで、ほとんど常人ならほとんど聞き取れないほどの泣き声だった。

 

 楽歩は夜具を押しのけ、凛の寝所に続く襖を開けた。

 

「……凛」

 

 床の中で、少女が自分の身体を抱き、背を丸めて縮こまりながら震えていた。

 

「あ…楽歩…?」

 

 見上げた顔は青ざめ、唇がわなないている。

 

 その翡翠の目には涙の粒。

 

「どうした、凛」

 

「あ、なんでも…なんでも、無いよ」

 

 そう言って、凛はその青ざめた顔に、無理やり笑顔を浮かべた。

 

「大丈夫、ワタシ、大丈夫だから……」

 

 青ざめた笑顔で、何度もそう繰り返す。

 

 だがやがて、唇がこわばり、その目から溢れた涙がこぼれ落ちた。

 

 その目を見て、楽歩はようやく気が付いた。

 

 まだ十四の少女が、罠とはいえその無垢な身体を男の下に差し出すことにどれだけの勇気を必要としたか。

 

 その手に身体をまさぐられ、唇まで奪われることがどれだけ恐ろしいことであったか。

 

 しかしそれをこの少女は、小さな身体で一人耐えようとしていた。

 

 それもすべては、この自分のために。

 

「凛っ!」

 

 楽歩は、震えていた小さな肩を引き寄せ、強く抱きしめた。

 

「楽歩…?」

 

「許せ…凛……」

 

「楽歩……」

 

 胸に抱いた凛の手が、楽歩の背中にまわされた。

 

 涙にうるんだ翡翠の目が、楽歩を見上げた。

 

 まだかすかに震えるその小さな唇に、楽歩は唇を重ねた………

 

 

 

 

 

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