これは迫りくる脅威から住民を一人でも多く救おうとした人々の、そして一人の男の物語である。
きっかけは突然に
平成34年2月28日
公務員とは一般に思われているより忙しい仕事である。ましてやそれが県庁の重責に就く男ともなれば残業に次ぐ残業は当たり前のことであった。珍しく彼がまだ夕陽が差し込んでいる時間帯の混んだターミナル駅に足を運ぶことができたのは幸運というほかなかった。
1日の仕事を終えた人々が電車やバスを待つために列を作るのは日本の都市であればどこでも見られる光景の一つだろう。それは琉球列島最大の都市であるここ、那覇でも同じだった。
多くの人が緩慢な動きで郊外電車のホームへの階段を上がっていく。窓から見える市内電車の電停は人もまばらだ。この先に広がるであろう歓楽街の赤提灯も寒風に吹かれているのかと思えば少し淋しさを感じる。
『間もなく、2番乗り場には快速 糸満行きが参ります。危険ですから~』
「懐かしいなぁ」
銀色に赤い帯の3両編成。上京したての大学時代に友人たちと新車だと言って写真を撮りに追いかけた車両だ。佐久間は沖縄の人間ではない。沖縄に来たのは2年前、内務省からの出向である。妻と娘を東京に残して沖縄に赴任してきたのだ。そんな佐久間にとっては数年振りにこの電車を見たときまさに旧友と再会するような気分であった。
昔と変わらない大きな音を立てて扉が開く。車内もほとんど昔のままで佐久間は学生時代を思い起こしていた。運良くドアの横の席に腰掛けることができたことによる小さな優越感に浸りながら発車を待っていた。
『ただいま名護からの急行電車に10分ほどの遅れが出ています。この電車は急行電車からのお乗り換えのお客様を待って発車いたしますのでしばらく車内でお待ちください 繰り返します~』
静かな車内に雑音混じりの車掌のアナウンスが聞こえた。それと同時に車内にため息が広がる。家路を急ぐ人々にとっては数分の遅れも大きなものに感じられるのだろう。佐久間も少し眉間にしわを寄せたが、すぐに表情を戻し鞄から文庫本を取り出した。佐久間にとって電車に乗ったら文庫本を読む、というのは高校時代から続くルーティンだ。自分の娘にもそれは脈々と受け継がれたようで今では互いにおすすめの本を貸し借りするような関係である。今読んでいるのも入試休みで娘が沖縄に遊びに来た時に貸してくれたものだ。続きから読もうと栞を挟んだページを開こうとしたそのとき、電話の着信を告げるバイブレータの振動が伝わって来た。
佐久間はやむなく開きかけた文庫本を閉じ、立ち上がった。たいして混んでもいない電車だ。いい席は少々惜しいが座って帰れないということはないだろう。公共の福祉を重んじる公務員である以上は車内で電話を取ることは望ましくない。そう思った佐久間はプラットホームに出た。
「はい佐久間です」
佐久間はいったん降りる羽目になったことによる不機嫌さをなるべく出さないように抑揚のない声で電話を取った。公務は終わってすでに帰宅中なのだが。そう言いかけた時に電話の相手がそれを遮るようにまくしたてて来た。
『当直の防災課倉谷です 課長すぐに県庁に来てください! 53軍司令部から緊急電です!』
「分かった。すぐに戻る」
軍司令部からの緊急電などそうそうない。そして防災課長である自分に連絡が来るということはすなわち県民の命に関わることであろうと直感した佐久間は発車ベルが鳴り響くなかついさっき上がって来た階段を駆け下りる。すこしでも県庁に急ごうと市内電車の乗り場に目をやる。電車にすぐ乗れさえすれば県庁までは2分程で着くはずだ。しかし運の悪いことに市内線の電車はわずかな客を乗せて今まさに乗り場を滑り出すところであった。
「タイミングが悪すぎるな…」
佐久間は自分でも聞こえるかどうかといった小さな声ででそうぼやくと県庁に向け歩き出した。
沖縄一のターミナルである旭橋駅から県庁までの道は市内電車も通う国際通りを経由するのが近道である。このエリアは那覇のビジネス街として発達した。開発が早かったという事情もあってか最近では建物の老朽化も進み建て替えなども始まっているようである。とはいえここ数年沖縄を覆う不景気のせいか遅々として進んでいないのが現状だった。陽もかなり傾いてきていたせいか佐久間が沖縄に赴任して来た当初市内電車の車窓から眺めた景色よりも一段と薄暗くみえた。
「こんな状況じゃなぁ……」
県として少しでも沖縄に観光客を呼び込むためにいくつものキャンペーンを打ち出した。しかし成功といえる成功を収めたのは県鉄沿線が舞台となったアニメとのコラボくらいであったようだ。それでも沖縄の景気が上向いていないのはこの辺りの街からもうかがえる。どうにかならないものか。そんなことを思いながら佐久間はつい20分ほど前に出た県庁の門を抜けた。
今日もまた、残業であろう。早く帰れないことに対する落胆をまだ引きずっていた佐久間だが、これもまた仕事だ。そう思いなおすとエレベーターに乗り込む。防災課のある5階へはものの十数秒で到着した。
「佐久間課長!大変です!」
こちらが声をかけるより早く大きな声で呼ばれた。
「倉谷!落ち着け!一体何があった!」
声をかけた主は先ほど電話をかけてきた倉谷だった。入庁5年目の23歳。まだまだ若手だが、常に冷静な彼のことを佐久間は割と買っていた。そんな彼が慌てた表情のまま駆けてくるので佐久間は思わず大声を出した。非常時とはいえ、慌てて良い方向に進むことなどほとんどない。それは佐久間が内務省時代に当時の上司から教わったことの一つであった。
「課長 とりあえずこちらへ」
倉谷は少し平静さを取り戻した声でホワイトボードの方を示した。
「状況を説明してくれ」
佐久間はホワイトボードの文字を睨みつつ声をかけた。
「
「なんてこった…… 戦争が始まるというのか 。で、何を手伝えばいいんだ?53軍司令部からはなんと言ってきているんだ」
「住民の避難誘導計画の策定を要請されてきています。もっとも、上陸予定地点は全く不明とのことなのですが……」
「敵が攻めてくる。どこに来るかはわからない。とりあえず住民を逃せ。つまりそういうことだな?」
「そういうことでしょうね…… 該当する災害マニュアルもありませんがどうしましょう」
「災害マニュアルはいつも役に立たないだろう。とりあえず県警と消防、あと港湾局と県鉄と乗合自動車組合にコールしてくれ。とにかく逃す方法を考えなければならないな」
「了解です」
「しかし全島避難を考慮しなければならない日が来るとはなぁ。1人の命も失わせてはならんぞ」
そう訓示すると佐久間は自席についた。一服する時間が欲しいが今はその余裕がない。引き出しから沖縄本島の地図を広げる。狭いように見える沖縄本島もこうして見るとあまりにも広い。ここに暮らす100万の住民を逃さねばならない。その重責に佐久間は胃に穴が開くような思いであった。