艦隊これくしょん 麒麟の凱旋 作:ひろつかさ(旧・白寅Ⅰ号)
「少女の行方」
二度と帰らない。
そう心の中で決めたのはいつの頃の彼女だったろうか、台湾海防軍への長期派遣からの帰国、それからの友人たちの宴席を断ってまで来たかった場所がある。
港町からすこし外れた、とある小山。
この街を見下ろせるその場所には、空襲による犠牲者の墓碑が並んでいる。
その多くは家族も、知人も、戸籍も失われているため、誰のものなのかわからない墓が延々と続き、墓石にはただ『九月大空襲犠牲者』と小さく刻まれている。
誰一人来ない、長い参礼用の階段を上がりながら、雑草の生い茂る墓場を一瞥する。
手入れをする人間を失った石肌は、海からの風をそっと受け止め続けたことで荒れに荒れている。その姿は生と死と共にこの世にあらんとしているようだった。
階段の先では、一本の桜の老木が静かにその花を輝かせている。
その小さな広場には木製の看板が三つ、四つかすれた文字を残して朽ち果てようとしている。
そして無慈悲な桜は、薄い桃色の花びらを太陽に透かして、醜く色褪せた看板を見下げている。
よくは覚えていない、しかし昔からこの桜を知っている。
彼女は頭の隅に残る記憶をなぞりながら老木のもとへ歩み寄る。
「あなたは誰」
いつからそこにいたのか、一人の黒く薄汚れた少女が目の前に立っている。
「あなたは誰」
当たり前のように、そう返した。
「あたし?私は陽子。古橋陽子って言うんだよ。それで、お姉ちゃんのお名前は?」
「私。私の名前は雪風。艦娘の雪風」
やや補いつつ、本名から遠ざかるように自分の名前を口にした。
「ゆき……かぜ……なの?」
「そうだよ」
「へえ、雪風って言うんだ。変なの」
「どこがおかしいの」
「わかんない!雪風お姉ちゃん、なんでだろうね」
「なんでだろう」
「でね、お姉ちゃん。陽子おなかすいちゃって」
「おにぎりが六個あるわ、二人で分けましょうか」
「わーい、おにぎりだ!」
陽子という少女は老木にもたれかかり、街の食堂で作ってもらった六つのおにぎりを分け合った。
「ちょっとしょっぱいけど、おいしい?」
「とってもおいしいよ」
「よかった」
少女は防空頭巾を首にかけ、白かっただろうワンピースは黒くすす汚れている。その胸に彼女の名前が書かれていただろうビニール製のワッペンが、高熱によって醜く歪んでいる。ただ、それはリンゴの形を模したものであろうことは分かる。
「陽子ちゃんって、呼んでいいかな」
「いいよ!」
「ねぇ、陽子ちゃんはどこに住んでいたの」
「魚町」
以前、この軍港はおだやかな漁港であり、現在工廠になっている東区には、魚町という商店街があった。現在は地図上にのみ、『魚町』の名が残っていることを雪風は知っていた。
島の中心を成し、西の小山には街を見下ろせる小学校、中心部には島内唯一の役場と向かい隣に銀行。海辺へと行けば卸売場に、漁船を手入れする鼻の赤い男たち。瀬戸内海でも大きな部類に入るこの島は、漁師とその家族、役人に銀行員、教員に宿屋の主人と賑やかだった。
「そうなんだ、魚町に住んでいるんだ」
「そうだよ、あたしのおとーちゃんは魚屋をやってて、いーっぱいお魚を売ってるんだよ毎日、でもおとーちゃんもおかーちゃんも陽子がお魚に触るのはダメっていうんだよ。いつもお魚にいっぱいさあわっているのにね。でもね、いい子にしているとお父ちゃんは私に魚の名前を教えてくれた。春は鯛、初夏には初鰹、秋にはママカリにシャコがいたなぁ、冬になるとタコもいた。お母ちゃんは私に色々な料理を教えてくれたの、はじめて肉じゃがを作った日、なぜかお父ちゃん泣いて喜んでいたな」
「きっと陽子ちゃんが作ってくれたから嬉しかったんだよ」
「そうなのかな」
「そうかも」
「そうかもしれないね」
雪風は手持無沙汰にしている少女の手にもう一個、おにぎりを置いた。
「もう一個食べていいよ」
「わーい、ありがとう」
「ねぇ、陽子ちゃん」
夢中でおにぎりをほおばりながら、何かなと返事をした。
「お父ちゃんとお母ちゃんはどこにいるのかな」
少女はしばらく沈黙を守ったまま、指についた米粒を夢中で吸い取った。
「それを私に聞くんだ」
立ち上がって草を払うと、付いてくるようにと雪風に手招きをした。
この小山にはいくつもの山道があり、その道は子供たちの姿であふれていた道だった。
今、この道に沿って続くのは、草木や虫たちが織り成す持続という名の回廊。そこでは常に破壊と再生、そして回帰が繰り返される。彼女たちの先に、持続からはほど遠い、理念的かつ象徴的な建築物が、その黒々としたコンクリート面を灰色に知覚させながら佇んでいる。
『三幸島小中学校』と書かれた銅版が目に入る。
中央螺旋階段をもつ二階建て建築様式の円形校舎は島内唯一の学校であり、むき出しになった鉄骨があらゆる方向に走りながら、半壊した教室に光を差し入れている。
校門は開いたまま、来ることのない子供たちを待っている。
少女は何らためらうことなく校庭へ踏み込んだが、雪風の足が止まった。
「どうしたの、怖いの」
その一言は、彼女の胸をすり抜けるような気味の悪い感触だった。
「手をつないであげる」
全く迷いもせず、雪風の感情に意も介さず、その手を校舎へ向かって強く引く。
校庭の中央には黒ずんだ土が小さく半円状に盛られ、誰かが持ってきたであろう花束が土山に供えられている。
「あそこにどんな人達がいるのか知っているのだよね」
「うん、知っている」
つないでいた手と手は、気づけば離れ離れとなり、少女と雪風の間にわずかながら距離があった。
無数の弾痕がついたコンクリートの壁、もはや存在していたのか分からない扉、雑草や木の枝がコンクリートに溶け込むように灰色に染まり、当たり前のように廊下の隅にうず高く積もっている。螺旋階段を上り始めるとまたしても花束が置かれている。
二階の東側奥の半壊した教室の前で二人の足が止まった。
「ここにいると思う」
「ここ……に」
振り返った少女の瞳には優しさはない、鋭い眼差しが雪風を覗き込む。
「十二年前の九月二十日、街が深海棲艦の爆撃を受け、住民の多くは地区ごとに指定された避難所へと逃げ込んだ。魚町はこの小学校が指定避難所に定められていた。攻撃から五時間後の午後三時十一分、この校舎に急降下爆撃機の三発の爆弾が命中した。逃げ出せた人も校庭で機銃掃射にさらされ大半が死んだ。お父さんは、魚町の消火作業中に敵の艦砲射撃で死んだ。お母さんは二階のこの教室で、けが人の手当てをしていた。とうの私は山下の災害用倉庫から救命キットを学校に運ぶ最中だった。目の前の校舎から強烈な死臭と硝煙の匂いが、私の思考を停止させた。その後、街からも、校舎からも骨どころか遺品も見つからず、写真一枚手元に残らなかった。そうだよね」
「そうだね」
「思い出せてよかったね」
「思い出したくもなかったのに、何が良かったの、私への皮肉かしら」
「そうね。もしかしたら自分への嘲笑だったのかもしれない。人は自己の意思や無意識の中で忘却と邂逅を繰り返す。言葉、感情、傷跡、手足の感覚、知覚した映像群と再構成された夢、それら全てが肉体の持っている全ての消失を抑制し、保持し続ける。そして、死を受けるその瞬間、知覚が終わり、人間の生命的なゆとりの中で残しえた一定のものを除いて、それらは消滅する。でも、あなたは作り物の体の中で生命のゆとりを捨てて、今なお夢中夢を繰り返している。記憶は忘れることはあっても、消えることはない。あなたを構成する記憶が静かに呼吸を繰り返す。そして、自らに問う。私はいつまで雪風でいるのかを」
かつて陽子と呼ばれていた少女は、もういない。
雪風だけがここにいる。