くれない色の恋慕   作:清水一二

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第1話

 遠征先で買ったという黒い鏡台を覗き込んで、清光がニッと歯を見せた。僕は横から彼の作った表情を眺めて、うん、とうなずく。

 

 

「なぁ、安定。こうか? うまくいかないな」

 

「もう少し口角を上げたほうがいいんじゃない?」

 

 

 ニッ、と清光が思いっきり口端を持ち上げた。

 

 

「うん、いい! それなら主も可愛いって言ってくれるよ」

 

「そうか! 明日にでも主の前で使ってみるよ」

 

 

 ニッ。こうだな。よしっ。と鏡台と真剣に向き合う清光を微笑ましく思いながら、僕はふわぁっと大きなあくびをひとつ。揃えた指を口に当てた。上向いた拍子に天辺でひとつにまとめた黒髪の房が揺れた。そんなに重くないはずなのに眠気でぼんやりしてきたせいか、つられて後頭部が引っ張られそうになった。慌てて顎を引く。

 

 

「そろそろ部屋に戻るよ」

 

「おう、相談にのってくれてありがとうな」

 

 

 清光の部屋の障子を開けて振り返る。鏡台に向かう彼の横顔が生気に溢れていて、少しうらやましく思った。夢中になれることか。僕にはなにもない。

 

 

 僕の前に、長い廊下が伸びている。月光が板間をほのかに青白く染めて、十分に足もとが見える。そのおかげで燈明皿は必要なかった。

 

 

 静かな夜の気配が辺りを満たして、僕の胸の暗く淀んださざ波がすーっと引いていく。肌寒い夜気が、水色の羽織から肌へと染みたわり、僕はぶるるっと肩を縮ませて胸もとを寄り合わせた。

 

 

 中庭に広がる池の水面に大きな丸い月が落ちて、微かに揺らめいている。地上から夜空を照らしているように感じた。それに呼応して、星たちが瞬いているような気さえした。彼らの密やかなる話し声を聞いてみたいと思った。それとも歌っているのだろうか。

 

 

 廊下の先に人の姿が見えた。月の光を浴びて男が片膝を立て、ちょうどいま、どぶろくを傾けたところだ。黒っぽい衣服に身を包む、そのがっしりとした体躯は日本号だ。近づく僕に気づいて、口から離したどぶろくを持ち上げた。あいさつのつもりだろう。

 

 

「おう、一杯どうだ?」

 

「遠慮しておきます。これから布団に入るので。それより寒くないですか?」

 

「んあっ、そうか? 酒が入ってるからな、よくわからねえや」

 

 

 そうか。僕は飲まないからな。

 

 日本号は池の水面に視線を移し、それから空を仰いだ。

 

 

「ふたつの月を味わいながら酒ってのも乙なものだな」

 

「ほんと、美しいですね」

 

 

 僕は水面に輝く月を見つめた。空に浮かんだ月よりも、ほれぼれしてしまう。唐突に清光の顔が脳裏をよぎった。水面を鏡とするなら、あの微かに揺らめく月は清光の笑顔だ。月とは違って、彼に優劣なんかつけられないけど。

 

 

 日本号の背中の向こうに、白いものが見えた。ん? と目を向けると、五虎退がこちらに顔を出している。ただでさえ白い肌が青白い月明かりを受けていて、このままでは光に溶けてしまうんじゃないかと心配になった。

 

 

 五虎退は潤んだ瞳で僕を見上げて、小首を傾げた。僕は驚きと不安でいっぱいになり、ついじっと見つめてしまっていた。いままで日本号の体に隠されていたみたいだ。

 

 

「五虎退はお月見か?」

 

「うん。眠れなくて」

 

 

 腕に抱かれた虎が、顔いっぱいに口を広げてあくびをした。五虎退の体温を感じているだろうけど、ぶるぶるっという震えが伝わってきそうなほど身を縮めている。

 

 

「夜更かしは明日がつらくなるよ」

 

「わかってる。僕、食事当番だから早起きしなくちゃいけないのに」

 

「部屋まで送っていくよ」

 

「でも……眠れるかなぁ」

 

 

 そう言いつつも、眠たそうな潤んだ目をこすっている。

 

 

「眠るまで僕がそばにいるよ。なにか話を聞かせよう」

 

「ほんと?」

 

 

 手をついて体を持ち上げようとする彼を手伝い、立ち上がらせた。気だるそうな体が重く圧しかかってくる。

 

 

「俺ぁ、ひとりで、ちびちびやってるよ」

 

「そう言わないでくださいよ」

 

 

 肩越しに振り返って、遠慮がちに笑いかけた。

 

 

「別に気にしねえよ。子どもの寝る時間はとっくに過ぎてるからな」

 

 

 ひとりごちる淋しげな声を背中に聞きながら、僕は足取りの重い五虎退を伴って部屋に向かった。

 

 障子を透き通る微かな月光を頼りに、僕は乱れたかけ布団を整える。その間に五虎退が横になり、その華奢な体に虎が寄り添うようにしてうずくまった。僕はふたつの小さな体に、そっと布団をかけてやる。

 

 

「お話し、して」

 

 

 僕は傍らに腰を落ち着けて、見上げてくる五虎退にうなずいた。

 

 

「約束したからね」

 

 

 なにを話そうかと考えて、すぐに言葉を紡ぐ。さっき、清光の笑顔の練習につきあったときのことだ。次から次に言葉が溢れ出てくる。夢中になって話していると、そばで寝息が聞こえてきた。僕はまだ途中だった弾んだ声を押し込めて、すっかり寝入ってしまった穏やかな顔を眺めた。

 

 

「まだ話したりないんだけどな」

 

 

 薄暗い室内は、あっという間に彼らの寝息に乗っ取られた。僕の声はうねりのある呼吸音に吸い込まれて、五虎退の意識にはとっくに届いていなかったようだ。

 

 

 夜の暗がりの中で、ひとり密やかに息をする。じっとしていると、部屋に取り込まれてしまいそうになる。僕は本当にここに存在しているのか。闇に溶かされて、呼吸音に掻き消されてしまったんじゃないか。

 

 

 喉の奥から掠れた悲鳴が漏れた。慌てて腰を浮かし、部屋から逃げ出す。

 

 自室に戻って、後ろ手に障子を閉めた。ふうっと息が揺れる。胸の鼓動が爆発しそうなくらいに全身を響かせる。

 

 

 馴染みのある室内の雰囲気に、だんだんと心が落ち着いてきた。僕はいったいなにから逃げたんだ。ここにいるじゃないか。目の前で手のひらを広げて、ぎゅっと握っては開く。ここにいる。

 

 

 布団に寝ころんで、一段と闇が深い空間を見つめた。清光はもう眠っただろうか。それともまだ笑ってるのかな。そのままでも十分可愛いと思うけど、刀剣の中で一番可愛がられたいんだろうな。僕は応援することしかできない。あいつが満足するまで。

 

 

 僕を愛してくれる人はいるだろうか。清光みたいに、愛されるためにがんばろうと思える特別な人ができるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 みんなの集まる大広間で、僕は朝食をとっていた。まだ眠くて頭がぼんやりする。数列に渡って膳が配置され、味噌汁、焼き魚、漬物などが載っている。

 

 

 隣に並んだ清光は、慌ただしく白飯をかき込んでいる。どうしてそんなに急いでいるのかと訝りながら、僕はのんびりと味噌汁を手に取った。ごちそうさまっと声を張り上げて清光が立ち上がって、僕はお椀に口をつけたまま彼を見遣る。僕と背中合わせに座る同田貫正国との間を通っていく。

 

 

 清光は向かいの列の端に座る主の隣に腰を下ろした。さっそく満面の笑みを披露している。昨夜、僕が指摘したとおりの、とびっきりの笑顔だ。たぶん、この部屋にいる刀剣たちの中で、いま最も輝いているのは彼だ。間違いない。

 

 

 主は焼いた白身魚を口に運びなから、清光の話に耳を傾けているようだった。時おり、主が何事かを語りかけると、清光はあいづちを打ったり言葉を返したりしている。賑やかな喧騒に紛れて、ここまで声は届いてくれない。清光の煌めく笑顔だけが確かなものとして僕の目に映っていた。

 

 

 朝食を終えて、自室の前の廊下に座り、ぼんやりと池の水面を眺めた。やわらかな陽射しが降りそそいで、水がきらりと光る。それはきっと僕の上にも落ちて、照らしてくれていることだろう。とても落ち着いた冬のはじまりだなと思った。

 

 

 隣に清光が腰を下ろした。足音に気づかなかったとは、ぼんやりしすぎてたみたいだ。清光が足音を殺すのは戦の中だけで、普段は騒がしい性格がそのまま音に表れているからだ。彼がうつむいた拍子に、ひとつに縛った黒髪の束が肩のあたりで力なく揺れた。

 

 

「さっきの笑顔、よかったよ」

 

「ほんとか? けど、主に可愛いとは言われなかった……」

 

「そんなに言葉が大事か? 清光がいつも楽しそうに笑っていれば、主も幸せな気持ちになれるんじゃない?」

 

「幸せになるかな。けど、やっぱり可愛いって言われたいなぁ」

 

「道のりは遠そうだな」

 

 

 僕はどこまでも広がる青空を見上げた。

 

 廊下の向こうから、さわやかな話し声が近づいてきた。和泉守兼定と堀川国広が並んで歩いてくる。国広があんなにうれしそうにしているのは久しぶりだ。もうずっとふさぎがちで、元気づけようと声をかけるのも躊躇するほどに弱っていた。

 

 

「そういえば今日だったな……」

 

 

 清光がぽつりと放った言葉に、僕は、「ああ」とだけ答えた。近づいてきた兼定さんに、「おかえりなさい」と無理やりに声を張り上げる。

 

 

「おう。次は安定の番だったよな。楽しんでこいよ」

 

「はい!」

 

 

 ふたりの背中が仲良さそうに去っていく。見ていられなくなって、慌てて目をそらす。たった三ヶ月の間、本丸を離れるだけなのに、もう淋しく感じる。まだ僕はここにいるのに。

 

 

「未来か。どんなところだろ」

 

「さあな。主が生まれた時代に行けるってうらやましいよ。早く俺の番がまわってこないかなー。あ、けど、三ヶ月も主と会えなくなるのか……やっぱり行きたくない。主のそばにいたいからな」

 

「まったく。主の話ばかりだな」

 

「なんだよー」

 

 

 部屋に戻って、箪笥から着替えを出して風呂敷に包み入れた。すぐに主の部屋へ向かう。すると、清光が主と向かい合って座り、談笑していた。主が清光の肩越しに僕を見て、その視線を追うように清光が振り返った。

 

 

「おっ、来た来た。いよいよだな」

 

「ああ」

 

 

 これから僕は、主の生まれた時代に旅をする。刀剣たちは順番に三ヶ月の暇をもらって、主の世界を体験してくる。誰がはじめに言い出したのか、その提案をおもしろがった主が快諾したのがきっかけだった。

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