「優も?」
店の前で待っていた香帆さんがそう言った。優は気まずそうに唇を歪めた。
「ごめん、お邪魔だったかな」
「お邪魔ってなによ」
微妙な距離を保ちながら歩くふたりに、僕はヤキモキする。相変わらず胸が痛みに響いたままなのに、優の押しの弱さには我慢ならない。僕は優を香帆さんの隣に押しやった。僕は優の隣、車道側を歩く。夜を照らすヘッドライトがむなしく通り過ぎていく。
駅の向こう側にある専門店に着いたのは、閉店の二十分前だった。
「早く早く」
店内に駆け込んでいく香帆さんに、僕たちも続いた。
「僕は向こうに行くから、優は香帆さんについててあげて」
「え!?」
「がんばって」
僕はふたりとは反対の通路を駆けていく。棚の端のほうまでやって来ると足を止めた。昨日、たっぷり買い物を楽しんだから、今日は香帆さんにつきあっただけだ。
しばらく清光の煌びやかなシールやペンケースなどを眺めて過ごした。どれもこれも部屋にあるものだけど、ずっと見ていても全然飽きない。
腕にはめた清光の時計を見ると、閉店までもう十分を切っていた。僕は急いでふたりを探す。二階にあるコスチュームコーナーで、ハンガーにずらりとかけられた刀剣たちの衣服の間に、ふたりは挟まれていた。
香帆さんが優の胸に紺色の衣服を当てている。あれは一期一振のものだ。
「似合う! あっ、ねえねえ、どう思う?」
僕に気づいて声をかけてくる。衣服の列をひとつ挟んで、僕は近づいていく。
「確かに穏やかな顔立ちは似てるような気がするけど、性格は全然違う」
「いいのいいの。容姿だけなら一期一振と似てるから。髪、水色に染めてみない?」
「え!? ムリだよー」
コスプレって髪を染めないといけないのか。大変だな。っと、それどころじゃなかった。僕は腕を伸ばして、清光の時計を見せた。
「それより、あと五分で閉店だよ」
「やっば。買ってくる!」
彼女は床に置いた買い物かごを引っつかんで、慌ててハンガーの道から抜け出した。僕と優はゆるりと向かう。
「香帆さん、元気だね」
通路を駆けていく後ろ姿を眺める優の口もとがほころんでいる。誰が見ても、香帆さんに好意を抱いているとわかるくらいにやわらかな笑みだ。彼女のああいうところに惹かれたのだろうか。
「またまた清光グッズ買っちゃった」
夜道を行きながら、香帆さんが袋を掲げた。
「僕は昨日買ったから、今日はなし」
「また新商品が入荷したころに行こうよ。清光グッズなら、なんでもいいって感じ」
「僕もだ。笑顔が一番だけど、結局、どんな清光も、清光だから」
香帆さんが、うんうんっと楽しげにうなずいているのに対して、優はどこか別のところに目を遣っている。ああ、入れないんだ。清光の話は優にはわからない。なんとか話を変えなくては。僕はあれこれと思考を巡らせる。
「優、最近、失敗が減ったよね」
「接客?」
香帆さんがくいついてきた。
「そうかな。なんか手がふるふるしてて危なっかしいよ。見ててハラハラする」
「でも、ショートケーキの苺は落とさなくなったよ」
優が勝ち誇ったように笑む。
「そんなことで自慢しないの。当たり前のことなんだから」
「ごめん……」
どうしてそこで黙ってしまうんだ。苺を落とさなくなったのは、かなりの進歩じゃないか。もっと自信を持つんだ。
香帆さんがちらりと優に視線を向けた。
「ねえ、あれってわざとでしょ」
「なんのこと?」
優が不思議そうに香帆さんを見遣ると、彼女は視線をそらした。
「紅茶をこぼしたり、ケーキを倒したり、注文と違うものを出したり……」
「どうして、俺がそんなことを」
「だって、あたしだけじゃない。いつも……嫌がらせしてたんでしょ」
「違う。香帆さんの前だと緊張するんだ」
「意味わかんない! なによその言いわけ」
優が哀しそうに目を伏せた。その痛々しさに、僕はたまらなくなって優の腕をつかんだ。震えていた。
ここで黙ったらダメだよ。取り返しのつかないことになるかもしれない。僕の願いが通じたのか、優の腕に力がよみがえるのが伝わってきた。
「……忘れものの話をしたこと、覚えてる?」
問うた香帆さんの唇は震えている。伏せた長いまつ毛が、哀しげに揺れる。優は肯定も否定もしない。ただじっとうつむいて、体中を流れる感情に耐えているようだった。
「一番最初に忘れものをしたのは香帆さんだよね。俺が追いかけたのは、香帆さんだよね。あのとき、忘れものを渡したときの、ありがとうって言った香帆さんの笑顔がまぶしくて、忘れられなくなったんだ。いまでも、ずっと心に残ってる」
香帆さんのまつ毛が、もうひと波揺れて持ち上がる。優の真剣な想いが、彼女の複雑な感情をしっかりと受け止めた。
「うそよ」
「ほんとだよ。あの瞬間から香帆さんが俺の心を離さない」
「じゃあ、忘れものってなんだか知ってる?」
「手帳、でしょ」
香帆さんを見つめる優の眼差しは、とても優しくて愛に溢れていた。弾かれたように、彼女が口もとを手で押さえた。嗚咽が漏れる。震える肩を、体を、優の腕が優しく包み込む。
「お、ぼえて、る。あたし、も。ずっと……」
涙に濡れる香帆さんの声を聞きながら、僕は背を向けた。
立ち並ぶ雑居ビルや百貨店の窓から漏れ出る明かりが、街灯の存在を隠している。人に紛れて歩く僕の姿も消えてしまう。誰でもない僕になる。だけど、胸の疼きが全身を震わせて、僕は否が応にも自分の存在を認めてしまう。
ふたりを見て確信した。僕を愛してくれる人はきっとどこにもいない。やっぱりいないんだ。あんなに煌めいた愛を、僕は知らない。僕が永遠に経験することのない純粋なものだ。そんなものを誰が僕に注いでくれる。
ずっと感じてた。この感情はなんだろうと。ふたりの関係がよくなってうれしい。そのはずなのに僕は本当の意味では満たされていない……。
僕が本当に見たいのは清光の笑顔だ。優を清光の代わりにしていた。清光の代わりは誰にもできないというのに。
そうだ、誰でもいいわけじゃなかったんだ。清光……どこにもいない。この世界に存在してない。僕の記憶の中だけに生きている。
ここに、あいつはいない。
香帆さんは指名を優に戻した。
「だからそれは平野藤四郎だって」
彼女のついたテーブルで、優がさわやかに笑う。
僕の胸はいつまで疼くつもりだろう。あの笑顔が清光だったらどんなにいいか。
「いつもより哀しそう。どうしたの?」
傍らでコーヒーの入ったティカップを持ったまま僕を見上げる少女は、大きな瞳に憂いを湛えている。勤めはじめたときから僕を指名してくれている、すっかり常連のお客さんだ。
「そう、かな。いつもと変わらないよ」
僕が微笑むと、少女の目尻が沈痛そうに垂れ下がる。
「おねがいだから、そんなに淋しそうにしないで」
「大丈夫だよ。ありがとう」
努めてやわらかく微笑んだつもりでも、少女の瞳はいっそう哀しみの色が深くなるばかりだ。僕はそれほど哀愁を漂わせているんだろうか。
テーブルを離れて優の背後を通る。カウンターに戻ってシンクにたまった汚れた皿を洗う。本当は接客するべきなんだけど、少しの間だけでもひとりになりたかった。
まもなく優がティカップを手にやってきた。にこやかにココアをそそぐ。香帆さんのお代わりらしい。時おり、ちらりと顔を上げて、彼女の存在を確かめている。ふたりの視線がぶつかって、途端に愛色の雰囲気が立ち込めた。
その甘い世界が僕の内側に侵入して、無数の針に変化する。容赦なく、やわい箇所を突き刺してくる。ふたりの煌めく愛は、こんなにも僕を痛くさせる。
部屋に帰って一番に抱き枕に抱きついた。
「清光、ただいま」
腕の中に清光を感じながら、込み上げてくる切なさを分散させようと必死になった。会いたいよ、清光。
ふいに、誰もいないはずの部屋で物音がした。脱衣所のほうだ。なんだろうと顔を向けたとき、開いたドアから清光が出てきた。
「へえ、ここが主の部屋か」
一瞬で、全身が硬直した。互いの表情が凍りつく。どう……して。