僕は障子の前に座り込んで、澄んだ空気に身を浸す。僕にとって三ヶ月は永遠とも思えるほどに長いものだった。清光に会いたくてたまらなくなって、だけど、本丸に帰ってもまだ会えない……。僕が以前とは変わってしまったのだから、これまでのようにはいかないんだろうな。
やがて陽が落ち、夜が訪れた。膝を抱えて身を縮める。まだあの部屋にいるみたいな錯覚に陥ってしまう。希望などひとつもない。内側から欝々とした感情が皮膚を打ち破り、羽を広げて、優しく僕を包み込む。僕は哀しみに打ちひしがれて、どろりとした痛みそのものになる。そうして内なる闇と一体となって……。
勢いよく障子が開いて、僕は振り返った。清光が踏み出そうとした足を引っ込める。
「うわっ、まさかあれからずっといたのか?」
僕は立ち上がって、清光と同じ目線になる。
「話がしたいんだ」
「なんだよ、その顔色。病気か?」
「寝不足なだけだ。それより話を――」
「それ、聞かなきゃダメか? 真面目な話、苦手なんだよなぁ」
僕は清光の腕をつかむ。
「聞いてほしい。ちゃんと説明したいんだ」
清光が真剣な眼差しを向けてくる。先を促されているような気がして、僕は思いきって口を開いた。
「あ、あの日。主の部屋で見たもの、覚えてるよな」
「……ああ」
清光が気まずそうに視線をそらした。
「僕のこと、気持ち悪いって思ったよな。ほんと気持ち悪いよな……」
清光はなにも言わない。
痛いほどの胸の高鳴りが頭の中まで支配して、僕はおかしくなりそうだった。どうにかして落ち着こうと、大きく息を吐く。
「離れてみてわかったんだ。自分が思ってるより、清光が大事な存在なんだって。ほかの人を応援してみたけど、ダメなんだ。僕が応援したいのは、幸せになってもらいたいのは清光なんだ。清光の笑顔が、一番見たい」
どうにか、一息に言い終えた。手が、足が、全身が震えて、立っているのがやっとだ。清光は、うつむいたきり微動だにしない。僕を拒んでいるんだとわかった。優しい奴だから、はっきり言葉にできないんだろう。
「ごめんな。不快な思いをさせて」
僕は清光に背を向けた。月明りは僕を照らしてはくれない。冷やりとした悲しみの羽が僕を優しく包み込み、闇へと誘う。僕はしずしずと廊下を歩き、一歩踏み出すごとに人としての形を失っていく。
「可愛い笑顔の俺、あるか?」
「え?」
僕は振り返って、まばゆい光に目を細める。うまく質問の意味が呑み込めず、硬直してしまう。
「どうなんだよ」
「あ……あるよ」
「見せてみろ」
清光が――僕の想い人が歩み寄ってきて、僕の心臓が早鐘を打ちはじめる。哀しみの羽が閉じて、僕の内側から生命が満ち溢れる。突然のことで呼吸もままならない。
「気持ち、悪くないのか?」
目の前で立ち止まった清光を、おそるおそる見上げる。
「主の部屋に行ったとき、びっくりして、どうしていいかわからなくなった。あのときはごめん。俺が安定に会いにいったのは、淋しかったからだ。おまえは物で淋しさを埋めたんだろ。そりゃそうだよな。誰も知らない時代にひとりで行くんだ。仲間に会いたくもなる。だから気持ち悪いとは思ってないよ。俺も、おまえに会いたかったからな。ただ、どういう顔をして会えばいいのかわからなかっただけだ」
「ごめ……」
涙が溢れてくる。
「らしくねえなー、ったく」
清光が肩を優しく叩いてきた。
「ほらっ、ご飯行くぞ。俺、腹減っちゃってさー」
僕は促されるままに歩く。
もうずっと長い間、僕のことを愛してくれる人を探してた。どうして、いままで気づかなかったんだろう。ここにいたのに。きっと相手が女性だという狭い考えに囚われていたせいだ。愛の種類はひとつじゃない。清光は、僕を愛してくれる大事な友だ。それはきっと、僕とは違う愛。いまはそれでいい。嫌われることの恐怖はイヤというほど味わった。僕にはまだ真実を告げる勇気がない。
「食べ終わったら、笑顔見てやろうか」
「ああ、いいぜ。前よりは可愛く作れるようになった気がするんだよな。けど、やっぱりまだいまいちだなー」
「練習、つきあうよ」
「おうっ!」
部屋の隅で積み上げられたダンボールが、眩しい朝陽に照らされて煌めいていた。三ヶ月ぶりの自室の懐かしい光景に、僕は布団の中で感慨に浸っていた。本当に帰ってきたんだな。いつでも清光に会える、あの煌めいた微笑みに。
「おはよう!」
唐突に開いた障子から、清光の顔が飛び込んできた。僕は慌てて布団もろとも跳ね起きた。
「清光!!」
「なんだ、まだ寝てたのか。ああ、そういや昨夜、顔色が悪かったんだったな。大丈夫か?」
「よく眠れたから大丈夫だよ。なにせ久しぶりの自分の布団だからね」
「おっ、肌が艶々してるな」
間近にぐっと顔が迫ってきて、僕の心臓がうるさいくらいに羞恥を訴える。
「そ、そそそそそうかな。いつもと変わらないよ」
「なにどもってるんだよ。まだ寝てたほうがいいんじゃないか?」
肩をつかまれ、布団に押しつけられて、真上からの清光の顔に僕の全身が強張る。深い紅色の瞳に、吸い込まれるように惹きつけられて逃げられない。僕が顔から火が出る思いでじっと見つめているからか、清光もなかなか視線が外せないでいるみたいだ。そのうちに胸の痛みに襲われた。こんなに近くいる……僕の想いが届けばいいのに。
押さえつけたその腕に触れようとして、その手に気がついた清光が、僕からぱっと離れた。不自然な素振りでダンボールのほうへ視線を向ける。
「そういやぬいぐるみを見せてもらいたかったんだった。あれ、ぬいぐるみっていうんだってな」
「あ、うん。ちょっと待って」
「寝てろよ。俺がやるから」
起き上がろうとする僕を、今度は口頭で制止する。
「病気じゃないから大丈夫だよ」
ダンボールの中でひしめきあう清光たちの一番上から、僕はとっておきのぬいぐるみを手に取った。はじめてゲームセンターで入手した極上の笑顔をした清光だ。
清光は瞳を輝かせて、まじまじとぬいぐるみを凝視した。
「おおっ! 俺の求めてる笑顔だ! これができれば最高なんだけどなぁ」
「あげるよ」
「いいのか? 助かるぜ」
清光になら僕の大切なものをあげられる。大事にしてくれるだろうから。
「安定がいないとき、お手本にするよ」
僕がいないとき……? 僕はここにいる。帰ってきたんだ。清光のそばに……。
開いた自分の手のひらから、畳へ、それから清光に視線を移した。ぬいぐるみを真似て口角を上げる清光に、僕の口が自然とほころぶ。そうだ、ここにいる。
朝食をすませてから清光の部屋にお邪魔した。やっぱりこの部屋は居心地がいい。清光の匂いがする。
「なあ聞いてるか、安定?」
口を真横に伸ばしたまま、こっちを振り向いた。
「ごめん。いいと思うよ。どうして主は可愛いって言ってくれないんだろう。不思議でたまらないよ」
こんなに輝いてるのに。
「主はあれでいいんだ……だから俺はがんばれる。もっと特別な笑顔を得るために。主のためのとびっきりのやつだぜ。ほかの刀剣には真似できない俺だけが生み出せる笑顔だ。まぁ、まだ会得できてないんだけどなっ」
照れたように微笑する清光に、もやりとした黒雲が胸の中で立ち込めるのを僕は感じた。複雑な思いで、再び鏡に向かう清光を見遣る。
清光が主に可愛いって言ってもらえるためにがんばるなら、僕は応援する。だって、優じゃなかったんだ。ほかの誰でもない、清光でなくてはいけない。
「主に成果を見てもらおぜ。安定がいるから百人力だもんな。頼りしてるぜ」
「まかせてよ」
主の部屋に近づくにつれ、何やら騒がしい声が廊下にまで漏れ出てきていた。
「ケンカか?」
走りだした清光のあとを追うと、室内では和泉守兼定さんと主が言い争っていた。というよりは、兼定さんが一方的に攻めてるみたいだ。必死に仲裁に入る堀川国広の姿が痛ましい。
「兼さん落ち着いて!」
「だってよ、あんまりじゃねえか。俺は駄目で、なんで安定には許すんだ」
「えっ、僕!?」
思わず声を上げてから、しまったと思った。兼定さんの刺々しい視線が僕をひたと見捉えた。まるで敵だとみなしているような鋭利さに、僕はわけがわからないながらも後退りそうになる。
突然、僕の前に清光の背中が躍り出てきて、一瞬にして胸が熱くなった。
「説明しろよ。こっちは事情がわからないってのに、なんだよその目つき」
「ダンボールを抱えて戻ってきたって? 俺はひとりも連れ帰れなかったんだぜ。あんまりじゃねえか」
「兼定は女だろ。人間を違う時代に連れて来られるわけがないじゃないか」
主が、兼定さんと清光の間に割って入った。
「主はここにいるじゃないか」
「俺は審判者だぜ。ほかの人間とは立場が違う」
「物なら許されるっていうなら、俺の女の写真だけでももらってきてくれ」
「俺がか!? 女は苦手なんだよなぁ。なんにせよ、次の機会まで待ってもらうしかないな」
「またあの時代に行かなくてはいけないのか!?」
僕は絶望に震える声を張り上げる。
「いや、希望者だけの予定だ。日本号もまた行かせてくれってしつこくてな。またいろんな酒を飲んでみたいらしい」
「それまで待てるわけないだろ。いったい何年先の話をしてるんだ」
主に食ってかかる兼定さんを、国広が体を張って押しとどめる。
「次の刀剣に頼んだらいいんじゃないかな」
「主、次は誰だ?」
「明石国行だ」
その名前を聞いた途端、兼定さんが天井を仰ぐ。
「あいつかぁ。部屋から一歩も出ないんじゃないか」
「頼むだけ頼んでみようよ、ね、兼さん」
「それしかないか」
ふたりが出ていくと、部屋はずいぶん穏やかになった。だけどあくまでも表面だけで、僕の心は依然としてざわついていた。清光と主が共にいることが耐えられなかった。三ヶ月前には生まれなかった感情だけに、いまの状態がよいことなのか僕にはわからなかった。清光への想いを後悔してるわけじゃない。ただこの悶えるような胸の痛みから逃げたかった。清光の近くにいるだけで幸せなはずなのに、僕は身勝手だ。
「やっと静かになったな」
ふぅっと主の隣に、清光が腰を下ろす。僕は足がすくんで、ふたりに近づけなかった。透明な分厚い壁がふたりと僕の間に立ちはだかって、あちら側の空間を、侵してはいけない領域のように感じた。
清光が楽しげに主に語りかける内容を、僕はちっとも理解できずにいた。耳に入ってきても、把握する前に逃げていってしまう。その代わりに、とてつもなく膨らんだもやりとした思いが、僕をしっかりと捕らえて離さなかった。僕は眩暈がして、廊下と部屋とを隔てる柱にもたれかかった。
ふたりの会話の洪水を聞き流していると、唐突に清光が僕の前を通り過ぎていった。
「どうしたんだ」