気落ちしたような背中が清光の部屋に飛び込んだかと思うと、へたりと畳に崩れ落ちた。それだけで失敗したんだとわかった。その下がった肩に、僕はいたわりの思いを込めて手を置いた。清光のほしいものと僕の想いとでは種類が異なるけど、手に入れられない気持ちは痛いほど理解できた。
「全然手ごたえがない……」
「だからいいんだって言ってただろ?」
畳の上にだらりと置いた清光の手を見つめていたら哀しみが募ってきて、自分の手に力が入る。
「もしかしたら、俺が可愛いを目指すこと自体が間違ってるんじゃないか」
「いまのは聞かなかったことにするよ」清光は努力せずとも十分にいい笑顔をしてる。だけど、いくら僕がそう思っていても清光は満足しない。だから……「僕にまかせて。百人力どころじゃなく、千人力にだってなってやる」
ぐっとつかんだままだったせいで肩が痛んだのか、僕を見上げる清光の双眸は苦痛と驚愕が混在していた。
「ほんとか……?」
「僕はいつでも清光の味方だ。いままでも、これから先もずっとだ。疑う理由なんかないじゃないか」
希望を込めたように力強く重ねてきた手と僕の手が、それぞれの想いと共に熱く燃え上がる。
僕は、清光の応援に明け暮れた。鏡と向き合う彼に、ときには優しく、ときには厳しく助言し、彼のがんばりに寄り添った。鏡をのぞく彼の後ろで、僕も一緒に口角を上げた。実際に体験すれば気づくことが増えるんじゃないかと思った。
「にーっ!」
ふたりで声を揃えて、口を横に広げる。清光が指を口の端に入れて思いきり引っ張った。
「痛っ」
「無理やりやっても意味ないよ。主の前では指なんか突っ込まないんだから」
「口が大きくなれば、めっちゃ横に広がるだろ? そのぶん楽しそうに見えないか?」
「そういう問題じゃないような気がする……」
この煮詰まった状況を打開したいのはわかる。だけど、顔を変形することが正解だとは思えない。清光は清光のままでいい。じゃあ、なにが足りないんだ。
鏡台の傍らに横たわるぬいぐるみに手を伸ばす。とびっきりの笑顔をしたまま硬直するその清光と視線を交わしながら、どうやったらこの笑顔を超えられるんだろうと考えた。
「ぬいぐるみにはできなくて、清光にはできること……」
「なんだ?」
僕はぶつぶつと呪文のように唱えて、答えはないかと思考の奥を探った。ぬいぐるみの張りついたような笑みが相も変わらずそこにあって、同じような生身の清光の表情とぴたりと符合した。
「……わかった、かもしれない」
「ほんとか!?」
身を乗り出してくる喜んだ形相の清光に、僕は「それだよ」と笑いかけた。
「どういうことだよ?」
「作られたものだからだよ。いままで笑顔になろうって意識しすぎてたよね。だから自然な笑顔にならないんだよ。それができなくても、もっと心からうれしそうにすれば感情が笑顔に表れるんじゃないかな」
「作られた、か。もしかしたら、俺がずっと納得できないのはそれが原因かもな」
清光は鏡に映った自分の顔をじっと睨みつけた。どうしたんだろうと思っていると、ふいにニッと笑った。さっきまでよりも生き生きとした表情だった。まるで人形に魂が吹き込まれたかのような満面の笑みに、僕は全身がぞくぞくするのを感じた。心の奥底で強烈な恋慕がほとばしる。あっという間に体が火照ってきて、僕は強く強く胸を押さえ込んだ。そうしなければ熱い想いが溢れ出てしまう。
「どうだ?」
鏡越しに問われて、想いごと心臓が跳ね上がる。
「か、完璧だよ! やったじゃないか、これで主もイチコロだよ!」
「ほんとか!? さっそく行ってくる!」
嬉々として部屋を出ていく清光を見送って、僕はひとり取り残された。イチコロだと? 主が清光をすきになるはずはない。主にとって僕たちは一刀剣だ。大丈夫、心配ない。だけど、もしそうなったら……。
不安に溺れそうになる思考を、必死に打ち消した。畳に横たわる清光のぬいぐみをぎゅっと抱きしめて、ゆっくりと深い呼吸を繰り返した。
いてもたってもいられなくなって、部屋を飛び出した。長い廊下にはすでに清光の姿はなく、僕は彼の亡霊を追いかけるようにして先を急いだ。いまにも踊り出しそうな背中がすぐ前に見えるようで、主の部屋に近づくにつれ胸がぎゅっと締めつけられた。
僕が決めたことだ。自分で応援するって決めたんだ。後悔なんかしない。してたまるもんか!
主の部屋から清光の弾けるような笑い声が聞こえて、途端に僕の足が重くなった。いまにも床板に沈み込みそうになり、足がいうことをきかない。泥沼にはまってしまったような足を、僕は必死に持ち上げた。一歩ずつ、着実に進める。
部屋では、清光がとびっきりの笑顔を惜しげもなくまき散らしていた。だけど、それはぬいぐるみと同じ表情で、息を切らせて廊下に立つ僕を泣きそうな眼差しで見上げてきた。そんな目をされたら見過ごすことなんかできないじゃないか。自分の痛みより、清光が悲しいことのほうが痛くてたまらなくなって、あっという間に気持ちが上塗りされてしまう。
僕はふぅっと深く息を吐いた。もう一歩も動けそうになくて、床板に座り込む。主が不思議そうに首を傾げた。
「こっちに来いよ」
「陽射しが気持ちいいからここで。そんなことより、さっきはごめん。僕のせいで兼定さんに責められてしまって。あの箱は、僕が無理を言って持って帰ってきたのに」
「許したのはオレだ。気にするな」
「主の時代には、なんで俺のぬいぐるみがあるんだ?」
「それは行ってからのお楽しみだな。実際に確かめたほうが驚きもひとしおだからな」
「僕も主に賛成だ。あの感情は直に味わうべきだよ。それも主の時代での洗礼みたいなものだ」
「なんだよ、余計知りたくなってきたじゃないか!」清光の瞳が生き生きと輝きを放ちはじめ、ずいっと主のほうへ身を乗り出した。「前みたいに主の時代に行こうぜ! ちょっとでいいからさ、なぁ頼むよ」
「もうダメだ。あれもほんとは許したらいけないことだったんだぞ。清光がどうしてもって言うからあのときは許可したけど。国広も行きたがってたのに突っぱねたんだからな」
そうだったのか、と思うのと同時に、あの日絶望した感情が少しだけ軽くなった。清光のことだから、主にしつこくしたんだろうな。そう思うと、自然と頬が緩んでくる。
視線に気づいて伏せていたまつ毛を持ち上げると、そこには清光の満面の笑みがあった。さっき襲ってきたのと同種のどくんっと脈打つ鼓動が、僕の全身を心臓に変えてしまう。
「おまえなー、いま怒られてるんだぞ。そんなに可愛いらしく笑ってもダメなもんはダメだからな!」
「いまなんて!?」
清光の手が、主の肩をつかむ。
「だからダメなもんはダメだ!」
「その前!」
「その前って? オレなんか言ったか?」
顎に手を当てて悩ましそうに眉根を寄せる主の所作は、芝居ではなく本当にわかっていないようだった。
「なんで忘れるんだよ、数秒前のことだぜ!」勢い込んで、今度は僕のほうに顔を向けた。「安定は聞いたよな! 俺の幻聴じゃないよな!」
「ちゃんと聞いたよ。おめでとう、清光!」
「安定のおかげだ。やっぱり千人力だったな」
興奮気味の、上気を伴なう笑顔がこの上なく眩しくて、応援を続けてよかったと心から思った。