くれない色の恋慕   作:清水一二

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第16話

 大広間には清光の姿はすでになく、食事当番だけがまとまって座っていた。僕も膳の前に腰を下ろし、野菜と炒めた鹿肉に箸をつける。獣臭のする硬い肉を噛みながら、また獅子王が狩りに出かけたのか、とぼんやり思った。

 

 

 遅れた謝意を込めて後片付けを手伝う。大量に積み重ねられた皿を洗い、水を絞った布巾で膳をきれいに拭いていく。胸は痛みに疼いたままだったけど、こうして体を動かしていると、少しだけ清光のことを忘れられた。

 

 

 酷使した手首のあたりを揉みほぐしながら部屋の障子を開けると、ばっと僕の清光が目に飛び込んできた。途端に、ずっと抑え込んでいた胸の痛みが膨れ上がった。

 

 

 もう前みたいに、ただいまとは言えない。清光への想いは同じはずなのに、状況が変わってしまった。こんなに近くにいるのに、まだあの時代にいるみたいに感じる。あのころは本物の清光に会いたくてたまらなかったのに。

 

 

 僕は清光と遭遇しないように注意深く日々を過ごした。とはいえ、ほとんど主か清光の部屋にふたりで入り浸っていて、見かけることはなかった。

 

 

 僕は、自分の部屋を時代の違う主の部屋だという錯覚に陥りながら、心が求めるままに猫の着ぐるみ姿の清光を抱きしめたり、眺めたりしていた。

 

 

 ずっと胸のあたりが疼いていた。途切れることなく、僕を苦しめた。偽物の清光でもいいと思っているのに、心の奥底では違うと訴えていた。その狭間で僕は悶えるように呼吸をし、自分自身の理想と現実の中にひっそりと棲みついた。

 

 

 食事当番の入浴が終わるのを見計らったので、脱衣所には誰の姿もなかった。一日の最後は彼らだと決まっていたけど、毎夜、僕が仕舞い湯をもらっていた。

 

 

 唐突に木造の引き戸が開き、とっさに棚の陰に屈み込んだ。ひたひたと濡れた足音が床板をきしませ、僕はそろりと木枠から顔を出した。

 

 

「ひゃっ!!」

 

 

 慌てたように、五虎退がタオルで体を隠す。露わになったままの肩や腕から湯気が立ち上っている。

 

 

「ごめん、びっくりさせて」

 

 

 彼の足もとで、ぶるりと全身から水分を飛ばす虎を、僕は撫でてやる。

 

 

「あっ、お風呂まだだったんですね。虎くんは浴槽の外で洗ったので大丈夫です」

 

「わかってる」

 

 

 いつまでも恥ずかしそうにタオルで胸もとを覆っているので、僕は自分の棚に戻って服を脱ぎはじめた。

 

 

「風邪ひかないように、ちゃんと拭くんだよ」

 

「はーい」

 

 

 虎に何事かを話しかける声を聞きながら、僕は浴場に足を踏み入れた。素肌にまとわりつく湯気と熱気に多少の息苦しさを感じる中、体を洗い湯船に浸かった。まだ十分に温かいけど、すぐにぬるくなるだろう。五虎退で最後のようだから、風呂当番は仕事を終わらせたはずだ。

 

 

 そうはいっても、絡みつくお湯が気持ちよくて、僕はまどろみに落ちてしまっていた。

 

 

「会いたい……」

 

 

 唐突につぶやいた自分の声で我に返る。結局、どこでなにをしていても考えるのはひとつで、この胸の痛みさえも清光が僕を縛りつける。

 

 

 バカみたいだ……願ったところで、清光はもうほかの人のものになってしまった。

 

 

 あっという間に冷えていく体温に肌寒さを感じながら、僕は全身にまとわりつく水分を清光のバスタオルに吸い込ませた。

 

 

 ふいに脱衣所の外で物音がした。五虎退が忘れものでもしたのかと思い、それほど気に留めなかった。

 

 

「こんな時間に誰が――」

 

 

 清光の声に、僕の身が強張る。廊下から顔をのぞかせた清光の絶句した形相が、僕の胸を深々とえぐる。ふたつの驚愕に満ちた目が、僕の手にしたバスタオルに釘づけになっていた。思うように体が動かないせいで、隠したくてもできなかった。本当はすぐにでも清光の視界から消してしまいたい。僕の存在もなくなってしまえばいい。

 

 

 顔を引きつらせて去ってゆく清光を、僕は黙って見送ることしかできなかった。途端に、全身の力が抜けて僕はその場にくずおれた。呼吸ができなくなるほど胸が苦しくなって、堪えきれずに嗚咽が漏れた。いっそ僕を殺してくれ。

 

 

 もういい。もう終わりだ、なにもかも終わらせてやる!

 僕は、清光の部屋の前で立ち止まる。室内から彼のものではない声が微かに聞こえてくる。主だ。夜も遅い時間だというのに、まだふたりは一緒にいるのか。三ヶ月前まで、そこは僕の居場所だったのに。いいよ、もう終わらせるから。優、ごめん。君を散々たきつけておいて、僕は自分の気持ちを殺すために告白するよ。未来のためじゃなく、過去にするために。

 

 

 僕が勢いをつけて障子を開けると、清光が慌ててなにかを背中に隠した。

 

 

「急に開けるなよ!」

 

 

 主との秘め事か。喉からせり上がってくる熱い塊を押し込もうと、必死に歯を食いしばる。

 

 

「オレ、外そうか」

 

 

 腰を浮かす主の腕を、清光が慌ててつかむ。

 

 

「いてくれ」

 

「邪魔者はすぐ消えるよ……清光が主をすきだってことは知ってる。僕はそれでもいいと思ってた。清光が幸せなら僕は……だけど、我慢できないんだ。ふたりが一緒にいるところを見るのは」

 

「おまえ、なに言って――」

 

「だから! もうやめるよ。清光をすきでいるのは。勝手にこんなこと言ってごめん。けど、こうしないと終われないから……」

 

 

 涙が零れそうになって、僕は廊下を走って逃げた。すぐに主の声が追いかけてくる。

 

 

「清光!!」

 

「待って主!!」

 

 

 清光の叫び声に、僕はひとかけらも存在していなかった。部屋に駆け込んだ途端に、床に崩れ落ちた。いいんだ、これで。全身に力が入らなくて、動けない。

 

 

 月明かりに照らされた障子をぼんやり眺めて、頬を濡らした。廊下をずっと辿った先には、あのふたりが一緒にいるんだな。そのことばかりが頭に浮かんでは嗚咽が漏れた。

 

 

 僕は友さえも失ってしまった。愛してほしい人に愛されたいと、そんな贅沢を望んだわけじゃない。それなのに友としての愛情さえ許されないのか。もういい、それこそが望んだことだから。関係を壊してしまわないと耐えられなかった。だからもう、いいんだ。

 

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