着替えを持ってきてはいたけど、この時代に合った服を着なくてはならないらしい。僕の隣には、主が用意してくれた衣服が重ねられていた。袖をとおしてみる。トレーナーとチノパン、それに灰色のコートを羽織る。
脱衣所の鏡には、違和感のある自分が映っていた。奇妙で、珍しくて、時間が経つのを忘れてしまっていた。だけど、そうしているうちにだんだん恥ずかしくなってきて、鏡の前から掻き消えた。ベッドに顔をうずめて、叫び出しそうになるのを堪える。
はあっはあっと荒い息を吐き出して、落ち着くんだと命じた。ぎゅっと目を閉じて、暗闇に意識を浸す。長い間そうしていると、衝動が沈んできた。鉛のように深く深く、意識の底に落ちていく。
もう一度、ノートを広げる。確か、兼定さんが……あった。追記のメッセージを目で追って、パタリと閉じる。
ベッドの足側にあるクローゼットとやらを開けた。小さな取っ手を手前に引くと、ドアが中央から畳み込まれて端に寄った。そのからくりに驚いたのと同時に、目に飛び込んできたものに釘づけになった。
兼定さんが着ていたらしきスーツがずらりとハンガーにぶら下がっている。コートを脱いで着用したのはいいけど、サイズが大きくて袖から手が出ない。さぞ、兼定さんには似合っていただろう。燭台切さんや三日月さんあたりにも似合いそうだな。
スーツの下に置かれた紙袋のひとつをのぞいた。札束が折り重なってひしめいている。その一枚を手に取ってやわらかな陽光に透かしてみたら、福沢諭吉と書かれた男の肖像画が描かれていた。
「へえ、これがこの時代のお金なのか」
ノートにはすきに使っていいと書いてあった。だけど、これって、どのくらい価値があるものなんだろう。もうひとつの紙袋にも目を遣った。
山伏さんが使用していたらしき黒いスポーツバッグに、裸の札を十枚入れた。価値がわからないって、こんなに不安なものなんだな。それにしても、この臭い……染み込んだ汗が、鼻をつんと刺激する。我慢するしかないか。なぜかほかに持ち歩ける入れものが見当たらないわけだし。
靴を履いて、ドアを押し開けた。目の前に、背の高い手すりがある。その向こう側に、灰色の建物が見えた。いくつもの柵が立ち並び、壁で仕切られてはいるものの縦に横に列を作っている。その囲まれた狭い空間に、衣類がぶら下がっていた。
あれは、洗濯ものか?
僕が踏みつける石造りの通路も、あの建物と同じ灰色で、どうやらこの建物も同じようなものらしかった。僕は通路の中ほどにある階段に足を踏み下ろす。主の部屋は二階なので、一階ぶんだけ下りた。
戻るべき建物を見失わない程度に、ぶらりと周囲を歩く。似たような色や高さの建物ばかりで、懸命に道筋を頭に入れておこうと努めなくては迷ってしまいそうだ。
そろそろ引き返そうかと思った矢先に、店を見つけた。正面の外観に、ヒノスーパーと書かれてある。僕は幅の狭い道路を横切って、向かいに渡った。
店内には、野菜や果物などの食材が所狭しと陳列されていた。眩しいほどの白い明かりに照らされているせいか、ひどくおいしそうに見える。
プリンやチョコレートという珍しい食べ物を手にとっては棚に戻した。僕の舌に合うのか見当もつかなくて、買いものかごに入れる勇気はなかった。
僕は豚肉とキャベツ、もやしと玉ねぎを買って、来た道を戻った。さっきレジのカウンターで、戸惑いながらも福沢さんを出してみたら、倍以上の枚数の札が返ってきた。福沢さんてお人は高価なお金なんだなー。寒空の下で、兼定さんのありがたみが身に染みた。
さっそく電気コンロを操作して、キャベツ、もやし、玉ねぎ、豚肉をフライパンで炒めた。立ち上る水蒸気と次第に激しくなる音を掻き分けるようにして、菜箸で食材を混ぜる。
まさか、こんなところで食事当番の経験が生かされるなんて思ってもみなかった。燭台切さんの優しくも厳しい指導を思い出す。豚肉を箸でつまんで口に放る。うん、おいしい。
それから一ヶ月の間、ときどきヒノスーパーに出かけるだけの日々を過ごした。膝を抱えて床に座り、ベッドにもたれて、一日のほとんどをじっとして動かない。
いつのころからか、こうなっていった。来てすぐの気もするし、もっとあとだった気もする。たったの一ヶ月だと人は言うだろうけど、僕には永遠にも思えるくらいに長くて。引きっぱなしのカーテンの裂け目から冬の消え入りそうな陽射しが床に細い線を作って、ああ、朝がきたんだなとぼんやりと思う。
胸に少しずつ蓄積してきたこの思い。破けた心の隙間に入り込んできて僕の内部を満たしていった。
帰りたい。
ここにいても虚しいだけだ。
懸命に可愛くなろうとする清光に協力しているほうが、どんなに有意義な時間を過ごせることか……いま、なにをしてるだろう。
夕暮れが近くなって、いつものようにスーパーに出かけた。冷蔵庫の恩恵で、買いだめをしてもすぐには腐らない。そのことを覚えてからずっとそうしてきた。もう食料が底をついて、冷蔵庫は空っぽだ。
なるべく外に出たくなくて、カップラーメンを大量に買い込んだ。大袋を腕に四つ提げて帰りを急ぐ。もう、すっかり夜のとばりが落ちている。兼定さんが置いていった洒落た漆黒のマフラーが温かい。清光に買って帰りたいくらいだ。