いつもより三十分早めに店を閉めて、大通りへ出る。優と駅のほうへ歩いていく。隣からしきりに、ため息が聞こえてくる。
ファーストフード店や有名な百貨店から漏れ出る明かりが、街灯の存在を葬っていた。すれ違う若者たちから弾んだ真っ白い息が短く、ときには長く生まれては消えてゆく。
だけど、僕と並んだ青年の吐く情念は、とてつもなく長い間、空気中に留まって、やけにくすんでいる。外気に触れても、持ち主にしがみつこうとして離れない。
駅の前を通り過ぎる。いくつかの雑居ビルの向こうに、とうらぶの専門店はあった。縦に細い二階建てで、ガラス張りの窓に僕が打刀を構えたポスターが貼ってある。
「僕!?」
街中で僕自身を見るのは、はじめてだ。その傍らに立つ、赤いコートを着た兎少女には目もくれず、窓にかじりつく。僕は、着慣れた衣服に身を包む自分に意識を奪われてしまう。とても不思議で、奇妙な時間が流れる。
「帰る!」
途端に意識は引き戻されて、兎少女のむき出しの怒りが僕の胸をぞわりとさせた。
僕たちの前から消えようとする兎少女の腕を、僕は慌ててつかんだ。歩道に立ち尽くす優はうつむくばかりで、打ちひしがれているように見えた。
「どうして優がいるのよ!」
頭に生えたふたつの耳が、いまは角みたいに尖る。
「先に優と約束してたんだ。言ったじゃないか、男だけじゃ入りにくいって」
「だったら言えばよかったじゃん! 来るって知ってたら……」
「いいよ。俺が帰ればい――」
「清光のグッズがほしくてたまらないんだ! 頼むから協力してほしい」
つい力んでしまい、つかんだ細い腕が強張った。鬼少女が険しい目つきで僕をじっと見上げて、僕はしばらく責められながらも決して視線をそらさなかった。
ここで引くわけにはいかない。清光のためなら、僕はひとりでも店に入れる。だけど、そういうことじゃない。優のために僕ががんばらなくては。清光と違って、ずいぶん気が弱い。だから僕も負けじと、思いを込めて鬼少女を見返す。
やがて角がやんわりと萎れて兎の耳に戻った。少女はまだ迷っている様子だったけど、鋭利な雰囲気はすっかり大気に溶けている。
「わかったわよ。その代わり名前で呼んで。一度も呼んでもらったことない」
「それは知らないから」
「だから呼んでってば。あたし、香帆だからっ!」
「わかったよ、香帆さん」
ふんっと鼻をならして、ブーツの音を硬く響かせ、店内に入っていく。憂鬱そうに彼女の背中を見つめる優の腕を、僕は引っぱった。
「これからだよ」
優が無気力そうにうなずく。
店に足を踏み入れた途端、僕の思考は完全に停止した。店中が刀剣たちで溢れている。棚という棚が文房具や小物で埋め尽くされて、壁という壁にポスターやタペストリーが貼られて、刀剣たちが客に微笑みかけている。
僕は夢中で、棚を漁った。ほかの刀剣の顔はぼんやりと霞がかかったようになって目に入らない。清光だけが心に、目に、飛び込んできた。
メモ帳にキーホルダー、ペン、シール、缶バッジと買い物かごに積んでいく。少しでも表情が違ったりすると、そのすべてを僕のものにしたくて全種類を手につかんだ。
中央に位置する全部の棚を回り終えて、外側に移動した。タオルを手にしたまま、僕は枕カバーに飛びついた。壁には抱き枕カバーというものがぶら下がっていて、清光が胸の真ん中をとおる黄金色のボタンをはずして胸をはだけさせている。
「なっ!!」
公共の場でなにを考えてるんだ。何度も清光と共に入浴してるけど、中途半端に脱ぎ掛けたこんな状態じゃ香しいエロスが立ち上ってるじゃないか。甘えたような目つきが、僕の心をつかんで離さない。
僕は清光の抱き枕カバーを引っつかんで、ぎゅっと目を閉じた。いけないことをしているみたいで胸が熱くなる。指から放たれた清光が、買い物かごに落ちる音が、異常なほどに強く打ちつける鼓動と重なった。
目を開けると、僕がいた。清光と並んで僕のカバーもあった。同じように胸をはだけて、その誘うような微笑に、僕はたまらなくはずかしくなった。視線をそらして、その場を離れる。
だけど、すぐにワゴンに重ねられた布団カバーとシーツを見つけて、いたたまれない気持ちのまま清光を手に取って、足早に歩きながらかごの一番上に置いた。
すれ違ったり、僕の視界に入ってくる女性客からの視線が痛い。
「大和守安定!?」
「えーっ、どこどこ?」
「あっちで見たって人がいるんだって」
囁く声があちこちから聞こえてくる。僕の姿を遮る棚の向こうからも。いまや店中が僕の噂でもちきりのようだった。はじめこそ、視線を合わさずに通り過ぎていたけど、次第に無理やり笑顔を作るようになった。
「駅向こうのシャーレに勤めてます。ぜひ寄ってください」
しっかりと相手を見つめて微笑む。
「そうなんです。清光がすきで」
「お似合い? うれしいです」
軽く会話を交わしながら、幅広の通路を折れて棚と棚の間に入った。さっき物色した場所だ。見覚えがある。キーホルダーを手に取った。清光の笑顔が、僕を励ます。同じものをふたつ握りしめて、レジに向かった。
会計をすませて、優と香帆さんを探して店内をさまよう。通路から、いくつもの棚の間をのぞいて、ようやく見つけた。僕は、ふたりが一緒にいることにほっとした。ふたりは並んで、それぞれに、なにかのグッズを手にしたところだった。
「これは誰?」
「そんなことも知らないの? 燭台切光忠。かっこいいよね。一番は清光だけど」
「加州清光はわかるよ。香帆さんがすきなことは知ってるし、それに安定くんもすきだから。スカウトしたとき、清光のぬいぐるみを鞄いっぱいに詰め込んでたんだ。ゲーセンで取ったって」
「えっ、そんなに持ってたの! すごーい!」
僕はふたりの横から、はいっと小袋を差し出した。
「ふたりにプレゼント」
「え、なになに?」
香帆さんが封を解いて中をのぞく。
「清光だ、かわいい!」
優が開けた小袋を覗き込んだ途端に、香帆さんの表情が強張った。
「なんでおそろいなの?」
香帆さんが僕を睨みつけて、優は困ったように見てくる。
「仲直りのしるし」
「それとこれとは別でしょ」
「じゃあ、仲直りはなし?」
僕の言葉に優がうつむく。香帆さんがそれに気づいて、唇を引き結ぶ。束の間の沈黙。時間にすると、あっという間なのに、やけに重たい。
「あのことは、許してあげる。でも、指名は変えないから」
「ごめん……」
「もういい」
僕は、ふたりの間に流れる重苦しい空気なんか気にしない。僕まで雰囲気に呑まれてしまったら、すべてが無駄に終わってしまいそうだから。
「せっかくおそろいなんだから、使ってね」
「なんでおそろいだと使わなきゃいけないのよ」
「清光が嫌い?」
「それは……わかった。かわいい清光に免じて、使わせてもらう」
「ありがとう」
外に出ると、夜気が頬を撫でた。僕はマフラーを引っぱって、顎の先を突っ込んだ。三人並んで駅のほうへ歩く。
「ねえ、ずっと前に忘れものをしたお客さんがいたじゃない?」
香帆さんの元気な声が、吐く息を白く染めた。優のもだいぶ白に近づいている。彼女が言葉を続ける。
「追いかけていったでしょ。そしたら、その日からほかのお客さんも真似して、わざと忘れものをするようになったよね」
「そんなこともあったね。懐かしい」
優が遠い目をして、夜空のどこかを見つめた。
「あのころは、優を指名してたから、あたしも真似したんだ」
「そう、だったんだ」
「やっぱり覚えてないよね。あんなに大勢、忘れものしちゃったら」
「ごめん」
「いいよ。それも許してあげる」
僕は歩幅を緩めて、少しだけふたりから距離をとる。親しそうに隣り合う、ベージュのダッフルコートと赤いコート。
ふたりがうまくいって、うれしい。それなのに、どうしてだろう。胸に棘が刺さったみたいに、ちくりちくりと痛む。痛くてたまらない。優の一途な想いに感化されたのだろうか……よくわからない。
僕の吐息はくすんでいる。
帰宅してすぐに、シーツと布団カバー、枕カバーを取りかえた。横になり、右に左に転がって清光を堪能した。こっちに来てから、ベッドで眠ったことは一度もなく、床で布団をかぶるだけだった。だけど、今夜からは、ここで清光と眠ってみる。
さっき床に置いた、主が使っていた抱き枕はもう清光色に染まっている。手に取って、おそるおそる抱きしめてみた。清光の潤んだような瞳が、はだけた胸が、すぐそばにある。気づいたら、強く強く抱きしめていて、はっとして離れた。
慌ててベッドから下りて椅子に座る。胸が……熱い。僕はどうしてしまったんだ。
はぁっ。はぁっ。
体温よりも遥かに高温な息が漏れる。荒々しく、僕の心を搔き乱す。痛いよ、清光……。