――死んだら何も残らない。
無のまま、誰もいない世界を彷徨う。
そんな世界を想像して、でもそれは、現実は全く違った。
『お主を転生させるぞ』。
なんて言葉で目が覚めて、気づけば知らない場所で神様と名乗る老人と出会った。
本当に死んでから間も無いくらいのタイムラグで、そんな言葉を突きつけられた。
勿論戸惑った。最初は何の冗談かと思った。
でも、それは運命の訪れだった。
――流夜さん。
二度目の人生を歩む転機と共に運んでくれた奇跡。
誰よりも美しく、可愛らしく、いつも隣にいてくれたその少女――四葉真夜。
この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる。
ピピピッ!
薄闇の中、聞きなれない音で目が覚めた。
音の発信源が見慣れぬ小さな目覚ましだと、それが昨日家から忘れて急遽用意したものである事を思い出すのとほぼ同時に、素早く布団から抜け出してアラームを停止させた。
時計の針は、5時半を示していた。
普段起きてる時間よりも1時間以上も早い。
彼――流夜は放心したような顔でボーッと正面を見据える。
まだ覚醒しきってない足取りでベッドから降りてカーテンを開ける。
まだ空が白んだだけで、春の陽は顔を覗かせない街は全くをもって知らない景色だった。
「……そっか」
唐突に不安に駆られたが、ふっと昨日の記憶を辿って漸く理解した。
ここは台北。場所はとあるビジネスホテルの一室。
無論、彼は日本出身であり、何故ここにと問われれば旅行に来たというわけではない。
自然と一室にあるもう一つのベッドで眠る少女を視界に入れた。
――私、行ってみたい。
意志の強い瞳でそう告げた妹――亜里沙を思い出す。
そんな彼女に根負けして、明日ここ台北で行われるイベントにわざわざ海外へと足を運んだのだ。もう一室には両親もいるが、今はまだ夢の中だろう。流夜は妹のだらしない寝顔にクスッと笑いを漏らしながら着替え、1人ルームキーを持ち外へと出た。
思ったよりも外は肌寒さは感じるも、早朝では大通りでもまだまばらな人しかいない。
まるで一人見知らぬ土地に放り出されたような、そんな感覚を少し懐かしみながら、朝の散歩をする。
――『魔法科高校の劣等生』
それがこの世界の名だと老人はいっていた。
確かに名前の通りこの世界には『魔法』は存在するが、残念な事に彼はこの物語を全く知らないで転生された。主人公が誰なのか、はたまたそのヒロインは誰か。そもそも登場人物すら知らない。
もっとも――何故自分がこの世界に転生されたのか、 その根本的な疑問すら、未だにわからない。
だからいつも不思議に思ってしまう。
なぜ自分だけがそれを許されたのか。
ただ結局は、考えたところで結論は一向に出ず、あっという間に気づけば6年が過ぎてしまったが、案外気まぐれになんてパターンもあり得る話ではと思い始めた。
なんせあの老人は何を考えてるのかさっぱり読めない人だった。
目覚めた途端に『転生させる』なんて馬鹿げた事を言い出し、特典はこちらで決めるから後は適当にやれ、と何とも投げやりな態度でこの世界に飛ばされた。
それはもう、こちら側の意思など聞く気はなく強制的に、だ。
せめて知ってる世界に飛ばせ、と文句は言いたかったが、死んで後のない人生に再び生命を与えてくれた事には感謝は尽きなかった。
お陰で毎日が幸せだったから。
(……ここら辺でいいか)
気付けば大通りから少し外れた裏路地に出た。
辺りを確認するも人も人気はない
「よし、いくかっ!」
気合を入れて、人気のない道路を走る。何の目的地もなく三十分。
それが彼の朝の日課だった。
「――もうっ、おっそいっ! お兄ちゃんのバカっ!」
――ホテルに着くなりの罵声。
原因は勿論他でもない自分にあり、非もまたこちらにあるのは認めるが、ここまで激怒されるとは思いもしなかった。
視界に映るのは、頬を膨らませて睨みつけてくる妹。
すぐ様に言い訳を考えようとするも、異論は認めませんと目が雄弁に訴えていたために意は唱えず、代わりに彼女の頭をそっと撫でた。
「もう、そんなことしても許さないもんねぇ」
まだ怒りを露わにする彼女に、困り果てたような顔で成す術なく黒い綺麗な髪を撫で続ける。そうすれば、やはりというか案の定その効果はあったようで、どこか怒ったオーラが先程より薄れていく。
「はあ、もう時間ないからさっさと朝ごはん食べに行こう」
「おう、そうだな」
機嫌はまだ完全に直ってはいなくとも、彼女は踵を返して朝食を食べに向かう。廊下を歩く彼女の後姿を慌てて追いながら、流夜も彼女の隣に並んだ。
「――楽しみだなぁ~」
「……そうだな」
朝食を食べ終えて家族揃って向かった賑わう街を、彼女は上機嫌な足取りで歩く。
彼女の言う楽しみとは明日行われる『少年少女魔法師交流会』。
国際魔法協会アジア支部が主催となり行われる、名だたる有望な魔法師がそろって集まるであろうビッグイベントの事。そして今回ここ台湾に訪れたメイン行事でもあった。無論、流夜自身もこのイベントには彼女と共に出席する予定だが、たかが交流会程度行ったところでなんの意味があるんだ。という思いから彼女とは反対に億劫な気持ちでしかなかった。はあ、とため息を吐きながら、天を仰ぐ。
(……ホント、いっそ抜け出してやろうかね)
「お兄ちゃん? どうしたの、ボーッとして」
「えっ? あ、いや、何でもない。それより先行っててくれ。俺やりたいことあるから」
「えぇ〜、買い物付き合ってくれるって言ったじゃん!」
「悪いな。また今度付き合うからさ」
「むぅ〜」
ムスッとした妹の頭を2、3度優しく撫でれば、少しづつ不満げな顔つきが綻び始める。手を離せば、名残惜しい声が聞こえたような気もするが、気の所為だと妹の事は両親に任せ踵す。数歩歩くと、今度は母親に呼び止められた。
「気をつけなさいよ? あんたすぐ迷子になるんだから。…それに――」
「あーっ、はいはい。わかってるって」
「……ったく、もう。人の話は最後まで聞きなさいよね」
「聞かずとも何回も言われればわかるっての」
不満げなままの母にうんざり顔を顰めながら、対応し、一人賑わう町から遠ざかるようにして歩き始めた。
暫く大きな川沿いを歩くようにして一人、散歩する。
せっかく海外にきて買い物というのもいいが、やはりこうして一人でブラブラと歩く方が性に合っている……というのは建前で本音は妹との買い物を避けるため。
もっとも、逃げたところで後の祭りでしかないが、日本に着いてから腹をくくるとしよう。
(しかし、ホント平和だな…)
行き交う人たちを見ながら、そんなことを思う。
大きな公園まで辿り着けば、家族や老夫婦、恋人が楽しげに会話をしている。
ゆっくりと近くにあったベンチに腰掛け、雲ひとつない空を見上げた。
――今戦争中なんだ。
そんな父の言葉が脳裏に浮かぶ。――『戦争』。
その言葉から連想されるのは『第三次世界大戦』。
――西暦2030年前後より始まった地球の急激な寒冷化にともない、世界の食糧事情は大幅に悪化した。
2020年代より進められていた農業生産の太陽光工場化により先進国がこうむった影響は限定的なものに抑えられたが、急激な経済成長に爆発的な人口増加が加速させていた新興工業国が受けた打撃は深甚なものだった。
もっとも深刻な事態に直面したのは華北地方。
彼らは自らの伝統でこの寒冷化と砂漠化を乗り切ろうとしたが、越境殖民たる彼らをロシアは許容しなかった。実力をもって徹底的に排除した。それを中国が非難し、ロシアと意見が対立する。
それを機に世界中に火種がばら撒かれた。
その背景にあるのは、寒冷化による食糧不足。
それを補うための、エネルギー資源争奪戦。
そして、2045年に第3次世界大戦が勃発し、今もなおその戦争は終結していない。
今回の台北への訪れる際に最も懸念してたのはそれだった。
丁度2年前、大亜細亜連合ーー東アジア大陸国家(中国がビルマ北部、ベトナム北部、ラオス北部、朝鮮半島を征服してできた国家)が第三次世界大戦勃発後の早い時期に大漢と分裂して建てられた国家が対馬に侵攻して来た。戦争中とはいえ大した影響無く生活して来た流夜自身にとって、些か刺激の強いニュースだった。
だから国外に出るなど自殺行為に等しいと思った。
――ただ妹の参加の熱は余りにも強かった。
余ほど行きたかったのか、初めて駄々をこねた。それが理由で結局親の許しを得て、家族総出でここにきてしまったのだ。
(まあ、リフレッシュにはなってるもんな……)
拍子抜けとは言わずとも、流石にここまで無警戒では流石にこちら側も警戒心など薄れてく一方だった。もっとも、こんな所まで一人で歩く無防備な彼もまた、自殺行為に等しいと言えるが。
――明日どーすっかな……
のどかな景色が、春風のように吹き込んでくる。
それに癒されながら、しばらくぼーっと眺めていた。
だからあんな出来事に巻き込まれるだなんて、この時は思いもしなかった。歯車はゆっくりと回り始めていた事に気付きもしなかった。
「…くっ…真夜っ」
路面に力なく横たわる少年から、悔しげな言葉が漏れた。右腕、右足からどろっと路面に血が流れ出る。片目はもはやこの世を写す機能を失っていた。なんとか機能する逆目から見えるのは、連れ去られた彼の婚約者の四葉真夜を乗せた黒の大きめな車。スピードは止まらずに、見る見る遠ざかっていく。
悔しさで唇を噛み締めながら、裂けるような激しい痛みが走る身体を動かし、震える手でなんとか端末に着信を入れた。
「……とう、さん」
『……何があった?」
弱々しい口調に、それを悟ったように彼の父は硬い声音で問うた。少年は、脳裏に先程までの光景が走る。悔しさを押し殺せずにはいられず、震える声で父に訴えかけた。
「真夜が……連れ去られました……」
『なに? 弘一、いまどこにいる?」
「台北の……街の外れです……何者かに…襲撃…されました」
『状況は?』
懸命に重たい身体を起こし、辺りを見渡す。状況を確認する。真っ先に片目に浮かぶ光景は、辺りに転がり込むようにして倒れる護衛。それぞれ出血は見られるも、虫の息から生存は確認できた。
「全員……負傷してますが……生きています…ただ、彼女が…」
『わかった。四葉にはこちらから連絡する。お前はその場に残れ』
プツリと電話が切れ、少年――弘一は悔しさで端末を投げ捨てた。
「真夜……」
痛みから意識が飛びそうになるのを懸命に保ちながら、動かない右足を引きずり、もう見えない車を追う。
大切な想い人を、取り戻す為に。
彼の体内時計から推測して約1時間くらいだろうか、歩けば歩くほどに民家も少なくなり、気づけば周りは廃墟のみと風景が変わっていた。人気なんてまるで感じないゴーストタウンと化す場所。まるで忘れ去られたような、寂しげな雰囲気だった。
(ってか、どこだよここ……)
お約束の出来事に幾度となくため息が漏れる。
流夜は生憎の方向音痴。それも自覚のないタチの悪いもの。
来た道を辿れば帰れる…なんていつもそう思って変なところにたどり着くのだ。
今朝朝食の時間に遅れたのもそんな理由。
だから流夜は、またか、と乱暴に頭を搔きむしり、取り敢えずくるりと踵を返してきた道を戻ろうとしたが、突如さざ波のような嫌な予感を感じ取り、足が止まった。
――なんなんだ、これ……
廃墟だらけという雰囲気に当てられたのか、と不気味に思った流夜は歩くスピードを速めれば――
「――――っ!!」
突如聞こえてきた大声。ビクッと流夜の肩が震えた。
(な、なんだ!?)
慌てて辺りを見渡した。しかし、人影なんて……
「――――っ!」
まただ。また人の声がする。言葉はわからずとも必死さのある声音。
益々強くなる嫌な予感。しかし、恐る恐る身を潜めながらもその現場へと赴いてしまった。凡そ声のする方へひっそりと近づき、壁の死角からそっと現場を除きこむ。
「――っ!」
見えたのは廃墟だらけの割にはしっかりしたシャッター付きの建物。その入り口付近に止まっている黒色の大きめの車。その外で頭に鈍く光る金属のバンドを巻いたガタイの良い男がいた。
彼の表情は険しく、焦りながら、でも辺りを見渡し注意深く車内の誰かに話しかけている。
こんな所で何やってんだ。訝しげにその光景を眺めていれば、車内から出てきた軍人に――戦慄した。
何も普通の軍人なら驚く事ではないが、問題は彼の肩に掛けてる禍々しい物――自動小銃。
こちらに向けられたわけではないが、ジワリと背中に冷たい汗が流れる。
(な、なんなんだコイツら……!?)
ここで何かしでかしたのか?
それともこれから何かおっぱじめようというのか?
様々な憶測が脳内に飛び交いながら、食い入るようにその現場を見つめる。よくよく目を凝らせば、彼らの手首に巻かれたものには見覚えがあった。
(あ、あれはCAD……ッ!? ってことはコイツ魔法師か!?)
CAD――術式補助演算機。
魔法を発動するための起動式を、呪文や呪符、魔法陣、魔法書などの伝統的な手法・道具に代わり提供する、魔法師にとっては必須のツール。
政府の補助もあり、それは家庭でも持てる広く普及する一般的なものではあるが、少なくともそれを待っているということは、彼らは魔法に精通する何かに関わっているという証拠。
良からぬ雰囲気の現場に心臓が早鐘のように打つ。
ただの比喩表現に過ぎないと思っていたそれは、今まさにそれだった。
痛いほどに心臓が打っている。
心臓が――暴れている。
これから起こりうる危険を告げている。
颯爽と撤退しようとしたその時――
「な、なんで……」
目の前の光景に戦慄した。足が止まる。
それ程までに、驚愕の出来事だった。
「なんで…女の子が……ッ!」
次々と車からでてくる男たちと、1人の男に担がれるようにして運ばれてきたのは――紛れも無い少女だった。
手足を縛られ身動きが取れそうにない彼女は、恐らくは眠らされてるのか抵抗の様子はない。
一体今目の前で何が起きているのか。考えずとも一目瞭然だった。
――だから流夜、気をつけなさいよ?
ふと念を押すように口酸っぱく母親に言われた言葉を思い出す。
――『魔法』。
それは超能力を技術体系化し技能となったが、誰もが皆使えるというわけではない。
――徹底した才能主義。
――残酷なまでの実力主義。
それが、魔法の世界。
そんな世界に足を踏み入れた事自体は自然と後悔などなかったが、それより恐ろしい事は他でもない、その才能――つまり遺伝子を狙う者も多く存在するという事だった。
――強姦。仮にもし少女が魔法師なのだとしたら、これから辿るであろう未来を表わす単語。あるいは――人体実験か、どちらにせよ、魔法師だろうが非魔法師だろうがあの状況下では、悲惨で残酷な結末が彼女には待っているだろう。
そう考えただけでゾッとした。吐きそうになった。無性にその現実に怒りさえ覚えた。
でも、流夜は自然とその場から立ち去る事を選んだ。現実から目を背けるように歩く足が速くなる。
――そう、これでいい。と一人自分を納得させた。
ロクな武器すら持たぬこちら側に比べて、向こうは恐らくは実戦経験のある大人たち。武装というオマケまでついている。こんな状況下で勝機などない事は一目瞭然だ。
そんな自分など行っても意味はあるのか?
ただ単に犬死するだけだろ?
そもそもあの少女は名も知らない赤の他人だ。
そんな人物を、自身の命を投げ出してまで助けないといけないのか?
――答えは、ノーだ。
なら、助ける必要はない。見て見ぬ振りで良い、きっと誰かが助けてくれる――そうだろ?
「……わかってんだよ、そんなことは!」
後ろめたさが波濤のように湧き上がってくる。
思わず足が――止まってしまった。
こんな場所に、誰が助けに来るってんだよ……
――くっそ、…こうなるなら買い物、付き合っとくべきだった…
しみじみとそんな後悔を抱きながら、壁に背中を預け天を仰いだ。
生きるか死ぬか、食うか食われるかの修羅場。
その道をこれから歩くと思うと、足が竦む。
しばらく釘付けにされたように立ちすくんでいた流夜だが、やがて自分自身をもぎ取るように決然と肩をそびやかして歩きだす。そして――地面を蹴った。
「しかし、しつこい奴らだったな。オマケにエンジントラブルとは参ったものだぜ」
「そうだな。運が良いのやら悪いのやら……。まあ、時間も調整程度だし、何より我々を見つけるのは不可能に近いだろうがな」
「だな。ここに来れば安全だ」
荒地となった街を見渡しながら、男たちは心情を吐露し始めた。どれ程の情報網を駆使しても彼らではここには辿り着けない。あとは本国に彼女を送り届けるだけだ。突如小型機のエンジントラブルなんて不運は不安へと変わったが、無事にどうやら本国へと帰れると、そんな慢心が彼らにはあった。
「そういや、あの子、えらく可愛かったな」
「ああ、正直な話向こうで俺も実験に加わりたかったよ」
「だな……いっそ交代してもらって今やっとくのもありじゃないか?」
「そいつはいい。というかもう既に中で行われていたりしてな」
「ははっ、なんせ隊長は少女だろうが幼女だろうが女ってだけで見境なく食いつくすからな。あり得る話だ」
「だな」
気づけば声を上げて談笑が始まった。
それが油断だとは気づかずに。
「じゃあ、俺替わってくるわ」
「あ、汚ねぇぞ! 俺だろそ――ぐはっ」
――その瞬間、仲間の1人が吹き飛ばされた。
まるでトラックにでも跳ねられたかのように吹き飛び地面に転がる。何事かとギョッとした連中は一斉に顔を向けた。事態の収拾にはかった。
そこにはいたのは――見た目はどちらかというと中性的な幼さを感じる、12、3歳くらいのパーカーを羽織った子供。少年の姿だった。
突然の奇襲に追っ手かと踏んだが、単なるガキかよ、と男は慢心し気が緩んでしまった。そう言えば襲撃の際にも少年がいたな、とどうでもいい事を思い出しながら、少年に銃口を向けた瞬間、少年は地面を蹴って――消えた。
「なにっ!?」
実際消えたわけではない。
男の錯覚だ。ただ少年のスピードは、常軌を逸していた。
稲妻のような速さで少年が男たちに襲いかかる。
慌てて彼に銃口を向けるも――標準が定まらない。人間の目では、捉えきれなかった。
思わず顔を歪めた。
「はうっ!!」
気付けば仲間から悲鳴?みたいな情け無い声が響いた。
何事かとそちらに目を向ければ、ゴツい体つきをした大男が両手を急所に抑えて悶絶している。この世の終わりみたいな真っ青な顔で、路面に転がりのたうち回っている。
いや、いや、いや、いや、いや。
――お前、何してんだ……
自然と彼を路肩の小石でも見るような冷たい眼差しで見つめた。少年を視界から外した。その一瞬の隙が完璧な優位を砂のようにくずす。はっと我に帰った男は慌てて銃口を向けるも、銃口の先にはもう少年はいない。気づけばもう目と鼻の先。
――速すぎるッ!
疾風の如く懐に入ってきた少年は、勢いを殺さずに突っ込んでくる。
だが、ふと唐突に少年の動きを捉えた気がした。
あれ程までに目で追えないスピードだったはずなのに、一瞬スローモーションに見えた。
彼は、しばしば自身に危険が迫っている時に限って、この現象を体験して居た。世間一般ではこれを『タキサイキア現象』と呼ぶが、どうやら今回もまた、その危機とやらが男に迫っているようだ。しかし、幾度となく戦地に赴いてはそんな危険を乗り越えてきた男にとって、この小さな少年から起こされるであろう危機――試練などあってないようなもの。
少年がゼロ距離から左脚で踏ん張り勢いを殺すのを確認する。そしてその脚を軸に右脚を後ろに引き上げ溜めを作っていた。それはまるでどこぞのサッカー選手のように、その脚を勢いよく振り抜こうとしていた。自然に伝達された力のある蹴りは、吸い込まれるように男の体に向かっていく。華麗なフォームで、脚を一直線に下半身――男性にとっては大切な、あの場所にやっ……はい?
パァンッ!
「いやぁぁぁぁぁあああああっ!!!」
何かの破裂音と共に、大の男が絶叫した。あまりの激痛に、途端に何故自分は生きているという自問自答が始まった。
――いや、もはやこれは痛いなんて感情ではない。
例えるなら――許さない!
一体何に対して許さないのかわからない。――でも、許さない!
ゆっくりと意識が途絶えていく。
――同志よ、俺も逝って良いか…?
「……んっ…」
目を開ければ、薄暗い天井が映る。
まだボンヤリとした頭だ辺りを見渡せば、見知らぬ男と目があった。
「――ッ!?」
途端に防衛本能から身構えようとしたが、手足が動かなかった。気づけば自分が寝かせられてる事に気付いた。
どうしてこんなところで寝てるのか。過去の記憶を辿ろうとするも、自身を囲むようにして立つ数人の男達が目に入り、えっ、と思考が固まった。
「……起きたのかな、お嬢さん」
1人の男が少女に穏やかに話しかけるも、べったりとした嫌らしい眼つきに寒気を覚え、次第に状況を理解していく。少女は人形の目のような冷々とした目で男を見つめ返す。こんな時だからこそかえって冷静になる少女に、男は、ははっ、と賞賛を込めて笑った。
「大したお嬢さんだ。この状況を理解して慌てずにいるとは。……くくっ、これはさぞかし楽しみだ」
薄気味悪い笑みを浮かべるも、すぐさま表情を引き締めた。近くにいた部下らしき者に顔を向ける。
「いいか、我々の任務は有望なる魔法師を持ち帰る事。後数十分もすればこの場も離れる。……やるのは構わんがくれぐれも加減は弁えろ。壊しても責任は取れんからな」
「ええ、わかってますよ」
そう命じ数人の部下と男は部屋から立ち去る。
残された三人の男は顔を見合わせ、ニヤリと下品な笑みをこぼした。それを合図に1人の男が、台に躊躇なく膝を載せた。
少女の瞳がゆっくり見開かれ、男が自分にのしかかろうとしているのを捉える。その途端に、か細い声が室内に響いた。
「や……嫌っ……!」
身をよじり、逃れようとするが、腕も足も拘束されているためままならない。男の白い手が伸び、少女の頰をぬらりと撫でる。
少女は声にならない悲鳴をあげる。
男達は爛々と光る眼で少女の全身を眺め回しながら、1人の男が下半身のズボンを下ろし、ついに決定的な行為に及ぶべく、覆い被さってくる。
男達のさらなる接近に、これまでに倍する恐怖と嫌悪を顔に歪めた。懇願するように激しく首を左右に振るが、男はそれすらも楽しむように、ゆっくり、ゆっくりと体を近づけていく。
「い、いや……いや……いや…………ッ!」
大粒の涙と悲鳴が溢れる。
男の手がゆっくりと彼女に伸び、ビリッと勢いよく服を剥がす。
露わとなった透けるように白い肌に、男達の性欲が増幅する。
「た、たまんねぇな……」
脳裏によぎる、あの貪った女の裸体。幾度となく嫌悪感で泣き叫ぶ少女を犯す快感。内側がもぞもぞと波立つのを感じた男は、少女の露わとなった肌に再び触れようと手が伸びた。男の指先が鎖骨に、触れる。下へと撫でるように少女の肌をゆっくりと汚していく。
(たす…けて……助けて……助けてッ……!)
誰に懇願したのかはわからない。
でもその悲痛な叫びが、届く事はない。
家族にも、一族の者にも、決して。
ドカァァァァアアンッ!
しかし――。
――それ以上その子に手を触れたら――許さねぇ
1人の介入者が、この物語を変えた――。
突如大きな爆発とともに建物が揺れる。そしてその爆発の熱気と共に乱暴に扉を壊して入ってきたのは、紛れもなく同じくらいの歳の少年――子供だった。
「――な、何!? 侵入者だと!?」
男達が雷に打たれたように驚愕を顔に表す。
少年は怒りの籠った瞳で男たちを睨み、少女を見た。大粒の涙と共に、絶望しかけた瞳。覆いかぶさる男にそれを囲む数人の男。状況の理解と共に瞳にさらに強く怒りの熱を灯す。
「てめえら、ふざけたことしてんじゃねえ――ッ!!」
怒号と共に、少年は地面を蹴る。その瞬間――消えた。
「ぐあっ!!」
気付けば少女の眼下に迫る男が爆風と共に壁に叩きつけられる。
呆然とその光景を眺めていた男達は、慌てて臨戦態勢を整えるも、少年の方が一歩速かった。少年は肩に掛けていた小型銃の銃口を向けて、慣れない手つきと構えで引き金を引いていく。
扱いからして素人丸出しでも、的確に男たちの脚を狙い動きを封じ込める。床に転がり込む男たちを一瞥し、なんとか当たった、と少年はホッと一息つくなり急ぎ足で少女へと駆け寄ってくる。慣れた手つきで両手足の拘束を持ち合わせていたナイフで断ち切った。
「ぁ……」
本来なら御礼の一つでもあるべきなのだろうが、少女は目の前で起きた出来事に呆気にとられ、何も言葉にできなかった。それを見透かしたように、少年はもう大丈夫、と柔らかく微笑んで、未だ硬直する上半身を起こし、寝かされていた所からそっと降ろしてくれる。
――助かったんだ。
少年の手に触れた途端、まるで悪夢から目覚めたようにほっと全身から力が抜けそうになった。しかし、少年の依然険しい表情に緊張感が再び襲う。
「追っ手が来るかもしれない。だからこのままこんな所には居られない。一旦外に出よう」
コクっと頷くなり手を引っ張られ、されるがまま誘導され部屋から出た。部屋の一歩外へ出れば全く知らない場所。まるで迷宮に放り出されたような気持ちを覚えながら、少年に連れられ足を進める。少年はこの建物の構造を熟知しているか迷いのない足取りで恐らく出口へと共に向かう。
少女は連れられるまま、視界に映る少年の後ろ姿を呆然と眺めた。
……見覚えのない後姿。親戚でもなければ、一族の者でもない。更には学校のクラスメイトでも、恐らく社交パーティーですら会ったことないはずだ。そんな全くの見ず知らずの――
――ほら、行こうよ
「――えっ?」
唐突にまったく同じ経験があるような、時間が二重写しになったよう既視感がわいてくる。
……なに…いまの…
「ど、どうした? 急に止まって」
「……えっ」
少年の声で途端に現実に戻ってくる。不審に眉を寄せた少年が振り返っていた。急に立ち止まって何事かと驚いたのだろう。
少女は慌てて何でもないと首を振った。少年は不思議そうに首をかしげながらも再び前へと歩き出した。
――なんだったの、今の……
なんだかモヤモヤとした気持を抱える。そして再び少年の後姿を見た。
どこかで会ったことあるのだろうか……
ぼんやりとそんなことを考えていれば、ふっと遠くから聞こえてくる複数人の忙しない足音に、内に向けていた意識が外へと強制的に向いた。距離はどんどん近づいてくる。
「居たぞッ! 奴らだ!追えッ!」
「くそッ! やっぱり金的じゃ無理かッ! てかどんだけ武器仕込んでんだよコイツらッ!」
……きん…てき?
なんだろうそれは、と考えるよりも先に、険しい顔をした少年が振り返る。
「逃げるぞっ!」
黒く澄んだ瞳に宿る――強い意志。
抗えそうにないそれを向けられ、コク、と少女は頷いた。
少年は、よし、と気合を入れて何を思ったのか、腕を少女の脇に通して、奥の肩をしっかり持って、自分の方に引き寄せた。そして両膝をもう片方の腕で持ち上げた――所謂お姫様抱っこというやつである。
「きゃっ!」
「悪いな、大人しくしててくれ」
少女の戸惑いなど構わずに、少年は地面を蹴った。
その瞬間、とんでもない風圧に慌てて彼の首にしがみついた。
……え? ど、どうなってるの?
およそ人間が走れるスピードではない速度で、建物の廊下を駆け抜けていく。――魔法でなく、生身の身体で。
説明を請うような視線で彼を見れば、ニィッと少年は不敵な笑みをこぼす。
「少しばかり身体能力が高くてね。……そら、見えたぞ」
「――えっ?」
クイッ、と首で前方を見ろとの合図で前方に視線を映す。目に映ったのは一面がガラスのない窓。見るからに古い建物だ。どうやら修復すらされずに放置されたようだった。丁度その手前に右折する道もあるが、少年は真っ直ぐに進んでいる。
……まさか、と少女は嫌な予感を感じ取り、不安げな瞳で少年を見た。
「ね、ねえ、これって……」
「ああ、よくわかったな。飛び込むぞ。……3階だけど」
「そう、やはり飛び――はい? ちょ、ちょっと待ちなさいッ! あなた本気ッ!?」
「本気に決まってんだろ! 俺だって出来るならこんな事したくねえよ! でも出口塞がれてるし、外出れる場所はもうここしかないんだ!」
「……魔法ね」
彼も恐らく魔法師だ。でなければこんな所には乗り込めるわけがない。腑に落ちたようにボソリと呟けば、少年から期待外れの回答が返ってくる。
「な訳あるか。魔法は温存だ」
「――えっ? な、なら私だけでも下ろして! 私なら「行くぞっ!」 ちょ、ちょっとまち――」
少女の戸惑いなど無視して、少年は勢いを殺すことなくそのまま力強くジャンプ。
見事なまでに空中へと――羽ばたいた。
それはどこぞの幅跳びの選手のように華麗に跳躍。ただ、勿論彼に翼など生えてるわけではなく。……つまり、飛べば当然下へと落下していくのだ。
「ちゃっ、着地は!?」
「……」
慌てて問えば、少年は気まずげにサッと視線を逸らした。
――えっ? う、嘘よね?
唖然とする少女だが、重力に逆らえずに落下していく。もはや悲鳴すらあげられずに、思わず目を瞑った。数秒後軽い衝撃と共に、それを吸収するかのような柔らかな感触。恐る恐る目を開ければ、引きつった笑みを浮かべる少年。どうやら運よく着地できたらしい。少女は次第に咎めるような視線を向けた。
「ほ、ほら、な、なんとかなったろ?」
「……」
――お陰様で死ぬ思いだったじゃない、と文句を言い付けようとしたが、少年の表情が再び険しくなった。舌打ちをしながら、正面を見据え――睨みつける。促される形で前へと視線を向ければ、
「いたぞッ! 逃がすかッ!」
切羽詰まった表情で、彼らは武器を片手にこちらに疾走し、一定の距離で手に持つ武器を構えて止まった。まるで抵抗するな、とでも言いたいげな様子で、銃口をこちらに向けてくる。
その瞬間、少女の身体が硬直する。顔が強張る。銃口の黒い穴の奥から、何者かにじっと射すくめられているような、気がした。ただ、トリガーを引かないのは、少女を殺す事を躊躇っているからか、どちらにせよ危機的状況に変わりはなかった。
それに、妙に彼らは殺気立っていると少女は感じた。
彼らはまるで親の仇を見るかのような殺意を込めた瞳で、少女ではなく少年へと目を向けていた。勿論それは計画を邪魔されたことへの怒りもあるのだろうが、しかしそれ以上の何かを感じる。それは半数以上の者が揃って内股なのが関係しているのだろうか。足も震えてるし……生まれたての子鹿を連想させた。
「……もってくれよ」
息をすることも憚られるような緊迫感?の中、ボソッと呟かれた言葉に、意識が彼へと向いた。
ふぅ、と一息ついた少年は身体の力を抜き、神経を研ぎ澄まし集中する。
急に少年の纏う空気が、変わった。
空気だけではない。数秒後、途端に彼の身体が、筋肉が一回り膨れ上がった。
(……これは、自己加速魔法…!? )
少女は瞳を大きく見開いた。
驚きのあまりその真意を訪ねるよう視線を向ければ、少年は視線を落とし柔らかく、安心させるような笑みを浮かべた。
「まあ、俺も魔法師の端くれなんでな。安心してくれ。必ず何とかするから」
そして少年はくるりと踵を返し、敵に背を向けた。そして砲弾のようなスピードで、男達とは逆方向の路地へと逃げていく。
身体的な能力の高さも相まってか、少年のスピードはやはり異常だった。
凡そ人1人抱えて、それも同じくらいの歳の人間が出せる速さではない。
未だかつて経験した事のない風圧を感じる。
そして背後から聞こえてくる破裂音。
何度も聞こえてくるそれは、最早殺す事を躊躇わずに乱射してくる。
「――ッ!」
不意に少年の頰を掠めた。まだ幼さの残る顔を歪めた。
それでも少年の足は止まらない。
ひたすら彼らから逃れる為に、走り続けた。
「絶対……絶対に守るから」
――どうして……
そんな少年に、心中で、そう呟く。
――どうしてそこまで必死になって、私のことを……
凡そ見ず知らずの自分を、どうして……
長らく寒風にさびれ続けた家が建ち並ぶ道をしばらく走る。
風は冷ややかさを含み、冷たい。
でも心は何故か、温かかった。
「なんとか……はあ、なった…」
あれからどれ程走ったのかはわからないが、入り組んだ道を何度も何度も曲がり、気がつけば辿り着いたのは隠れられそうな廃墟。4階建ての建物の中、分厚い板で窓が塞がれてる。
追跡者の足音も聞こえない。恐らくは巻けたのだろう。
一応辺りを見渡し、流夜は中へと入り、二階に上がる。
流夜は全身汗だくのままそっと彼女を下ろした。
その途端、ガクリと膝から崩れその場へと力尽きた。身体中のエネルギー全てが空になったかのように動かない。もう指先すら動かす気力すら残っていなかった。
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか!?」
血相を変えて慌てて駆け寄る少女に、流夜は弱々しい笑みを返す。
「……なあ、少し、寝て良い?」
自然と馬鹿げたお願いが漏れた。少女は目を見開くも、コク、と笑顔で頷いた。こんな時に、寝ている場合ではない。追っ手がすぐさまここを見つける確率もある。ただ流夜は抗えないものに、半ば強制的に睡眠へとつかされた。