「あ、あの……大丈夫ですか?」
暫くお通夜のような重苦しい空気が部屋によどんでいた。
額際に汗が光るほど神経を使い、漸く流夜は彼にそう告げれば、彼は気にした様子なく抑揚のない声で、問題ない。と立ち上がる。
180センチ程の長身、服越しからでもわかる強靭な肉体。全身から醸し出す雰囲気は、どことなく威圧するような荘重な静けさがある。かなりの手練れだと嫌でも判断がつく。
本来ならその余りのオーラに背筋が冷たくなるところだが、今回に関しては一切その恐怖は感じなかった。なんせ彼の瞳には――底知れぬ絶望と悲しみ、喪失感が強すぎた。
それもそのはずっだった。見上げるアングルで流夜の視線が一転に集中し、思わずギョッとする。
スッと立ち上がった際に、ズボンに如実に現れた形がわかるほどに盛り上がったそれ。問題は凡そシロナガスクジラの赤ちゃんのような男の勲章の方ではなく、すぐにでも泌尿器科に行くべき異彩を放つ腫れあがった睾丸。
悶絶する表情。可笑しな呼吸音。痛々しい光景が脳裏によぎる。
――睾丸直撃。
ふと思い出す知識。睾丸に強い刺激が加わると、通常の男性であれば下腹部を強打した際の痛みと同等か、それ以上の痛みを受ける。この痛みは男性が日常的に受ける物理的な痛みとして最も強いものに分類され、本能的にこの痛みを回避しようとする習性を持っているが、あえてこれを好む者もいるという。
一体どれほどの痛みなのか。流夜自身味わったことはないが、目の覆いたくなるほどのあまりの惨状に思わず顔を背けたくなった。無事付いてたという安堵感など吹き飛んだ。
「あ、あの、すみません!!」
奴隷のように床に頭を擦り付け、今できる最上級の謝罪をした。足の痛みなど気にならない程に、目もくらむほどの早さで。
「……き、君が私の娘をたっ、助けてくれたのかっ?」
やっぱりまだ痛いんだな…。
上手く呂律が回ってない気がするが、気まずげに一応そうだと告げれば、男は顔を上げろと言った。
続けて男は流夜にこう告げた。
――これは罪だ。と。
――愛娘を護ることができなかった自分への戒めだ。と。
何となく自分にそう言い聞かせているような気がしなくもないが、何とも寛大な心を持っているんだ。
同じオスとして尊敬に値します。心の中でそう思わずにはいられなかった。ただ……
「流夜さん、足大丈夫かしら?」
「あ、ああ……」
心配げな瞳で足の具合を気にする真夜。
素直にそれは嬉しかったが、その優しさを向けるべき相手を今は間違えてる気がしてならない。
「……お父様は……大丈夫ですよね?」
「あ、ああ……真夜、お前も無事か…?」
「はい。こちらの神崎流夜さんに助けて頂きましたので」
会話の内容からすれば、感動の再会。
ただ、心地いい感動で心が満腹なんてことはなかった。
彼女――真夜の声音はこれ以上冷ややかには言えないと思えるほどの響きで、一キロメートル向こうから見ているような突き放した目をしていた。
なんだか冷ややかな壁が父と子の間にはさまったような感じである。
そう――確かに、彼は失ってしまったようだった。娘への威厳。距離。愛。その他諸々。それを作ってしまったのは他でもない流夜自身だが。
「あ、あの――」
恐ろしく気まずい空間から逃避しようと声を掛けようとした瞬間、真夜の父の目つきが変わる。その背後に控え寡黙に徹していた男二人もカッと目を見開く。ギラッ。血走った双眸が流夜をロックオンする。目が合った瞬間、背筋にゾクゾクと悪寒が走った。
――ああ、こういうのSF映画で観たことがある。これはあれだな…。目標を発見次第、問答無用で抹殺せよとかプログラミングされた殺人ロボット。あれが起動したときの感じだ。彼らの周囲に漂っているのは殺気……
(や、やっぱり怒ってる…!? だ、だめだ! 殺される!)
何やら懐のCADを取り出す。瞳が妖しく光った。
死を恐れ、思わずギュッと目を瞑った。
「誰か来るわ……!」
押し殺した真夜の声。その声音には緊張が籠っていた。
瞬時に目を開ければ、入り口に向けて魔法の起動式を展開する彼らが視界に映る。
厳重なまでの警戒だった。あの時の異様な緊張が体の中に再び満ち溢れる。
耳を澄ませば聞こえてくる、コツ、コツ、コツという足音。
一人ではない。恐らく人数は2人。
ゆっくりと階段を上がり、こちらに近付いてくる。
「来るぞ」
まるで緊張感のない、無機質な声音。
よほど経験慣れをしてるのだろう。
だが冷静沈着な彼とは反対に、流夜は怒りに似た気持ちが心の一角に燃え上がり、拳を握り締めた。
(しつけぇぞっ、テメエらッ――!!)
その抑えられない気持ちに――動かなかった足が動く。
地面を蹴ろうと――
「……ん? おい、中に人がいるぞ」
入ってきたのは中年の男性。
その服装に、流夜の足が止まる。
「け、警察……?」
眼球が飛び出るくらいの衝撃を受け固まる流夜。
思わぬ遭遇に真夜の父親も一瞬身構えたが、そっと警戒を解くように起動式を解除した。
まだ呆然とする流夜たちに制服を着た男が2人、まるで国家権力を肩から背負うような、しっかりとした足取りでこちらに近付いてくる。
「少しお話、よろしいですか?」
怪しまれないようにこやかに話しかけてくるが、しかし、妙に疑り深い目つきは読み取れた。
何語を話しているのかは不明。流夜には理解不能だった。ただ、仮に日本語だろうと今の彼には言葉が頭に入ってはこないだろう。
――なぜここに警察がいるんだ。
訝しむように流夜は彼らを警戒した。
そして、ふと思い至った。
――そう言えば、真夜のお父さんもなぜここが分かったんだ…。だってここら辺一帯は廃墟だし人目なんて…。
思い詰めた表情で暗い森の中を彷徨うみたいに物思いに更けていれば、その悩みは中年の男の言葉で霧散する。
「一時間ほど前ですが、ここら辺の廃墟で少女の誘拐があったと目撃情報がありまして。なんでも――」
白いパーカーを羽織った12、3歳の少年が、少女を抱きかかえて廃墟を疾走している――と。
言葉は当然理解できない。でも――察した。
恐らく容疑がかかってるのは自分。何せ、一斉に警察官を含めた全員の視線が流夜に降り注ぐ。猜疑心に満ちた目で。
真夜はクスッと笑みをこぼすのみ――って
「俺は何もしてねぇぇええええええええ――ッ!!!」
どんな犯罪者でも必ず最初は否認するという。
無論犯罪など犯した覚えはない……とは言い切れないが、声を大にして否定せずにはいられなかった。
流夜の絶叫が、このすたれた廃墟に響いた。
「――ったく、冗談じゃねえぞ!」
口を尖らしながら、流夜はすっかり暗くなった窓の景色を眺める。
「ふふっ、でも事実ではなくて?」
そんな彼に今にも舌を出しそうな悪戯っぽい笑みを浮かべる真夜。最早隠すことなく色濃く好奇心が宿る瞳を向けてくる彼女に、流夜は不機嫌なしわを眉間につくり、怒気の籠った眼差しで睨みつけた。
「大体なっ、お前が変なこと言わなければこんなに時間取られなかったんだぞ!」
「でも事実なのだから疑われるのは当然でしょう」
「違うわッ! お前が誤解を招くような言い方したからだろ!? 危うくこっちは社会的地位失うとことだったんだぞ!!」
「あら、それは大変だったわね」
「お前のせいだろうがッ!」
流夜の怒声が飛び交う。
思い出すのはつい先ほどの記憶。
――そ、その、初めてを……奪われました。
あらぬ誤解を弁明しようとした時、視界の端に映った少女ーー真夜は何を思ったのか、ニヤッと微かに口角を上げた。そして羞恥で潤んだ偽りの瞳を作り出し、恥ずかし気に俯く。自身のその華奢な体を自身でそっと抱き、か細い声ながらに国家権力へとんだ告白をしてくれた。
改めて状況を確認してみた。
ボロボロに切り裂かれた服。パーカーのみを着た少女……
なんだかそこに至るまでの背景が浮かび上がってきそうな現場がそこにはあった。
――俺はやってません。
この状況下でそんな言葉、彼らに通用するわけがなかった。
そもそも言葉が通じないのだが。
「真夜。謝りなさい」
それを呆れたような、幾分か咎める口調でハンドルを握る父――元蔵が言う。
「そうですね。悪ふざけが過ぎましたね。ごめんなさい、流夜さん」
「すまない。神崎くん。許してやって欲しい」
小刻みに震え笑いをこらえて謝る少女を許せと?
アンタのところの教育方針はどうなってるんだ。大声で怒鳴りそうになったが、言っても無駄な気がして溜息と共にすっかり辺りは何も見えない墨汁の闇と化した風景を再び眺めた。
あれから誤解?を解いた彼らは元蔵が近くに止めていた――乗り捨てていたような止め方をした車に乗り込み、流夜が住むホテルまで送り届けてくれるという言葉に甘え、ホテルへと向かっていた。幸いなことに流夜の母親は専門の治療師であり、治癒魔法が使える。そのため流夜の足兼彼のミートボール治療も含めてホテルへと急いだ。ただ、必要以上にハンドルを握りしめ、アクセルの加減調節もできてない、奇妙な焦燥に駆り立てられてる元蔵を見るのは、意図的でないとしても良心が痛むというものだった。
もう、早くついてくれと見て見ぬ振りで精一杯なのだ。
今現在の車内には真夜と流夜と彼女の父親の3人。
元蔵と共にいた部下は後処理に向かったようだ。
――そう言えば、なんで俺たちがここに居るのが分かったんですか。
そんな疑問に元蔵が淡々と答えた。
彼によれば、警察の目撃情報(ここら辺の住民が偶々目撃)より早くここら辺に真夜がいるという情報をキャッチしたらしい。彼らのアジトすら情報を掴んでいるそうだ。
――なんでそんな情報すら掴んでんだよ。本気で彼らの諜報能力を知りたくはなったが、踏み込んではいけないような領域だと本能的な判断で口に出すことはなかった。
この廃墟は台北の市内とは程遠い場所まで来たようで、徒歩換算にして3時間程度。
それをひたすら走ったらしい。毎度ながら可笑しな身体能力である。後に痛みすら翌日には消えていた事でも苦笑いするしかなかったが。
街灯のない整備が不完全な凸凹道を走る事1時間弱。
ようやくうつろに輝く街のきらめきがフロントガラスから見えるようになった。
昼間は気づかない洒落た形の蛍光灯。家々が互いに肩を寄せ合う住宅地。
なんだか漸く戻ってこれた気がする。
ふと、隣に座る少女を見た。
街明かりに照らされた、美しいという表現さえ拒むほどの完璧に整った横顔。
――夢を見てるみたいだけど、夢じゃない。
あの出来事すべてが活動写真を見ているようで、まさに青天の霹靂。でも彼女はしっかりと隣にいる。――助けることのできた命がここにある。
もしかしたら自分は、あるべき未来を変えてしまったのかもしれない。けど――
視線に気づいた少女がこちらを見る。
パッチリした大きな瞳と目が合う。見つめ合う。
気づけばお互い、笑っていた。
――後悔なんて、俺にはない。
優しいかすかな音楽のような街明かりが、2人を柔らかく包み込んだ。
「か、母さんっ、元蔵さんの股間がっ!」
「こ――は? あんた何言って……」
「……」
「……」
「……」
「……亜里沙。警察に電話して」
――少しばかりの後悔は、必要だろうか。
……くそ、あのガキのせいで。
男は不自然に白い天井を見上げながら、悪態を吐く。
総院長のお墨付きをもらい実力を認められていた自分が、まさかこんな事になるとは思いもせずに、苦虫を噛むような顔になった。総院長には「さっさと探せ! たかがガキ1人に何を手こずっている!恥を知れ!」とお怒りをもらう始末。
最早帰還したところで権利も全て剥奪されかねないと、そんな気がしてならなかった。
少年時代から神童と呼ばれ、彼は大漢でも屈指の魔法師として名を馳せてきた。エリートコースを駆け上がってきた彼にとっては、権利を失うことは『死』と同義だった。
「クソが……!」
再び白い天井を見上げながら、憎々しく唸る。
――その刹那、体中の血が凍るような悪寒に襲われる。見えないものに監視されているような圧迫感を感じ、慌てて臨戦態勢を整える。
(誰だ……!?)
建物に入ってから複数の気配に、懐からCADを取り出し魔法の発動の準備を整える。
(くそっ、あのバカ共は何をやっているんだ……ッ!)
――役立たずめ。吐き捨てるように心中で部下に悪態を吐き、冷静に状況分析に努める。
見張りが2人ほど音も無く消されたのか、気配がまるでない。どうやら彼らはやすやすと敵に侵入を許したようだ。――人数は恐らく……2人。あの少年が報復にきた……とは考え難い。なら必然的に新手ということになるが……この動き、ただ者ではない。
(――ん? な、何ッ!?)
思わぬ事態に驚愕し思考が霧散した。
濃密な殺気を放った気配がヒタヒタと近づきつつあるのを感じた筈なのに、突如としてそれが消えた。
かえってそれが膝の辺りに突然水をかけられたような不気味さを覚える。
――かなりの手練れだな。暗殺者のような身のこなしに、ジワリと背中に冷たい汗が流れる。
(どうする……? これは行くべき…なのか……?)
自問自答を繰り返し、1人息をひそめ、薄い影のように近寄る。ドア付近で立ち止まり僅かな気配を探った。しかし、彼のアンテナは敵を察知できそうになかった。
(……この建物から出たのか? ――ッ!?)
壁越しに途端に膨れ上がる魔法の気配。
――何っ!? 先手を打たれたのか!?
油断したわけではない。確実に気配は消していた。――くそっ、感知系かっ!
「貴様が最後か」
混乱した頭に、地の底から響くような男の暗い声が聞こえてくる。反射的に魔法を放とうとして――身体が微動だにしない事に気付いた。
「な、なにっ!?」
思わぬ事態に驚きが声となり漏れた。
自由が利かぬ身体は、まるで五感が機能していない状態だった。
――魔法の力。徐々に男の顔が状況整理と共に恐怖で歪む。
同時に乱暴にドアを開け入ってきた黒ずくめの男2人。
男の目の色が変わる。瞳の底には凄まじい嵐が潜んでいた。切羽詰まった絶望感が爆発的な殺意に変わる。
「き、きさま――ッ!」
口から言葉を出しかけたが、しかし、彼の声が実験室の空気を震わせる寸前、瞬時に眼下まで移動した男の手が蛇のように伸び、彼の口を塞ぐ。言葉は口内で霧散した。
いきなりの行動に、驚愕した彼は四肢をばたつかせようとするも、些細な抵抗すら脳が命令を下さない。支配権がなかった。反対に男の手は万力のように彼の顔に食い込み、頭から嫌な音が聞こえる。
「貴様には聞きたいことが山ほどある」
怒りに満ちた瞳で放たれた言葉を最後に、男は意識を失った。
シートベルト着用のアナウンスが聞こえてきたのを機に、情報端末をオフにした。この時代の航空機は情報端末の電波如きで航行に支障をきたす事など無いと聞いている。でもオフにするのがマナーだ。それをあえて破ってまで常識に逆らうような真似はしない。
シートを覆う卵型の安全シールド、その内側に投影された、日本。
何この便利な飛行機…。些か庶民には刺激が強すぎる光景だが、それは紛れもなく現実である。
曰く、彼女達は見ず知らずの人たち肘がぶつかり合う至近距離にいるのが耐えられない。だからノーマルシートには座らないそうだ。
最早庶民にはよく分からない価値観である。
飛行機は羽田空港に着いた。
ほとんど振動を感じることのない着陸。
形式以上の何も意味のないシートベルトを外して、少年――流夜はカプセルシートのシールドを開いた。
「いやぁ〜、快適だったなぁ〜」
何やら満足気に笑みをこぼす妹。酔うような喜びに打たれている。そうだな、と相槌を打ちながら流夜も思わず同意する。それは両親も同じようで、何やら惚けた顔をしたままたっぷり余韻に浸っていた。最早立つことすら躊躇いたくなる程に、快適なシート。座ったまま、何やら幸せを噛み締めている。
結局、台北で行われた交流会には出席せずに翌日帰国した。彼女らを巻き込む形となったが、彼女らに不満げな顔はなかった。特に楽しみにしていた妹の反感を買うと思ってはいたが、その心配はないらしい。きっとこれはあの人達の気遣いだろう。流夜からすればかなり有り難い事ではあった。しかし、だ。
「お、お客様。そろそろ搭乗口の方に…」
……恥ずかしいからやめてくれ。
切にそう思う流夜だった。
到着ロビーの会員制ティーラウンジを出ると、預かり荷物を持っていた爽やかな青年が、こちらに洗練された一礼をする。
誰に一礼してんだ。ほんの一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐ様に悟った。どう考えてもこちらにしてる風にしか見えない。
エグゼクティブクラスの乗客は優先的に飛行機から降ろされる。荷物も優先的に返却される。それをこの男性が取りに行ってくれていたのだろう。あまりの待遇の良さに、ぎこちなく流夜が頭を下げた。
「す、すみません。荷物持ってもらって」
「いえ。ご当主様のご命令ですので、お礼など必要ございません。では、皆様も揃われたようですので、こちらで手配させて頂きましたお車の方に誘導させて頂きます」
「は、はあ……」
物凄く畏まる男性に、曖昧に頷きながら彼の背に続く。流夜は珍獣を見るような目を、思わず青年に向けてしまう。執事という人種は、イギリスら辺にしか生息してないものだと思ってた。隣を歩く妹も興奮気味だった。
「お、お兄ちゃん、あれ羊だよねッ!?」
「執事だ。落ち着けよお前は」
「だ、だって初めて見たんだよっ!? し、しかも……イエメンの羊!」
「俺だって見たことないわそんな羊!」
だめだ、この妹は……
次々と非日常的な事を体験しては、最早頭がパニックを起こしてるらしい。それは背後に続く両親も、流夜も同じで緊張気味な足取りで青年へと続いた。
そして促される形で案内されたのは、実にきれいにワックスがかけられ、そばに寄ったら車体に顔が映りそうなくらいの言わずとも高級車を匂わせるような車だった。――またもや神崎一家はその場に立ち尽くす。
「神崎流夜様はあちらへご乗車下さい」
「えっ? お、俺だけっすか?」
「はい。ご当主様がおりますので」
「は、はあ……」
嫌なご指名だと顔を顰めながらも、二台停車する前方の車へと案内される。車に近づけば、それを合図に車内から別の執事が降りては、流夜が乗り込めるようドアを開けてくれる。
「――いらっしゃい、流夜さん。遅かったのね」
開くなり車内から耳が癒されるような可憐な声音。
視線の先には、誰もが羨むような絶世の美少女がニコッと微笑んでひらひらと手を振っている。最早それだけで流夜の心臓が高鳴っては、心があでやかな思いに吸い込まれそうになるが、あくまで表情を崩さずに片手を上げて応え、遠慮気味に彼女の隣に乗車する。
シートがまるでリラックスして座る応接間のソファのようでふわふわと柔らかく、背中を預ければ心地よさに眠気が襲いそうな程だった。
「ふふっ、お気に召して頂けたのなら良かったわ」
余程腑抜けた顔をしていたのだろうか。真夜がクスクスと可笑しそうに笑い声を洩らした。何だか無性に恥ずかしくなり、流夜は頭をかきむしりそっぽを向いた。
「では、発車してくれ」
同じく乗車する元蔵の指示で「畏まりました」と運転手が車を発車させる。流夜も、お願いします、と告げて車が進む。
目的地は山梨。四葉家の本家だそうだ。
なんでも真夜を救出したことでその御礼をさせて欲しいとのことだった。
最初こそ飛行機代だけでももう十分だと断りを入れたが、結局は押し負ける形でそのおもてなしを受けることにした。護衛や食事。その他諸々。
しかし、その質がまたとんでもない。最早貴族にも似た扱いである。背中を柔らかいシートから離し、元蔵に申し訳ない顔を向けた。一言でもお礼を言わなければ、とそんな使命感で。
「なんか、色々すみません。飛行機代とか」
「気にしないでくれ。こちらがしたいと申し出ているのだ。存分に楽にしてくれ」
「は、はい……」
その言葉を最後に気まずい雰囲気が部屋の中に充満する。
原因はもちろん、昨日のあの出来事である。
無論、何度も謝罪をしては許しを得ているが、ここまでのビッグな金持ちの家ともなれば、もはや自身の過ちを後悔せずにはいられなかった。
だがどうすることもできずに結局外の景色を眺めているだけ。
――どうしよう。
暫く頭を悩ませていたが、ふいに肩に寄りかかる微かな重さを感じる。
ふわりと漂うシャンプーのような香りに、ドクン、と心臓が跳ねる。
サラサラとした流れ落ちる髪の手触りが、くすぐったくも心地よい。そして磁力にも似た愛しい弾力。それはあの時にも似た、彼女の柔らかな温もり。
声を上げようと喉まで出かかって、すぅすぅという可愛らしい寝息がそれを止めた。
見れば小石のように眠りに落ちる彼女。その寝顔は少し幼く感じられて、唖然とするほど可愛らしく、清楚な花の蕾を見ているようだった。
「神崎くん。少し、寝かせてあげてくれないか? 恐らくだが昨晩は寝付けなかったのだろう」
「は、はあ……まあ、いいですけど」
曖昧に頷いて、もう一度眠り続ける小柄な少女に目を向けた。
精緻な彫刻に似た端正な顔立ちにある下瞼が紫色を微かに帯びている。確かにあまり眠りにつけなかったのだろう。しかし、昨夜の出来事を考えれば仕方のない話だ。
全く、と困った顔で諦め、寝やすいように位置を少し変える。改めて、彼女の顔を凝視した。
(……からかいグセさえ無ければ、文句のつけようがないんだけどなぁ)
心中で苦笑しながら視線を前に戻せば、意味ありげな目を向ける元蔵と視線が交わう。
「随分と珍しい光景だよ」
「なにがですか?」
キョトンと首をかしげる流夜に、彼はその無表情な顔を少し緩めた。
「いや、なに。真夜が人前でそこまで無防備になるのがまた珍しくてね」
「は、はあ……」
随分と含みのある言い方に、曖昧に頷く。
脱力気味に彼へと目を見遣れば、僅かながらに口元にニヤリと笑みを浮かべたような気がする。
その瞬間悟った。――この人間違いなく真夜の親だ。
なんだかこの人を相手にするのもまた、疲労が蓄積しそうな気がしてならない。すぐ様に流夜は話題転換を試みた。
「そ、それで、何で俺だけこっちに呼ばれたんすか?」
「そうだな。――君には昨日の連中の事を話しとこうと思ってな」
途端に彼の雰囲気が変わる。なんだかそれに気圧されそうになり、全身が固まる。ゴクリ、と息を呑むようにして彼の言葉を待った。
「まず結論から述べるが、君たちを襲撃した連中は大漢と崑崙方院の魔法師だ」
「大漢……」
崑崙方院という単語に反応を示さなかったのは、彼がそれを詳しくは知らないからだが、大漢はよく知っていた。なにせ同盟国とは言わずとも、大亜連合を共通の敵とする軍事同盟協力関係にあった世界群発戦争勃発後に中国の南半分が分離独立して建てられた国。
そしてその話から一つの推測が生まれる。流夜は眉を潜めながら、さらなる真相に踏み込んだ。
「もし真夜目当てなら、日本に喧嘩売るつもりですか? そいつらは」
「それはわからない。ただ、そう思われても仕方のない事を彼らは実行したのもまた事実だ」
淡々と告げる元蔵だが、なんだか確信めいたようにも聞こえる言い方だ。
一体彼がどれほどの情報を握り、それを教示してくれるのかは不明だが、娘が攫われたという怒りが再燃したのか彼の瞳には微かに憎悪の炎が宿る。言葉選びには慎重になるべきだろう。
「あ、あの、今日本家に行くんすよね?」
「ん? ああ、そうだ。……すまないな、まだ気持ちの整理がつかないんだ」
「い、いえ。当然だと思います」
流夜の知らない知識だが、崑崙方院は大漢の魔法師開発機関。悪い噂が絶えない場所。特に女性にとって、正視に耐えない内容なのだ。そこに自分の娘が連れ去られたかもしれない。彼の怒りも無理はなかったのだ。そしてそれに比例するように、流夜への感謝の念は肥大していく。
「だから、本当に君には感謝の意を示したい。ありがとう、神崎くん」
「い、いえ。いいっすよ、別に。……俺が助けたくて助けただけなんで。お礼なんて、要りません」
「……そうか。真夜に聞いてた通りの男なのだな。君は」
納得だ、と言わんばかりの表情をする元蔵。しかしながら、反対に流夜は猛烈に嫌な胸騒ぎを覚えた。一体彼女の口から自身がどう映ったのか、何が語られたのか。あの性格から推測するに、確実に妙なことを吹き込んだに違いない。確信めいた顔で、元蔵に問いかけた。
「念のため聞いときたいんですけど、真夜なんて言ってましたか?」
「後のことは何も考えずに自分を追い詰める、男気溢れる少年だと言っていたよ」
「くっ、こ、こいつめ……遠回しにバカって言いやがったな」
「まあ、それは真夜だけが知るところだろう。ただ、あの後から君の話ばかりしていたよ――」
元蔵はどこか遠い目で昨日の引き出しを開けていく。その表情は憎悪の念で歪むわけではなく、どこか柔らかく温かい、父親としての顔。そしてその瞳には、やはりひそかな心配が宿っていた。
「正直なところ……心配だった。幾ら助けられたとは言え、真夜はまだ子供だ。精神的な面でまだ恐怖が残ってるのかと思っていたんだ。勿論眠りにつけなかったというのはまさにその懸念通りだが、しかし幾分か思っていたよりも軽いように見える。真夜は楽しそうに、君の話をしていたよ。その面でも神崎くん、君のおかげなようでな。余程、君のことが気に入ったのかもしれないな」
「いや、ただ単に揶揄う相手見つけただけだと思いますけどね……」
あの悪戯めいた微笑みが脳裏に浮かび、げんなりと疲労した表情をする流夜。そんな彼に元蔵も苦笑するのが精一杯だった。
「――話が逸れたな。本題はここからだ」
どこか真剣みを帯びた口調に、流夜の表情も自然と引き締まる。
「彼らに神崎くんの存在が露見した可能性がある」
事後の情報処理はできても、それ以前にリーダー格の男は向こう側に神崎流夜という人物の情報を流したかもしれないという警告だった。
――だから事後の処理って何したんだよ。
最早そちらの方が気になる話だが、ただ、流夜は平然とその話には眉毛も動かさずに耳を傾けていた。
彼女を救った時からどんな厄介ごとも全部受けて立つ覚悟はできていたから。心に波紋ひとつ立っていなかった。
その瞳に宿る彼の決意を読み取りかえって驚いたのは、元蔵だった。
「……驚かないのか? 仮にも狙われる可能性も出てくるが」
「別に覚悟してましたし、いいんですよ。――後悔なんて、微塵もないんで」
ニイッ、と白い歯を見せて笑みをこぼす流夜。彼の瞳の底にいつでも咲き匂った桜の枝が浮かんでいるのかと思うくらい、晴れ晴れとした微笑が漂っている。なんだか元蔵自身が、さわやかな風に吹かれているような感覚だった。
「……真夜が言っていたのはこういう事か」
「元蔵さん?」
訝しむ彼に、なんでもない、と元蔵は首を横に振った。
「では、重い話はここまでとしよう。して、神崎くん」
「なんすか?」
「単刀直入に言うが、真夜の婚約者になる気はないか?」
「――は?」
……は?
莫迦のように大きな口を開けたまま、思わぬ言葉に絶句した。
……き、聞き間違いか? 今この人婚約者って……
「どうかね、神崎くん」
気持ちを込めるでもなくさらりと言ってのける彼だが、こちら側は唐突過ぎて事情が飲み込めず二の句が継げない。固まったまま数秒の時間を有して、漸くパニックから戻ってくる。
「か、揶揄ってます?」
「……少し緊張をほぐそうかと思ったのだが」
「どんな緊張のほぐし方だ! びっくりしたわ!」
なんだか独特の彼のペースに、益々頭痛を覚える思いだった。思わず頭を抱えたくなった。
「しかし、少しは考えてみてくれ。話によれば、君はサイオン保有量が多いと聞く。何しろあの連中共相手に真夜を奪い返すほどの実力だ。十分真夜との縁談に見合う相手だと思うが」
何やら誇張された話に過大評価が相まって、思わずむず痒くなりそうな話だ。
それに何より否定しなければならないのは、実力で奪い返したわけではないという事。
神のような存在が介在しているのではないかと疑いたくなるような偶然が続き、偶々救えたに過ぎない。――無論、あの爺さんが介入したわけではないと思うが。
「た、偶々っすよ。偶然です」
「随分と謙虚だな」
どうやらまた株が上がってしまったようだ。
ただ、どう対処したのかを応えれば、間違いなく精神的な面でダメージを受けるのは他でもない元蔵だ。
――小気味よいキックの炸裂音と共に股間をサッカーボールのように扱い蹴って、救いました。
決して冗談ではなく嘘偽りない真実だが、やはりそれを話す気にはなれそうになかった。
「ま、まあ、随分と買ってもらって恐縮ですけど、俺なんかよりもっといい男いると思いますよ。見た目からして真夜は美少女ですし、そのうち直ぐに婚約者でもできるんじゃないんすかね」
「ああ、今現在婚約しているよ」
「いるのかよ! ならこの会話は何だったんだ!」
「おや、その様子だと少しは期待してくれたのかな?」
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃ……!」
やはりこの人との会話は疲れる。ほんの10分ちょっとの時間でも、三日三晩荒野を彷徨った旅人のように疲労が蓄積した気がする。思わずげんなりとした顔で元蔵を見た。
「――ただ今回の件で破談となるかもしれん。元々政略結婚に近い形での婚約だ。真夜自身が心から望んで迎え入れたものではないのでな」
「は、はあ……」
そんな付加情報なぜ俺に…というかなんで破談になるんだ? 彼女の精神的な面を懸念してだろうか。
幾つか疑問が頭に浮かぶも、地蔵のように無表情な顔でポンポンと娘の機密情報を語る彼の口は止まりそうになく、聞き役に徹する。最早後半は娘の自慢話になっていたが、これもまた疲労が溜まる一方だった。
ただ何となくだが、彼は自らを嘲るような目をしていたような気がした。
大きめの武家屋敷伝統家屋。
それが門からみた四葉の印象だった。
一般屋敷と比較すれば、広い。お屋敷と表現しても違和感がない。
真夜によれば他に比べれば、こじんまりとしたたたずまいだと言っていたが、その規模に呆然とする神崎家一同。
やはりここの家の者の人達は価値観が可笑しいのだ。そう思いながら恐る恐る重厚な造りの門に足を踏み入れた。そこからは初老の執事に案内を促され、大応接室に通された。外の構えからは想像もできないモダン、かつ広々とした場所。感嘆しながら家族揃ってソファへと促され、腰を下ろす。
少し待ってて欲しいと言われ、暇潰しに改めて室内を眺める。
和様建築と裏腹な洋風の大部屋。明るい色調の壁に掛かる大きな風景画はディスプレイでも複製でもなく、著名な現代画家の手によりカンバスに描かれた本物の油絵。重厚な天然木のテーブルは、十人以上の席を用意できそうなサイズだった。それでも、この部屋はがらんとした印象があった。それは恐らく、十脚以上の椅子を並べられるテーブルに四脚のソファしか置かれていなかったり、テーブルとソファ以外に調度品が全く無かったりと、部屋の空間に余裕がありすぎる所為だろう。それが心理的な圧迫を狙ってなのかは流夜の知るところではないが、屋敷に入った時から流夜は背筋に冷たい汗が流れていた。昼間なのになんだか悍ましいものに囲まれてるような気がして、足元から悪寒が駆けのぼってくる。
「お、お兄ちゃん、大丈夫?」
「あ、ああ……大丈夫」
心配げな瞳を向けてくる妹に何とか微笑み返し、自分にそう言い聞かせた。しかし、よからぬ悪寒の正体が分からずに混乱が頭の中を駆け巡ったままだった。
「流夜…気づいたのか」
「気づいたって…父さん、何か知ってるのか?」
まるで得体の知れないこの正体を知っているような呟きに、恐る恐る問い返せば、しばらく父は腕を組んだまま黙り込んだ。応えることを躊躇ったのだろうか。目を伏せ何やら思考顔になっていた。4人の間に更に緊張した深い静けさが流れる。ただそれは母によってすぐ様破られた。
「――死の臭いよ」
「――えっ?」
父の言葉を代弁するかのように言う母。その声には追い詰められた者が発する独特の響きがあった。
「それにこれは……かなりヤバイわね」
恐怖の色をその目の中に光らせながら、僅かながらに震える。
彼女は少なからず死という存在に近い人物だ。そんな彼女の異例とも言える反応に、流夜は顔が青ざめた。
「ね、ねえ、どうゆうこと?」
唯一この異様な空気に反応を示さなかった妹が、交わす言葉の意味が分からずに神妙な顔で尋ねてくる。だが流夜は彼女にどんなことを言えば良いのか説明材料が足らなすぎて言葉を紡ぐ事が出来なかった。戸惑いの色を見せる流夜だが、しかし、それを補うように、漸く父が重い口を開けた。
「――聞き覚えがないか?」
家族の何を、という問いかける視線が彼に集まる。
「――魔法技能師開発研究所。もし俺の仮説が正しいのなら、四葉……4。数字付き。…つまり第四研究所。少なくともここに居る者はそれに関わっている可能性があるかもしれん」
「だ、第四研究所って…あの?」
――魔法技能師開発研究所。日本で設立された魔法師開発機関。 全部で10ヶ所の研究施設が存在し、それぞれ研究施設によって研究テーマが異なっていた。その一つが、彼の言う第四研究所。通称「第四研」。
研究テーマが非人道的なものからそれらは次々と政府から閉鎖されたと発表されており、それは第四研究所も同様のことだが、他でもないそこは悪い意味での黒い噂が絶えない最も有名な場所。研究内容の機密性が高いせいか、その所在すらも明らかにされていない。
そんなあり得ない仮説を立てるとは……。彼のぶっ飛んだ推測に思わず乾いた笑い声が漏れた。
「はっ、ははは。た、偶々だろ? だって四方ってやつ俺の学校にいたぜ? 名前だけでそこまでの――」
「――なら、説明できるのか? この濃密な死の臭いを。仮にそうでないとしたって、少なくとも数知れず人体実験をここで行ったのは確実だ。……くそ、とんだ人達と出逢っちまったな。近所のラーメン屋かと思ったんだが」
「どんな勘違いだよ! もっと早く気付け! ってかそんな有名なのか?」
「ああ、良い意味でも……悪い意味でもな」
思わず顔面が引き攣る。
――存分に楽にしてくれ。
今までのあの好待遇が鮮明に蘇る。そしてなぜこれ程までのVIPなおもてなしをしてくれるのか、それが今繋がった気がした。
――人体実験される前の飴…ということか。
意識したせいか、遠まわしな死の臭いが先ほどよりも強くなった気がした。静かで緩慢な、しかし逃れようのない死が迫ってくるような感覚――抑えても震えが止まらなかった。
「――失礼する。待たせてしまって済まないな」
「――ッ」
突然室内に響く無機質な元蔵の声に悲鳴を挙げそうになった。
思わず家族に顔を向けた。どうする、という視線がお互いに交わる。
――決まってる…やるぞ!
意志の強い父の瞳に、コクッ、と家族揃って頷きあった。
――信じ合った心と心は、鋼よりも固く、気持ちを深く結び合わせている彼らだからこそ、生まれる信頼が確かにある。
――全員で、脱出するぞッ!
血を沸き立たせる。視線を黒ずくめの悪魔に固定した。
「行くぞっ、とうさ「「「せめて流夜(お兄ちゃん)にして下さいッ!!」」」 っておいッ!」
――あらぬ裏切りがあった。
「なんで俺だけなんだよッ!! あの信頼溢れるまなざしはなんだったんだッ! こんな時にふざけてる場合じゃねぇだろ!」
「ふざけてない、真剣だ! こっちは巻き込まれた身だぞッ! 大人しくお前ひとりで逝ってこいッ!」
「なっ、ふ、ふざけんなッ! ここは全員の力を合わせて――」
怒った血走った瞳の彼に、父は穏やかな顔でポン、と肩に手を置いた。
「――股間の、恨みかもしれん」
「こか――」
胸を鋭いもので貫かれるような衝撃を感じた。
こ、股間の恨み……だと?
「で、でもあれはわざとじゃ――」
必死の弁明を試みる流夜に、父は遮るように首を横に振った。そして死にかけた子猫を見るような同情にあふれるまなざしで、こう告げた。
――血尿……だったそうだ。
脳が紡ぎ出したその言葉の織物は、あたりの空気が重みをもったように四方から圧し縮まってくるような息苦しさを流夜に与えた。それは――紛れもない真実。そして、流夜の罪。
母と妹に目を遣った。2人とも力なく首を振る。
――どうしようもないよ。と。
――そうか。それで俺か……
どうやらそれは、死刑宣告に処させるほどの重い罪。冗談では済まされないような事件として処理されるようだった。
人は自分の死を自覚したときから、生きる希望と死への折り合いをゆるやかにつけていく。たくさんの些細な後悔や、叶えられなかった夢を思い出しながら。
――でも、いくつ願いを犠牲にしたって、護れるものがあるのなら……
決意が固まり、その足取りはしっかりと地に着いていた。ゆっくり近づき、彼と対峙する。
男は、死に際と死に様で値打ちが決まるという。なら、せめて最後くらい格好つけたいものだ。
「俺の体は……安くはないぞ」
「さあ来い」と胸の中で身構る。しかし、当の本人は唖然と固まっていた。どうやら彼の意を決して放たれたその言葉には、些かセクシャルな響きが伴っていたようで……
「お、お兄ちゃん……汚いよ」
「流夜……あなたそんな趣味があったのね」
――後ろ向きに振り向くことなんかないくらい充実した彼の人生に、悪い意味での値打ちが決まった瞬間だった。