「――消えただと?」
声は硬く、怒りを押し殺した声音が会議室に響いた。
直立不動の男は「はい」と事務的な口調で告げれば、総院長は愛用の椅子にしなだれかかるように座り直し、眉間に深いしわを作る。
――あり得ない。
それが彼の素直な感想だった。
仲間との連絡が途切れ、その行方が不明。さらにはそれと共に奴らの情報が煙のように消失していた。たかが半日程度で証拠を一切残さないなど子供にできるわけがない。――ましてや逃げ回るしか脳のないガキどもなら尚更に……
なら、この一連に関与してるのは何者だ……? 国か? いや、それだと対応が早すぎる……しかし、この情報操作ともなれば…
腕を組んで舌打ちする。考えが混沌として雲のごとくに動く。彼の思考は、迷路のすべての出口をふさがれてチーズの匂いだけを与えられた気の毒なネズミのように、同じ道筋をぐるぐる行き来しているだけだった。
すっと息を吸うと、自分を落ち着かせるように長く、吐いた。ゆっくりと目を閉じる。そして一旦スイッチを切るように頭の中から全ての灯りを消しさり、今最も危惧すべき事柄に思考の灯りを点火した。
――情報漏洩。仮にもし隊員が全滅しその死体を持ち去られたのなら、あるいはそのまま生け捕りか、どちらにせよその情報があの島国に伝わっているとするなら……一歩まちがえば元も子も失う危険にとり巻かれる状況に、重いため息を吐きだす。そして総院長はメンバーを一瞥した。表情にはやはり疲労や眠気が見て取れる。かくいう彼もまた、眠気を無理やり頭蓋の外に放り出してるような状態。昨夜から寝ずに緊張感が室内に漂ったままだった。だが、今はそんな事を言ってられる状況では無い。
「……捜索は怠るな。それと警戒態勢のレベルを上げる。敵に備えるぞ」
「はっ!」
正体不明の介入者とその謎の少年。一体自分たちが何に手を出してしまったのか、無表情に近いその顔は恐怖で引きつっていた。ただ、本当の意味でその恐怖がいずれ滅び行く未来となる事を、知るものはいない。
――フフッ――
黒髪をウェーブに巻いた少女が口に手をあて上品な笑い声を漏らした。まるで月の光に咲き出た夜の花のような美しさをもつ彼女の微笑みは、男の身も心も狂わせるほどのものだった。
ただ、どれほど容姿にこぼれるような艶かしさがあろうとも、今現在床にへばりつくように体育座りをする少年の心には響くことなどなく、咎めるような視線でその美少女を睨んだ。
「いつまで笑ってんだよ……」
「ふふっ、ごめんなさい。でもついつい笑みが溢れ……フフフッ」
「こ、こいつめ……」
こみかめをヒクつかせ、少年――流夜は怒りを露わにした。
人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだが、余程彼女は他人の不幸が大好物な様で、口のあたりに意地の悪い笑みを彫りつけたまま、絶え間なく笑っている。理由は勿論、流夜の失態である。一応知られてしまった以上誤解だと弁明を試みるも、効力は微々たるもの。そして今に至るわけで、結局は何も言えずに、終わることのない後悔と屈辱と絶望の泥沼に身を沈め部屋の隅で縮こまる事しかできなかった。――そう、それが三十代男性に身体を売った少年の末路だった。
「――真夜。流夜さんもお困りなのだから揶揄うのはお止しなさい」
そんな彼に援護射撃を放つように、凛とした声が幾分か呆れた口調で横槍を入れた。
視線の先に映るのは彼女とよく似た黒髪ロングの少女――四葉深夜。
迂闊に声をかけるには、あまりにも綺麗すぎて戸惑う程の美貌を持った美少女。その驚くほどに端正な容姿と、美しい刃物にも似た清澄な雰囲気が、近寄りがたい印象を与えている。真夜とはベクトルの違う美しさを持った彼女の双子の姉だ。
その端整な顔立ちが困ったような表情を作り、流夜に向けられた。
「ごめんなさい。妹が迷惑をかけてしまって」
「あー、もういいよ。真夜が腹黒いのは知ってるから」
「あらあら、随分と辛辣な評価なのね」
酷いわ、と悲しいようなやるせないような表情を作って見せる真夜に、カチン、ときた流夜は額に青筋を張った。
「今までの自分の言動を思い返してからそれを言え」
そうねぇ、と顎に人差し指を当てて、真夜は小首を傾げた。
「……確か、身を虚しく犠牲にしてしまう勇ましさをお持ちだわ……よね?」
「うん、違うよ? 一言一句違うからね? というかやっぱりお前俺の事バカって思ってない?」
「……ごめんなさい」
「いや、まて、謝るな! 俺が余計惨めに思えてくる」
「そう? なら謝らないわ。そもそも謝るつもりなど微塵もないし」
「やっぱり謝罪しろテメェ!」
息を荒げる流夜に、その艶やかな唇を三日月の形に歪める真夜。
深夜が「プッ」と噴き出した。
「とても仲がよろしいのね」
「……いや、俺がイジメられてるだけだから」
「ふふっ、私から見たらとても微笑ましい光景ですよ」
「それは気のせいだろ……」
壮大な疲労感を表した表情の流夜に、深夜は桜色の唇をほころばせる。
その笑顔は双子だけあってか、やはりどこか真夜の面影を感じた。
「しかしホント双子だけあってそっくりだな……性格を除いて」
「そうですか?」
可愛らしく小首をかしげる仕草をする深夜に、流夜は危うく鉄が磁石に引っ張られるように、彼女の魅力に吸い寄せられそうになる。慌てて「お、おう」とぎこちなく頷いた。
同じ胎を借りてこの世に生まれ出た二人でも、姉という立場もあってか、深夜は責任感があり包容力の在りそうな優しさを持つ少女に見える。――いや、そうであってほしい。とまるで小さな遠い燈のような希望を心に抱いていれば、やはり悪女(真夜)がその燈に霧をかける。
「――それは見当違いかもしれないわね」
「あ? なんで?」
「だって――私の姉だもの」
――なんだその謎の説得力は……
自信ありげににっこり笑う彼女に、テレパシーのようにすぐ深い理解が訪れてしまったのが悔しかった。自然と深夜に視線を向ければ、否定の一切が籠ってない笑顔を返され、ガクリと肩を落とす。
そんな流夜に肩を震わせて笑う真夜につられ、深夜にもクスクス笑いが蔓延する。
……どうやら姉妹仲は良好なようだ。
「――3人とも仲がよろしいのは良いことですが、そろそろこちらのお話にも耳を傾けてください」
仲睦まじい3人の耳に、女というものを丸出しにしたような滑らかな肉声の旋律が届く。
男の性か瞬間的に意識がそちらに強制され、思わず息を呑んだ。
流夜の視界に映るのは、いま咲いたばかりの白い百合の花のような楚楚とした艶かさのある美しい女性。
真紅のドレスに包まれた彼女は、おっとりした柔らかい眼差しでこちらに微笑んでいた。なんだかまるでリアルかぐや姫を見てるようで、女の輝きが隅々まで満ち溢れている彼女に、視線が吸い込まれる。もう他のものなど、目には映らなかった。
「き、綺麗だ……」
――そのあまりの暴力的な美貌に、思わず感嘆が唇の隙間から漏れた。
「あらあら、お上手ですね」
「――へ? あ、い、いや……」
クスクス、と女性に笑われ、改めて自身の言動が蘇り身の置き所のない羞恥に駆られた。決まりの悪い顔でガシガシと頭を乱暴にかきむしっていれば、父から呆れた声が飛んできた。
「お前なあ、夫の前で奥さん口説いてどうすんだよ」
「ばっ、べ、別に口説いてねえよ! ただ綺麗過ぎーーっておい、ちょっと待て……母親? えっ!? あの美女真夜のお母様なの?」
「ええ、そうよ」
鷹揚に頷く真夜に、流夜は唖然としてまじまじと美女を見つめる。
「申し遅れました。 わたくしの名前は阿部…いえ、四葉泰夜と申します。そちらの真夜、深夜の母です。神崎流夜さん、この度は娘を助けて頂き、誠にありがとうございます」
艶やかな癖のない黒髪を揺らし、女性――泰夜は礼儀作法のお手本のようなお辞儀をした。
流夜は、流れるような彼女の動きに見とれて言葉をなくした。
何よりどの子供にも十分な食料を提供しうるであろう大きな乳房が胸元から見え、思わず息を呑む。それを決して下品だとは思わせない。むしろ美しかった。
「……わかるぞ、流夜。あれは国宝級だな」
いつの間にか隣に移動してきた父が、流夜の心の声を代弁するかのように呟いた。
コクリ、と流夜は頷き同意を示す。
親子揃ってばかみたいに口を開いて長いこと見とれていれば、不満げな視線が流夜に2つ程飛んできた。
「あまりお母様に色目を使わないで頂戴」
「お兄ちゃん、鼻の下伸ばしすぎ」
「わ、悪かったな」
真夜と妹の視線を受け慌てて視線をそれから逸らす。
隣からも、殺される瞬間に人間が思わず上げるような声が部屋に響き渡った事で、母からお叱りを食らったと理解できる。ただあくまで横目からしか確認できなかったが、目潰しとはいえ指が第二関節まで入ってたような……まあ、今の医学なら問題なかろう。
「――神崎くん。そろそろ良いかね」
「あっ、はい」
個性的な低い地声により意識がそちらへと向いた。
元蔵に連れられてやってきたのは談話室。広々とした空間に、神崎一家を含めた多くの見知らぬ姿がある。
「では、私から宜しいかな?」
元蔵の隣に控えていた男が一歩前に出た。
「私の名前は四葉英作。ここにいる元蔵の弟にあたる。この度は真夜殿の救出、感謝致す。ありがとう、神崎くん」
彼を筆頭に、津久葉、黒羽と次々とこの場にいる一族が、英国の女王の前に出たときのように深々とお辞儀する。最早幾度となく掛けられた言葉だが、そこから垣間見える真夜を想う気持ちに、少しほっこりとした気持ちになった。
「――では、そんな具合なのですが、宜しいですか?」
その後の大方の説明を終えた元蔵がそう問えば、家族揃って頷いた。
今後の予定としては、7時の夕食。なんと四葉家が夕食をご馳走してくれるらしい。現在時刻の4時半から随分と時間はあるが、ここまでの豪邸ともなれば、滅多にお目にかかれないご馳走が振舞われるのだろうか。本来なら思わず歓声を上げるところだったが、心の底から喜びは沸かなかった。
――第四研究所。世間から悪い噂が絶えないその場所の中枢はこの屋敷の地下に存在するそうで、四葉生まれの者はそこを出自とする家系らしい。彼の感じた死の臭いはまさにそこから漂うもの。
今現在はもう非人道的な実験は行われていないと元蔵はフォローするかのように言う。しかし、彼の発言は些か三味線を弾いてるように聞こえてしまう。言葉に偽りの匂いがしてしまうのだ。決してそんな事はないと思いたいが、実験は継続中と仄めかす発言に、真夜救出でそこまでの秘密をぶっちゃける彼らの意図、あるいは研究所があるという先入観からか、余計な勘ぐりを入れてしまう。何より恐怖が未だに流夜の心に居座り続けていた。そう、家族だって……
「お母さん、この紅茶美味しいね!」
「ええ、ホント癖になりそうだわ」
「このコーヒーもまた美味いな」
……可笑しいな。物凄く馴染んでるぞ。
少なくとも、彼らの遠い祖先が犯した罪から続くケガレ、死者の怒りがそこら中を彷徨ってるのではと、人間ではない何かの存在を感じ取ったような気がして、総毛立つほど居心地が悪くなった流夜だったのだが、どうやら彼だけのようだ。あれほど恐怖に満ちて蒼くこわばった顔をしていたと言うのに。
「な、なあ、亜里沙。怖くないの?」
「怖い? 何に?」
「い、いや、ここの地下第四研なんだぞ? 人体実験で死者出てたんだぞ? 怖くないのかよ」
「うーん。でも、元蔵さんとか良い人そうだし。それに、私は何も感じないから、ただ、へえ、そうなんだ程度にしか思わなくなっちゃった……それに、危なくなったらお兄ちゃんが助けてくれるしね。あ、お母さん、私もお代わり欲しい!」
……な、なんたる肝っ玉だ。
最初は強がっているのかとも思ったが、水が油を弾くような無関心な様子からそれは皆無。最早10歳にしてこれとは、驚くほか無い。だが、それと同時に這い上がることができない谷に落ちたように、胸の中が情けなさでいっぱいになる。頼りない兄として。――一体どちらが歳上なのか、膝からガクリと崩れ落ちそうになれば、そんな流夜にポンと再び肩を置く父。彼の瞳はつい先ほど見た、励ますような優しい眼差しだった。
「女というのはな、強いもんなんだよ、流夜」
「……みたいだな」
その経験に支えられた重みのある言葉と充血した彼の瞳から流れ出る涙が、女の強さというものを如実に語っていた気がした。
「元蔵さん! 私屋敷見て回りたいです! 良いですか?」
好奇心でいっぱいになった少年のような表情で質問する妹に、やはり座も割れさけんばかりの大喝采を心の中でおくる。そして、やはり悲しい感銘に見舞われた。
「……にしても無駄に広いな、この屋敷は」
母屋から品の良い廊下がボウリング・レーンみたいにまっすぐ続いている。いくつもの離れを持つこの屋敷を実際に歩いてみれば、最早その規模から呆れる他なかった。
「四葉家はこれでもこじんまりとした方だと思うわ。あまりお客様を呼ぶことはしないもの」
「……どんだけ秘密主義なんだよ、四葉は」
ここ四葉家の本家は、旧長野県との境に近い旧山梨県の山々に囲まれた狭隘な盆地に存在し、ここは地図にも載っていない名も無き小さな村らしい。彼女曰く、第四研究を秘匿するために色々と手の込んだことをしてるようだ。
「ここにくる前にトンネルを通られたかと思いますが、四葉の村へ続くルートは無系統魔法を鍵とした自動ゲートがトンネルに設けられているのです。これによって四葉本家は少なくとも陸上交通機関に限って言えば、外界から遮断されています」
淡々とナビゲーターのように饒舌に語る深夜に、へえ、と流夜は興味深そうに相槌を打つ。そこまで踏み込んだ秘密まで明かしてくれることには驚いたが、そこでふと頭の中で静電気がはじけたような気がした。
「…なあ、四葉家って税金とか払ってねえんじゃねえか? 政府にも知られてないってことは」
「さあ、そこはわからないわ」
「そ、そうか……」
――普通に税金払ってますと言って欲しかった。
子供の彼女にそんな事を聞くのはおかしな話だが、しかし仮にもしそうだとしたら、それは間違いなく犯罪というやつではないだろうか。
「じゃあ、四葉の人以外は本当にこの場所を誰一人知らないって事ですか?」
妹の亜里沙の質問に、ええ、と真夜が鷹揚に頷いた。
「引き継ぐ際にこの秘密を知る外部の人間の記憶を消したそうよ」
「へえ、記憶を消しーーは?」
物凄く他人事のように言う彼女だが、流夜はまるでタクシーに突然急ブレーキをかけられたような衝撃に襲われ、思わず足を止めた。
……こいつ、今物凄く物騒なこと言わなかったか?
「き、聞き間違いか? なんか今記憶消したって聞こえたぞ?」
「……次は津久葉家の離れにでも参りましょうか」
「はい! 深夜さん!」
「え? アレ? ちょっと御二方!?」
優雅に歩く深夜に続き、キラキラとした瞳でその後を追う妹。彼女の美しさに魅了されてか、その悍ましい単語など彼女の意識には届いていないらしい。
どうも妹は深夜を一目見た時から気に入ったようで、完璧なまでに深夜の虜と化していた。
それは暗い入り口があれば、猫がどうしても中をのぞき込まずにはいられないのと同じか、あるいは老練な魚釣りのように、妹を魅了で危険な場所の方に安心させ追いこんでいくような光景か。――いや、もう後者にしか映らなかった。
「流夜さんも行きましょう」
「お、おい、待てよ! さっきの説明しろよ! 説明なしってのが一番怖いんだぞ!?」
ギャーギャーと抗議する流夜を置いて、2人に続けて歩き出す真夜。ただニヤリと笑みをこぼした気がして、少し安心感が生まれる。
そう、先ほどの発言は冗談だと……冗談だよな? いや、でも記憶の抹消は…人体実験なんかより軽いのか?
考えるほど頭の中は収拾がつかなくなり、事柄と事柄を結ぶ糸が絡み合ってパンクしそうだった。もう何が軽くて重いのか、そもそも犯罪とは何なのか、柄にもなく哲学的なことを考えては、元々あった筈の常識が歪んでいく気がした。
いや、彼の頭はおかしくなってなんかいない。彼の思考は新しい鉄釘のように硬く、冷徹でまっすぐだ。それは現実の芯に向けて正しい角度で的確に打ち込まれている。彼自身には何の問題もない。彼はちゃんと正気を保っている……
「……坊さん100人は必要だろ」
……筈だった。
果たしてお坊さん100人もここに呼んで彼は何を行うつもりなのか。一斉除霊か、もしくは彼らを使って反逆か。はたまた別の何かか。使用用途は彼のみぞ知る事だった。
「――しかし、面白い息子さんをお持ちですな」
「ははっ、単純というかバカなだけですよ、アイツは」
残された談話室で興味深そうに呟く元蔵と、からからと辺り憚らずに笑う流夜の父。隣から、ハァ、と呆れたため息が漏れる。
「元はと言えば、あなたが流夜を煽ったからじゃない」
「バカ言え。むしろ俺の推理を褒めてほしいものだ。それに、それを言うならお前も乗り気だったじゃないか」
「貴方ほどじゃないでしょ。寧ろ罪はないわ」
「関わった時点で同罪だ」
頑なに罪を拒む母に、やれやれといった風な父。そんな夫婦漫才を暫く続けるも、「さて、四葉さん」とおどけた表情は消え、あやしいほど真率な表情が漲る。声に凄みが出始め、それが空間に伝達し張られた弦のような緊迫感が部屋に漂い出した。
「子供達もいない場ですし、そろそろ本格的な話といきましょうか。――亜里沙がアクションを起こさずとも、ハナから追い出すおつもりだったのでしょう?」
微かに目を見開いた元蔵は、空に感嘆の声を放った。
「御見逸れ致しました。流石は元軍人でいらっしゃる」
「……成る程。こちらの事は調べ済みですか。それで、お話とは?」
正確に元蔵の眉間に向けて矢を放つような強い視線を向ける流夜の父親に、それを元蔵は表情を変えずに受け止め口を開いた。
「――少し、場所を変えましょう」
こうして流夜の両親は案内されるまま、彼の書斎の方へと消えていった。
懇親丁寧に屋敷案内をしてもらう事約1時間。真夜と深夜、つまり四葉家が案内できる限りの場所を回った流夜は疲労が、妹の亜里沙は終始楽しそうに、と各々の反応を見せながら暇つぶし程度とはいえ有意義? な時間を過ごした。
最終的には、妹の我儘もあってか彼女たちの部屋へと訪れる羽目になったが、よくわからない気を遣わされ、妹の亜里沙は深夜の部屋に、真夜の部屋にはなぜか流夜が派遣され、別行動をするという心底不可思議な現象が起こった。
そして今現在、四葉真夜の部屋にて強張った顔つきで棒立ちする流夜の姿がそこにはあった。
「ふふっ、そこまで緊張することないじゃない」
「い、いや、女の子の部屋入ったの初めてだし……」
アタフタと落ち着かない素振りの彼に尚も真夜はクスクスと可笑しそうに笑う。
「いつまでも立ってないで、そこの椅子に腰かけたらどう?」
「あ、ああ、そうするよ」
促されるままこれまた豪華な椅子に腰かけ、真夜も対面する形で椅子へと腰かけた。
「何か飲み物でもいかが?」
「……じゃあお茶で」
わかったわ、と彼女は呼び鈴を手に取り鳴らした。すると初老の男性が駆けつけ、お茶を2つ用意してほしいと告げれば、一礼してその場を去っていく。その正面から流夜は一連の出来事を羨望な眼差しで眺め、そしてその呼び鈴へと視線が固定される。
「なあ、それ俺が鳴らしても誰か来るの?」
「鳴らしてみたい?」
「おお、マジか! 貸してくれ!」
まるで好奇心旺盛な子供のように身を乗り出す彼に、クスッと笑いながら呼び鈴を手渡す。だが、ふと思い至る。
「ってちょっと待て。これ鳴らしてあの人来たら迷惑だよな。……いや、やっぱやめとくわ」
「お代わりでもしたいときに鳴らせば良いと思うわよ」
「だな。そうするよ」
すぐ様初老の男性が言いつけられたものを持って再び退出する。湯呑の中身は煎茶。自然と手に取りふーふーと冷ましてから、出された湯気の立つお茶に口をつければ、程よい渋みとすっきりとした味わいが口内に広がる。
「あぁ〜、やっぱり日本人は茶だぜ」
「なんだか年より臭くない?」
「いや、もう年だろ」
「まだ12歳じゃない。成人にすらなってないのに何言ってるのよ」
「え? あ、ああ、そうだな」
妙なところでアタフタする流夜に、可笑しな人ね、と可憐な笑顔を咲かせる彼女。それは子供のようにあどけない、年相応の笑顔。どこか大人びた印象の彼女から放たれるそれは、思わず天使のような愛くるしさを覚えそうになる。慌てて気持ちを誤魔化すためにお茶に口をつけた。
「こ、このお茶美味いな」
「ええ、そうね」
まるで老夫婦みたいな会話である。そしてそこからぷつんと会話が途切れた。
男女二人っきり。その空間は、恋人たちが親密な沈黙を分かち合うみたいな雰囲気とは程遠い、はたまた泥水の中でなければ落ちついて棲むことのできないある種の魚たちのように、その空気がいちばん親しく皮膚を包んでくれるような落ち着いた雰囲気があるわけでもなく、ただただ気まずい雰囲気が部屋の中に充満する。
流夜は勿論のこと、真夜でさえも流夜の緊張が伝達したのか表情に少し緊張が見て取れる。
どうする事も出来ずに時折視線を彷徨わせれば、自然と二人の視線が縄のように捩れて絡みだす。黙ったまま、見つめ合う。しかしそこで何か言うわけでもなく、羞恥の限界に達したのか慌ててお互い気恥ずかしげに揃って目を逸らした。そして再びチラリと目を向ければ、二人の目はもう一度しみじみと出会い、また逸らす。幾度となくそんな事を繰り返し、きっかけを探した。
何かを言わなくてはと流夜は思う。しかし言葉は出てこない。彼の唇は微かに動いて、相応しい言葉を空中に探し求める。でもどこにもそんなものは見つからない。さすらう孤島を思わせる白い吐息のほかに、唇のあいだから出てくるものはない。今の彼はキーを叩いても叩いてもなかなか反応しない古いパソコンを連想させた。
「――ね、姉さんの方が良かったかしら?」
「えっ?」
幾分か上擦った遠慮気味な声音が彼女の口から放たれ、ようやく長い沈黙が破られた。ただその投げかけられた疑問には、どう返したらいいのか困惑で思考が停滞する。固まる流夜に、彼女が様子を伺いながら再び口を開いた。
「その……白状してしまうと、私も初めて男性を自室に招き入れたから、どうおもてなしをすればいいのか判断に迷ってしまって……。だからつまらないと思われても仕方ないから。だったら姉さんのところはどうかと思ったのだけれど」
「ばっ、別につまらないとか思ってねえよ! 真夜といると楽しいというか、嬉しいというか、いや、まあ、今はその、兎に角言葉数が少ないのは緊張してるというか……」
「……っ」
流夜の言葉は、数発の花火がポンポン打ち上げられたようなもので、瞬間的であり、印象的であり、結局自分自身何を言ってるのか訳がわからなかった。決まりの悪い顔で視線を泳がせれば、
「そんなに私を意識してくれてるの?」
悪戯っぽい響きとともに、好奇心溢れた笑みが視界の端に映る。そんなわけ無いだろ。反射的にそう言い返そうと彼女を見返したが、表情は薄く張った氷のように、恥じらいがほんのりと朱色となって頬に浮かんでいた。
「おい、お前こそ意識したんじゃねえのか? 顔赤いぞ」
「……カテキンの作用よ」
「カテキンにそんな効果あるわけねえだろ!」
「あるわよ。貴方が知らないだけでしょう」
「……往生際悪すぎだろ。素直になったらどうなんだ」
「……いやよ」
拗ねた子供のように頑なに拒み、プイッとそっぽを向く彼女。なぜそんなところで意地を張るのか理解できないが、なんだか初めて照れた彼女を見た気がする。それが妙に可愛らしくて、子供っぽい。思わず吹き出しては、慈愛に満ちたようなまなざしを向けてしまう。そんな彼を真夜はムッとした不満げな表情で睨み返してくる。
「その親が子供に向けるような視線はやめて頂戴」
「悪い悪い。意外にも子供っぽいとこあるんだなって思っただけだって。悪意はないって」
「……ハァ、もうそう思ってる時点で悪意しか感じないわよ」
ニヤニヤと終始余裕ぶった笑みを浮かべる流夜に、艶めかしくため息をこぼしジト目になる少女。やがてコホン、とわざとらしく咳払いをするなり、話を違った焦点に無理やり移した。
「それで今日半日、四葉を知ってどうだった?」
些か強引な気がするが、またあの空間に戻ってしまう確率を考えたら、異を唱える事はせずに視線を宙に這わせて考えをめぐらす。――四葉家。第四研、税金未払い、住所不明……うん。最早考えずとも最良の結論が頭に浮かぶ。
「犯罪集団」
「も、もう少し何かないの?」
「まあ、……そうだな。みんな真夜の事大切に思ってんだなってのは何となくわかったな。あー、でも、あれだ」
ふと思い出した様に、ただ、言いづらそうに難しい顔をする流夜に、不思議そうに真夜が首を傾げ言葉の続きを待った。
「元蔵さんもそうだけど、なんだっけか…黒羽さん? と後英作さんだっけ?」
「ええ、そうよ。それで、お父様達がどうしたの?」
「――顔が怖い」
「えっ?」
「いや、だから、顔が怖い」
虚を突かれたように驚いてきょとんとする真夜。しばらくして、彼女の笑みが口角に浮かぶ。流夜に関しては至って真面目な意見だったのだが、余程笑いのツボに入ったのか、終いには目尻に涙を浮かべてハンカチで拭っていた。
「いや、これ結構本気なんだけど」
「フフフ、ごめんなさい。でも、そうね。確かにあまりお父様達は感情を表に出すタイプではないものね。私も幼い頃はよく泣いていたとお母様が仰っていたわ」
「だろ!? あの能面みたいな顔おっかねえよな? 絶対ロボットかなんかで出来てるだろあの人たち」
「でも確かに見た目は少し強面かもしれないけれど、黒羽の叔父様や英作叔父様だってとても優しい、家族想いなお方達よ。私もよく魔法についてご教授して頂いてるもの。それに――」
真夜が止まる事なく熱っぽく語る。時折相槌を打ちながら、流夜は確信した。大切に思ってるのは何も彼らだけじゃない事を。明るく鮮やかな色を部屋中にぶちまけるように喋り続ける彼女を見て、そう思わずにはいられなかった。