始まりはなんとなくで   作:jmwvw

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5話

 

 

 

 

 

 

 

 午後7時前、神崎一家は奥の食堂へと案内された。彼らを案内したのは屋敷を案内してくれた時の初老の執事。話によれば、執事には序列というものが存在するらしい。この人が一体どれほどの序列の人物なのかは定かではないが、無駄な動きなく使用人としての役割に徹する様子から、余程上の位置付けなのだろうか。廊下を歩きながら至極どうでもいいことに考えを巡らせていれば、奥の食堂へと辿り着く。

 奥の食堂というのは元蔵が私的な会食を開く場所。特に重要な客を招く場所のようで、ここでは食事をしながら極めて秘密性の高い会議を開くそうだ。その割には随分と王朝絵巻さながらに無駄に絢爛豪華なのだが。

 食堂にはすでに、真夜、深夜、泰夜、英作が居た。神崎一家もそれぞれ席へと案内されるのだが……

 

「……なあ、なんでここなんだ?」

「さあ、私に聞かれてもわからないわ」

 

 分からないという風に首を振る真夜に、益々困惑しては眉根を寄せる流夜。本来ならばゲストである神崎一家側であるはずの自分は妹の隣にでも腰掛ければ済む話。それなのになんら関わりのない四葉家側の深夜、真夜の間に挟まる形の席に促されてしまう。テーブル越しに自分の家族と対面する形で。実に可笑しな現象である。

 

「……なんの嫌がらせだよこれ。俺だけ場違いだろここ」

 

 嫌々座れば、不満げに唇の両端を締め付け、そうすることでむっとした膨れ面になった妹を視界の端に捉えた。嫌な予感と共に案の定攻撃的な声音が飛んできた。

 

「私も深夜さんか真夜さんの隣が良い!」

「いや、俺に我儘言うなよ」

「……むぅ」

「……」

 

 拗ねて睨む妹と流夜のどうしようもないだろ、という悟す視線が虚空で空中戦を繰り広げる。だがすぐさま流夜が折れる形で困ったな、と視線を彷徨わせた。自然と四葉を裏で牛耳ってそうな美女――泰夜と目が合う。良いですかね、という流夜の遠慮気味な瞳に、彼女はにっこりと微笑んだ。

 

「構いませんよ。では、わたくしは先生のお隣にでも移りましょう」

「はあ、泰夜さん。先生はよしてください」

「……は? 先生?」

 

 訝しげに眉間に皴を作る流夜に、ええ、と泰夜は鷹揚に頷いた。

 

「若い頃に私の主治医を担当してもらっていた事があるんです」

「えぇ? マジで?」

 

 その真意を問うように母と泰夜を交互に目配せすれば、流夜の母が苦笑気味にマジよ、と答える。知られざる奇妙な接点に、隣の真夜も微かに目を見張っていた。かく言う流夜も素直に驚いたが、同時に合点がいったとばかりの納得が心を満たした。

 

「そうか。道理で可笑しいと思ったよ。幾ら怪我人とはいえいきなり見知らぬ男のきんたむぐっ!」

 

小柄な影がサッと動いては、流夜の言葉を小さな手で霧散させた。その少女は上目遣いで睨むなり、声量を落とし警告をしてくる。

 

「あなた今何言うつもりだったのよ。食事前なのだからくれぐれも言葉選びには気をつけて頂戴」

 

そ、そうだった……。

コクコク、慌てて何度も素直に頷けばそっと真夜は手を離した。

 

「見知らぬ男性の怪我人、ですか? 何かあったのですか?」

「い、いや、怪我なく無事みんなで帰れて良かったなって。な、真夜」

「……ええ、そうね」

「ふふ、そうですね。皆さんご無事で何よりです」

 

 些か苦しい言い訳ではあったが、疑う様子なく深夜は朗らかな笑みを浮かべ妹ととりとめのない会話に戻る。

 楽しそうな声が糸のように絡まり合う様子から余程この短時間で仲良くなったのだろうが、しかし、――間一髪だった。隠すという行為の持つ避けがたい後ろめたさを若干覚えてはしまうが、父が血尿という事実はあまりにもこの少女には酷なはず。これも彼女のためだ。真夜の二の舞にはさせまい。そう心を鬼にして、見事なファインプレーをみせた真夜に小言で感謝を告げた。

 

「わ、悪いな、真夜。助かった」

「本当に気をつけて頂戴。……真実というのは時には残酷なものなのだから」

「……なんかすまん」

 

 決して故意に放ったわけではないが、しかし、こんな少女の複雑な顔を見れば、あの惨劇からくる胸がえぐられるほどの自責の念は消えそうにはなかった。

 時刻は七時。食堂奥の扉が開く。四葉家当主、四葉元蔵――通称血尿おじさんが食堂へと一人の執事を連れてやってくる。四葉家の者たちが立ち上がる。それを見ていた流夜達も慌てて立ち上がる。背後に控えていた給仕の男女が高い背もたれの椅子を引いた。

 

「待たせてしまって申し訳ない。神崎殿達も遠慮なく腰掛けてください」

 

 言葉通り遠慮なく腰を下ろせば、元蔵が席に座り落ち着いたタイミングで他の者も腰を下ろした。生憎そんなマナーを知らない流夜が焦って立ち上がろうとすれば、「別に焦らなくても大丈夫よ」と真夜から告げられ胸を撫で下ろす。各々が落ち着くのを確認し、元蔵が軽く手を挙げ執事に合図する。その彼が目配せをすると、給仕役が一斉に下がり食事を持ってきた。

 

「では、夕食と致そう。神崎くんも遠慮なく召し上がってくれ。使用人の者達も腕をふるったそうなのでな」

 

頷いて目の前のテーブルに目を向ける。最早庶民では味わえないような豪勢な洋食が目の前に広がる。一番最初に感じた鼻をくすぐる特有のあの匂い。主として熱したラードとデミグラスソースの芳香が渾然一如となったもの。もうそれだけで腹の虫が鳴き、生唾が湧いてくる。

 

「ほ、ホントにこんなの食べて良いんですか?」

「ああ、遠慮はいらないよ」

「じゃ、じゃあ、いただきますっ!」

 

 勢いよく、食事に食らいつく。その洋食の色合いよく、清潔に盛られた上品さと、下町の洋食にはない匂い、味は日本人の舌に合っている。もうほっぺたがどんどん落ちていくつあっても足りないくらいこのおいしさは否定しようがないだろう。ウン、ウン、と肯定するよりほかはない。もう満悦の表情を隠せなかった。

 

「ふふっ、なんだかこちらまでホッコリしてしまうわね」

 

 上品な笑い声と共にやさしさが膜を張ったような瞳を向けてくる真夜に、ふと顔を上げれば、彼女だけでなくキャピキャピはしゃぐ妹以外から柔らかい目色が飛んでくる。いつのまにか視線が自分に注がれていた。

 

「気に入ってくれたのなら良かったよ」

「……そうっすね、美味いです」

 

 決まりが悪そうに顔をぱっと赤らめる流夜に、クスクスと周囲が笑いを漏らした。

 

「先生のご子息は、お話の通り可愛らしいお方ですね」

「まあ、そこだけが流夜の取り柄ですから。……基本的に虫だろうが何出しても食べてくれますしね」

「あらあら、それは凄いですわね」

「いや、食ってませんから……」

 

 心底呆れたように横槍を入れ、目の前の食事に夢中で食らいつく。ほんの数分で平らげれば元蔵から、

 

「お代わりでも頂いたらどうだい? 君のご両親からお話は伺っているよ。遠慮はいらないから沢山食べてくれ」

 

 そんな甘い勧誘に食欲が刺激され、素直にお願いします、と告げれば、背後に控えていた給仕の女性が、上品にこんがり揚がったコロッケと茶色を引き立てる野菜が添えられた皿をテーブルに載せる。それを見て少しばかり目を見開いた。なんせ先程から流夜の好きな料理ばかり運ばれてくるのだ。これも彼が言うおもてなしの一環なのだろうか。ただ、運ばれてきたものに妙な物足りなさを感てしまった。瞬時にそれに気付いてしまったからこそ、背後に控えていた給仕の者にお願いした。

 

「あ、あの、ご飯って貰えたりしますか?」

「畏まりました」

 

 そう、ご飯である。要求すれば、すぐ様にお椀に運ばれてくる。そして納得する。やはりご飯あってのコロッケなのである。コロッケは、他の一族に比べて一番地味な存在である。風貌、性格、容姿、いずれにも派手さはなく、万事ひかえめ、ひっそりしている。その地味さかげん、陰影のある面ざし、生活感のあるたたずまい、いずれをとってもご飯の正妻という感じがする。それもただの正妻ではなく、〝糟糠の妻〟なのである。ご飯と長く連れ添い、互いの裏も表も知りつくした仲といえる。ゴハンとコロッケ、これほど貧しく、これほど哀切で、これほど清々しい取り合わせが他にあるだろうか。

 

 箸で口へと運べば、揚げたては衣がシャリッとしてかじると前歯で音がする。中身の芋は軟らかくて熱く、コロッケのコク味とご飯の上品な旨味が口の中で融合し、それを胡椒のピリ辛さと醤油のしょっぱい旨さがはやし立てる。もはや喋る機能すら忘れ、夢中でお代わりしては食べるを繰り返した。気づけば再び周りから物珍しい視線を集めている事に気付き、ふと顔を上げた。隣の真夜が幾分か呆れた口調で言う。

 

「あなたそれ何杯目?」

「うーん。数えてねえけど……多分30くらい」

「よ、よく食べるのね……」

「まあな。俺さ、食べるの好きなんだよね」

 

 彼はまるで大昔の農夫のように穏やかな笑みを浮かべながら、幸せそうに端を忙しなく動かす。そんな無邪気な少年に、真夜はくすくすと笑みをこぼした。

 ――たった1日しか知らない彼。でもなんだかそれが彼らしい。

 無邪気で快活で、一緒に居るとへんに愉快な気持ちになる。

 それはきっと、彼女だけではなくて。

 

「神崎様、お肉の焼き加減はいかがいたしましょう」

「じゃ、じゃあウェルカムで」

「それを言うならウェルダンでしょう」

「そ、そうとも言うな」

「そうとしか言わないわよ。……やっぱり貴方、頭の配線入れ替えた方が良いと思うわ」

「お兄ちゃん、英語苦手だもんね。愚の極みだよ」

「木の根っこみたいなバカだものね、あんた」

「うるっせえッ! 何回バカって言う気だ!」

「神崎殿、お注ぎ致しますよ」

「おお、すみませんね、元蔵さん」

 

 いつの間にか、ここに居る者の笑い声やおしゃべりがガラスの破片のようにキラキラ飛び散る。

 きっとこの食事会での本当のメインディッシュは「会話」なのかもしれない。父は元蔵と英作とお酒を交わし、女性陣もまた会話は嚙みあいかたの良い歯車のようにじっくり止まることなく進展していく。こうして各々が食事とともにゆったりとした時間を過ごしていった――

 

「――私、帰りたくないなぁ……」

 

 そんな悪魔の呟きがなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁ〜、家より大きいお風呂だぁ〜」

 

 愛嬌のある微笑みを満面に湛えながら、快活な、磊落な調子で感嘆の声を上げる亜里沙に、クスッと笑みをこぼしながら、深夜と真夜が彼女に続く。場所は屋敷内のお風呂。亜里沙のお願いもあって神崎家は結局宿泊する事になったのだ。

 亜里沙は抑えきれぬ好奇心から、早く、とクルリと反転して彼女たちを急かそうとしたが、

 

 

「……ほぇ」

 

 一糸まとわぬ姉妹の裸体に呆然と固まった。一緒にお風呂に入ろうと誘ったのは他でもない彼女自身。予めこの姉妹の顔立ちや雰囲気から彼女の裸体はさぞ綺麗なのだろうと想像には容易かった筈。それでも、生で見る眩しいばかりに白く研ぎ澄まされたこの姉妹の女体には思わず息を呑むような美しさがあった。彼女が吸い込まれるように魅入っていた事で、まるで浴室の時間が止まったかのごとき静寂が訪れていく。

 

「そ、そこまで見つめられると流石に恥ずかしいのだけれど……」

 

 先に沈黙を破ったのは恥ずかしげな深夜。ただその羞恥で恥じらう姿すら危うく意識が持っていかれるところである。深夜の言葉で漸く我に返った亜里沙はブンブン、と無理やり頭を振って軌道修正に入った。

 

「み、深夜さんと真夜さんはいつもこのお風呂に入ってるの?」

「え、ええ、そうですよ。まあ、真夜は別ですけれど」

「そうね。それぞれに用意されてるものね」

「うわぁ、さすがお金持ち…と言っても今更かなぁ?」

 

 今までの体験を思い出しては驚きが薄れ、リアクションに困ったように難しい顔で首をかしげる亜里沙。何とも言えずに真夜と深夜は2人揃って苦笑しながら、まずシャワーを誰が先に浴びるかという問題から解決を図ろうとするが、

 

「洗いっこしようよ! 私、深夜さんと真夜さんの髪洗ってあげる! こう見えても髪洗うの上手だってお母さんに褒められるんだから!」

 

 えっへん、と亜里沙が自慢げに小さな胸を張った。深夜と真夜はどうしようかと視線をお互い巡らした。断ろうと思えば断れるが、亜里沙の無邪気な笑顔に背伸びするような可愛らしい姿がどうしてもノーとは言えそうにない。

 ……思いは同じね、とばかりに揃って亜里沙に向き直り、肯定の意を込めて笑顔で頷いた。

 

「では、お願いしましょうか、真夜」

「ええ、では、亜里沙さん。お願いしてもいいかしら?」

「うん! 任せて! じゃあ、まずは、深夜さんから!」

「ふふっ、では、お願いしますね、亜里沙さん」

「はーい!」

 

 上機嫌にニコニコしながら深夜を椅子に座らせ、シャワーで彼女の黒髪を湿らせていく。

 

「やっぱり深夜さんの髪きれい」

 

 シャンプーに取り掛かる前に、亜里沙は湿った髪を撫でては思わず吐息を漏らした。

 

「そうかしら? よく日本人形みたいだと言われて少しショックを受けた事があるのだけれど」

「それは姉さんに対する嫉妬ではない?」

「あー、絶対そうだよ。真夜さんもだけど、肌白くて顔も可愛いから絶対男の子にモテるだろうし。……でもホント、女の嫉妬ってめんどくさいよねぇ」

 

 心底嫌そうに口を尖らせる亜里沙に、妙に納得したように息を吐く姉妹。

 亜里沙は慣れた手つきでシャンプーをして頭を洗い流し、水気を取って次はリンスのボトルを手に取った。

 

「では次はリンスをしますねえ、お客様」

「あら、美容師ごっこですか?」

「えへへ、一度やって見たくて。というか深夜さんと真夜さんはいつもどこで髪切ってるんですか? やっぱり有名なサロン?」

「いいえ、そんな事ありませんよ。ただ、見知った顔の人に専属として切ってもらっています。あまり、人に頭を触られるというのは、少し抵抗を感じてしまいますから」

「えぇっ? じゃ、じゃあ――」

「――亜里沙さんは別ですよ。でなければ頼んでいません」

「よ、よかったぁ……」

 

 ホッと胸をなで下ろすなり、滝のような黒い髪に優しくリンスを塗り込んでいく。夢中で丁寧に笑顔で洗ってくれる亜里沙に、深夜も微笑んで髪を委ねた。

 亜里沙がシャワーヘッドを手に取った。

 深夜が目を瞑る。亜里沙が深夜の髪に満遍なくお湯をかけ、シャワーの水圧でリンスを落としていく。

 

「よし、終わったぁ、じゃあ、次は身体だね!」

「ええ、ありが……えっ? い、いえ、身体は自分で――」

「まあまあ、遠慮しないで深夜さ〜ん。……グフフ。深夜さんのお肌に触れるチャンスぅ」

 

 親しみやすく可愛らしい容姿の亜里沙ではあるが、不気味な笑みを浮かべては本音が駄々洩れだった。どうやら彼女の真の目的はそれらしい。

 深夜は途端に男性に見られているような羞恥と警戒を感じた。

 

「あ、あの、亜里沙さん?」

「ぐふ、ぐふふふふ……」

 

 自分の世界に入り込んでしまった彼女は、不気味な笑みを貼り付けたまま、やがてじりっ、とにじり寄ってくる。本能的に後退する深夜。

 咄嗟に助けて、とばかりに妹に視線を向ければ、何故か彼女から笑顔が返ってくる。

 

「なら私もお手伝いしましょう」

「えっ? ま、真夜?」

 

 冗談よね? という深夜の問いに、

 

「安心して頂戴、姉さん。……優しくご奉仕してあげるわ」

 

 声音は柔らかいものだが、妹の目が笑ってる。悪ふざけでやっていることは明らかだ。ただ問題は、悪ふざけであっても冗談では済ませる気がないところだった。現にその小さな手が伸びては、深夜の肌に優しく触れる。舐めるように、その肌触りを確かめる。見よう見まねで亜里沙も手を滑らせ事細かに彼女の肌質を調査しては、白くて滑らかな果実のように美しい肌に揃って感嘆の声を上げた。

 

「相変わらず姉さんの肌はきれいねぇ。羨ましいわ」

「うわぁ〜、凄いスベスベ~」

「ちょ、ちょっと、2人とも……!?」

 

 深夜の声は悲鳴に近くなっていた。

 だが、歯止めの利かぬ二人は彼女を逃さぬよう挟み込み、ボディソープを少量手にとった。そのまま素手で念入りに彼女の肢体を洗浄していく。色欲の類がない、ある意味無邪気な触り方ではあるが、次第に彼女の肌が熱を帯びていく。深夜から艶かしい吐息が漏れた。

 

「く、くすぐったい…わよ…っ!」

「プニプニィ〜〜」

「どうしてこうも姉妹で違うのかしら……」

 

 亜里沙は手を内腿から這うように上へ滑らせ、ウエスト、お腹の上を滑るように。真夜もまた羨ましそうに自身の手を止める様子がなかった。しばらくされるがままだった深夜だが、さすがに我慢の限界が訪れる。

 

「ま、真夜は私より胸が大きいわよ!」

 

 予想外の矛先を向けられ「えっ?」と真夜の肩がビクッと跳ねた。時が止まったように一瞬彼女たちの動きが止まる。

 へぇ、と亜里沙の両目が真夜の胸元へと向いた。まるで次の獲物を見つけたとばかりの視線に、真夜は寒気を覚えて反射的に胸元を隠す。

 

「ご、誤解よ? 先程のは姉さんの――」

「――えいっ!」

「きゃ、ちょ、ちょっと……!」

「確かに深夜さんのより少し大きいかなぁ…」

「あっ、や、やめ、ちょ、ちょっとくすぐったい……っ! ね、姉さんっ、こ、この子を止めてちょうだ――」

 

 言いかけて懇願するように姉を見た。

 しかし、すぐに悟った。

 彼女の瞳もまたらんらんと怪しげな光を帯びていたのだ。真夜の顔が地球のように青くなる。

 

「ね、姉さん? め、目が怖いわよ?」

「――やめてと言っても聞かなかったあなたがいけないのよ? 真夜。 だから――覚悟なさいっ!」

「ね、姉さんっ!? 目が本気――」

 

 浴室に真夜の悲鳴が響いた。

 

 

 

 

 結局ここに宿泊する事になってしまった。

 食事の後は豪華な風呂に入って身体をさっぱりさせ、用意してもらった寝間着に袖を通し和室に戻る。最初こそ監獄かと思ってもいたが、豪華な食事にお風呂と、まるで旅行感覚で満喫している自分がいた。物凄く馴染んでしまっている。それは小波が浜辺で静かに砂に吸いこまれていくようで、もうすっかりあの時感じた不安も怯えも鎮まっていた。

 磨き上げられたひやりとした廊下をしばらく歩いていれば、「――流夜さん」艶めかしい女性の声に呼び止められる。反射的に振り返れば、世にも美しい美女がこちらに柔らかく微笑みを浮かべていた。

 

「もしかしてお風呂に入られましたか?」

「あ、はい。お風呂、ありがとうございます」

「いえいえ、喜んで頂けたなら何よりです」

 

「それにしても丁度良かったです」と彼女は言葉を繋げた。

 

「今から流夜さんのお部屋の方にお訪ねしようかと思っていたところでしたので」

「ん?俺に何か用事ですか?」

「はい。ですから今から少しだけお時間のご都合の方はよろしいでしょうか?」

「ま、まあ、大丈夫ですけど。場所はどうするんですか? 流石にここじゃ……」

 

 流石に廊下で立ち話なんて、と彼女を伺うように見遣れば、そうですね、と顎に人差し指を当てて泰夜は小首を傾げた。こんな何気ない仕草でも、彼女は異性を惹きつける魅力がある。やはり二児の母だとは思えないと流夜は心底思った。

 

「では、私の部屋でも如何でしょう?」

「……え?」

「何か流夜さんのご都合が悪ければ別の場所でも宜しいですけれど」

「あ、い、いえ、大丈夫です」

 

 変に声が裏返る流夜に、

 

「どうかそんなに緊張なさらないでください。少し流夜さんと2人っきりでお話をしたいだけですから」

「は、はあ……」

 

 うふふ、と彼女は笑いながら彼女の部屋へと誘う。

 妙に不気味な笑みを浮かべていたような気がしたが、促されるまま彼女の部屋へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「つ、疲れたわ……」

「……そうね」

「うぅ〜、まさか私までやられるなんてぇ〜」

 

 結局揃って身体の隅々まで洗い洗われるじゃれ合いは続き、余す所なくピカピカになったところで、3人で浴槽に浸かることにした。まだ五分もたっていないのに、彼女たちがのぼせたように真っ赤なのは、先程のじゃれ合いがヒートアップしすぎたせい。各々が少し反省しながら湯船に浸かって疲れを癒した。

 

「全く、姉さんは加減というものを覚えて頂戴」

「あなた達に言われたくはないわよ」

「でも、楽しかったぁ〜」

 

 先程のじゃれ合いを思い返しては、クスクスとお互い笑い合う。

 しかし、すぐに深夜の笑い声がフェードアウトする。

 深夜の笑い声が途絶えたところで、2人も笑うのをやめた。

 

「……なんだか久し振りにこんな笑った気がするわ」

「……姉さん……ごめんなさい。心配かけてしまって」

「えっ? い、いいのよ別に! そんなの貴方が気にすることではないわ。真夜が無事なんだもの……だから……それだけで私は十分……っ」

 

 喉が腫れ上がって、うまく呼吸ができなくなった。言葉も紡げなくなって、無理矢理開こうとすると今度は胸腔の辺りに圧迫感を覚える。 喉は張り付いたように、動いてくれない。真夜が失踪した日から感じていた心の中に吹きすさぶ感情があらしとなって襲ってくる。

 

  ――真夜が、拉致された……

 

 心配……なんてものではなかった。

 不安と恐怖と絶望で首まで心臓が飛び上がったような息苦しさだった。

 途端に視界がぐにゃりと歪んで、気づけば世界は白黒写真のように色をなくしてどうしていいのかわからずに呼吸すら忘れてしまいそうだった。生きる希望すら見失いかけて、もう2度と会えないかもしれないと思うと……堪らなかった。

 

  でも……

 

 大切な妹が、今目の前にいる。

 ずっとずっと触れたかった彼女の温もりがここにある。深夜は大切なものを抱くように背後から真夜をギュッと抱いた。

 おさえていた感情が堰を切って、両方の眼にいっぱい溜った涙が、ちょうど窓の硝子を滑り落ちた雨のように、筋になって流れた。

 

「……真夜……っ。ごめん…なさい…っ。貴方に、辛い思いを…させてしまって……っ」

 

 震えを帯びていた声は存分に涙にぬれて響く。彼女の胸の中で暗い想像が、輪郭のはっきりしない重苦しい塊が膨らみ、静かに流れていた涙は、やがて嗚咽に変わる。糸が切れて離れた首飾りの玉のように、涙が散らばり、抱きしめる力が強くなる。

 ――心配で心配で仕方なかった。でも、そんな自分は何一つ妹の為にしてあげることができなくて。そんな自分が……情けない。

 自分の事で切り裂くように胸を痛めていたのが嫌というほど伝わってくる。

 自然と真夜の瞳からも透明な二粒の水滴が、瞬きと一緒にはじき出された。頬を伝い、温かい雫がポツリと浴槽に溶け込む。されるがまま、自身を思う柔らかく温かな姉の愛情に溺れるように、背中を預けた。

 

「姉さんの…せいじゃないわ……っ。 行った事も、油断していた事も、私が悪いの」

「そ、それは――」

「――でも、私はここにいる。無事に、生きてここにいるわ。また姉さんと笑ったり泣いたり、思い出を共有することができる。だから―」

 

 言葉を区切って、強引に彼女と向き合った。

 整った顔を歪めて涙する彼女に、真夜は精一杯の晴れやかな笑顔を咲かせた。

 

「――ただいま。姉さん」

「……っ。 ええ……おかえり、なさい……っ、真夜……っ!」

 

 ただいまと言える場所。

 おかえりを告げるその温もり。

 当たり前のようでいて、それが一体どれほど幸せな事なのか。

 深夜の涙を指先で拭いながら、真夜はそんな幸せを噛みしめた。――でも、だからこそ、こうしてどれほどの人たちに迷惑や心配をかけたのか。

 それを思うだけで針で突くような痛みを鋭く深く良心の一隅に感ぜずにはいられなかった。

 

「……ぐすんっ」

 

 鼻水をすする音が聞こえる。

 何事かと姉妹揃って見遣れば、亜里沙が両目からほろほろと涙を流していた。思わず姉妹揃って目を合わせた。やがて、ぷっとお互い吹き出した。困ったように深夜が苦笑した。

 

「もう、どうして亜里沙さんまで泣くの」

「だっで……だっで……真夜さん、たずがってよかっだって思っだから……そしたら、…涙が……真夜さん〜〜!」

 

 うわーん、と真夜に抱きつく。腕にぎゅうっとコアラみたいにしがみつく亜里沙に、よしよし、と困ったように彼女の頭を優しく撫でた。

 撫でられるのが好きなのか、次第にえへへ〜、とだらしない顔で気持ち良さそうに亜里沙が目を細めた。まるで小さな可愛らしい子猫に懐かれたかのようで、そんな亜里沙の無邪気な笑顔が異様なまでに姉妹の保護欲をくすぐる。込み上げてくる温かいものに無意識に柔らかな微笑みを浮かべた。

 

「なんだかもう1人妹ができてしまったみたいね」

「ふふっ、そうね」

「私も2人みたいなお姉ちゃん欲しいなぁ〜」

「そうね。私もこんな妹がほしいわ」

 

 そんな何気ない真夜の発言に、「――ほほーう?」。にんまりと亜里沙が笑った。もはや先程の涙などどこかに飛んでいったようで、悪戯心が瞳に宿る。

 

「この際本当に真夜さんがお兄ちゃんと結ばれてくれたらいいのになぁ」

「――えっ」

 

 目を白黒させて固まる真夜。

 

「だって、真夜さん。お兄ちゃんと話してる時が一番楽しそうな顔してたもん。なんだか恋する乙女って感じだったよ? もしかしなくてもお兄ちゃんに惚れちゃった?」

「ち、違うわよ、私は――」

「――あら、私もそれは気になるわね。いつも男性には興味を示さなかった貴方が随分と心を許していたのにはたいそう驚いたもの。それで、どうなの? 真夜」

「ね、姉さんまで悪ノリはやめて頂戴……!」

「悪ノリではないわよ。私は真面目に聞いてるのよ、真夜」

 

 実に真面目くさった顔でそう言う深夜。ただ、その表情とは裏腹に、内心野次馬丸出しの笑みを浮かべているであろう事など長年の付き合いから想像に容易かった。真夜は深々と嘆息し、呆れた顔つきになる。

 

「ただ少し馬が合うというだけでしょう。そこに恋愛感情はないわ。それに私には婚約者がいるもの。他の誰かと結ばれるだなんて、あり得ない話よ」

「真夜……」

 

 どこか観念の臍を固めたというような顔つきで言う彼女に、深夜は言葉に詰まった。思わず眉を顰めた。

 四葉家に生まれた時点である程度のしがらみは存在する。結婚もその1つ。只でさえ早婚が求められる時代。より優秀な遺伝子を後世の四葉家のために残す必要上、独身を貫くことは許されない。妹の様に自分もまた見知らぬ決められた相手に添い遂げなければならないのだ。

 幸いにもその先を歩くようにして婚約した真夜の相手は深夜が見た限りにおいては、少なくとも悪い人ではないだろうというのが客観的な評価だった。男の目を完全に養ったわけではないが、余程のことがない限りにおいて真夜のことを大切にしてくれるだろう。そう信頼して妹を彼――七草弘一に任せたつもりだった。でも、真夜が連れ去られた一連の出来事から、彼への信頼が霧のように薄れていった気がした。仮令それが理不尽な思いなのだとしても、もうその信頼が戻りそうにはなかった。

 それに、

 

「真夜。貴方が恋をしたからと言って別に無理にその気持ちを閉じ込めることなんてないのよ?」

「ハァ、姉さん。本当に違うと言ったでしょう?」

「そう? ならいいのだけれど。まあ、そもそも色恋沙汰に関しては私は何とも言えないわね」

 

 自虐的な笑みを浮かべ肩をすくめてみせる深夜に、亜里沙はうーん、と可愛らしく唸った。

 

「私もしたことはないけど、友達が言うにはこう、胸の中の恋の子猫が甘えて擦り寄ってくるみたいな感じって言ってたよ」

「ず、随分とメルヘンチックなご友人なのね」

 

 むず痒くなるような回答に、思わず深夜は顔を引きつらせた。

 

「でも何となく想像はつかないかな? クラスのみんなして足速い子やカッコいい子に夢中な姿」

 

 チョコレートとキャラメルとハチミツに、さらにメープルシロップを混ぜ込んだような、甘い甘い期待を胸に膨らませる少女たち。ふとそんなクラスメイトの光景が深夜と真夜の頭に思い浮かんでは、納得するしかなかった。大方亜里沙の言うように胸の中の子猫が甘えて擦り寄ってくるようで、甘く切ない気持ちに彼女達は夢中なのだろう。思春期真っただ中の女の子ならありがちな話である。

 しかし真夜も深夜もその様なメルヘンチックな恋の予感は訪れそうにはなかった。彼女たちの胸の中の恋の子猫は、未だにそっぽを向いたまま反応すらしない。しかし、亜里沙もまた似たような境遇のようで、意外に思った真夜は「では亜里沙さんはどんな男性が好みなの?」と問えば、

 

「お兄ちゃんみたいな人!」

 

 何の躊躇いもなく即答。あらあら、と深夜は驚いたように口に手を当てた。勿論予め予想はついていたが。

 

「本当にお兄さんが大好きなのね」

「うん! あ、でもこれお兄ちゃんに言わないでね? すぐ調子のるから」

 

 しーっ、と人差し指を口に当てお茶目にお願いをしてくる。どこまでもチャーミングな子だ、と姉妹揃って頷いた。

 

「では、亜里沙さんは流夜さんのどんなところがお好きなの?」

 

 どこか好奇心が混じった響きの問いかけに、うーん、とどこから話そうかと亜里沙は頭を悩ませる。

 そして、細部まで拡大鏡を通じたように、明瞭に浮かび上がる記憶を呼び起こし言葉にした。

 

「私ね、昔は良く泣き虫で男の子にしょっちゅう揶揄われてたんだ。その時はやり返せなくて結局は地面にへたりこんで泣く事しか出来なくて。だからいつも泣いてたの。でも、そんな時は決まっていつもお兄ちゃんが駆けつけてくれたんだよね」

 

 亜里沙を泣かせんじゃねえ。口癖のようにそう言って苛めっ子達に向かっていく。そしてボコボコにしていたなぁ。

 

「お兄ちゃん見た目はパッとしないしバカだしアホだしどっか抜けてるし自分勝手だけど、でもね、私に人一倍笑ってくれて、怒ってくれて、泣いてくれるの。そうやっていつだってお兄ちゃんは自分よりほかの誰かを大切にしてくれる。あったかいんだ、お兄ちゃんと居ると。優しい笑顔が、嫌なこと全て吹き飛ばしてくれるんだもん」

 

 言葉を区切り、弾ける様に彼女は笑った。

 

「――私のヒーローなんだよね、お兄ちゃん」

 

 その笑顔は、雄弁に彼の優しさを物語っていた気がする。

 

 ――絶対、守るから

 

 ふと遠い夢のような記憶が蘇る。

 痛みで、恐怖で、顔を歪めて。でも必死になって守ろうとしてくれた、勇ましい少年の姿。

 それは1度沈んだ色合いに塗られかけた心の風景に、陽だまりのような優しい光が照らしだされた瞬間だった目の奥に未だ鮮明に残っているそのフィルムは、めくる度に湯気のようにしっとりと真夜の胸を温めてくれる。

 

 思っていることが鏡を映すようにすぐに態度に出る程単純で、お人好しで。でも、彼の側に居ることが何より心地良くて、居心地の良い陽だまりを見つけた鳥のような心境だった。だから亜里沙の言葉が身に染みて理解できるような……そんな…気が……

 

 ドクン、と心臓が高鳴っていく。

 よそからの心を拒絶していた少女の胸に、桃色の花弁が張りついたほどのささやかなぬくもりが湧いてくる。それは心の中に何かがぽっと点火されたようなほのかな温かさで、次第にその熱いかたまりが胸につかえて息苦しさを覚えた。顔が、熱い……

 

「真夜さんどうしたの? 顔赤いよ? もしかしてのぼせちゃったの?」

 

 真夜は答えに詰まった。別にのぼせたわけではない。でもこの胸の熱い塊をどう説明すればいいのかわからなかった。返事をする余裕がなかった。

 

「大丈夫? 真夜。そろそろ上がる?」

「え、ええ。そうね……のぼせたのかもしれないわね」

 

 一向に無言の真夜に心配げに姉がそう言う。素直にそう言って真夜は立ち上がる。確かに自分でも可笑しいと思うほどフワフワと空に浮いている雲か霞のように捕捉しがたい状態だった。

 

  なによ……これ……

 

 そっぽを向いて俯いたままだった恋の子猫が、ふっと顔を上げた。

 

「……え?」

 

 ……そんな気がした。

 

 

 

「如何ですか? 居心地の方は」

 

 視界いっぱいに映った蠱惑的な美貌を醸し出し柔らかく微笑む女性。

 頭部の柔らかな感触に、品が良さげでどこか母親特有のふくよかな匂いが鼻腔をくすぐり、体の芯がぼんやり光るように甘美にうずく。

 ただ無性に恥ずかしさは否めず、隠しきれぬ羞恥が流夜の顔を赤く染め上げた。

 

「お顔が真っ赤ですよ」

「だ、誰のせいですか……!」

「あら、お嫌でしたらお止めしますけれど……」

「……」

「ふふふっ、本当に可愛らしいお方ですね」

 

 戸惑う流夜に彼女は愛おしげに目尻を下げる。表現できぬ愛情に似たものに後押しされて癖のない彼の黒髪をそっと撫でる。もうこそばゆさからどう反応したらいいのかわからず、流夜は無意識に視線を逸らそうとしたが、泰夜の今の格好は羽衣のように透けた水色のネグリジェ。開かれた胸元からは豊満な果実が強調されており、流夜の視線が思わず釘付けになってしまった。

 

「あらあらご興味がおありですか?」

「い、いや、……ないです」

「もしここであると素直に仰ってくれれば、お触り程度なら許可を出したのですけれど」

「うえぇ!? じょ、冗談ですよね!?」

「はい。冗談です」

 

 ニッコリと笑う彼女に、流夜は深々とため息を漏らした。

 

「……揶揄わないでくださいよ」

「ふふっ。申し訳ありません。反応がよろしかったのでつい御ふざけを入れてしまいました」

「勘弁してください……ってか御ふざけなら今この状況も――」

「――それはいけません。これ位はさせてください」

「あ、はい……」

 

 有無を言わせない口調に、押し黙る。

 ホント、どうしてこうなったと、と天井に視線を固定して過去を辿った。

 緊張と共に泰夜の部屋へと案内された流夜に待っていたのは取り留めない会話だった。彼女曰く、本当にただ単に流夜とお話をしたかっただけのようで、気づけば終わりのないキャッチボールに講じていた。だが、そんな中決定的な彼女の一言により終止符が打たれる。それが――何かお礼ができないか。

 

 泰夜の本来の目的はそれらしい。

 一族としてではなく母親として真夜を助けてもらったお礼がしたいそうだ。

 しかし、流夜からすれば困ったものだった。

 何せ欲しいものなんて何もないのだから。迷った末の彼女からの妥協案が、流夜が喜ぶ事をする。である。そして今の……膝枕に至るのだ。

 

「流夜さんはこうされると喜ぶと先生が仰ったものですから」

「い、いや、間違っちゃいないとは思いますけど……」

 

 ……幾つの話だそれは。それに他にいくらでも方法はある気がするが…… 

 最も、それに応じてしまっている彼ではあるが。

 

「実は先生からよく流夜さんの事は伺っていたのです。ピアノの上手な息子さんをお持ちだと鼻高々に言っておられましたよ」

「あ、あの親バカめ……仕事しろよ」

 

 ふと誇らしげな母親の顔が脳裏に浮かんだ。恨めしげに流夜はうめく。くすくすと泰夜は笑った。

 

「コンクールの動画も拝見いたしました。生憎私は音楽は少しばかり嗜む程度でしかありませんが、心を込めて鍵盤の上を駆け巡る流夜さんの姿がなんだか楽しそうで、とても印象に残っています」

 

 きっと彼女の言うコンクールの動画とは、この世界に来て初めて出た地元の小さなやつの事である。小規模でしかないコンクールではあったが、息子の晴れ舞台だと気合を入れまくっていた両親に、無性に羞恥心を覚えた記憶がある。

 

「ですから一度こうしてお会いしてみたかったのです。一体どのような子なのかと思いまして」

「あーっ、がっかりさせました?」

「ふふっ、いいえ。お話に聞いていた以上に可愛らしいお方で安心しました。まさかこのような形で出会う機会が訪れるだなんて思いもしませんでしたけれど」

 

 不思議な縁もあるものですね、と可笑しそうに彼女は笑う。

 そりゃそうだ、と流夜は苦笑を漏らした。

 

「――流夜さん」

 

 不意な真剣みを帯びた口調に、自然と彼女の顔を見た。

 

「真夜の事、お願いしますね?」

「――はい?」

 

 目を瞬きさせて固まる流夜。

 一体彼女はどんな意味合いでそのような言葉を発したのだろうか。

 

「ま、また揶揄ってます?」

「揶揄ってなどいません。至って真面目です」

「だったら他に聞き方があったでしょ!?」

「ふふふ、そうですね。では言い方を変えましょう。今後は真夜と仲良くしてあげてください」

「……はあ、最初からそう言えばいいじゃないですか……まあ、向こうがいいなら」

 

 いや、でもアイツすぐ揶揄ってくるしなぁ……

 不満そうな流夜の顔に、クスッと泰夜は笑った。

 

「有り体に申せば、真夜はどこか他人と距離を置きたがる傾向があります。それが殿方ともなれば尚更です。ですので、あの子があれほど自然体で流夜さんと、男の子と心底楽しそうに談話する姿を見た時は、本当にたいそう驚きました。よほどあの子に全幅の信頼を置かれているのですね」

「信頼って……単に揶揄う相手見つけただけでしょ」

「ふふっ、そうかもしれませんね。ですが根は優しい子なのですよ。それだけは理解してあげてください」

「……まあ、わかりますよ。俺もアイツの優しさに救われましたから」

「そうですか」

 

 満足そうに泰夜は柔らかい微笑を浮かべる。

 結局そこからも何気ない会話のやりとりだった。物のこわれやすい上皮をそっと撫でてみるような、当りさわりもない無駄話。それでも唇をほころばせて楽しそうな彼女に、流夜もそれに応えるような優しい時間が流れた。

 気付けば時刻は十一時を回っていた。流石にお喋りに夢中になり過ぎたようだ。そろそろ終止符を打とうと思えば、

 

「……」

 

 彼女はゆっくりと瞼を閉じて呼吸していた。まるで、長い長い何かを終えたような息だった。例えば秘境の踏破や長年の研究を成し遂げたような、過程を共有していない人には立ち入れないもの――そんな感覚さえ抱かせる佇まいだった。瞼を開いて空間を映す。儚んでいるような、深く浸っているかのような。その静けさに耐えきれなくなって、

 

「あ、アレですよね。そろそろ戻りますね」

「そうですね。ごめんなさい。私のお時間に付き合わせてしまって」

「いや、いいっすよ、別に」

 

 じゃあ、と柔らかな彼女の太ももからオサラバし体を起こした。

 軽くお辞儀をして部屋を出ていく。そんな少年の後姿が消えても、泰夜は扉をいつまでも見つめていた。

 

「……お願いしますね、流夜さん」

 

 物の本の一章をめくるような興味と期待を込めて、そう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……政府はこの件に対応を待て、と仰っています」

「そうか」

 

 やはりか、と落胆することなく元蔵は談話室に居る一族に視線を巡らせた。元々元蔵自身、政府があれこれと助力してくれるとは思ってもいなかった。

 

「元蔵殿」

 

 口を開いたのは、この一座で最年長の年代に属する、元蔵の叔父だった。

 

「私はこの一件で、仮令未遂と言えども、大陸の奴らは我々四葉一族全員の尊厳を踏みにじったと考える」

「従兄殿」

 

 次に発言を求めたのは、元蔵より十歳年下の従妹だった。

 

「私にも娘がいます。だから今度の事は他人事とは思えません。まだ学校にも上がってない娘ですが、あの子の将来を思えば、怒りも沸きます」

「俺たちは兵器であり暗殺者だ」

 

 末席近くで声が上がった。

 

「俺たちが人倫を説くのはお門違いだろう。しかし、今回の蛮行を向けられたことは我々に対する侮辱だ」

「そうです! 無能な政府などに期待などできない。ですからご命令ください、御当主!」

 

 一族の尊厳を守る為に――。

 仮令それが安っぽい情なのだとしても、一族の者は皆、我慢のならない憤激を抱き始める。彼らの長きにわたり受け継がれてきた荒々しいものが、疾風のように心を満たしていく。取り憑かれたかのように。

 元蔵もまた娘の未来を壊そうとした大陸の連中をこのまま野放しにしておくことなど出来はしなかった。

 

「元蔵殿、我々の気持ちは、貴方と同じだ」

「真夜の誘拐に関わった大陸共に破滅を」

 

 兵器として。暗殺者として。

 一族に蛮行を向けようとした奴らに血の滴る報復を。

 それがここに居る者達の、想い――

 彼らはもう、止まることはないだろう。

 なら一族の長として、私はどうするべきか――

 

「我々は――」

 

 元蔵が言葉を言いかけた矢先だった。

 

「――悪いが、少し待ってもらうぞ」

 

 あけ放たれた扉と共に聞こえてきたのは、幼さを残した男の声。

 現れたのは1人の少年と――

 

「……真夜」

 

 愛娘だった。

 

 

 

 

 

 

 

「ったく、これなら帰り道聞いとくんだった」

 

 二度ばかり角で立ち止まり、自信なさげに歩調を緩める。

 ここさっきも来たな、と見覚えのある場所に益々眉間にしわが寄る。どうやらグルグルと来た道をまたたどっているようだ。まあ、なるようになるだろうと足を動かす。

 

「ん? アレって……」

 

 とある一室にぞろぞろと大人達が入っていくのを見て、流夜の足が止まる。

 彼らはみな見覚えのある者ばかり。こぞって人気のない一室に集っては何か始まるのだろう。緊急的な集会でも開かれるのだろうか。

 場所が場所なだけに、物騒極まりないこと間違いなかった。一体、中で何が行われているのだろうか。

 

「……っておい、まさか」

 

 意識の片隅に嫌な懸念がよぎる。

 ――四葉家の秘密……人体実験か?

 時刻は午後の11時過ぎ。自分たちが寝静まる頃合いを見計らって行われるのかもしれない……。そう考えれば考えるほど、その仮定は説得力を持っていく。

 沸々と蘇る不安による緊張で、流夜は身を震わした。

 ゴクリと息を呑み、しかし息をひそめひっそりと近づく。

 

(何なんだよこのデジャブ感……)

 

 恐怖に満ちて蒼くこわばった顔のまま、扉の隙間から届く男共の声に耳を傾けた。

 

 ――大陸の奴らは我々四葉一族全員の尊厳を踏みにじった。

 ――今回の蛮行を向けられたことは我々に対する侮辱だ。

 

 次々と聞こえてきたのは、兵器であり暗殺者であると自らを称する彼らが望む答えだった。

 それが――真夜の誘拐に関わった大陸共に破滅。

 四葉家の誇りを守る為に――。

 

 ――叔父様たちはとても優しいお方達よ。

 

 心から彼らを愛する少女の飾り気のない温かい愛情。

 そんな想いを真っすぐにぶつけてきた少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。だからこそ――

 

「……ふざけんなよ」

 

 カッとマグマのようなものが全身を駆け巡る。誇りの為に、アイツにまた重いもん背負わせる気かよ……っ。

 思わず扉を叩き壊そうと一歩踏み出した時、

 

「待って」

 

 背中越しに聞こえてきたのは、慣れ親しみつつある少女の声。

 声量は抑えられていた。でも必死に彼を止めようとする力強さが声音に宿っていた。

 

「……止めんなよ、真夜」

 

 隠しきれぬ怒気の宿る声音で振り返る。やはり少女――真夜の姿がそこにはあった。

 なぜここに彼女がいるのか。そんな疑問は、彼女の表情を見れば一目瞭然だった。

 

「だめよ、行っては」

「なんでだよっ。このままじゃあの人たち大陸のやつらに報復しに――」

「――それでも、だめよ。私たちが口を出すことではないわ」

 

 ましてや、他人の貴方にこれ以上四葉に関わって欲しくない。

 非難めいた瞳で、行く手を少女は阻む。流夜も負けじと反抗的な鋭さを持った視線をぶつけた。

 

「いいのかよそれで……」

「……いいのよ。だから戻りましょう」

「あっ、おいっ……真夜っ」

 

 腕を取りその場から去ろうとする彼女。逃げるように遠ざかっていく。堪らず押し留めるように引かれる手を振り払った。

 

「……本当にそれで納得するのかよ、お前はッ」

「……さっきも言ったでしょう。これは私自身の納得だとかそんな話ではないの。……私たちにできることなんて、何もない。お父様たちがそう決断を下すのならそれに従うしかないの。わかって頂戴」

 

 振り返ることはしなかった。

 でもわかる。投げ出すようなひどく物憂げな響きが流夜の鼓膜に届く。

 どうやら彼女は感情の出口を上手く蓋で閉じきれてないようだ。流夜はガシガシと乱暴に頭をかいた。

 

「……まったく」

 

 ため息交じりに、歩み寄り肩に手をかけ強引に振り返らせた。少しばかりの抵抗を見せたが、思った通り、振り返った彼女は世界の苦悩をひとりで背負っているみたいな顔をしていた。

 

「本当は行ってほしくないんだろ? 違うか?」

「……」

 

 俯いたまま、彼女は何も言わない。

 十二歳。同い年とは思えない程大人びていて、自分の立場をわきまえ常に神経を使っている。幼少期のころからそう教育されてきたのだろう。でもその半面彼女は多くの事を我慢して、こうして辛抱を一人で抱きしめてきたのだろう。誰にも言えずに、自分の気持ちを押し殺してきたのだ。

 きっと余計なおせっかいだ。でも――

 

「いいじゃんか。言い返されたって」

「……えっ」

 

 思いがけない一言にふと顔を見上げた。真っ先に映ったのは、優し気な流夜の眼差しだった。そして彼は、先程より一段と柔らかい口調で言葉を続けた。

 

「それにぶつかってみなきゃ案外わからねえものだぞ、真夜」

「……でも……私にはそんなこと――」

「――言う権利はある。どんな立場だろうと、思いを伝える権利はあるはずだ。だから、行くぞ」

「えっ、あっ、ちょっと……っ!」

 

 戸惑う彼女を置き去りに、彼は強引に彼女の手を引っ張り扉に手を掛けた。

 

「そうやって大人ぶって我慢ばっかして大切なもん手放しちまったら、後悔するのはお前なんだぞ、真夜」

 

 ――想いってのは伝えなきゃ、それは想ってないのと同じことなんだから。

 

 ……強引だ。彼は人の気持ちなんて考えずに土足で踏み込んでくる。

 でも、嫌ではなかった……それに……

 

 ――ほら、行こう。そんな顔してないでさ。

 

 まただ。またどこか懐かしい記憶が脳を掠める。でもそれはまるで遠くでゆらめく蜃気楼のようにつかみ所がない記憶で。きっと脳が記憶にすっぽりと黒い布をかけ、少女の目に触れないように、記憶に残らないようにしてしまっているのかもしれない。

 それでもやはり、彼の背中を知っている気がしてならない。

 少女の体の奥底に無理やり沈めていた気持ちが湧き上がってくる。

 それはひどく懐かしくて、どこか切なくて、温かい。

 

「もし一歩前に出る勇気がねえなら、やるからさ、俺の勇気。だから、一緒に伝えよう」

 

 握られた手に自然と力を込めた。

 そうやって少女はまた、走り出した。

 

 

 

 

 

 

「神崎くんに真夜か……」

 

 扉の向こうに居た元蔵が微かに目を見張る。しかし、意外というよりも最初からこうなることを予想していたような表情でもあった。

 流夜は真っすぐにそんな彼を見つめ、次第に一族の者へと視線を流していく。決して穏やかではない、憎悪の瞳が彼らには宿っている気がした。――止めるなら、今しかない筈だ。

 

「真夜」

 

 流夜はあえて強い口調で彼女の名を呼んだ。大きな瞳が不安で揺れている。だからその小さな背中を押すように力強く頷く。――行ってこい。

 彼女の瞳に自然と決意が宿った。握った手を解き、一歩前へ出る。

 ゆっくりと深呼吸をし、物心ついたころから記憶していた一族の者を一瞥する。

 

「先に聞き耳を立ててしまった無礼、お許しください。それと私の未熟さ故に起こしてしまった今回の騒動におきまして、四葉としての誇りを汚してしまった事、重ね重ねお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした」

「真夜様……」

 

 深々と真夜が頭を下げ、誠心誠意の籠った彼女の謝罪の意が放たれる。突然の乱入に、彼女の謝罪。ここに居合わせた者が驚きで染まった。

 彼女のせいではない。誰もがそう思い、でも、何かを言おうとしたが思い直したように口をつぐむ。

 

「本来なら、このような一族の諸事情に私情を挟むなど、あってはならないことだと重々承知してはおります。ですが……ですが……っ」

 

 胸の中に風船があるみたいに、胸の中の何かが膨らんでくる。もう、胸の中で膨らんだものをそのままになんかしておけなかった。

 

「私は、報復など……望みません。してほしく…ありませんっ……もう誰も、傷ついて欲しくありません……っ」

 

 ――だから……お願いします。どうか、行かないでください……

 

 一時の騒ぎが大嵐の後のように静まった。

 彼女のほとばしる様にあふれ出した思いが、彼らの心中に訴えかけられた瞬間だった。

 今回の騒動は誰のせいでもない筈。それでも婚約者や一族の者達に迷惑をかけ、自身を責め続けた彼女。

 堪らず流夜も腰を折った。

 

「俺からも、お願いします」

「流夜さん……」

 

 驚きの呟きが真夜の口から漏れた。ちらっと彼女を横目で見るが、気にせず先を続けた。

 

「俺には一族のことはよくわからない。尊厳や誇りを守ることがどれほど大事なことなのか、俺には理解できない。でも、真夜は、本当にあんたらの事を大切に思ってるんだ。だからコイツの思いに耳を傾けてやってくれ」

「君は、どうしてそこまで……」

 

 近くに居た若い男がその真意を問うように呟く。ゆっくりと流夜は顔を上げる。

 訳なんて……

 

「確かに俺はあんた達と違ってコイツと知り合ってから日は浅い。ってか昨日会ったばっかだし。でも、それでも四葉真夜って女の子は一族のアンタらの事を誰よりも大切に思う、可愛らしくて優しい子なんだってことはわかる。だから、頼むよ。これ以上コイツに、悲しい思いはさせないでやってくれ」

 

 ――私からもお願いします。

 

 不意に賛同の声。凛とした少女の声が室内に響いた。

 ふわりと真っすぐな黒髪を揺らし、少女が流夜の隣に並ぶ。

 

「深夜……」

「姉さん……」

 

 意外にもその少女は彼女の姉である深夜だった。思わぬ人物に再び驚きの視線が彼女に集まるも、意識の隅々にまでモルタルを流し込んだような、毅然とした態度で深夜は口を開いた。

 

「大陸の連中と我ら四葉では戦力の差が大きすぎます。ですから今力をふるったところで結果は見えている筈です。慎重に事を運ぶべきかと思います」

「そうだよっ。私、元蔵さんとかに傷ついて欲しくないもん。皆考えようよ。もっと良い方法があるはずだよ」

 

 そして一も二もなく賛同の声を発したのは、これまた意外な人物だった。

 

「亜里沙さん」

「お前まできたのか……」

 

 呆れたように苦笑する流夜に、ニイッと亜里沙は白い歯を見せた。

 

「私はいつだって真夜さんの味方だもんね」

「そうかよ……」

 

 随分と頼もしい妹である。

 しかし、彼らを説得するにはやはりこの現状を改善する打開策が必要だ。

 どうする……この場をうまく収める何か解決方法はないのか? 

 思い詰めた表情で考え込む流夜。生憎後先考えずに行動したためにそれを丸く収める手段など考えていなかった。くそっと舌打ちし苦悩する。そんな背後から、救いの手が差し伸べられた。

 

「――まあ、ここは俺の出番だな、元蔵さんよ」

 

 声の主は思わぬ人物、自身の父だった。隣には母の姿も。いつの間にかこの場には、神崎一家が勢ぞろいしていた。

 

「父さん、なんか、考えがあるのか?」

「まあな」

「なんなんだ、その方法は」

 

 ここに居る者の視線が父へと集中する。

 流夜もまた行き詰まりだと思っていた眼前に、ほっと灯りがともったような気持ちで父へと希望を見出していた。――そうだ。思い返せばいつだってこの男は何だってやってくれた。彼が居てくれたから神崎家は多くの事を乗り越えることができたのだから――

 

 

「それはな」

「それは……?」

 

 ゴクリと息を呑んだ。一言一句聞き逃さぬよう全神経を彼の言葉に集中する。

 

「――おっぱい作戦だ」

「な、なるほど、おっぱいさくせ――は?」

 

 ……は? 

 差し込まれた光明が、徐々に光を失っていく。

 マネキンのように固まり続ける流夜達に、なお彼は誇らしげな表情を崩さない。むしろ何か可笑しい事でも言ったか、という信じられない顔だった。

 

「なんだ、聞こえなかったのか? だからおっぱい作戦だと言ったろう。ああ、わかってる。詳細はこうだ。連中は性欲が強いと見た。そこで欲求不満丸出しの男共にメリケン人みたいな豊満なボディの女を潜り込ませる。すると男共はきっとこう思うはずだ。『アイツ、相当欲しがってやがるな』と。そう、そうやって男を勘繰らせてそのでかい乳房を揉みし――」

「ホォォォォアタァァアッッ!」

「ぐぼぁぁぁっ!」

 

 父に頭部の衝撃が襲う。

 なぜ邪魔をする、とばかりに睨みつける実の父。飛び蹴りの着地姿勢のまま流夜も負けじとアホ面に視線をぶつけた。

 

「いきなりなにしやがるッ!?」

「てめえこそいきなり何言ってやがる!? せっかく期待込めて聞いてみれば単なるアンタの胸を揉みたいっていうアホみたいな欲求じゃねえか!」

「バカ言ってんじゃねえ! これで世界が救えるんだぞ!」

「救えるかッ、それで救われるのはアンタの煩悩だけだろうがッ!」

 

 牙むき出しに両者がにらみ合う。ならば、と父がポケットから端末を取り出し何やら操作する。そして、画面を流夜へと見せつけるように向けた。

 

「見ろっ、この写真を! 俺が大漢で見つけた風俗嬢だ」

「はっ、そんなもんみせ――」

 

 スクロールして端末に映し出されたのは、美女の被写体だった。

 だが単なる美女の被写体ならまだしも、流夜は思わず視線を剥がせなかった。なんせ、被写体とは言え画面越しから伝わるみずみずしい色気が流夜の男としての何らかの刺激を与えたからだ。してやったりと視界の端で父が意地汚い笑顔を浮かべていた。

 

「どうだ? お前の好みだと俺は把握してるぞ。なんだったら三百円で売ってやってもいい」

「き、汚ねえぞっ、息子相手に取引かっ! 俺小遣い少ないの知ってんだろ!」

「なら、いらないのか?」

「ぐっ……わかった。取引におうじ――」

「――何やってんのよあんた達はっ!」

 

 頭部に衝撃。ゴキッと鈍い音が体から聞こえてくる。

 

「「ぐぁぁぁあああっ!」」

「ハア、自業自得よこのっ、バカどもっ!」

 

 深々と嘆息しながら、母親が諫言する。

 そんな光景を呆然と見つめる一族の者達は揃って莫大な不安を覚えた。

 この先の一族の未来はどうなるのか。

 元蔵だけが可笑しそうに唇を吊り上げていた。

 

 

 

 

 

「結局こうなったのね……」

「まあ、そう言うなって。皆無謀なことはしないって約束したんだからさ」

「そうだけれど、あんな茶番を見せつけられれば不安を覚えるわ」

「……否定はしない」

 

 場所は畳の客室。流夜は座りながら頭部にできたでっかいたんこぶを摩り視線を泳がせた。

 結局事態は収拾つかずに未解決のままだった。談話室では今でも四葉家の者たちに神崎両親が物議を交わしている筈である。だが、それでも彼女の顔から安堵が垣間見えるのは、彼らが無謀なことしないと約束してくれたからであろう。

 

「まあ良かったじゃんか。これで一件落着だろ」

「そうね」

 

 「ねえ」と彼女から声を掛けられる。天井から反射的に真夜に視線が移った。

 

「ん? なんだ?」

「……そ、その…」

 

 ほんのりと頬を紅葉のように染めて、真夜は俯き加減に視線を逸らす。

 何故か踏み込む事を躊躇う彼女に、独特の緊張感がやってくる。奇妙な沈黙に流夜も動揺を覚えた。おい、と思わず声を掛けようとしたが、彼女の桜色の唇が先に動いた。

 

「……が……とう」

「えっ? すまん、もう一回言ってくれ」

「そ、その、……あ、ありがとう……私の為に、色々と言ってくれて」

「お、おう……」

 

 そんな事かよ。と決まりの悪い顔で、流夜はガシガシと乱暴に頭をかく。それは恥ずかしがってる時にやる彼の癖。そう彼の妹が教えてくれたし、真夜自身も何度も見た光景だ。だからこそ真夜自身にも心の余裕が生まれた。自然と悪戯っぽく彼女の口角が上がる。

 

「照れてる?」

「て、照れてねえよっ、じゃ、じゃあ、俺もう行くからな」

 

 居心地が悪くなったと感じた流夜がその場を去ろうとするが、堪らず待って、と真夜は彼の服の袖を掴んだ。

 

「……何度も助けてもらったからお礼がしたいのだけれど」

「は、はあ? いらねえよそんなもん」

「そ、そんなこと言われても何かしらの形でお礼を受け取って頂戴! じゃないと……私の気が収まらないもの」

「い、いや、いいってホント! 気持ちだけ受け取っておくから」

「だめよ!ちゃんとお礼がしたいの」

 

 鎧のように頑なにゆずろうとしない彼女に、ハァと諦めたように流夜は嘆息した。

 

「じゃあ、約束してくれ」

「約束?」

「そう、約束」

 

 言葉を反芻し、ゆっくり流夜は頷いた。

 

「些細なことでもいい。もし何か困ったことあったら遠慮せずに俺に言えよ? まあ、その時の俺に何ができるかはわからねえけど、きっと命くらいは、掛けられると思うから」

「……それじゃ結局あなたに対する何のお礼にもなってないじゃない」

「だから最初からいらねえって言ってんだろ。だいたい俺は対価貰いたいからお前を助けたわけじゃねえ。俺が助けたかったから助けただけだ。だからしいて言うなら無事ここに真夜がいることがもう十分すぎる対価だ。だからまあ、次は気を付けてくれればそれでいいって」

「……本当にお人好しね、貴方は」

「……悪かったな」

 

 気恥ずかしげに視線をそらす流夜に、堪らず真夜は小さな笑い声を洩らした。釣られて流夜も白い歯を見せる。

 

「そうそう。そうやって笑ってる方がお前らしいよ。――ホント良かったな、真夜」

 

 真夜は数時間前の亜里沙の言葉を思い出した。

 きっと彼女の思い描く笑顔は、こんな顔なのだろうか?

 目が、優しい。この上なく。この世の柔らかくて温かいものが、愛情が、そこには凝縮されている。……そう錯覚してしまいそうになるほどに。

 何度も声を出そうとした。でも、言葉が出てこない。

 湧き上がってくるのは、ほんのりと真夜の胸を温める気持ちだけだった。

 じわっとそれは瞬く間に胸に広がり、ドクン。また、彼を想うだけで強く心臓が跳ねた。

 ふと胸の中で俯いていた恋の子猫が再び顔を上げ……ちょ、ちょっと……

 顔を上げる子猫の頭を慌ててぺちぺちと押さえつけた。

  

 ち、違うっ、これは恋なんて、そんなんじゃ……

 

「じゃあ、俺先にいくから」

「……」

「おい、真夜?」

「えっ、ええ。……そうね」

「……まあ、いいや。お休み、真夜」

 

 そう言って彼は部屋から消えていく。しかし、真夜はしばらくそのまま呆然とその場に立ち尽くしていた。

 

 ――四葉真夜って女の子は一族のアンタらの事を誰よりも大切に思う、可愛らしくて優しい子なんだってことはわかる。

 ――きっと命くらいは、掛けられるから。

 

 脳が都合の良い記憶ばかりを持ち出してくる。彼の言葉がぐるぐると回し車の中を走るハムスターのように駆け回っている。その度に心臓がせわしなく胸を叩く。

 

「~~っ」

 

 頭を切り替えようとしても、思い出すのは流夜の優しい眼差しばかり。心に焼き付いて離れそうになかった。得体の知れない感情が渦巻いて仕方ない。必死にギュッと胸の前に手を当て、溢れんばかりの気持ちを抑えつけた。

 

「もう……なんなのよ、これ……」

 

 自分自身にも聞こえないような小さな声で、そう呟いた。

 みゃー。胸の中の子猫がそれに応えるように甘い声で鳴いた気がした。 

 

 

      ――恋だよ、それは。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そうですか。そのようなことがありましたか」

 

 泰夜の部屋で事の報告を妻に感心したように呟く元蔵。彼女は口に手を当て驚いた様子を見せる。勿論それが演技であることは明白だった。

 

「それもあなたの思い通りですか?」

「なんのことかね?」

 

 意地の悪い響きがする問いかけに、元蔵もまたポーカーフェイスを保った。

 

「わざわざ扉を使用人に開けさせでもしなければ、室内からの声は外へ漏れない筈ですから」

「それを言うのなら、君こそ彼が方向音痴という情報を知っていて一人で彼を帰らせたのだろう? 使用人にでも帰り道を案内させれば彼を迷わせずに済む話だと思うが」

「あらあら、では、お相子という事でしょうか」

「そのようだな」

 

 「それで」と泰夜は表情を途端に引き締める。瞳が真剣な色を帯びた。

 

「今後はどうされるのです? 一族の者はご納得されたのですか?」

「満場一致とは言い難いな。現状ではある意味で応急処置程度の先送りにしかならんだろう。だが、それに関しては問題ない」

「あら、それはなぜとお聞きしても?」

「それに関してはいずれ君にもわかる、とだけ答えておこう」

「それは答えになってませんよ。焦らさなくても宜しいではありませんか」

 

 ムスッとふくれっ面をワザとらしくしてみせる泰夜に、思わず元蔵は苦笑を漏らす。

 

「それでは私はもう行くよ」

 

 腰を上げ扉付近まで歩けば、不意に泰夜が「元蔵さん」と呼んだ。

 びくりと体が震えた。それはいつもとは違うように思えたのだ。何かの予感を含んだそんな声だ。以前にもこの感じを味わったことがある。真夜が誘拐された時だ。七草家からの事件の知らせの時もこんな風に不気味な寒気を覚えさせたのだ。いや、気のせいだろう。慎重に元蔵は振り返った。

 

「なんだ? 今すぐにでなければだめか? まだ仕事が残ってるんだが」

「元々検査結果を聞きに来たのではありませんか?」

 

 思わず元蔵は押し黙る。確かにそれが本命だった。でもそれを言い出せずにいたのは結果を知るのが怖かったから。そんな元蔵の心境を察していてもなお、彼女は言葉を発した。

 

「――半年もつかどうかだそうです」

 

 あくまでも彼女の声は平温だった。

 だが桜のように儚げに映し出された彼女の笑みに、探せど掛ける言葉が見つからなかった。

 

 

 

 

 

 


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