Fate/Koha-ace 帝都聖杯奇譚-1920- 作:ひろつかさ(旧・白寅Ⅰ号)
五月二十三日
男は、その醒め渡るような青に目を見張った。
小さな庭の池にも、四輪の杜若が咲いている。
「もうそんな季節か」
初夏、午後の節句とあの騒々しいメーデーが過ぎ、世間は戦後経済に右往左往としているものの、季節は人の流れにかまわず梅雨を迎えようとしている。
大の字で背伸びをし、雨戸を収納する。
ガラス戸がいびつな表面に日を受けながら、カタカタと音を立てた。木塀の向こうから、カラカラとチェーンを鳴らす自転車が通り抜ける。
誰かが見ている?
青年は何を思ったか天井を見上げた。
(まさかな、結界が反応するはずだ。)
乱れた着流しを整えつつ、居間で大正新報の朝刊に目を通す父親に声を掛けた。
「おはようございます、父さん」
「おはよう、洸」
「ところで、庭の杜若が花を咲かせておりますが、父さんはご覧になられましたか」
「いや、まだだな。今年もとうとう咲いたか、母さんが好きだったな。ところで、台所の景気はどうかな」
「聞こえませんか、台所から調子のいい包丁さばきの音。心配に越したことはありませんよ、しかし用心には用心が必要です。昼からの進撃も兵站が肝心でありますから」
「朝もだぞ洸、夜明けの戦いも肝心だ」
「その通りだと思います。では少々身支度を整えてまいります」
眼鏡をはずしながら父はゆっくりと頷いた。
洸は書斎に向かわず、廊下奥の台所へと静かな足取りで進む。
その先に弁当箱におかずを詰めてい割烹着姿の少女が、口を一文字に何かを思案しながら料理に向かっていた。
「おはよう、琥珀」
「おはようございます洸さん、あ」
「ん、どうした」
鉢を置いて、洸を優しい手取りで台所から追い出すと、息のかかる近さのまま、彼へと不満げな表情を向けた。
「俺はあいさつをしただけじゃないか」
「失礼しました。でも、私との約束を覚えていますか」
「新鮮な卵をお隣さんからもらってくることかな」
「違います」
「今日は俺が弁当を作ることだったかな」
「ありえません」
「じゃあ静さんからの宿題を手伝うことか?」
「その約束は昨日守ってくださいました。私が問題としているのは日々のお約束です。」
「お弁当を楽しみにしてもらいたいから、朝の台所に立ち入らないでほしい。だったかな」
「ご存じではありませんか」
あなたは意地悪だと言いたげな表情が洸の心を和ませた。
「父さんが朝飯はまだかなと俺に尋ねたんだ。あと、琥珀の元気な姿が見たかったからさ」
「言い訳は無用です。お父様なら必要とあれば私を呼んでくださいます。それに、私に身支度を急ぎたいときは、昨日のうちに伝えてくださいます。洸さんも洸さんです。この家の長男なのですから居間で堂々としていただければ、後は私がします」
「すまなかった、支度を整えて、茶の間で待っているよ」
「でも、嬉しいです」
洸は照れ臭くなったのか、階段への道のりを急いでいった。
榊原家の二階建て一軒家は、上野の桜木町にある。東京市の北東の端に位置する上野一帯は、本郷区と下谷区の境に位置し、桜木町は東京美術学校の北側、小さいながら二丁目は美術学校の前に位置し、北側には谷中の霊園がある。無論、下宿をする書生が多い関係上、一高の生徒も足しげくこの街を訪れている。
洸は二階にある四畳半の書斎で、シャツに袖を通し、ズボンのベルトを締めると、座卓に置いていた西洋調の小物入れを胸ポケットに入れ、壁に掛けていた学生帽と詰襟を手にした。
「朝ごはんの支度ができましたよ」
琥珀の呼び声を聞くと、急な階段を慣れた足取りで降りていった。
ちゃぶ台を挟み、食事をする洸の父は榊原八郎である。丸の内オフィス街の銀行員をする彼は留学経験を買われ、ある特殊な科で仕事をしている。留守が多いため、家計のやりくりは洸と琥珀に任している。
洸は味噌汁をすすり、茶碗を手に取って、米を口へ運んだ。
彼女はそれと入れ違いで湯気の湧くお椀を手に取った。琥珀は十七になる女学生であり、彼女は早くに事故で両親を失ったため、遺言に従って父親の旧友である八郎の元で洸とともに生活している。
「洸、琥珀、昨晩も言ったが、また一週間ほどの大阪出張がある。もしものことがあればいつもの旅館に電話しなさい。そして美穂のことを頼む。三年ぶりの日本だ、よくしてやってくれ、それにたまには三人で浅草に行くのもよかろう」
「はい」
「そうだった、琥珀、今日は戸田との付き合いで遅くなるから、夕食はいらないよ」
「そうですか」
「その代り、明日は前から言っていた活動写真を観に行こうか」
「美穂ちゃんも一緒にですね」
「そうだな、でも父さんがいないのが残念でならない」
「すまんな、しばらく三人でしっかりとやってくれ、それに洸、お前も家長になる身として責務を果たしなさい」
「はい、かならず」
味噌汁を飲み干すと、三人息を合わせてご馳走様と噛みしめるように言った。洸は湯呑に残っていた茶を飲み干して襟詰のホックを留め、学生帽を深くかぶり、鞄を手にした。
「洸、あまり遅くまで出歩くじゃないぞ、しばらく東京は物騒だ。琥珀、美穂にもしっかりと言いおいてくれ」
「なぜに物騒なのですか」
「琥珀も新聞を読みなさい。洸、手持ちは十分か」
「もちろんです」
「そうか、お前なら多少なりと身を守れるだろう。行ってきなさい」
玄関で靴を履いたところで、琥珀は山吹色の包みに入った弁当を手渡した。
「今日は何かな」
「お楽しみです」
「そうだった、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
引き戸を抜け、腰に弁当を結び付けると忙しい通りに向かって歩き始めた。
「ん」
曲がり角に差し掛かった瞬間、刺すような威圧を感じて振り返った。
しかし、それらしき気配もすぐになくなり、洸の目の前を背の低い老人が通っていった。きっと眠り足りないのだろう。あくびを右手で抑えると、手の甲にうっすらと、赤い痣のようなものが浮かんでいることに気が付いた。
何かの兆候だろうか、洸の心中に一抹の不安が浮かんだ時、彼を呼ぶ声がした。その張りのある聞き知った声の方に振り返った。
「洸クン、おはよう」
手縫いのセーラーを着た、ひさし髪の少女が彼の顔を覗き込むように立っていた。
「おはよう美琴、気にすることでもないさ」
「本当かな、洸クン」
文人や賢君を呼ぶかのように洸を呼び、彼との距離を離しつつも歩調を合わせた。
「ところで、いきなりなのだけど二日前に万世橋で異邦人の仏さんが上がった話、知っているかしら」
「ああ、新聞でな」
美琴を目で追いながら言うと、彼の目の前に廻った。
「それから、二日前に横浜のオフィスで殺人事件。三日前には文部省の要人が殺害された。さらに十日前には根津で十数人の失血遺体が発見された。この四つの怪事、いずれも犯人の特定につながる物品や関係者のいざこざもなかった。そこでだ、君はこれらをどう受け止めた。」
「完全犯罪というやつか」
「そう、四つともね」
こうして彼女が男女の節操を気にしない時こそ、決まって面倒ごとを振る兆候である。
「ただ、共通点がないというわけでもない。万世橋のそれと横浜のオフィスのそれには共通した殺され方がされている。それは、矢と大きな刃物で肉体が斬り裂かれているという点よ。この世界に存在する刃物で、狭い範囲で四肢を裂く刃物なんて聞いたことないわ。失血死体を除いた十八人全員よ。普通だったらこんな殺され方は絶対ないわ」
「何を俺から聞きたいんだ。」
周囲の人が離れていることを確認しながら、やや小さい声で言った。
「神秘の力を操る者、魔術師。あなたなら、これらの怪事がそれを用いたと思えるかしら」
洸は思わず深いため息をついた。
「前も言っただろう」
「私は真剣よ」
「百も承知だ」
彼女はやや残念そうにうつむいた。
「君には分からないのか?私の命を救ってくれた力が、殺戮の道具に使われているのかもしれない可能性を、私はそれを絶対に許さない」
横切ろうとする自転車から守るため、彼女を静止した。
「無関係の人間も大勢巻き込まれているのよ、中には性別さえ判別できないものさえある。当たり前のように起こる出来事じゃないわ」
もちろん洸もそれらの事件について考えないわけではなかった。しかし、今の彼には頭の隅にとどめる程度の出来事としか判断していなかった。
「あなたは、どう思うかしら」
頭を二、三回搔くとしぶしぶ口を開いた。
「もし、お前の考えている通りだとしても、俺たちには関わりのないことだ」
「無責任なのね」
「俺が言いたいことは変わらない。斎藤美琴、俺は君に女としての身の振り方を考えてほしい」
暫しの沈黙ののち、静かに頷いた。
「分かったわ、心配かけさせてしまったわね。でも、君の意見を聞いておきたい。それが聞けたら金輪際、こんな話を持ち掛けたりしないから、だからお願い」
「あり得るよ、魔術にとって再生と破壊は二足の草鞋だ。発展は崩壊に帰依し、破壊は生育をもたらす。結果と統計は破壊によってもたらされ、魔術の研究、発展の土壌となり、世界に警告と絶対の法則を表す。再生は発展に依存された社会に方向性をもたらし、新たな時代の礎となる。以前、美琴を救った力には数千年分もの血が積み重なっている。死もそれ相応だ。術を使うことは、人の生き死に手を掛けることと同じなんだ。武術を心得るお前ならよく分かるだろう?」
「そう、ありがとう」
「今のは他言無用だぞ」
「分かっているわよ、あんたの嫁さんにだって言わないわよ」
「あいつは、妹みたいなもんだ」
「妹じゃなかったら何、琥珀ちゃんはあんたの何かしらね」
「お前!」
「あははは、おもしろいの」
既に彼らの目指していた校舎が姿を見せていた。
上野寛永寺より西方にこの時代には珍妙な、男女の学び舎が隣り合う立林高等学校が立っている
洸と美琴は学科もとい性別が異なるため、校門を通る前に何事もなかったように二手に分かれていった。男子の校舎に続く左手の小さな小道沿いに、二本の若木が立っている。何があったのか五月の初めまで桜の花が残っていたが、気づいた頃には新緑が一面を覆いつくしていた。
明治の中頃から使われているという東棟の下駄箱には、彼に割り当てられた十二番の棚がある。
そこに短く髪を整え、ふくよかなカイゼル髭を生やした初老の男が彼の前に立った。
「おはよう榊原君」
「おはようございます大友源次郎教授」
音楽の講師だが、生徒の多くは実技よりも講義が多いことから、嫌味を込めて『先生』ではなく『教授』と呼んでいる。ただ、当の本人はその呼称をひどく気に入っているらしく、洸の前でも嬉しそうに頷いた。 そして『教授』はおもむろに自身の懐を探り始めた。
「君に頼みたいことがあってな、待っていたのだよ」
ようやく探し出した札のついた鍵を洸に手渡した。
「三号実技室用に少し古いピアノを買ったのだが、さる大貴族からの払い下げの品だそうだ。調律は済ませてあるが、私のような口だけの者では自分の耳に自信が持てなくてな、君ならと思った次第だ。それに夕方から君のことで楽団とも話をつけねばならない。頼めるかな」
「いえ、断る理由はございません。喜んでお引き受けいたします」
その返事に満足すると、鍵は帰りに宿直の智子見習いに渡せばよいと言い残し、校舎の奥へと戻っていった。
万世橋からお茶の水に向かうため、琥珀は駅の構内を歩いていると、背中から声がかかった。
「琥珀姉さま」
そこには両手に幼い体躯に似合わない大きな旅行鞄を持ち、赤を基調とした洋服を着る青い目の少女が立っていた。
「もしかして、クレメンティ―ナちゃん?」
「お久しぶりですお姉さま。お元気そうで何よりです」
「ええ、それにしてもまた大きくなったね」
「私だって三年たてば背も伸びます。それに、私にも日本の名前があるのですから、そちらで呼んでください」
「そうだったわね美穂ちゃん。今年で十五だものね」
「向こうに居た時間は長かったですが、覚えた日本語はこの通り忘れていませんよ。ところで、お兄様はお元気ですか?姉さまの料理に酔いしれていませんか」
「おせっかいはいいのよ、洸さんも三年前と変わらず元気にしているわ」
それは、それはと笑いながら、両手に持った鞄を抱えなおした。
「私はこれから先生の言いつけで協会の事務所に向かいます。帰りはご一緒できると思うのですが、万世橋の駅前で待ち合わせるというのはいかがでしょう」
「うん、買い出しにも行かなくちゃいけないから、三時半に杉野兵曹長さんの前で待ち合わせしましょうか」
「分かりました。それではお姉さま、また後ほど」
「ええ、いってらっしゃい」
美穂を改札前まで見送ると、御茶ノ水方面に向かうプラットホームに上がった。
学校に向かう市電が止まってしまったため、仕方なくこのホームに来ている。狭いホームの細い列に並びながら、彼女は硬い表情を崩せないままでいた。
どこからかため息が漏れた。
〔マスターの予想通りになったな〕
〔あの子の左手に巻かれた包帯、間違いなく礼呪を隠しているわ〕
〔サーヴァントの気配が感じられなかったが、あの娘の采配だろうな〕
〔今の実力が測れない今、下手に動くことはできないわね〕
〔マスター、やはりあの優男が気がかりだ。何がきっかけでサーヴァントを召喚するか分からんぞ〕
〔それはないわ、あの人が直接儀式の陣を敷かない限り、今は部外者でしかないわ。それに聖杯戦争に関わる理由も存在しない〕
ホームに小豆色の無骨な車体に赤いラインを引いた電車が到着した。列の先頭に立っていた男が降りていく、乗客を避けた。
〔甘いな、聖杯は奇跡をこの世に体現するものだ。どんな真似をしようとも発端は起こり得る。マスター、聖杯戦争にあり得ないことはないのさ〕
〔バーサーカーの言う通りかもしれないわね〕
乗り込むと同時に発車ベルがホームに鳴り響いた。列車の中ほどの場所に立ったと同時に前進を始まった。
身近な二人がこの戦いに関わることになると考えた時、深い憤りを感じた。
兄妹で殺しあう真似でもすれば、洸も美穂もそして自分自身も聖杯を手にする前に、誰かが涙を流すことになる。間桐本家の方針は身内の争いから距離を置き、双方が自滅するのを待てとの方針であった。しかし、十二の時から苦楽を共にしている二人とのつながりは、今や本家の関係よりも大事なものであった。
魔術師になるしか術のない人生が全てではないことを、隣に居てくれたあの人が教えてくれた。暖かな、やさしさに溢れている日々と、密やかな契りのさだめ。
しかし、今は絶望に胸を詰まらせている。
電車が何度も揺れながら収まることはなく、不安を急き立てる。
「琥珀ちゃん、どうしたの」
目の前から心配そうに自分を見つめる一人の女性は立ち上がり、席を勧めた。
「さぁ、座って」
我に返った琥珀は彼女を止めた。
「お師匠、大丈夫です。どうかご心配なく」
「そうかしら、随分と深刻な顔をしているわ」
清楚な白の洋服に身を包み、下げ髪をする女性は間桐静香。表では翻訳を生業としているが、間桐系呪術の伝承者、つまるところの魔術師である。
「お師匠様は本日お帰りになったのですか」
結局、琥珀が席に着かないため、二人並んで立つほかなかった。
「ええ、冬木の本家からね。蔵硯御爺様も相変わらずだったわ」
「そうですか」
その名を聞いて顔を歪めずにはいられなかった。
「仕方ないわ、血族には抗えない。あなたのように腕が立てば尚更、御爺様の目に留まるわ」
「そうですね」
出そうになった言葉を静は止めた。
「話が変わってしまうけれど、着物の手配任せちゃってごめんなさいね」
「いえ、お世話をするのは好きですから、着物は指定された箪笥に納めておきましたので確認してください」
「そう、私が戻るより早く仕上がったのね、よかったわ」
「それに合わせてお部屋を少し借りさせていただきました」
「構わないわ、弟子の頼みに素直に答えてあげるのも師匠の役目よ、あなたもじきにそうなるわ」
車掌が次の駅名を告げると、琥珀は窓から目的地が近づいていることを確認した。
「それでは学業がございますので、ここで失礼いたします」
「またね」
静香に一礼すると、琥珀は足早に列車を降りていった。
やや時を越して夕刻、御徒町から不忍のほとりを抜けながら、旧友の戸田健吉はそのはつらつとした表情を見せていた。
「なぁ洸、もう少し飲んでいかねぇか」
「さっきも言ったろうケン坊、用事をすっぽかせるほど俺の景気はよかぁねぇんだ」
単純に、しかし焦らずといった雰囲気のある友人を相手に洸は随分と落ち着いていた。
「そうだったか、何だシュウショクナンってやつか、いつまでも落ち着く先を決めないから、天神様に愛想突かされちまってねぇか」
「馬鹿言うんじゃねぇよ、天神様だって今は焦るなっていうだろうさ。なんだって今の俺には雇ってくれそうな楽団が二つもあるんだ、これこそ天神様のお陰だろうよ」
「そいつは本当かい、蕎麦屋見習いのダチが立派な音楽家になるたぁ、自慢してもしきれねぇよ」
「俺も見習いからだぞ」
「構いやしねぇさ、昔俺のことを忘れちまった時はちいせぇガキの身なりで心配しちまったが、もう大丈夫だろうよ」
「泣くなんざ、らしくねぇぜ」
「べらんめぇ、ジロジロ見んな」
日も落ち、ランプ灯が灯されていく、係の男が慣れた手つきで作業を進める。
「それじゃあな、またうちにも遊びに来いよ」
「そうさせてもらうさ、おめぇが嫁さんうまくやっているか見てぇしな」
「言うんじゃねぇ」
「カカカ、日が暮れちまう前に行きな」
戸田と別れると、急ぎ足で学校に向かう。
坂道に差し掛かった時、少女を連れた紳士が洸を呼び止めた。ドイツ訛りのきつい英語が、彼がドイツ人であると気づかせた。
「本郷の小邸宅はどちらかな」
「この先をまっすぐ進めば高台に出ますから、その上に庭付きの邸宅がありますよ」
「ありがとう優しき日本人青年。お礼に君に良いことを教えてあげよう」
「なんです」
「ここはもうじき戦争になるぞ」
「戦争」
紳士は道を急ぐ、だがしばらくの間、彼に従う赤い瞳の少女が見つめていた。
学校に着くころにはすっかり辺りは暗くなっていた。
二階には個人レッスン用の三つの実技室があり、三号の部屋であることを確かめ鍵を開けようとしたが、開くことはなくランプを鍵に当てると、札には向かいの一号実技室用の鍵と書かれていた。
洸は仕方なく向かいの扉を開けた。この部屋にあるピアノも払い下げの品ではあるものの、年季があるためか塗装の剥げが気になる。
隅に置いたランプの灯が、ぽう、ぽうと小さな火を輝かせる。
鞄から二つの楽譜を取り出した。音楽家の先輩が放り出した。ドビュッシーという作曲家の曲だった。同学科の先輩が放り出したのを洸がもらい受けた物だった。彼としては嫌いではないので、演奏中は心が静かな落ち着きを見せていた。
時間はあっという間に過ぎ、片づけを済ましてピアノに鍵を掛けた。
(帰るか)
相変わらず右手の甲にはあの紅い痣が残っている。 灯を頼りに片づけを始めるが、オイルが足りないのかゆっくりと消え始め、部屋を青白い月明かりが射し込んだ。
(早く帰れそうだ)
右胸ポケットに小箱が入っていることを確かめ、革製の鞄を手に取った。
すると、校庭に面する窓から鋭い金属音が響いてきた。
気になって窓によると、校庭には二人の男女が向かい立っていた。周囲にはあからさまに人避けの結界が張られている。
左手には黒い軍服らしきものを着た長髪の女が、身なりには見合わない長巻を手にしている。
対して右手側の男には、黒い胴丸に兜、大袖付けに身を固めて、その槍の穂先を女に向けている。
やや静寂を過ごし、女が切っ先を武者に向けると十数廷もの小銃がその頭上に現れた。
その瞬間、穂先が無数の弾丸を弾き、発砲音が響いた時には、女の間合いへ飛び込んでいた。身代わりになった小銃が次々にはじかれ、やや左からの上段の打ち込みを峰で流し、懐に飛び込もうとする。
しかし、槍柄を用いた素早い叩き上げが長巻の刃を折れ曲がらせ、女は渋々、間を取らざる負えなかった。その隙に飛び込もうとするも、またしても宙を舞う無数の小銃に牽制され動きを封じられた。
互いに気勢を失ったのを良いことに、女は怪しげな笑みを浮かべた。
「最初はセイバーと思ったが、やはりランサーか」
「如何にも、私はランサーだ。だが貴様は何だ。新手のアサシンかそれともバーサーカーか、それに武器にしても装具にしても、なんとも無粋なものだ」
「ふ、無粋なのはお前だランサー、この装具も武器も、この時代の戦いに準じたものだ。よいか、?これは銃だ。この時代では馬を無用のものにし、数だけの敵を小勢で一網打尽にできる代物だ。知らぬとは言わせぬぞ?」
「多くの武者に持たせれば、鎧も軍団の編成も一網打尽にできる。使えるそうだな」
「分かっているではないか、ではあの世の帝への土産に持っていくがよい」
「なるほど、お前はサーヴァントではない。魑魅魍魎の長だ」
「ぬかせ、我が名は第六天魔王・織田信長。サーヴァント・アーチャーでもある。して、貴様は?」
「ランサー、今はそれだけで十分だ」
「カカカ…よかろう!ではランサー改め古強の足軽。よい夢を見させてくれようぞ」
「考え物だ」
聖杯戦争、あの武者はそう言っている。
洸には思い当たる節があった。だが、その名は魔術師の間でも都市伝説としか語られていない事柄であった。
「いけませんね」
洸はとっさに頭を下げると、悪寒とともに頭上を何かが切り裂いた。
(刃だ)
腰が打ちどころの悪さに悲鳴を上げるも、目の前に見えた刃に体は自然と距離を取るべく動いていた。
振り向いた先に月光に白く輝く刀の姿身が見えた。やがてそのひと振りを持つ白手袋をした燕尾服姿の男がはっきり視界に入った。
洸は夢中で実技室を出たが、そこに男の姿はなかった。
「私はここですよ」
刀を持った不気味な男は洸のやや後ろから声を掛けた。いつ移動したのかさえ定かではない。
洸は三号実技室の方へ歩き出した。だが男はしっかりとした足取りで近づいてくる。
胸ポケットを手で探り、立ち止まった。
手のひらほどの小箱から赤と青に輝く二つの宝石をとりだした。
「―――sieden……!」
手から放たれた宝石の弾は輝きながら男へと迫るが、足元から発生した小さな結界がいとも簡単に消し飛ばした。
「そんな」
「ほら、ほら」
洸はさらに三つ、青、黄、緑の宝石を取り出し、
「――――、Sechs Ein Flus,ein Halt……!」
宝石は波状となり光の散弾と化した。
「わかりませんか?」
男は宝石の波にむかって呪術刻印の刻まれた右手をかざした。
「君では私を騙せない
右手から放たれる幾何学文様の式陣は人の背丈ほどまでに広がり、洸に向かって光の矢が走った。
波はかき消され、矢が右足に二つ刺さった。
「そんな、六番も効かないなんて」
「術が使えると感心しましたが、ここまでのようで」
再び近づく男から逃げるべく、右足を引きずりながら強化魔術で鍵を壊し、三号実技室へと入り込んだ。
なるべく見つからぬよう机の死角に入り込むと、赤の宝石をひとつ傷口にあてた。
「Anfang.....!」
とにかく傷ついた足を治すことが先決だと、治療をはじめるが宝石が輝きを失っても、傷口から矢を取り出すことも、傷を塞ぐこともできない。
それどころか痛みが魔力を込めるごとに増していく。汗が目に染みた。
「見つけましたよ」
目の前の机が砕け散ると体が、いつの間にかピアノの足にたたきつけられていた。
机の破片が窓のガラスを砕く。
(散らばる……散らばる?)
目を開けたとき腰を着いたまま足が伸び、箱の宝石は目の前で散らばっていた。
宝石へ手を伸ばすが足が動かない。
「やはり、マスターとなるには不十分ですね。恨みはありませんから、ご容赦のほど」
「許すかよ!この、のびろ!」
やっとのことで手を伸ばし、赤い宝石に手が触れた。
すると、洸の血と宝石を媒介に巨大な魔術陣が赤く、赤く、広がった。
「まさか、これは!?」
たじろぐ男を見て宝石にさらに魔力を込めた。もはや迷っている暇はない。
陣は赤から青の閃光放って実技室を染め上げた。
何処からか霧が二人を包み込む。
霧は青い月の色をそのまま映し出した。その霧の中で新たな人影が立っている。
その人影は男を柄頭で殴り、後ろへ下がると小さく抜刀、水月から右へ突き平突きで腹を斬った。
たじろんだ瞬間に滑り込むように左拳で楽譜の並ぶ棚へと殴り飛ばした。
豪勢に音を立てて背中から突っ込んだ男を、容赦なく破損した高価なガラス戸が襲った。
その光景を呆然と眺めていた洸は、影が丈の短すぎる単衣に朱鞘の大小を差し、浅黄色の羽織を身に纏う、練絹の髪の少女であることに気が付いた。
彼女は洸の目の前に立ち、優しく微笑んだ。
「サーヴァント・セイバー、令呪の契約および召還に応じ参上しました。これよりわが剣は貴方と共にあります。して、あなたが私のマスターですか?」
顔立ちは髪を結ぶ黒いリボンがなければ、女性らしさが抜けてしまうほどの覇気があふれている。
「ま、マスター……俺が……」
思い当たって右手の甲を見ると、菱形文様の赤い刻印が浮かび上がっていた。
噂に聞いたとおりだった。
「この日、この時より、あなたの剣となり戦います。マスター、ご指示を」
セイバーは振り向き、棚の下から起き上がろうとする男に、瞬時に隣の棚を男のほうへとなぎ倒した。
「すごい、あそこまで一瞬で……」
セイバーが急ぐようにと目配りをすると、それに応じて、宝石を二つ持ち、足に当てた。
「Stark―――Groz zwei,,,,Es ist gros Es ist klein......!」
左足を軸に無理やり立ち上がると、逃げようと言っていた。
セイバーは無言で応じ、洸に肩を貸しながら警戒しつつ部屋を出た。だが、あの男はガラス片を払いながら既に廊下に立っていた。
セイバーのつけたであろう傷は、月明かりの中では見つけることはできなかった。
「全く乱暴だ。だが、君がセイバーのマスターとして聖杯戦争に加わるのであれば、君を殺す理由はない。さようなら」
「待て、お前は何者だ」
「私はサーヴァント・キャスター、以後お見知りおきを、榊原洸様」
「俺の名前を」
そしてキャスターは忽然と姿を消した。青い霧もいつの間にか消え去っていた。
セイバーは周囲に注意を払いつつ刀を鞘に戻した。
「すまない、恩に着るよ」
「いえ、当然のこと、それよりも傷の手当てを」
洸を壁にもたれさせながら、腕に巻いていたさらしを足に巻き始めた。強化魔術で無理やり足を動かしたためか、右足は沈黙したまま、時々思い出したように激痛が走る。
奥の階段から足音がする。セイバーは素早く立ち上がり、つばに左親指を押し当てた。
「あの神父、またしてもサーヴァントで候補者狩りをしていたか」
「だがホルスト、生きておるようだぞ」
黒いコートに身を包み、帽子を被る青い瞳の青年がまっすぐ二人の元に近付いていく、そのあまりに流暢な日本語に、彼がドイツ人であると気づくのまでやや時間がかかった。セイバーがホルストの前に躍り出た。
「何者だ」
「僕は味方だ。ただし、キャスターの被害者としての味方だ」
ホルストは何をするでもなくセイバーの脇を過ぎて、洸の前に腰を低くした。
「大丈夫かい」
「どうだろうな、だが俺の魔術では手に負えないことは確かだ。」
洸の右太股に巻かれたさらしに、黒い何かが滲みだしていることに気付いた。
「古典的な呪術だが、少し厄介な代物だ。あと五分したら手遅れだっただろう。君の専門は何だい」
「宝石置換だ」
「そうか、多少の遅延にはなっているはずだ。僕が呪術の根源を摘出しよう。それさえ抜けば君自身で治療できるだろう。」
右太ももの宙に円形陣を描くと、手袋を外して指を一本ずつ同調させる。
「おっとセイバー」
アーチャーは柄頭を抑え込み、セイバーの抜刀を封じた。
「お前ではどうすることもできん。我がマスターの良心に従え」
「知らんな」
「アーチャーの言う通りと信じてほしい。もし、死なせたら僕の首を飛ばせばいいだろう。アーチャー、その手を放してやってくれ」
刀から手が離れたものの、セイバーはいつでも刀を抜ける状態であった。
「君の協力に感謝する」
ホルストのかざした陣から無数の糸が傷口に伸び、さらしを切り裂いて奥に入り込んだ。そして、洸も顔の表情を歪めながら宝石を手にした。
「我、この地の言霊と庇護を持ち、ここに断絶の術式をもって穢れをみそぐ」
宝石の輝きが右脚を包み込んだ。
「満たし、満たされるものなり」
糸は複雑な動きをしながら、少しずつ上へ、上へと引き上げていく、やがて銀色の矢先が二つ姿を現した。
「摘出……!」
ホルストは矢先を洸から引き剥がすと、小く悶えた。
銀色の矢は黒く染まり、やがて石ころほどの塊に変わった。陣を離れた糸が二つの塊を封じ込み、白い塊になると彼の手の上に乗せられた。
そして、傷口も残った糸によって縫合された。
「こんなものだろう。ほら、キャスターが君に撃ち込んだ矢だ」
封印のために糸が巻かれているものの、にじみ出る禍々しい呪いが現代に存在するそれらから逸していることは、洸にも理解することができた。
「これは……ひどいな」
「僕もこうして攻撃を受けた類だ。情けもここから来ていると思ってくれ」
「ありがとう、十分だ。俺の名前は榊原洸だ。覚えておいてくれ」
「名乗る必要はあるのかい?」
「恩人の名前ぐらいは憶えていたいものだろう」
「良識ある日本人だ。僕はホルスト・リヒター・フォン・アインツベルン」
「ホルストか、しっかり覚えたよ」
「さようなら榊原君。次ぎ会う時は戦場だろう、行こうアーチャー」
洸とセイバーに背を向けると、何もなかったように暗闇へと姿を消していった。
「マスター、何か細工でもされませんでしたか」
「心配要らない。彼は傷を治してくれただけだよ。そうだ、出てきた部屋から小物入れと宝石を取ってきてくれないか」
「はい、今すぐに」
運んでもらった宝石で脚の治癒を促し、魔術で歩ける程度に強化を施した。施術を一通り終えて息をつくと、汗を袖で拭った。
セイバーはすぐに新しいさらしを傷口に巻いた。
「すまない」
「いえ、サーヴァントでありながらお役に立てず申し訳ありません。今の私にできるのはこれぐらいですが、せめてもの罪滅ぼしに」
「いいのさ。それにしても君は魔術が使えないのか」
「はい、お恥ずかしい限りで」
急いで階段を駆け上がってきた女性が、驚いた表情で二人を見た。洸にとっては見慣れた顔、この学校で見習いをしながら用務員の仕事をしている、黒田智子がそこに立っていた。
セイバーは落ち着いて立ち上がり、鞘を水平にさせた。
「まさか……洸クンが」
「お前もマスターか」
「まて、刀を抜いてはいけない」
「また、どうしてですか」
智子は何かに気が付いて三号実技室に足を踏み入れた。そしてピアノを見るなり大きなため息をついた。 そこには魔法陣の痕跡を残したピアノがそのままになっていた。
「まさかとは思ったけれど、こんな偶然があるのかしら」
洸はゆっくり立ち上がると、振り向いた智子の視線が突き刺さった。
「キャスターとかいう奴に襲われて、偶然に」
「でしょうね、あなたを責めても仕方ないわ」
智子は肩の力を下ろし、腕を組んだ。
「とにかく一階の用務員室に行きましょう。話はそれからね」
灯りのついた用務員室に二人を入れると、椅子に座るよう促した。
慣れた手つきで暫くコーヒーを準備しながら、智子は無理やり整理する時間を仕立てているのは、先ほどの混乱ぶりから察するに充分であった。
だからと言って、セイバーが刀から手を放す理由にはならない。
「はい、コーヒー。砂糖は好みでよろしくね。セイバーさんも飲むかしら」
洸は疑うことなくカップを受け取り、セイバーはカップに注がれた液体を見つつ、渋々カップを受け取った。
「一つお聞かせ願いたい。あなたはマスターであり、私たちの敵ですか」
「そうね、分かっているなら隠す必要はないわね。ランサー」
ゆらりと部屋の奥にあの黒い武者が姿を現した。その兜の下からは厳しくも凛々しさを感じさせるものがあった。
「なら、敵である相手から茶を受けるなど言語道断です。さぁマスター、その得体のしれぬものを私に」
「失礼ね、それはコーヒーよ。西洋では立派な趣向品よ。それに、私は榊原君とは知り合いなの、あなたも私がマスターであるというだけで結論を下すのはよろしくないわ、それこそマスターの意見を鑑みるべきよ」
「そうだ、この人は一応悪い人じゃない」
「一言余計じゃない榊原君」
「しかしマスター、せめて毒見だけはさせてください」
「ああ、そこまで言うのなら」
セイバーは洸のコーヒーに口をつけると、顔をしかめながらカップを彼に返した。
「ど、毒はないようです。どうぞ」
「西洋では健康を促す薬味をこうして飲む習慣があるわ」
「さっき趣向品と申しましたよね」
「それで結構、話をはじめましょう」
智子はカップを両手に歩き始めた。彼女はまず洸から一通りの経緯を聞き、彼がまったくの偶然でサーヴァントを召喚したことが証明された。
そして、改めて彼女は聖杯戦争の趣旨とルールについて一通り話した。
「大聖杯を召喚する儀式であり、七人のマスターがそれぞれにサーヴァントを引き、ただ一組になるまで戦い続ける。それこそが聖杯戦争」
「そう、元は冬木郡という土地で儀式が行われるのだけど、霊脈に異状が発生したためにアインツベルン家の提案で霊脈が安定した、この帝都で聖杯戦争が行われることになったのよ」
「ドイツの魔術師名家にして聖杯戦争の主導家の一つですね」
「そう、現在はドイツ魔術師協会の会長をするプフェファー・フォン・アインツベルンが当主をしているわ、私個人としては嫌いなのだけどね。ちなみに私も聖杯を主導する遠坂家の人間よ、黒田性は世を忍ぶ仮の名よ」
「そ、そんなことまで敵になるかもしれない人間に話して良いのですか」
微笑むと、カップを置いて椅子にもたれかかった。
「何も知らないより、少しでも当事者であった方が気は楽なのよ。それに、貴方も戦いを通じて色々な事情を知ることになるわ、その時のためにこうして保険を売っておきたいのよ、あなたが少しでもお人よしだと信じてね」
「そうですか」
「ふふふ、そういう顔をしないの、私が遠坂の人間であることも秘密よ」
立ち上がると、引き出しから一枚の紙きれを取り出して素早く鉛筆を走らせた。
「この聖杯戦争はこれで三度目、前回の結果を教訓にして今次戦争を円滑に進めるために、儀式の推移と状況を管理する監督官を置くことが定められているわ。聖堂教会から派遣されてくるから必然的に教会が聖杯戦争の管理本部になっているの、戦争に参加する参加しないかはこれからでも決めることができる。そのためには教会の監督官に直接会う必要があるわ、場所はここに書いてあるわ」
「本郷の…あの教会か」
メモをポケットに納めると押されるように席を立った。
「敵として出会わないことを願います」
「お互いにね」
セイバーが最後に退出していく姿を見守ると、冷めたコーヒーを口にしながら、左ポケットにしまっていた懐中時計を手にした。
「これでよいのかマスター」
「冷たいと思うかしら」
「十分だろう。後は彼らが賢明であることを祈ろう」
「そうね、今は何も起こらないことを祈るわ」
「だが、マスター、あの召喚術式は誰が引いたものなのだ」
「それは…」