Fate/Koha-ace 帝都聖杯奇譚-1920- 作:ひろつかさ(旧・白寅Ⅰ号)
五月二十九日
不忍池から公園裏手を抜ける道に旅館『アーネンエルベ』はある。見た目の西洋風の趣とは正反対の和式の旅館であり、周知のとおり時計塔東京支局が事務所を構えている。
ここの主人はイギリス帰りであり、彼らのお茶の時間を忘れず用意する気配りのある人だった。だが、昨日になって朝食を五人前から二人前に減らすように頼まれた。突然の事であったがいつものようにライ麦パンとふかし芋を加え、二階の彼らに食事を運んだ。
「主人、頼むがカップをもう一つ用意してくれるかな」
リーゼルの補佐、ケレス・バーミニヨンの言葉に驚いた。主人が知らぬ間に、薄汚れた身なりの外人青年が三人目の席に着いていた。彼の前に紅茶を出すと、一階へと降りて行った。
「こんな純和風の宿など時代遅れだ。見た目が古風である分に余計だ。リーゼルも趣味が悪い」
「お前ともあろうものがよく言う。ここは庶民派の料理もよく知っている日本人が商っている、ここ以上に居心地の良い場所もない。それに、切符代もまともに払えず、野宿をしていたのはどこのどなたかな?」
「ケレス、貴様はこうして支局長になったのだ。もっとそのことを誇れ」
「卑しい奴、話をすり替えるな」
ダーニックという二枚目の男は何食わぬ顔で紅茶を飲み干し、ケレスのプレートからパンの一切れをつまんで口に放り込んだ。
ケレスはその行動に唖然とした。
今度はふかし芋に手を伸ばしたところで皿の位置をずらした。互いににらみ合い、ケレスは馬鹿々々しくなって彼に皿を差し出した。
「ありがたくいただこう」
ダーニックの行動はリーゼルが目的としていた、真祖のクローンの破壊とは逆で彼女が持つ、もう一つの聖杯の卵を時計塔が入手することが条件だった。
そうすればルーマニアのユグドレミニア家系は時計塔の幹部に組み入れられる。だがそれは時計塔の講師陣がクローンを無視していることの証明であり、重要なのは聖杯であると言っているようなものだった。
特に戦力の低下は深刻で、今や時計塔日本支局員は補佐で局長となったケレス、彼の弟子のトレール・マンディ、諜報員のアドルフと封印指定のニュー、そして連絡員であるダーニックの五人だけだった。
「だが、聖杯に近づくためにはクスィーを倒さねばならない。ならジャヴェルらのもつ聖杯を奪うのが得策かな」
「だがダーニックよ、御三家とルーラーが黙っておらんよ」
「だからだ。ニューには相打ちでもクスィーを始末してもらう、あのリーゼルが敵わぬ相手なのだ。真祖には真祖で対抗せねばなるまい」
「否定はしない、だが本国の連中らを納得させるにはジャヴェルも殺さねばならん。彼の取り巻きは消耗している。やるなら明後日だな」
「では、紅茶をもう一杯もらおう。私が動いてみよう」
ダーニックはカップを高く掲げながら笑った。
一夜を過ぎ、美穂の傍らを立ち上がった琥珀は、居間で食事をする三人に頷いた。八郎は朝早くから家を出かけていた。
「ちゃんと食べてくれましたよ」
「そいつはよかった」
「まだ悪酔いしてるんですか洸さん」
「ああ、昨日は少し飲みすぎた。父さんほど酒に強くないからね」
「ここずっと戦い続きでしたから、疲れていたんですよ」
「そうだな、今日は夕方から智子さんから話があるそうだ。セイバーと二人で行ってくるよ」
「美穂は私とバーサーカーが見守りますから」
「うん、よろしく頼む」
そこへ出かけていた父が客を伴って戸を開けた。
「おかえりなさい、その方は」
八郎の後ろから帽子を取った西アジア系の男が会釈した。
「はじめまして、私はアトラス院で研究員をしているトラン・ト・ロアです」
彼は家へ上がるなり、美穂のもとに案内され彼女の状態を細かに確認した。指から放たれた波の流れが美穂の頭から足のつま先へ、そしてつま先から彼の手元へと帰ってきた。
「美穂君と言いましたね。時間はかかりますが私の手なら回路を正確な位置に繋ぎ合わせることができる。ただし、治療後は一週間、激痛のなかを耐えねばならない。リスクはあるが、彼女は治せる」
「本当ですかトラン先生」
「ええ、まず治療に三日間、そして回路の自己修復に一週間、完治は三か月だ」
「先生!今すぐにも治療を始めてもらえませんか?」
トランの手を握った洸に対し、首を振った。
「その前に君に全てを伝えなければならない。よろしいか?」
トランは手元の鞄から木箱に入った円盤を取り出した。円盤を青い流れが幾重にも走るのが見えた。
「アクエン・アテン師が残された回路の記憶とストッパーを解除する鍵だ。君はおそらく記憶の一部が解除されている、そして自身の寿命についても知っているはずだ」
「寿命」
琥珀の驚きに、洸は目を背けてしまった。
「トラン先生、それは俺の口から言います。このことを知らないのは家族のなかでは琥珀だけですから」
「そうか、では解除するがいいな?」
円盤を手に置くと、粉々に分解され洸の魔術回路に入り込んでいった。しばしの静止ののち、洸の頬を一筋の涙が流れた。
「母さん、そうだった。俺は母さんを救えなかったんだ」
「だが君にはアクエン先生から授けられたガント〈アポロンの弓〉がある。当世最強の魔術だ、魔法さへ粉砕することができる剣、扱い方は」
「ああ、アクエン先生が教えてくれた。そして先生に誓った。死ぬその日までもこの力を使わないと」
「今は君がなすべきことのために使いなさい」
だが洸は素直にうなずくことができなかった。
「お父様!」
琥珀の求めるような目に八郎は口を開いた。
「洸!もう話していいな、琥珀のためにも」
「はい、ごめんなさい」
「いいんだ、お前の気持ちは痛いほどわかる」
事故の顛末、その事故を起こし、母親を殺し洸の肉体を破壊しつくしたクスィーの存在。そしてクスィーが教会にシスターと称して居座っていること、美穂の体を破壊されたことをすべて話した。そして、洸が命を復活させるために疑似魔術回路を埋め込まれ、その命はもって一年であることを伝えた。
「そんな、なんで、なんで黙っていたんですか!」
琥珀は耐え切れず彼に向かって叫んだ。
洸は静かに口を開いた。
「お前を悲しませたくなかった。せめて最後の日までいつものように生きたかった。それだけだ」
「あなたは勝手だ、美穂ちゃんもお父様も、私なんかよりずっと勝手じゃない!私は家族でしょ?ならもっと、もっと早く教えてほしかった」
洸の背に縋りついた琥珀はあまりに弱弱しく感じられた。
「おねぇ…さま…にぃさま…を…責めない…で…ずっと…ずっと…忘れて…わたし…黙っていた…の…だから…ごめんなさい」
「どうして、どうして…」
洸の背中が少しずつ起き上がり、琥珀の手を握った。
震えていたが、その手は大きく力強かった。
「俺は母さんと美穂の仇を取って、最後まで生き抜いて見せる。まだ何も終わっていない」
「いいんだな!洸!死ぬかもしれんのだぞ!」
八郎は顔を紅潮させながら叫び問う。
洸は父に顔を向け静かに頷いた。
「死ぬはずだった命はこうして生き永らえた。最後まで自分の意志で、男を貫きたいです」
「馬鹿者…」
彼は既に腰を抜かしていた青年ではない。だが大人ではない。悲壮な戦いの宿命に挑んだ自分自身に重なった。
セイバーは違うと思った。
これは彼との誓いの果てに先立たれるような気がした。病床の中、仲間の死を感じていたが、それを信じずに手紙を出し続けた自身の姿が重なった。
その手元には黒猫がいる。
泣き声に驚き、庭先を振り返ると一匹の黒猫がいた。
「どうしたセイバー」
バーサーカーが振り返ると、黒猫は背中を向けて庭から消えていった。
「いえ、何でもありません」
法喜は椅子に腰かけながら目の前に立つ息子の宗一郎に目を向けた。
「榊原洸の覚醒、聖杯の複製作業の完了、間桐との妥協と提案の了承。ついにこの時が来たのだな」
「はい、父上」
ここは本郷の遠坂邸、庭先は半壊したままだが結界は決戦の日と比べることのできない七重の迷宮結界が張られていた。何人も敵を通さない遠坂の砦である。
「間桐は彼女が身ごもれば聖杯を生み出せると喜んでいた。我々はシスターに人になる方法を伝授した。では我々は何を得るのだろうな」
「それぞれの結果です。結果だけが遠坂の夢を叶える器であり、満たされるべき祝い酒」
「祝い酒、まさしくその通りだ。これが完遂の暁にはお前が智子を孕ませたことを黙認してやる」
「…!」
「気づかぬと思ったか?まぁ智子は養女に過ぎない、遠坂の血を濃く残せるなら一族にとっては本望。そうなのだろう」
「さすがは父上にございます」
「ところで榊原洸はそろそろかな」
「ええ、智子が案内しなければここにはたどり着けませんから」
「へぇ、これで厳重なのですか」
二人が声の先に振り向くと、窓には長い金髪に黄金の瞳を輝かせるクスィーが腰かけていた。
「貴様っ!」
その瞬間、法喜の首は千切れ飛び、扉を開けた智子の足元に転がった。衣服に飛び散った血を眺めながら首のない父の体に目を向けた。
「逃げろぉ智子!」
宗一郎の胸を腕が貫き、即座に心臓を握りつぶした。
二人とも実力のある魔術師であり、即応力も高い。
しかし、智子の目の前で何をする間もなく死んだ。
クスィーは真祖のクローン、しかも激しい劣化を抱えている吸血鬼もどき、だがそれでも実力差は歴然であった。
「おにぃさま…」
「これで邪魔が二人も消えた。貴女もこれから死ぬのよ」
黒鍵を引き出し、智子に向かって構えた。
「マスター!」
その霞のような存在はクスィーに突きかかり、石突で腹を跳ね上げ距離を取った。その姿は少しずつ実体となり、既に消えたはずのランサーが姿を現した。
「わが能力、報身霊魂はマスターが令呪を持ち続ける限り、マスターの魔力に紛れ込んで守護する能力、ただし一回しか使えず、令呪を全消費する最後の宝具だ」
だが彼が躍り出た瞬間を狙って黒鍵が四本、鎧を貫通し急所に達していた。
「たかがサーヴァント、魔術師は言語道断」
ランサーの兜を持ち上げて壁に叩きつけると、凶暴な歯をむき出したクスィーはランサーの血を吸い上げた。みるみるうちに皺がれるランサーは力を振り絞って頭に短刀を突きつけた。しかしそこまでだった。
ランサーの体は灰となって消し飛んでしまった。
「さて、おやつは頂きましたよ。智子お嬢様」
「いや、時間はできた!」
赤黒い拳がクスィーの左ほほを殴り、その衝撃で壁へと弾き飛ばした。そして間髪入れずガントが放たれ、彼女の体を縛り付けた。
「洸くん!」
紅い電を纏わせ、体をほとばしる回路は黄金の輝きを放っている。両手はガントに包まれ、対象を絶対逃さない〈アポロンの弓〉の覚醒状態である。
「ふふふ、私ひとりじゃないわ」
部屋の影から刃を走らせた岡田以蔵ことアサシンは即座に青い影によってはじき出された。
「おあいにく様、俺も一人じゃない」
セイバーは無行の形のままアサシンを睨んだ。
立ち上がったクスィーはヴェールを脱ぐようにガントを振り払った。
「これで私の大団円の物語が完遂される。しかし、セイバーはイレギュラーですね。道化師といったところでしょうね」
「何が言いたい」
「何が、とお尋ねですか?これは運命の物語、血脈は長く長く伸びわたり、それがいずれかはある人々の物語に変わる。私はその演出家なのです」
「ふん、お前が何を考えているのかなんて関係ない。俺は必ず貴様を殺して見せる」
「では、教会でお待ちしております。今日はそこのお嬢さんがいると邪魔ですからねぇ、それでは」
窓から飛び去って行った二人を追わず、洸は呆然とする智子の傍についた。
「見て、これがお父様よ」
父の首を抱えながら、兄の遺骸の元に寄った。
「これじゃあ、あんまりよ」
泣きながら笑う智子の声は嗚咽に変わって、部屋全体に響き渡った。智子は自身の無力を感じずにはいられなかった。