Fate/Koha-ace 帝都聖杯奇譚-1920-   作:ひろつかさ(旧・白寅Ⅰ号)

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第二話 谷中(二)

 

 

 裏門に向かう途中、あの若木の前で立ち止まった。セイバーは不思議に思いながらも、天に伸びようとする若木の枝を見上げた。

「初夏ですか」

「暦では、もう梅雨の季節になるよ」

「若木は力強く育て行きます。あなたが杖を突くころには立派な育っているでしょう」

「そのようだ。ところでセイバー、俺はまだ」

「まだ戦いに身を投じるべきか迷っているのですね。私個人として申したいことはございますが、今はあなたのサーヴァントです。何があろうとあなたの剣となり盾となります」

「君にとって、良い答えにはならないかもしれないぞ」

「その時はその時で良いでしょう」

「いいのかい」

「それが私というサーヴァントですから」

「分かった、行こう」

 

 

 本郷には帝大と一高が肩を並べ、それに対するように西方町と本郷町の高低差が、この土地の人々にはっきりと『階級』を意識させている。

 グラツィーノ聖教会は、本郷の『山の手』である西方町に、そこそこの敷地を持っている教会であり、バンカラとは意識を反する書生たちが足しげく通う教会でもある。そもそも書生たちには下町である森川町の方が時代の先を感じえたのかもしれない。

 

 

既に七時を回り、月明かりの下で周辺とは異質な建物と前庭が、一切の気配を奪い去り、異様な静けさが人を寄せ付けることを頑なに拒んでいるようであった。

「外から中の状況が分からないようにしてあるな」

 セイバーはどこから取り出したのか、大小を腰に差しゆっくりと洸の前に立った。

「どうした」

「どうもおかしいのです。血の匂いがする」

振り向いたセイバーの瞳は、ここから進むべきではないと訴えていた。

「蛇の道は蛇とも言う、行こう」

「…はい」

前庭を抜け、正面の扉をゆっくり開ける。セイバーはいつでも洸を後ろに投げ飛ばせる位置に着いていた。

「安倍晴嵐神父様はいらっしゃいますか」

 しかし返事がない。智子のメモには夜中はいつ、いかなる時でも一晩中礼拝堂に居ると書いてある。

 だが神父の姿は見当たらない。ステンドグラス越しに照らされた祭壇から、入り口に向かって何かが流れているのが見えた。

「血だ」

 洸は祭壇に目を凝らすと二つの影がぼんやりと姿を見せた。神父と思しき体が半身を残して倒れている。そして灰色の装いに身を包んだ黒髪の少女が、長杖を手にしながらその遺体を見下している。少女は当たり前のように笑顔を洸たちに向けた。

「君たちも神父様に用事かい」

 既に鯉口を切っていたセイバーが洸を守るように立ち塞がった。

「あいにくだが、僕が来た頃には下半身も命もなくなっていたよ」

「お前がやったのだろう」

「さぁ、どうなのだろうね。私にはさっぱり見当がつかないよ、ところでそこの剣を持ったあなたはサーヴァントではなくって?私もサーヴァントなの」

 灰色の少女は軽快な足取りで中央に歩みを進めた。

「死んでくれない?」

 左手にぶら下がっていた長杖が突如として伸び、セイバーは反射的に洸を座席の中へ跳ね飛ばした。同時に棟が激しく叩かれ、柄が怪しげな音を立てた。セイバーは落ち着きながらハバキと鍔で長杖を押さえつけた。

座席の後ろから顔を出した洸は小物入れから宝石を一つ取り出し、宝石ごと魔力を液化、結界が灰色の少女に走った途端、術式が彼女の目の前で弾き飛ばされた。結界が杖によって止められていた。

「君はセイバーかな、マスターは魔術師らしくこそこそするのが好きらしいね」

「セイバー、あいつは自分の魔力で俺の攻撃を封じた、あいつはサーヴァントじゃない」

顔を出した洸が少女の嘲るような微笑みを凝視した。

「それでも私はサーヴァントだ。仮に名前を名乗るならシャリア・コーデ、よろしく」

 セイバーはシャリアの言葉を意に返すこともせず、途端に近間へと飛び込んだ。長杖が反射的に伸び、激しい伸縮を繰り返しながらセイバーの態勢を崩しにかかった。だが、それがどうした。

転びそうなほどに低い下段から、丁寧な足さばきで切っ先を首に目掛けて走らせる。危険を感じたシャリアが杖の伸縮を止め、突きを上方に受け流した。その瞬間、空いた腹を殴り、祭壇の方へと吹き飛ばした。

シャリアの断末魔が教会内に小さく響いた。

「サーヴァントなら殺す。そうだろう」

「ふ、ふざけるなよ!」

 素早く立ち上がった少女は、自身の身丈ほどの長さに杖を整えて、杖と体を回転させながらセイバーとの間合いを詰める。

セイバーは下げ緒を解き、刀で横からの打撃を下方に誘導してから鯉口あたりで杖を抑えた。思わぬ方向に流されたシャリアの首を切っ先が舐めるように走った。杖を振りほどき、セイバーに蹴りを加えると逃げるように後方に退き、間合いを見計った。

首からは一直線の傷口から血が流れ出ていた。

「小細工ばかり…」

シャリアの顔から余裕が消え、殺意をむき出した目がセイバーを捉え、小刻みに揺れている。

「小細工か、私にはその小細工ができる身体しかないのでな、お前のように大層な奇術を見せられても小銭くらいしか投げてやれんぞ」

 その時、彼の目にセイバーに関するあらゆる能力が情報として浮かび上がった。これもマスターに与えられた権限であることは理解できるが、それよりもセイバーには大よそ魔術的な要素を何一つ持ち合わせてはいない。彼女にあるのはただ一つ、剣術のみであった。

「奇跡を持たない英雄、それは何人にも今だ触れ得ざる存在。そんなものは英雄ではないね」

「だが私はサーヴァントだ」

 表情を一つ崩さないセイバーは、やや左寄りの中段に構えた。

 シャリアの命脈を断つ態勢に入ったことは洸にもはっきりと分かった。

「でもね、まだとっておきがあるんだ」

 やや杖を隠すような体制となり、右手の平をセイバーの目線に当てた。そして、一歩踏み込まれる瞬間、凄まじい魔力が洸に悪寒として走り抜けた。

「セイバーっ」

「-----如来五輪塔」

 五つの高速の打撃にセイバーは逃げきれず、床と教会の出入り口ごと衝撃波の中に吹き飛ばされた。

「セイバーは」

土煙の間から、玄関跡に立つセイバーの姿を認めた。だが、刀は大きく折れ曲がり、頭から血を流していた。

「嘘、あれを耐えたの…ん」

セイバーは突然咳き込み、膝を突いてしまった。

 そのあまりに激しい咳き込み、そして口元から滴り落ちる血がシャリアに自身の勝利を確信させた。

「勝負はついたみたいだね」

反撃のできないセイバーを見つめながら、洸は自分が何をすべきか考えを走らせた。だが、それは恐怖と焦りから生じるものであって、おおよそ考えと言える考えは浮かんでこなかった。右手に握られた宝石が汗でしっとりと濡れる。

宝石は洸の腕に存在する魔術回路に反応し、魔力が腕から全身に逆流した。洸の頭に断片的な記憶が封じられていた回路とともに目覚め始める。

(君が…要…と…時…使…なさ…い…た…し)

洸は立ち上がると、回路の使い方が雪崩のように蘇り、右手をシャリアに向かって構えた。そして、回路を通じて赤色の球体が少女に向かって射出された。

シャリアは反射的に避けようとしたが、球体の引く赤い尾が彼女の体に絡みつき、杖を持つ腕の神経を焼き切った。

「うわぁぁあぁぁぁあぁあぁぁあぁ、う、うう、ああああああ!」

 そのあまりに悲痛な叫びが教会内に何度も反復した。赤く焼き裂かれた手を押さえながら洸を睨んだ。

「付け上がりやがって!」

シャリアは羽状の飛行体を手元から呼び出すと、それに飛び移って教会から逃げ去っていった。あまりにも鮮やかな逃げ際であったが、洸はセイバーのことしか考えられなかった。

「セイバー…セイバー!」

彼女の背中を支えると、先ほどまで力強く戦っていた体があまりにもひ弱に感じてしまった。

「マ、マスター、すみません、私の不手際でした」

「今は喋るんじゃない、俺の手当てが終わるまで大人しくしていてくれよ。だが、これでは何もかも分からず仕舞いだな」

呆れた、そう言わんばかりに小さな笑みを浮かべた。

「どうやら、無事なようですね」

 反射的に起立したセイバーはすぐによろめき、洸がその背中を支えてやっと前に目をこらせた。

そこにはシスター服を着た青い髪の女性が敵意のない、穏やかな表情で二人を見つめていた。

「私は敵ではありません。私は聖杯戦争のルールを統べるべく召喚されたサーヴァント・ルーラーです」

「ルーラーなんて、聖杯から聞かされていませんよ」

セイバーはかすれる声を無理に張り上げながら続けた。

「サーヴァントはセイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカーの七騎で成立するはずだ。ルーラーの必要がどこにあるのだ?」

ルーラーは教会の惨状に目を走らせながら、二人の元へと歩みを進めた。

「そう、私は本来この聖杯戦争には必要ではなかった存在。しかし私の召喚は聖杯がこの儀式の律を乱し、書き換えようとしているその事実を裁定するために、主人を持たぬサーヴァントとして聖杯戦争に呼ばれる」

「つまり、聖杯戦争にルーラーが必要な事態が起きているんだな」

「そうです。あなたは」

「サーヴァントセイバーのマスター、榊原洸だ」

「マスターっ…」

「では、あなたがサーヴァント『セイバー』ね。疑似英霊を相手にして勝利を収めたのね」

「疑似英霊…?」

洸はその言葉に思わずルーラーへ問い返した。

「疑似英霊、サーヴァントらしき存在です。彼らは聖杯の理から外れた存在、生身の人間を媒介に英霊を召喚することから人造英霊なんて呼ばれ方もしています。ある人間が聖杯戦争を意のままに動かすために作り出された存在です」

「彼らということは、あのシャリアという女の他にも疑似英霊がいるのか」

「ええ、シャリアはランサークラスの疑似英霊。あなたがこうしてセイバーとともに教会を訪れるまで、私は彼らとの戦いを続けてきました。私のサーヴァントとしての能力、真名看破が効かない相手となれば、私が召喚されることも彼らの主人からしたら想定済みだったのでしょうね」

 セイバーは眉を顰め、腰の長脇差を抜こうとした。

「私の名前を知ってよいのはマスターだけだ」

「私にはマスターは居ませんよ、言うなれば聖杯がマスターです。目的が達せられた時、聖杯戦争から排除される。その時まで疑似英霊を倒す戦いに協力していただけませんか?見返りは勿論あります。どうでしょう」

「待ってくれルーラー、あなたは俺が聖杯戦争に巻き込まれただけというのは分かるだろう」

「でも、ここまでセイバーさんを連れて来ましたよね。心配は不要です」

「俺は、まだ聖杯戦争に納得していない。だが、生き抜くためになら、貴方に協力する意思はある」

「マスター、それは本気ですか」

「うまい話だが、お互い手を借りたいのは山々だと思うぞ。もう避けられないらしいしな」

「そうですか、ではマスターの意思に従います」

「榊原さん…でしたね。良いサーヴァントを引き当てましたね」

ルーラーは二人に背を向けると、半壊した玄関に向かって手をかざした。

唱詠も、媒介となる魔術道具もなしに、扉や壁の残骸はそっくり元の位置に戻り、教会は僅か数十秒で元の姿を取り戻した。彼女はセイバーを治療する洸の傍らを通り過ぎ、祭壇下に散らばる神父の遺体を見下げた。

「聖杯戦争は今回で三度目と、おおかた遠坂智子から聞いているでしょうけれども、聖杯は私、つまりルーラーを召喚する前にある程度の儀式としてのルールを定めた。そして、ルールを定めたのが聖杯御三家と呼ばれる遠坂、マキリ、アインツベルン。今回、このいずれかの家が疑似英霊を操っていることは確からしい。現在、そうでないことが分かっているのはマキリ家だけよ」

「その根拠は」

「マキリ、つまり間桐家はある事情で聖杯戦争を巡る争点から外れているのよ」

「それも俺たちが協力する要因の一つか」

「ええ、私に協力してくれるかで言えば、間桐家の一部の人間が多少なりとも良いと判断したのよ、それが原因で大勢を一人で相手にするという重荷をせ負っているのだけれどもね」

「ルーラーさん、俺は聖杯に望むことはない。だが、死にたくない。それだけだ」

「そうですか、でもそれも一つの望みではありませんか?その望みに私は微力ながら力を貸すことができます。もっとも切羽詰まっているのは私の方ですが」

「…いいでしょう。あなたに協力することが、それ相応であることを願います」

「ええ、それが良いでしょう」

傷を癒してもらったセイバーは洸に支えられながらゆっくりと立ち上がった。そしてルーラーに殺意を帯びた目を向けた。

「ルーラー、私はあなたを信用したわけではない。もしもの時は覚悟しておけ」

「…ええ、受けて立ちます」

 

 

三人が教会から出ると、正門前に一人の女性が待っていた。

「本当に私は何もしなくてよかったのね」

「二人と話をするだけなら、あなたの力を使わずに済みますからね」

黒い髪を一つに結んでいる清楚な女性は、洸とセイバーに優しく微笑んだ。

「榊原洸君だったわね。はじめまして、私は間桐静香。本来なら間桐家での聖杯戦争を傍観する立場なのだけれど、事情があってそこのルーラーと協力しているのよ。さて、これからどうするのかしら、家には琥珀ちゃんが待っているのよ」

「え、なぜ貴女が琥珀の事を知っているんだ」

「あの子は本来、間桐の家系に属する者、だから私が魔術を教えているのよ」

「琥珀が立派な先生と言っていたのは、貴女のことだったのか」

「そう、立派なのね。ふふふ、私にいい考えがあるの聞いてくれる?」

 

 

 

 

琥珀は寝間着に着替え、ちゃぶ台前に座り、頬杖を突いていた。時刻は九時を過ぎていた。

「やっぱり買いに行ったのではありませんか、だって男ですよ。友人の付き合いで行かざる負えない時もあるでしょう」

美穂は盆に急須と湯呑を二つ載せて、琥珀の正面に座った。

「お願い、買うとか買わないとか聞かせないで」

ため息つくと、二つの湯呑に熱い茶を注ぎ、琥珀の前に差し出した。

「冗談ですよ、お茶でも飲んで落ち着いてください」

「そうよね、リードできない男なんてかっこ悪いものね。洸さんは修行に行ったのだと納得するわ」

「いや、冗談ですよ。冗談」

「分かっているわ、ちょっと気晴らししただけ」

「まったく、琥珀姉はたくましいなぁ」

「褒めても何も出ないわよ」

「褒めたら、ちゃんと嫁に行きますか」

「…ごめんなさい」

玄関が開く音がすると同時に琥珀は飛ぶように玄関に向かっていった。美穂はその一瞬の光景を見ながら茶を一口飲んだ。

「ただいま」

「お帰りなさい」

そこには洸と師である静香、それに見知らぬ女性が立っていた。

「洸さん、なぜお師匠様がいるのですか」

「こんばんは、琥珀ちゃん」

「いやな、居酒屋で戸田と話していたら、そこに静香さんが声を掛けてきて、琥珀の師匠だっていうものだから話に花が咲いて、その時、静香さんから一つ相談を受けたんだ」

「相談とは、どのようなことですか」

「ええ、私の旧知の友人から頼みがあってね。その子は友人の妹で、東京に勉強のために来たのだけど、下宿先が見つかるまで厄介になりたいそうなの、でも、今自宅の方が人を入れられる状況じゃないから、しばらくあなたのところに泊まらせてあげたいの」

「俺は快諾したんだ。どうだろうか」

「え、ええ、洸さんが良いとおっしゃるのなら」

「決まりね、さぁ市谷さん」

前に出るとセイバーは琥珀に一礼した。

「初めまして、市谷トキと申します。歳は十をとって九つとなります。どうぞよろしくお願いします」

「はい、私は古田琥珀です。よろしくね」

セイバーの雰囲気が気に入ったのか、琥珀はセイバーの手を優しく握った。

「さぁ市谷さん、そう固まらずに上がって頂戴」

「良かったわね、トキさん」

「ありがとうございました、静香さん」

「いいのよ、それじゃあ私は電車の時間があるから、あなた達に任せるわ」

「そこまで見送っていきますよ」

彼女を見送るために、洸と琥珀は静香の後についていった。

残されたセイバーを美穂が静かに手招きした。

 

お茶を入れなおし、セイバーに一杯の茶を差し出した。

「美穂さん、でよろしいのですよね」

「はい、どうしました」

「美穂さんは日本人ではないのですね」

「ええ、英国生まれよ」

「エゲレス、ですね」

帰ってきた言葉に思わず笑ってしまった。

「何がおかしいのですか」

「いや、あのね、今時ブリテンを英吉利なんて呼ぶ人いないものだから」

「で、でも、エゲレス生まれのあなたには通じましたよ」

「あら、ごめんなさい。お父様が古い人で三年間もエゲレスって呼んでいたからおかしくってね。そんな私も、日本に居た時間が長いもの、この家の養子になってもう十年になるわ」

幼いながらも確かな言葉遣いを見せ、セイバーは心を和ませた。

「ところで、市谷さんは剣術をなさるのですか、お荷物の中に刀袋がございましいたから、もしかしたらと思いまして」

「はい、幼いころから男同然に育てられてきましたから、早くに亡くなった父の意思を次いでずっと剣術を習ってきました。東京に来たのは剣術を勉強するためでもあります」

刀袋を手にすると、そこから一振りの大刀が姿を現した。

深い朱色の鞘に、花紋が彫金された鞘尻と背金の金具が取り付けられ、立身出世を示す糸巻鍔に、黒染めの柄、柄頭には単調ながら頑丈なものが用いられ、木瓜紋の銀に輝く目貫が頑強さと素朴さを際立たせている。

「この一振りは父と姉から送られた大事な一振りです」

するとセイバーは立ち上がり、周囲に睨みを効かせた。

「どうしたのすか、そんな怖い顔をして」

とっさに我に返り、何でもないと言いながら元の場所に座った。

「ちょっとお侍のように動いてみました」

美穂に対して笑顔で受け答えをしながら、屋根上から発せられる気配に警戒心を立て続けた。

 

「ここまででいいわ、今日はありがとうね」

「はい、どうぞお元気で」

暗闇の中を街灯がほうほうと道を照らす。いつのまにか駅の方へ、静香は姿を消した。

洸は右手のサラシを隠すように右ポケットに手を突っ込んだ。

「洸さん」

琥珀が彼の顔をそっと覗き込んだ。

「どうかなさいましたか」

心配そうに自分を見つめる琥珀に、彼は心を落ち着かせたのか、先ほどまでの焦りはなくなっていた。

「いや、何でもない。戻ろうか」

「はい」

二人は肩を並べながら家の方へ歩き出した。

「ねぇ洸さん」

「なんだ」

「何か一つ願いが叶うとしたら、何を願いますか」

「ん、ちょっとさっきまで考えていたんだ」

「なんですか、私にだけ教えてください」

「本当にささいな願いだぞ」

「かまいませんよ」

洸は左手で背首をさすると、琥珀を何度か見て、まっすぐ目を向けた。

「これから一緒に人生を歩んでくれる嫁さんが欲しい…願いだ」

「お嫁さん…ですか」

琥珀は頬を赤く染めて、洸に顔が見えぬよう少し歩くペースを落とした。

「は、早く戻りましょう。市谷さんの泊まるお部屋を用意しなくちゃいけないから」

「そうだな、少し急ごう」

 

 

 


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