Fate/Koha-ace 帝都聖杯奇譚-1920- 作:ひろつかさ(旧・白寅Ⅰ号)
五月二十二日
まだ青白い空を見るべく縁側の戸を開けると、あのおとしやかな杜若の花が咲いていた。おもわずあくびが出た。
「おはようございます、洸さん」
落ち着きそのもののようなセイバーが彼の傍らに立った。
「ん、おはよう市谷さん」
「ところで、庭先をお借りしてもよろしいでしょうか」
「別に構わないが…稽古かい?」
「はい」
縁側から琥珀のものと思しき下駄を履くと、庭のやや広い場所に立ち、腰に朱鞘の大刀を腰帯に差して、下げ緒を結びつけた。姿勢を整えると、音もなく抜刀。一歩踏み込んで横一文字に空を斬った。そして、幾つかの抜刀形と基本形の動作を確認した。
セイバーは昨晩から眠りに着くことなく、廊下側の襖前でじっと座っていた。
左手側には刀を傍らに置き、屋根上から今だ感じる気配に警戒していた。そして、その相手を確かめるために庭先に立ったが、その姿を確認するには至らない。再び納刀すると、胸がかき回される感覚に、激しく咳き込んだ。
「大丈夫か!?」
縁側からすかさず庭先に出た洸を止めた。
「大丈夫です。少しむせただけです」
真名を知っていた洸はその名前の英雄を知らなかった。それどころかセイバーのスキルには持病という、あまりにサーヴァントとして不安要素のあるスキルを有している。しかし、その持病の全容を彼女が喋ることはなかった。
昨夜の洸自身が彼女を治療したことで、多少なりともリスクが下がったと信じるしかなかった。
下げ緒を解くとゆっくりと立ち上がり、気配の感じる屋根を睨みつけた。だが反応はなかった。
「先に中に上がっています」
「ああ」
彼女の言う通り、魔力と言える能力やそれらしき能力さえも一切感じられなかった。
ただ、彼女がサーヴァントとして、常人ならざる実力を秘めていることははっきりしている。
琥珀はゆっくり体を起こし、当たり前のように布団の片づけに入ると、どこからか声がかかる。
〔お目覚めのようだな〕
〔おはよう、バーサーカー〕
浅いあくびをついた。
〔ところで一つ報告がある〕
〔何ぃ?〕
〔市谷とかいう奴、サーヴァントだぞ〕
ぱっと目が覚めたのか、布団を畳む手が止まった。
〔あの優男の右手に巻かれたサラシ、気にならなかったのか?あの女、セイバーと踏んだが大当たりだった。もう俺が屋根に居ることを見破りやがったしな〕
〔……〕
彼女は手を動かし始めた。
〔ただ、あのセイバーから魔力と言えるものがまるで感じられない。もしかしたらやれるかもしれんぞ?〕
布団をひとまとめにすると、まだ寝ている美穂を横目に着替え始めた。
〔わかっているわ、策を練りましょう〕
茶に掛衿のシンプルな紬に身を包み、赤の帯をリボンのように結ぶと、部屋を出て割烹着を着け、廊下に出て台所からの裏口に出た。マッチで釜土に火をつけ、薪をいくつか継ぎ足した。用意していた食材を確かめると、米をといで水を張り、釜土に火が通るよう息を吹きかけた。
〔ところでそれ以外に何かあったかしら〕
〔いいや、昨夜は静かだったよ。もっともこの辺りだけの話だがな〕
〔引き続き監視を頼むわ〕
〔諒解、しかしあのセイバー、ムキになって一晩中起きている必要もなかったのに、庭先に出てきたと思ったら殺気まで叩き込んできやがった。あまり心地よくはなかったな〕
「琥珀姉、何か手伝うことはありますか」
自分が美穂を相手に適当な受け答えをしていたことを恥じた。
「うん、ありがとうね。でも今日はゆっくりして頂戴」
「わかりました、居間で待っています」
美穂が台所を去ってから一息つくと、釜土の火が少しずつ強まっていった。
〔大丈夫、私が何としても二人をこの儀式から抜けさせる〕
〔それでいいのか〕
〔何が言いたいの〕
〔良い協力者がいないと、俺たちが先にお陀仏だぜ〕
〔冗談でしょ…?〕
茶の間に入ると、美穂の目の前に人形のようなセイバーが座っている。昨晩、琥珀の出した桜色の普段着に、小豆色の袴を履き、髪を結ぶ黒いリボンがとても愛らしく見えた。
「おはようございます、市谷さん」
「おはようございます、美穂さん」
セイバーからしてみれば、赤を基調とした洋服姿の方がよっぽどハイカラに見えるだろう。
「洸兄さまはどちらに」
「何やら二階の方で準備しておられるようです」
「俺ならここにいるぞ」
そう言いながら茶の間に入ってきた。
「おはようございます洸さん」
「おはよう美穂、ところで市谷さん。今日は三人を連れて浅草見物と洒落こむのだが、どうかな?」
「浅草ですか、ぜひ」
「よし、決まりだな」
琥珀も調理の間をぬってお茶を持ってきた。
「それでもよろしいのですか、昨晩来たばかりの居候が」
「居候か、ウチの屋根の下で一晩過ごせば家族と違わんだろう。居候なら尚更、ウチの子さ」
「そうですか、なら下宿代はよろしいですね」
「ん、それは考え物だな」
「冗談ですよ」
「ははは、こりゃあかなわん。よし、朝飯を食べてから頃合いを見て出かけるとしようか」
「はい」
琥珀はそそくさと台所に戻っていき、洸も茶を一杯飲むと、出かける準備のためにそそくさと二階の自室に戻っていた。
「食べるのはお好きですか、市谷さん」
「ええ、勿論です。食べ過ぎてしまうのが玉に傷です」
銀座七丁目はこれより先の名前、この頃は竹川丁がこの街の名称であり、銀座の中心よりも新橋の正面となる場所であった。
『ヱビスビール』の看板が立てられたレンガ造りの洋風建築が、土蔵造りの軒並みに紛れている。昼前の開いたばかりの店には、女給が暇を持て余して閑談を続けている。
その店に似合わしい姿で入ってきたクレメンス青年は、男くさい店内に不釣り合いな女性が一角に座っていることに気が付いた。青年の後ろを赤いハイカラな着物を着る黒髪の少女が続いた。
「ご一緒してよろしいかな」
「ええ、もちろん」
ジョッキの三分の二を飲み、プレートを突いていただろうフォークから手を放すと。黒田智子は座ったまま彼を迎えた。
「改めまして、私の名前は黒田智子。あなたがホルスト・リヒター・フォン・アインツベルンね」
「ホルストだけで結構だ。黒田さん」
「それなら私も智子でいいわ、ここなら種も仕掛けもないしね」
座ると、卓上に置かれた書物が遮音の術式を敷いていることに気が付いた。
「遠坂らしいやり口だな」
「まぁそう言わずに、ね。そういうあなたも身内から追われる立場ではなくって」
「知っていたか」
女給が注文を訪ねると、智子が彼に代わってビールとプレートを注文した。
「今日は黒ビールの日なの」
「黒ビールは好物だ、問題ない」
「さて昨夜はランサーが疑似と思しきアサシンを追い払ってくれなければ、セイバーが召喚されることはなかったわ」
「違うな、既に協会員は召喚の事実を知っていた。安倍の殺害も同様だ」
「そう、以外ね」
ビール、それにアイスバインとソーセージ、そしてポテトフライの乗ったプレートがホルストの前に出された。彼はジョッキを手に取り、あっという間に四分の一を飲んだ。
そしてソーセージの一切れを口に運んだ。
「さっそく本題に入るのだけど、貴方は父親のジャヴェルとは仲が悪いそうね」
「質問が本題か」
酔いを感じさせないホルストの豪胆さに押され、彼女もビールを一口飲んだ。
「いいわ、この聖杯戦争。いや、現在ヨーロッパで起きている英国魔術協会『時計塔』と独国魔術師協会の決裂状態と抗争、それが一個人の復讐に変わりつつある。魔術師協会会長、ジャヴェル・プフェファー・フォン・アインツベルン、彼も御三家の一角であるように、聖杯を手に入れようとしている。その彼が聖杯戦争のルールを改定し、あまつや儀式の無効化に動いている。私は三家の合意でなされる儀式として、私意による組織の介入を阻止したいの」
「だが、ジャヴェルを止めるだけがあんたの目的じゃないだろ」
秋葉はジョッキを置くと、ホルストに鋭い視線を向けた。
「あなたこそ父親をどうしたいの」
「ふ、俺はその父親の手駒だぞ、今までも、これからもだろうな。だが、誰かが旗手を求めているなら、旗手になる用意はある」
智子はゆっくりと頷いた。
「御三家の裏切り者を消したい。それが私の意思であり、遠坂の総意よ」
クレメンスも頷き、ジョッキのビールを飲み干した。
「悪いが、今は協力することはできない。あちらが俺の意思を飲んでくれるなら、そちらを選ぶだろう。もし必要がないと判断されれば、もう一度あなたを訪ねるとしよう」
「つまり協力する確証はないと?」
「そういうことだ。だが、あなたが昨日の敵に声を掛けたことは、間違いではないかもしれんぞ」
少女になったアーチャーにプレートの料理が食べつくされていたことに気が付くと、ホルストは席を立ち、一圓札を卓上に置いて出口へと向かっていった。アーチャーもその後に続いた。
その背中を見守りながら、時計に目をやると既に正午に近付きつつあり、彼女も急いでビールを飲み干した。
「信じたくないのはわかるわ、でもそれが人の業でしょうに」
一九一九年という年は、前年度から第一次世界大戦の停戦を契機とした戦後恐慌に襲われ、銀行の取り付け騒ぎや中枢である国会の混乱、続いてメーデーや労働争議といった慌しい日々が続いていた。
特に二十日前に行われた上野公園から始まったメーデーは、群衆と警官が衝突する騒ぎにまで発展した。このような国内、しいては東京の様相であっても、娯楽を求める心は浅草から客足を止めるには至らなかった。
浅草に乞食が増えたところで、人の流れは消えることもなく、むしろ気運やら不景気押されて演芸や芝居、そして活動写真などが上演されている。
その代表格がハイカラな洋風建築の芝居小屋が並ぶ『六区』であった。
帝都の娯楽の中心と言えば浅草であり、娯楽に関するあらゆる職業の人間模様が彩を添えている。吉原も規模を小さくしながらもその一つであった。
六区は当初、公園地に指定された浅草の一部、つまり七区画の一つであった。始めは政府指定の公地であったものの、次第に見世物小屋が立ち並び、政府自身が歓工場を設立したことで公園としての流れが急速に変化していった。そして、公園と呼べる場所は四区と三区しか残っていなかった。
「た、高い…」
花屋敷を過ぎて、レンガ造りの展望塔、浅草十二階こと『凌雲閣』がセイバーの前に堂々と聳え立っていた。
「確かに、ビックベンのように優美さと威厳を持っているわけではありませんが、とても立派です」
「ほ、本当にここが浅草なのですか、浅草寺の周りは寺や家ばかりだったはずです」
「いつの話をしているのですか、そんな明治以前の浅草は消えつつありますよ」
美穂の笑いにつられて洸と琥珀も二人して笑うとセイバーはやや困惑気味に笑った。
「大丈夫さ、俺も浦島太郎みたいに外国から帰ってきたら、変わっていく東京に戸惑ったものさ、珍しくもないだろう」
「さ、三人とも笑いすぎです」
やや恥ずかし気にセイバーは文句を垂れた。
「洸さん、せっかくですし凌雲閣に登りませんか」
「いや、今日は止しておこう。戸田の奴から話を聞いたのだが、エレベーターが壊れたままで階段を使うほかないらしい」
「そうですか、活動写真の上演時刻の遅れもありましたしね、今日は諦めましょうか」
「あれ、登れるのですか」
「勿論よ、東京市で一番高い登れる塔よ」
「え、ええ、そのようですね。五重塔よりも高そうですね」
「それじゃあ、そろそろ八百松に行こうか」
山の宿の渡しは、浅草と向島を結ぶ渡し船である。四人を乗せた船は川の中ほどまでに至り、セイバーの振り向いた先には、五重塔に土蔵の並ぶ昔ながらの景色が広がっていた。
「ここは、昔のままなのですね」
寂しげな表情を浮かべるセイバーに気が付き、彼も浅草寺の方に目を向けた。
「そうなのか」
「ええ、とても美しい景色です。私に前世があったら、この景色を見ていたことでしょう」
「市谷さんも存外、ロマンチストなんだな」
「ロマンチェスト?」
「感慨深いという意味の言葉さ、人間誰しも郷愁に浸ることもあるさ」
「そう……ですね」
「何ですか、二人で楽しそうですね。いつものどこか古めかしい浅草の光景ですよ」
「そうだな、美穂、イギリスに居た時、日本が寂しかったのじゃないか」
「少しですよ、その逆も然り、ですけどね」
向島・枕橋の側に立っている八百松は、ここにあった水戸藩の御船蔵を改装した料亭である。シジミ料理と焼き鳥が名物の店であり、浅草を訪れると榊原家は足しげく八百松を訪れていた。
浅草の騒々しさから一歩離れるだけで、何とも粋で落ち着いた光景に変わってしまう。それが多くの人を引き付け、多くの人々に提供される酒の肴である。
「ほら、市谷さんも一杯どうぞ」
窓側の座敷に入った四人は、川を眺めながら食事をとる。
洸はセイバーに一杯すすめる。
「ありがとうございます」
酒を口にしながら、セイバーは浅草の景色を見続けている。
「お酒の味は土地それぞれですね。肴がおいしいのも憎らしいことです」
「いいだろう、東京の酒も」
「故郷のものもなかなかでしたが、やはり文人の集う土地のお酒は一味違います」
「ああ、文明開化から四十年。何もかもが静かに落ち着いている。江戸の頃はもう少し辛いものが好まれたのだろうかな」
「さぁ、どうなのでしょう」
夕日の深い赤の中で、セイバーに薄暗い影寄り添っていた。