魔法少女リリカルなのは Broken beast 作:やまあざらし
私を殺してくれてありがとう。
小さな女神がそう言った。
何もない世界。太陽が支配する空も、風に凪ぐ草が生える大地も、大地に人を縛り付ける重力の鎖も、光も闇も何もない。
無と呼ぶ定義が、確かに存在する場所に、一人の男と少女が対峙していた。
「はじめまして、でよろしいか?」
赤い双眸で見上げる少女に、男は言う。
定型的な挨拶の言葉に、少女は瞼を下ろし、首を横に振った。
「はじめましてじゃない。 貴方は私を知っているはず」
子供特有の凛とした、それでも抑制された小さな声が音のない世界に響く。
「どうか? お主のような少女に、一度会えば忘れることはないかと思うが」
男の言うとおり、少女は一度目にしたら忘れることができないような容姿をしていた。
それはどこか、人と違う特徴があるわけでも、目立って有り余る奇抜な容姿をしているわけではない。
ただ美しいのだ。
無重力の世界に無造作に踊る長く、艶やかな金色の髪。燃え盛る紅玉のように大粒の瞳。陶器のように白い肌。
漆黒の夜空に浮かぶ月のように、編みあげられた物語に出てくる女神のように、人が手に触れてはならないような美しさと純潔さ、そして神秘を少女は纏っていた。
「確かに貴方が人であった時、私と貴方との間に面識はなかった。 それでも、貴方という存在が誕生した時、私が貴方の中に生まれたその時から、貴方は私の存在を感じていたはず」
「……どういう意味だ?」
「頭で認識したことはないと思う。 それは心に、貴方の起源たる魂に訴えかけるものである以前に貴方が人である限り脳の容量が限界に達してしまうから。 魂に刻まれた情報はそれほどまでに重いもの。 それでも、貴方は無意識的に私を理解して許容していてくれていた」
言葉を紡ぐ少女と、訝しむ視線を送る男の間には、暗い水面のように漂う空間が揺らめく。
本来ここは、何者の存在も許されない場所であるはず。それなのに、男も少女も、個としてここに存在しているという疑問。
少女は何者であるのか。
男の問いは、少女自らの口で語られる。
「貴方の魂は私に限りなく近いものだった。 最初に生まれた現象の起源を内包する者。本来ならば人の身に生まれるはずのない貴方だからこそ、私を殺すことができた」
少女の言葉に、男は得心した。
「ああ、そうか。 主は世界か」
男の言葉に、今まで能面のように張り付けていた表情だった少女に微笑みが浮かぶ。
それはまるで、触れれば散ってしまいそうな儚げなスミレのように思えた。
「そう、私は貴方達人間が世界と呼ぶ存在。 貴方の生きていた、可能性の一つ」
「儂に、遺恨を晴らしに来たという訳か」
男は息を吐きながら、真っすぐと見据える少女と視線を絡ませた。
運命というものを“これでいいのだ”と受け止めるか、それとも“これでいいのか?”と疑うのか、一人の武人としての生涯を送った男にとってそのどちらも関係なく、どの道、男は納得して死にたかっただけなのだ。
そして、その結果がこの場所だった。
それでも、殺してしまう世界に未練も罪悪感も無かったわけではないが、後悔だけは微塵も残すことはしなかった。
正義とは悪の影に存在し、光が強ければそれほどまでに影の濃さも増すものだ。
固定された正義とは悪と同義であり、自らの正義を貫くには常に自分の正義を疑わねばならない。
その上で、男は自らの正義に法りその手で世界を殺した。
男は平静の表情を崩さなかったが、胸から込み上げる痛みを喉元に覚えながら、少女から紡ぐ侮蔑と憎悪の言葉と、報復を待った。
だが……、
「違う、私は貴方にお礼と、謝罪をしに来た」
「……何だと?」
余りに予想外の言葉に、男は眉をひそませた。
だが、そんなことを気にせず少女は薄い唇で言葉を続ける。
「私の起源は、災厄と疫病。 人間たちが悪とするものだった。 私は自分のそんな在り方が嫌で嫌でしょうがなかったの。 人を苦しめ、貶める事象しか起こせない私にとって、世界という役割は苦痛でしかなかった」
少女は長いまつ毛に影を落とし、冷然と言う。
水のように澄んだ綺麗な声には哀しみが混じっていた。
「だけど、そんな中、私は貴方の存在を知った。 存在するはずのない、事象の起源を持ち生まれた者。 本来ならば、世界として生まれるべきだった魂。 私を殺してくれるという希望を見出すには、理由はそれだけで充分だった」
儚げに語る少女の眼差しの奥には、漆黒の絶望と閉塞感、そして灼けるような痛みが揺らいで見えた。
決して終わることのない、永遠の平行線。
凍りつくような静寂に包まれる孤独に怯える日々。
そして男は知った。
この少女は、自分と同じ……。もう一人の自分であったのだと。
世界という鎖に縛られ、自ら死ぬことも叶わず、ただ緩やかな時に身を任せることを強要され続けた彼女にとって、男の存在は冴え冴えとした月の光明に見えたに違いない。
「……全ては、盤上の遊戯だったというわけか」
「ごめんなさい……。 喉が潰れるまで謝罪の言葉を言っても、とても許されないことをしたということはわかってる。 でも、私は……」
小さな肩を震わせている少女に、男は憮然と言い放つ。
「構わんよ」
一瞬、何を言われたのか判らなかったのだろう。
少女は丸くした目で男を見るが、男に目に偽りや強がりの色はなく、水を映す水面のように穏やかなものだった。
「本来ならば、儂は君を許すべきではないのかもしれん。 だが、全てのものは嘲笑うかのように流れる運命の本流で必死になってもがくもの。 溺れるものが藁を掴んだとて、一体誰にそれを嗤うことができようか。 まして、儂は生きた世界で多くの血を流してきた。 お主を責める言葉など、私は持ち合わせてはおらんよ」
表情を和ませている男の言葉に、少女は目頭が火のように熱くなり、鼻の奥に込み上げてくるものを感じた。
「それに……、付けるべき決着は付けてきた。 未練も、執着もあるが後悔だけは微塵もしておらん。 例えそれが、主の描いた筋書き通りであったとしても、私はお主を殺せたことに満足をしている。 それならば、謝る必要などどこにもなかろうよ」
鷹揚のない男の低い声は、少女の心に深く染みてゆく。
憎しみに歪んだ叫びを、嵐のような怒りをぶつけられると思っていた。
それでも足りないことをしてしまったことを理解していた。
自らの死を招くために、一人の男の生を狂わせてしまった罪は贖っても贖いきれるものではないと。
少女は、心の底では男と会うことに底なし沼のような暗黒と混沌の恐怖を感じていたのに、男は草を凪ぐ深い風のように少女を赦してくれたことに、暗雲たちこめる空から光の梯子が射しこんだ時のような救いを感じた。
気が付けば、目を開いたまま大粒の涙が頬を伝う。
「ごめんなさ……い。 ごめんなさい。 貴方を……私の身勝手に巻き込んでしまって……」
「謝る必要はないと言ったはずだ」
小さな手で頬を擦りながら涙を流す少女に、男は困ったように肩を竦めた。
「ところで、主はこれからどうなる? このまま此処に、というわけではなかろう」
男が素朴な疑問を問いかけると、少女は泣き腫らした目を向けて答える。
「此処は世界が終焉を迎えた後にできる、新しい世界を誕生を誕生させる胎盤のような場所なの。 私は新しい世界が生まれるまで、此処に居続けることになるけど、その後は輪廻の輪に組み込まれることになる」
「そいつは重畳。 人としての生を手に入れるということか」
「……貴方は、自分がどうなるかは聞かないの?」
少女の言葉に、男は自嘲と諦観が入り混じったかのような笑みを浮かべた。
「理由や過程がどうであれ、私はお主という世界を殺した。 同時に、その中にあった命の全てもだ。 即ち、私は咎人。 行く先は閻魔のもとだろう」
「違う。 そんなこと、私がさせない」
高く澄んだ少女の声。
氷のように美しい声には確かな決意が潜んでいた。
「貴方にはこのまま転生して貰う。 その為に、私は貴方をここに呼んだ」
少女は男の手を取り、柔らかく包み込む。
小さく柔らかな手には体温はなく、死人のように冷たいというのに涙に濡れた少女の艶やかな赤い瞳には、燃え盛る炎にも似たものが滾っていた。
「このままだと貴方は輪廻の輪に戻る前に魂が消滅してしまう。 例えどんな理由があっても世界殺しは重い罪だから。 だから……、元の世界は無理だけど別の可能性が行き着いた世界に貴方を送る」
「……しばし、待たれよ。 一体、どういうことだ?」
話しが男にとってわけのわからない方向に進み始めたようで、手を取る少女を制止して説明を求めたところ、少女はきょとんとした顔で男の顔を下から覗き込むように見上げた。
「今、言ったばかり。 貴方の魂をこのまま別の世界に送る」
「なにゆえ?」
「貴方には、もう一度人をやり直して貰いたいから」
「人を、やり直す?」
男か呆然と聞き返すと、これ以上の言葉は必要ないとばかりに少女の手に力がこもる。
「私は貴方が再び人をやり直す権利さえ奪ってしまった。 だけど、一度輪廻を介さずに転生すれば、そのまま他の魂の群れに紛れることができる。 それが私にできる精いっぱい」
「そんなことして大丈夫なのか?」
少女は先ほど、世界殺しは大罪になると言った。ならば、その罪を裁く存在があるはずだ。
だが、少女は不敵に口角を吊り上げた。
「知ってる? 罪って言うのはね、誰かに見つかって初めて罰を科せられるんだよ?」
「つまり、誰かに知られなければいいという訳か。 呆れたものよな」
男は溜息とも言えるように息を吐きながら言うと、自分の足元が粒子の光となって散っていっていることに気が付いた。
「これは……」
「新しい肉体が貴方の魂を呼んでいる。 もうすぐ貴方は別の貴方として新たな生を受けることになる」
自分の足が痛みも苦しみもなく消えてゆくのに驚くでもなく、むしろ何が起きているのかわからないといったように呆然とつぶやく男に対して、少女は落ち着いた口調で説明する。
足から腰、腰から端へと下から上へと、雌を誘う蛍の光のような薄緑の光となって散りゆく中、少女の握っていた手も光となってすり抜けてゆく。
「本来だったら、輪廻の輪に戻る時に魂は前世の記憶が洗浄される。 だけど、貴方の場合はこのまま記憶を引き継ぐことになってしまう。 この場で、私と会い話した記憶もそのまま……。 その上で、お願いしたいことがあるの」
少女は湿った涙を伏せ、押し殺した表情で言う。
「こんなこと、お願いできる立場じゃないってことぐらいわかってる。 だけど、貴方がこれから行く世界に助けを求められたら、その時は力になってあげて。 あの子は、私と違って優しくて……私よりも哀れな子だから」
悔恨と懇願が入り混じった声に、男は何も言わずに、ただしっかりと頷いた。
少女の姦計にはまり、結果として魂の終焉の一つ手前まで追い込まれた男がそのような頼みを聞く道理はないのかもしれない。
だが、それでもどういうわけか頷かずにいれなかった。
男の身体は、ついに肩らか上だけを残すだけとなると、不意に男は何かを思い出したかのように口を開いた。
「主の名はなんという」
「え?」
余りに唐突すぎる質問に、少女はつい頓狂な声が口から零れ落ちた。
「名だ。 主が親から与えられた、主を指す呼称だ」
「アンラ……。 アンラ・マンユ」
少女が呆気にとられたまま、機械的に呟くような小さな声で言うと、男は満足したように目を細めた。
「さらばだアンラ・マンユ。 貴殿のこれからに幸福の雨が降らんことを」
男はそう言い残すと、光となって完全に霧散し消えた。
この無の世界に少女は一人残り、これから遠くない、しかし近くもない未来までの間、新たな世界が生まれるのを見届けなければならない。
男のとの会話を胸の内で反芻すると、少女の頬には先ほどまでとは違う、あたたかな歓喜の涙が頬に流れた。
人と話すことなど世界となってから初めてのことで、未来も過去も、現在さえもが入り混じった時間の概念のない世界という立場で、例えそれが自らの罪の許しを乞う為に設けた席であっても少女にとっては夢のような時間だった。
「幸福の雨が降らんことを……か……」
少女は無の虚空を見上げながら、今はもういない男の為に言葉を贈る。
「ありがとう、私を殺してくれた人。 どうか、新しい貴方に無限の幸福が訪れんことを……」
少女の穏やかな声は、反響することもなく無の中に消えていった。
◆◇◆
関東の南に海鳴市という都市がある。
海に面したその街は地方と呼ぶには栄えていて、都心と呼ぶには少し寂れているよくある地方都市の一つだ。
人口は約二十万ほどで、大きい地区と小さな地区のいくつかに分けられ、それぞれの自治体が治めている。
その中でも一際大きいのが、経済的にも位置的にも海鳴市の中心にある海鳴区だ。
幹線道路や鉄道を中心とした交通網の整備が進んでおり、商業地区を取り囲むように住宅地区が広がっている。
そして、その海鳴区の東に位置する大学付属の小学校、私立聖祥大学付属小学校の入学式が慎ましやかに執り行われていた。
本館から渡り廊下で繋がれた、フローリングの広い体育館の壁には全面に赤と白のストライプの垂れ幕が下げられており、整然と並べられた椅子にはこの春から新入生として入学する子供たちが行儀よく座っていて、その内の一つ、“ひやま いちよう”と名前の書かれた青のカラーテープが張られた椅子の上にも、少年が一人座っていた。
いちよう、という少年以外の全ての子供たちはこれから始まる新たな生活に胸を膨らませ目を輝かせているというのに、いちようだけが憮然とした態度でいる。
緋色に染まる山の一つ葉、と書いて“ひやま いちよう”と読む。
強い癖の入った黒い髪に、やや吊りあがった目。いわゆるイケ面というものではないが、中世的でそれなりには整った顔立ちの少年は、かつて世界を殺した男の新たに得た生だった。
男が緋山一葉としての生を受けてから、既に六年の月日が流れている。
前世の男の人格は消えており、今は緋山一葉の人格が構成されてはいるが、それでも記憶だけは失われることはなく一葉は物心がつく以前から自分一人の劇場で延々と流される映画を見ているかのように、脳裏には自分の知らない自分の生涯が残っていた。
記憶ではなく、記録。
記録の中に居る男は、依存していたと言ってよいほどに戦いを嗜好していた。
影を振り切るかのように生きた人生の中で槍を離すことはなく、戦いの最中の高揚感と、互いの殺気で刃が研がれる緊張感はあらゆる美酒よりも水に劣り、戦い、傷つけ、殺し合うことでしか自らの生を実感することができなかった。
今の、緋山一葉という人格は戦うことを望んではいない。少なくとも、自ら喧嘩を買って出るような真似は今までしたことはない。
だが、それでも鮮明に脳裏に残る六十数年にわたる一人の男の生涯は一葉のアイデンティティを不安体にさせ、清廉な少年期を奪うには充分だった。
私立聖祥大学付属小学校は、俗に名門と呼ばれる学校で学費も偏差値も公立のそれとは雲泥の差がある。
一葉の家は両親とも共働きで、父は会社でそれなりの役職に就き母はフリーのカメラマンをしている。
家庭階級では中の中のやや上、と言ったところで一人っ子を抱える家庭としては若干金銭の余裕があった。
その為に、ダメならダメで公立に通わせるつもりの軽い気持ちで一葉に聖祥を受けたせたのだが、前世の記録を継承している一葉は読解能力も理解能力も成人のものと同等であり、いくら名門といえどたかだか小学校の入試に落ちるはずもなかった。
入試直前に行われた僅かな試験勉強で知識を、考えるまでもない問いが書かれた問題用紙に、何も考えずに答えを綴っていけば全教科満点という有り得ない結果を出してしまったのだ。
一葉の他にも、もう一人だけ全教科満点がいたらしいが、それは学校創設以来初めてのことらしく、両親は喜びよりも驚きの方が勝っていた。
将来は学者か政治家か。
両親や近所の人たちにはそのようなことを言われるが、所詮は罪枷寝た知識を応用しただけで、自分が天才などではないことぐらい一葉が一番理解していた。
式は滞りなく粛々と進み、最高学年代表の祝辞や校長と理事長の長い話し、初めて聞く校歌を半ば無理矢理に歌わされた後は、在校するにあたっての注意事項を述べられる。
そして最後に各クラスの担任が、自分の受け持つ生徒の名前を呼びあげて教室に移動するという流れだ。
一葉が所属することになるクラスを担当する若い女性教諭が高い声を張り上げて、生徒の名前を一人一人読み上げていく。
ア行から始まり、カ行、サ行と、一葉にとってこれから一年間同じ空間で勉学を励む仲間の名前なのだが、まるで意味のない単語の羅列のように聞こえ欠伸を噛み殺しながら自分の長呼ばれるのを待った。
「一年一組十八番! 高町なのは!!」
「はい!」
タ行の一番初めに呼ばれた生徒が力いっぱいに声を張り上げて席を立つ。
一葉の斜め前に座っていた女の子で、返事をすると席から離れて先に呼ばれていた生徒たちが並ぶ花道の参列に加わる。
甘栗色の髪を両サイドでくくるという特徴的な髪形と、大粒の瞳が印象的な可愛らしい女の子だった。
多分、将来は美人になるのだろうなと、少女を視界の端に捉えながら一葉は漠然とどうでもよいことを考えながら、重い瞼を堪えて必死に眠気と戦っていた。
◆◇◆